後悔があったわけではなかった。
未練にしたくないと気がついた。
同じ空を見上げてみようと思った。
いつかの、あの頃のように。
秘密基地
「よく来たな。実は無視されるんじゃねえかとも思ってはらはらしてたんだぜ?」
「Han?減らず口は相変わらずだな、アンタ」
久方ぶりの再会は、分かりやすい感動も何もなく、ただ当たり障りのない笑みと緩んだ空気で満たされただけだった。
こんなもんだろうなあ、と元親はいっそ納得したのだ。
互いに年を喰った、そんな言葉で片づけられない、いっそ異常ともいえるほどの穏やかさ。
政宗の一つ目を見返して、元親は唇に笑みを刻んだ。
いや、結局、年を取っただけのことなのかもしれない。
「テメエ、老けたな」
「Ah,肌の張りはそこらの若造には負けねえつもりなんだがな」
顎をつるりと撫でて、奥州を担う男が真顔でそんなことを言うので、元親は今度は声をあげて盛大に笑ったのだった。
年を喰ったとはいうが、互いに三十路を少し越えただけだ。
出会ったころは、まだ十代の、それこそ肌にまだ張りがあった若造の頃であったから、老けたと元親が感想をいだくのも間違いではない。
特に、ここ十年ほどは、互いに顔を合わせもしなかったから、余計かもしれない。
縁が繋がった十数年。
実際に互いの生が交わったのは、ほんの数年だけのことだ。
あの頃は日々がめまぐるしくて、視界を流れていく色は狂おしいほどに鮮やかだった気がする。
たった数日のことが、まるで永遠のようにも感じられた。
この男とすごした日々は、ひどく長かったようにも思えるのに、実際は親交が途絶えていた時の方が遥かに長い。
時の流れに想いを馳せるほど、老けたとは思っていないのだが。
奥州から、供を数人連れただけでやってきた男は、言われなければ国主だなんぞ誰も思わぬであろう。
飄々とした態度は変わらずのように見えたが、元親はそんな男の姿を見て、僅かばかり胸にこみ上げてきた熱い固まりを飲み下して、苦笑した。
少し、目の奥が湿って濡れたそれは、罪のない感傷だ。
表に出そうなどとは思わなかったし、すぐさま熱の固まりは風に溶けていった。
元親は男を誘って、今、二人船の上にいる。
昔と同じ、気心の知れた部下たちが船を操ってくれているので、元親はただ、男と並んで、誰も来ぬ甲板の上にぼんやりと座っているだけだった。
何をするでもない、ただ座っているだけということに、船に誘われた男のほうは呆れるわけでも怒るわけでもなく、大人しく元親の隣に腰を下ろして目の前に広がるものをただ享受していた。
隣の男のその態度を、訝しげに思うわけもなく元親は瞬いて空を見上げた。
見上げた空は、確かにいつかの空とは違うものだけれど、同じように澄んだ青で元親を見下ろしていた。
ふと耳をかすめていった過去の喧噪。
ざわざわと騒がしいだけのそれは、けれどひどく胸を騒がせる。
息を吸い込めば、過去のざわめきは波の音に溶けて、手の届かない水底へと溶けて沈んでいった。
元親が身を置く今は、ただ静かだった。
豊臣という名の鮮烈な光がこの日の本を照らして十年あまり。
まるであっけないほどに早く、その十年は過ぎていった。
駆けることをしなくなった身体は、己のものではないかのように思ったときもある。
「何か変な感じだよなあ」
「An?」
柔らかい声で唇を開けば、男は少しだけ不可解そうな声を返してきた。
「大人しく、まじめに、国主をしてるってのがよ」
自分で言っていておいてなんだが、元親は喉を震わせて笑ってしまった。
「このおれがだぞ?!それこそ普段は楽隠居みたいな生活だぜ?・・・言ってたらまた笑えてきた」
実際唇から笑いがこぼれてしまえば、すぐにはおさまらず、元親は目を閉じて衝動のままに笑った。
この十年、この日の本は豊臣という名の下でおおむね平和に時を重ねていった。
膝を折った武将たちの上に立ち、その光であまねく大地を照らし。
