信長が死んだ。
家臣の明智による謀反だということだった。
最後の最後であの魔王も詰めを見誤ったらしい。
謀反人の明智は豊臣とぶつかり、そして消えた。
元親は目を伏せた。
大きなうねりが、渦巻いているのがみえるようだ。
うねりは果たして、豊臣へと向かう大河になるのか。
「どうすっかねえ」
独り言は軽い調子を纏いながらも、どこか突き放したかのような冷たさを含んでいた。
寝そべりながら開け放たれた障子の向こうに広がる空を見た。
夏の残り火のような夕焼けが空を染めている。
肌を撫でる風はまだ生ぬるいが、じきに涼しくなるだろう。
政宗は戦の最中であった。
相手は武田。
上杉の領地を喰らい、因縁に決着がついたそこを狙ったのだ。
今度の戦の折りには、政宗は元親に直に話を通してきた。
思い返せば、元親が政宗の名を知ったのも、武田でのことがあったからだ。
そう考えると、何とも奇妙な縁だとも思ったが、それもまた面白い。
若虎の名は幸村といったか。
お前のおかげで、おれは見事に竜につかまっちまったと、報告がてら手合わせするのも面白い。
そう言えば、政宗は眉を寄せて元親を見返し、何を言っているとそう短く言った。
その顔を見返して、元親は分かってしまった。
わき上がった熱い血が、すっと冷えていくのを感じながら、元親は眉を下げて苦笑した。
「アンタを連れて行く気はねえよ」
ああ、そう言うと思ったぜと声に出さずにつぶやいた。
じゃあぐうたらさせてもらってるわ、と笑い返して、元親は政宗を見送った。
そして、言葉通り、ぐうたらと日を過ごしている。
政宗は気づいていないのだろう。
政宗のその一言が、元親にとってどれほどの枷になっているのかを。
それは柔らかく、元親が近づくのを拒む言葉だ。
拒絶されてなお、一歩踏み出すことがどれほどの力を必要とするか、あの男は分かっていないだろう。
この城に来た頃ならまだよかった。
ただ政宗の顔を正面から見て、開き直っていられた。
今はたぶん、もう無理だということを元親は自覚していた。
そりゃ、好いた相手に嫌われたいなんぞと思うはずがない。
愚かともいえる己の心を、元親はどこか冷静に受け入れていた。
ただ、嫌われるのが怖いと悠長に脅えていられるわけでもない。
この両腕は、あの男を抱きしめるためだけにあるのではないのだ。
「そろそろ鬼にもどる頃合いかね」
小競り合いで硬直していた戦場が動き出した。
戦の火はいずれ四国にも迫るだろう。
そのとき、自分はどうするのか。
もちろん戦うに決まっている。
問題は、その後だ。
天下という夢。
一つの国にまとめあげるという大きな夢の名の下、剣をとった者達。
天を駆け上る姿はどんなものか。
空を従える目はどんなものか。
元親は低く笑った。
天下を統べるという夢は、元親の胸を焦がしもしなかったし、血を熱くさせもしなかった。
元親の胸を焚きつけるのは。
血を熱く燃えさせるのは。
「お前は天に手を伸ばすんだろうな」
あの日見た濃い青を背に従えた姿。
この姿を映した黒の瞳。
結局自分は、あの色に囚われてしまったのだ。
元親はそのことを承知していた。
それがつまるところは、己の望みになってしまったのだということも、承知していた。
二十一
政宗が城に帰ってきたのは、風がすっかり秋の涼しさを運んでくるころになってからだった。
早馬ですでに戦の勝利は伝え聞いていたから、元親は帰還した政宗に、あえて戦勝を尋ねることはしなかった。
代わりに、酒でも飲まないかと誘った。
政宗は機嫌良く頷いた。
初めは機嫌良く政宗と酒を酌み交わしていた元親だったが、己の表情から所徐々に愛想がなくなっていくことに気づいていた。
そんな元親とは対象的に、政宗は機嫌がよい。
機嫌良く酒を飲み、そして饒舌だった。
真田幸村という男について、政宗は珍しく饒舌に、褒めていた。