いっそ笑えるほどに、大地は着実に立ち直っていった。
こんなものか、と元親は思わず脱力してしまったほどだ。
脱力して、そして、すとんと、元親の中から形のない何かが抜け落ちていった。
それは武将としての自負かもしれない。
誇りかもしれない。
或いは、夢というものかもしれない。
形のないそれらがするりと抜け落ちていって、しばらくは元親は己の体の軽さに怖ろしささえ感じた。
けれど、次第にその軽さにもなれた。
そう、慣れてしまえた。
世界は移ろうのと同じように、人も移ろう。
小舟のように、ゆらゆらと。
しばらく衝動のままに身を任せ、ひとしきり笑ったあと、元親は大きく深呼吸して、そのまま甲板にばたりと寝ころんだ。
眩しい陽の光に目を眇めて、隣の男に顔を向ける。
政宗は、いきなり笑い出した元親に呆れるわけでもなく、ほんの少し、眉を寄せた微苦笑をはいて、元親を見下ろした。
胸がつまる。
苦しいわけではなかった。
痛むわけでもなかったが、ただ、瞬間あふれた想いの大きさに、胸がつまって、どうしようもなくなった。
どこまでも美しい微笑だった。
どこまでも優しい笑みだった。
獣じみたといつか揶揄した獰猛さ、刃物のような鋭利さ、炎のような熱さ。
そんなものなど、まるでなかったかのように、どこまでも穏やに優しく政宗は笑う。
「そうだな…」
掠れた深みのある声が、ゆっくりと頷く。
その声には、焦燥も、猛りも、何もなかった。
耳を撫でる声は、春風のように優しくて。
元親はゆっくりと体を起こした。
手を伸ばして、その目じりを戯れに撫でてみる。
この男は、この十年、こんな顔をして、時の流れに身を任せていたのだろうか。
竜であることを止めたときから、ずっと。
元親が、この十年、海に出ることもせず、ただその青を眺めていたように。
元親は政宗の肌から手を離して首を傾いでみせた。
「もうだれも、西海の鬼だなんて、呼びやしねえ」
「・・・」
「十年ぶりにテメエが呼んでくれて、久々に思い出したぐらいだ。なあ独眼竜?」
それは互いの二つ名。
今はもう、埃をかぶって色あせてしまったそれは、けれど唇にのせてみれば、まだ鮮やかに鼓膜を震わせる。
政宗は体を震わせた。
「十年もありゃ世界はびっくりするぐらいに変わっちまう。けど、空は十年経とうが、何十年経とうが、変わらねえなあ」
手から滑り落ちていったもの、残ったもの。
空はいつだって澄んでいて、空はいつだってそこにあった。
海と同じように。
「おれは、あの頃のテメエが好きだった。いつだって天だけを見上げてるお前に惚れてたよ」
元親を映す瞳が揺れる。
いつかは竜の目と呼ばれた瞳。
けれど、いつしか鮮烈な輝きが抜け落ちた、今はただ静かな瞳。
「お前は?お前が求めてくれたおれは、どんなおれだった?」
「・・・柄の悪い、粗野で乱暴なくせに、部下やら民からは異様な人気を誇ってた」
「まあそうだな」
「そのくせ、見目だけは女みたいに白くて、綺麗で」
「それ褒めてねえよな」
「その見目を裏切りまくった、それこそ海みたいに荒々しいくせに優しい中身に惚れた」
その言葉に、胸がじわりと熱さで滲んだ。
「・・・最後のは褒め言葉だな」
その熱さを飲み込んで、元親は小さく笑った。
「今は?」
「・・・」
「天を望む、天だけを見据える一つ目の竜を愛していたよ。
でも、それは十年前の話だ。
今のおれは、今目の前にいる、竜なんてものにはほど遠い、土の上に置いてけぼりをくらったガキみたいな顔をさらしてるテメエが愛しいよ」
「・・・アンタ、それで口説いてるつもりなのか?」
「今まで生きてた人生のなかで、これ以上にないってほどに素直に口説いてるつもりだぜ?」
「・・・」
唇で小さく笑んだまま、臆面もなく言い切れば、政宗は静かに唇を結んだ。
そろりと、元親はもう一度手を伸ばして、その硬質な黒髪に触れてみた。
懐かしさを通り越して新鮮な手触りだった。