甲斐の若虎はどうだった、と話をふったのは確かに元親自身だった。
元親の方からなのだけれども。
元親はぶすりと唇を引き結んで、緩む政宗の横顔を見やった。
非常に面白くない。
元親は、幸村のことは認めている。
強い男だとも思ってる。
まっすぐな心根が好ましい、好青年だ。
だが、今このときは何故か、気に入らなかった。
「Hey」
「あ?」
「さっきから飲んでねえな?どうかしたか?」
そう問われ、元親は愛想のない顔のまま、そんなことはないと否定し、残っていた酒をあおった。
その様をみて、政宗は喉で一度笑い、同じようにして己の杯に残っていた酒をあおる。
熱を帯びた政宗の指が己の手の甲に伸ばされ、名を囁かれ、唇を寄せられた。
その行動が意図するところなど一つしかなく、はっきりいえば、元親としても、政宗と体を合わせることはやぶさかではなかった。
数週間ぶりに顔を合わせた愛しい男だ。
元親のほうからも、その体温を欲していた。
けれど。
「やめろ」
元親は、手の甲に重ねられた温度を払いのけて、顔を背けた。
我ながら、大人げない声色だと元親は思った。
政宗は、棒を飲んだかのような驚いた顔をした。
次いで、不機嫌そうに顔をしかめた。
そして最後には、眉間に皺を寄せたある意味凶悪な、、けれど元親から言わせれば、情けない顔を、した。
払った手をぎゅうと、力任せに握る力に、顔をあからさまにしかめれば。
政宗は、うつむいて、元親の手を取る力を抜いた。
それでも離れぬ手の平の温度。
「…」
じっと重なった手に視線を落とせば。
低く抑えられた声が。
「触れたいと思ってるのは、おれだけか?」
その声がもつ寂しげな色に、胸が詰まった。
「…そうじゃねえ」
元親は掠れた声で、はっきりと言った。
「そうじゃねえよ」
ああ、格好悪いったらないと。
元親は苦笑した。
体から力を抜いて、息を吐く。
格好悪く、更に言ってしまえば、くだらないことにだ。
何故幸村を褒める政宗のことが、気に入らなかったのかといえば。
馬鹿馬鹿しい見栄だ。
つまり、幸村に、嫉妬していたらしい。
政宗と剣を合わせた幸村。
その気性を。
腕を。
認めて、かつ幸村という男を、政宗は気に入ったのだろうということが分かったから。
おれだって、幸村と剣を合わせて、競り勝ったのに。
お前は、おれのことは認めてくれはしないのかと。
気性を。
腕を。
だから、城においていったのかと。
戦で、使おうとしないのかと。
そう詰る心がある。
そんな己に、元親は思わず笑ってしまったのだ。
嫉妬する様は、男も女もそうは変わらないらしい。
「悪かったよ」
そう、苦笑したまま謝れば、政宗はゆるりと顔を上げた。
顔を正面から合わせて。
「おれだって、テメエに触りたいぜ。ただ、なあ?」
「…」
この男は、時々ひどく、質の悪い目をすると元親は思う。
まっすぐに向けられる目は、どこまでも透明な黒。
元親はその目に弱いのだ。
「あんまり、お前がアイツのことを褒めるからよお」
「?」
政宗は元親の言いたいことが分からないのか、片眉を上げて元親を見返した。
最後まで言わなけりゃならないらしい。
この男に対して、己の胸の内をさらけだすことに、ためらいを覚えたことはさほどにない。
けれど、この時元親はためらった。
何故ならあまりにもみっともなかったし、正直に言えば、そんなところは、政宗には見せたくなかったからだ。
「ちょいと、妬いちまったらしい」
それでも正直に唇に乗せれば、政宗は目を丸くした。
「妬いた?」
「ああ」
「アンタが、か?」
「ああ。お前があんなに人を褒めるの聞いたのは、おれは初めてだったからよ」
「妬いたり、すんのか」
政宗の驚いた顔に、元親は少し眉を寄せた。
ふと内心で笑う。
この男は、自分のことを何だと思っているのだろう?
「おれは、別におきれいな人間じゃねえぜ?嫉妬の一つや二つもするさ」
好いた惚れたには、つきものな感情だろう?
「そんなおれじゃ、お前は嫌かい?嫉妬なんぞをするおれは」
そう、嫉妬なのだ。
武将としてその力を認められている幸村に。
自分も、一人の武将として、男として、認められたいのだと。
血を燃え立たせる望みは、そのようなことでしかないのだ。
しゃあねえだろ、と元親は言葉に出さずにあっさりと認めた。
自分は、そういう男でしかない。
だって、とうに『姫』じゃない。
自分は鬼だ。
この男のことを恋うていようが、愛おしく体を合わせていようが、この身を燃やす熱の出所は、そういうところからではないのだ。
たぶん、政宗は分かってくれてはいないのだろうが。
政宗は瞬きをして、ふと頬を緩めた。
「いや、悪い。そういう意味で言ったんじゃねえよ。
ちょいと、いや、かなり、嬉しかったのさ」
「…」
口元に浮かんだ笑み。
政宗の指が、そっと元親の髪をすいた。
「妬かれるってことは、それだけ思われてるって証だろ?」
「…まあなあ」
確かに、政宗のことを想っているのは事実だ。
「確かに、あいつの相手も楽しかったけどな」
知ってるか、と政宗は元親の顔をのぞき込んだ。
「欲しいと思ったのは、アンタだけなんだぜ?」
「…馬―鹿」
元親は目を伏せた。
瞼にかすめた唇が、そのまま下へと下りてくる。
与えられる口づけを、今度は素直に受け入れて、元親は目を閉じた。
触れたいと、体を合わせたいとも、自分は確かに望んでいる。
けれど、それだけじゃあ収まらないものも抱えているのだ。
想っている相手に、想われている。
それだけじゃあ満足できないことを自覚する。
体を抱きしめてくれる腕は嫌いじゃない。
けれど。
慈しまれるだけでは物足りない。
血を沸き立たせる一瞬が欲しい。
その結果がお前のためになるなら、きっとそれは快感だ。
つまりは、この男の隣に立ちたいのだということ。
なあ、お前が見ているものを、この自分にも見せてくれないか。
お前が見ているものを。
手を伸ばす天の風景を。
それを隣で見てみたい。
この胸をたきつけるのは。
血を燃やすのは。
天を見据えるこの男の横顔。
二十二
戦に連れて行く気はないと。
そう言ったときに浮かべた元親の苦笑が、棘のように胸に刺さったままでいる。
分かっているんだ。
お前が何を望んでいるのか。
お前は武将だ
四国を統べる、誇り高い鬼だ。
往々にして、お前が折れてくれていることも知っている。
力になってくれようと、申し出てくれていることも、分かっている。
素直に嬉しいと思う。
幸村と刃を交え、そして奥州にきたのだと聞いた。
若虎を地に伏せ、竜を見物に来たのだと。
元親は、強い。
剣を合わせた自分が一番よくわかっている。
この鬼は強い。
けれど、それとこの自分の中にすくう怖ろしさは別物なのだ。
この身から永久に離れられることを怖れている。
戦は運だ。
何が起こるか分からない場所だ。
あの男が強いことは百も承知。
けれど、矢に倒れないとは、誰も言い切れないだろう?