「・・・あのころは、アンタが海を手放すなんて、考えもしなかった」
「おれもそうだ」
「でも、アンタは海を手放したんだな」
「ああ。・・・潮風が、ちいと身にしみたんでな」
「淋しくはねえのか」
「淋しいさ」
息すらもひそめて、政宗が元親を見ている。
見たこともない男の顔が目の前にあった。
寂しいといいながら、元親の口元に浮かんだ笑みは消えない。
「けど、その淋しさもおれのもんだ。悪いもんじゃねえよ。海に出なくなったって、海はいつだってそこにあった。
空だって、そうだ。消えてなくなるわけじゃねえ。おれらが駆けた時も、消えてなくなったわけじゃねえよ」
「・・・・・・」
「静かに沈んでいるだけさ。なかったことにする必要なんかねえよ。淋しさごと、抱えていきゃいいだけだ」
なあ、と元親は首を傾いだ。
目を細めて、笑う。
「お前は空を無くしたわけじゃねえ。ただ、手が届かなかった、それだけさ。空は、いつだってそこにあるぜ。
手を伸ばして、その手のひらごしに見上げるのも、悪いもんじゃねえよ」
元親にとって、船に乗って海に出たのは、今が十年ぶりだった。
「おれはよお、政宗。
互いに枯れたみてえに流されるだけの生き方しててもよ。
お前のことは、好きみてえ」
宥めるように、自身の想いを確かめるようにゆっくりと。
元親は言葉にして、己の声に頷いた。
それは、十年前抱いていたような、熱く激しい情ではない。
ただ穏やかで温かい。
結局、言ってしまえば、老けたってことなのかねえと、微苦笑を刻んで。
もう一度、元親は密やかに空気を震わせた。
「竜でないお前も、愛しいよ」
分かりやすい変化など一つもなかった。
ただ、政宗はまっすぐに、けれどどこまでも静かな瞳で元親を見返し、一度、その言葉を抱くように瞬いた。
それだけのことで。
今、この男の胸から、何かがあふれてこぼれたのが元親には分かった。
元親は政宗の髪から手を引いて、もう一度甲板に、仰向けに寝ころんだ。
ただ隣にある気配と、潮風とに満たされながら目を閉じる。
昔は、この潮の匂いが、心に刻まれた感傷を滲ませたけれど。
今では、ほんの少し、沁みるぐらいだ。
「こういうのも、別に悪かねえよ。なあ?」
答えが返らないことは分かっていたが、別にいい。
元親は瞼を閉じたまま言葉を紡ぐ。
「おれは、案外鬼でなくなることなんて簡単だった。お前は、簡単じゃなかった。
それだけのこった。
別に悪いことじゃねえさ。
だから」
元親は瞼を持ち上げた。
そこにあったのは、いつか見た空とおなじ澄んだ青。
けれども、いつか見たものとは違う空。
空はどこまでも高く。
手を伸ばしたって届くはずはない。
けれどあの頃は、なんの疑いも躊躇いもなくがむしゃらに手を伸ばしていた。
胸を騒がせる一片の煌めき。
政宗は、立てた片膝を抱え込んで顔を伏せていた。
嗚咽も呻きも涙すらも、こぼさなかったけれど。
「そうさなあ・・・」
二人で駆けてきた道。
刀を振るう以外にこの男と重ねた記憶は、時の流れに埋もれてしまっていたけど、消えて無くなったわけじゃない。
それをそっと撫でながら、元親はとりあえず、一つの提案をしてみた。
「取りあえず、並んで釣りでもしようぜ、政宗」
竜でも鬼でもない。
ただ人としての生も、悪くない。
あのころのちいさなぼくがみあげた空はほんとうにひろかった
すきな人をこの手でまもれるとおもっていたほんきで
+あとがき+
カラオケいって久々にうたったときに、豊臣が天下とったあとの燃え尽き症候群みたいになってるしょんぼり筆頭ソングじゃね?!と開眼したテンションをぶちまけてみました(爆)
強がってる筆頭も好きですが、いっそ清々しいまでに弱さをみせちゃう筆頭も、たまには、わるくないんじゃないかなあって・・・。
ないかあって、おもったのですけれどもどうだろう(弱気)
この曲は歌詞がすごい胸に沁みます。