人はあっけないことで、いとも簡単に逝ってしまうのだ。
失いたくないんだ。
言葉には出来ぬほどに、愛おしく、大切な存在なのだ。
自分は怖れてばかりだと自嘲する。
だから、戦に連れていきたくないのだと。
そう言えば、あの男は笑うか。
舐めるなと、これまた怒るかもしれない。
臆病なくせに虚勢を張る様を、哀れむかもしれない。
それでも、なくすことに比べればずっといい。
だから、大切に大切に。
かごの中にいてはくれまいか。
二十三
幼い頃、いっそのこと女として生まれたかったと思ったこともあった。
初めから屋敷の奥で、ひっそりと暮らすことを与えられていたのなら、それも耐えられたかもしれない。
けれども、自分はそれを選ぶことはできなかった。
誰にも顧みられずひっそりと空気の様に生きていく。
寂しいと嘆いた。
その嘆きが、元親の中に残っていた、己を認めてくれなかった人に対する僅かな期待や情を、流していった。
笑いかけてくれなくてもいい。
乱暴者よ、さすが鬼子じゃと。
眉をひそめ、罵られるほうがいい。
女になりたいかと己に問うた。
否と首を振る。
所詮、姫とふるまおうが、紛い物でしかなかった。
つまるところ自分は、鬼でしかあれないのだ。
それを否定することはできない。
自分自身を否定することになるから。
なあ政宗と。
穏やかな様で、声に出さずに問いかける。
お前は、おれを、このおれ自身を認めてくれているのか?
このおれ自身を、欲してくれているのか?
ああ、欲が深いなあと思った。
好いた男に情をかけられながら、それだけじゃ足りないなんて。
そして、自分は情が薄いなあと。
どちらか一つ選べと言われるのならば。
「すまねえ」
自分は、政宗を思う恋情を捨てる。
慈しまれる優しい愛情よりも、欲するものがある。
いつからこんなに我が儘になってしまったのだろうかと小さく笑って。
顔を伏せた。
「やっぱおれは鬼だなあ。非道い鬼だ」
目の奥が熱く焼けて、こぼれた声は震えていたが、それを聞きとがめる者は誰もいなかった。
二十四
そこは道場だった。
政宗の部屋へ昼間顔を出すようになってからも、元親が近寄らない場所がそこだった。
元親自身が、家臣達が己に向ける感情を理解していたということもある。
留め置かれている男が、道場で好き勝手に振る舞いなどすれば、それこそ向こうは気分はよくないだろう。
それに、素振りや、型をさらうくらいなら、離れの庭で十分に場所は間に合った。
なので、元親は道場に己から近づこうと思ったこともなかったし、故に、政宗が稽古している様もみたことはなかった。
ある意味それは、互いの間での暗黙の了解のようになっていて。
政宗が元親を道場に誘うこともなく、元親から口にすることもない。
たぶんそれは、きっと近づいて欲しくないんだろうという薄い膜にも似た拒絶を、肌で何とはなしに感じ取っていたからだろうと元親は思う。
以前は、無理に暴こうという興味も情熱もなかった。
情を持ってからは、故意に見て見ぬふりをした。
触るなと言われたものに、わざわざ触れる必要などない。
道場にいたのは、政宗一人だった。
そうと知っていたから、元親は来たのだ。
扉を開けても、政宗の動きが止まることはなかった。
元親は声をかけることはせず、その様を見ていた。
空を斬る。
板間の床がなる。
吐き出される息。
元親は腕を組んだまま、目を伏せた。
体が震える。
血が騒ぐ様が心地よく、結局最後に自分が欲するものが、それでしかないのだということに。
ああ、いっそ泣きたいと思った。
他の色を映りこませもしないその黒に、この姿を映したい。
いつかの、あの日のように。
「何か、用か」
空気を微かに震わせるその声に、伏せていた目を開けた。
政宗は構えを解いて、だらりと木刀を下ろしたまま、けれど顔はこちらに向けず横顔を向けていた。
元親は唇を緩めた。
その声は、詰っているかのようにも聞こえたし、どこか諦めを含んでいるかのようにも聞こえた。
どちらにしろ分かったのは、この男が、元親の来訪を好ましくは思っていないということだ。
元親もそれは承知の上だった。
それが今まで、一度もここへ来なかった理由だったのだから。
元親は組んでいた腕を解いた。
「お前は、おれを殺してえのか」
その言葉に、初めて政宗は顔をこちらに向けた。
はじかれたように向けられた顔は、予期せぬ言葉に呆然としていた。
目を見開いた顔はすぐに、眉を寄せた不可解そうななものへと変わる。
「何を言いやがる」
元親は唇で小さく笑う。
確かに、その言葉は適切ではなかった。
「おれを、飼い殺したいのかと思ってよ」
今度こそ、政宗の顔は虚をつかれたように強ばった。
政宗の唇が歪む。
その表情は元親の胸も同時に刺した。
ずきずきと頭の奥が痛い。
その表情に、傷つけたことを知った。
知ってなおかつ、己の欲のために止めようともしない己に、自嘲の笑いがこぼれた。
「おれは、女じゃねえのよ」
けれど、今このとき一瞬だけは、女であったらよかったかもしれないとも思った。
愛し愛されることに満足する優しい女であったらと。
そうであったら、優しさで出来た柔らかいかごの中に囚われることを、選べただろうに。
飼い殺したいのかと聞いたが、それはある意味では正しくない。
そこにあるのは、この男の不器用な優しさだ。
そのことを、元親は分かっていた。
分かっていながら、自分は、そんなものはいらぬと、そう言おうとしているのだ。
「女物の羽織を着ようが、楽を奏でられようがよお、おれは、女じゃねえのさ」
「…知ってる」
「だから、テメエの子供は産めねえよ」
「…知ってる」
寂しそうな目がこちらを見ている。
泣きたくなった。
そんな顔をさせたいわけではない。
愛おしいと思う心もここにはある。
お前に、熱い恋情を抱いている。
けれど、自分はそれだけに溺れて生きられない。
「何故、戦に連れていかねえ」
「…」
「おれは別に自惚れるつもりはねえが、自分のことを使えない男とも思ってねえ。それだけの自負は持ってる」
「…ああ」
静かな肯定に、目の前がかっと熱を帯びた。
喉の奥が焼けるようだ。
元親は、目を光らせて政宗を見返した。
「お前に抱かれようがおれは男だ。男のおれが持つ力で、お前の力になりたいとそう思うのは、願うのは、お前にとっては邪魔なものでしかねえか?」
吐き出した言葉は穏やかさを纏いながらも、隠しきれない熱の欠片で掠れていた。
目を合わせて、元親は政宗を睨んだ。
そうでもしなけりゃ、目から熱がこぼれ落ちそうになるからだ。
「…おれが、嫌になったか」
元親はもどかしく頭を振った。
「違う。そうじゃねえ」
そういうことを言いたいのではない。
「嫌だとか嫌じゃねえとか、好きとか、好きじゃねえとかよ。そういうことじゃねえんだよ。もっと単純な話なんだよ」
元親は己の手を見た。
分厚い手の平。
太く節くれ立った指。
お世辞にも綺麗とは間違っても言えないこの手が誇りだ。
この手で、天下を望まなかったことはないとは言わぬ。
どこまでも広がっている海の果てを見に行きたいと思ったこともある。
けれども。
この両手の平でつかめるものなんて、所詮は僅かでしかないのだ。
竜の肌は冷えているようにみえ、だからその手も冷えているように見えた。
けれど、触れた手はいつも熱かった。
結局、その手を掴んでしまうのだろう。
それは、その手が、自分のものと同じだからだ。
同じように武器を扱う手だからだ。
望むものを、その手で掴もうと足掻く手だからだ。
一緒にこの手を伸ばしてはいけないか?
お前が望む天下のために、この手を伸ばしてはいけないか。
節くれだった鬼のこの手では、役に立たないか?
「悪いなあ、政宗。おれは、何だかんだと言ってよお、鬼だかよ」
いつの間にやら強ばっていた体から、ふと力を抜いて、元親は微かに首を傾いだ。
「少しばかりよ、そう、退屈なのさ」
「…」
「おれを使えよ、政宗」
政宗は答えない。
答えず、元親を見ている。
「奥州にや、水軍がねえだろ?」
「何が言いたい」
「おれと水軍、どっちも一緒にくれてやるよ」
「…」
「だから、おれを使えよ」
大切なのは、四国という国を今ある形のまま存続させること。
大切な人たちが、今と同じように暮らせること。
別に自分が天下を統べる必要などないのだ。
ただし、それを許すのは相手によるとだけは、考えていた。
豊臣には従えない。
あの男が言う国の姿は、元親たちとは相容れない。
けれど、この男は違う。
嵐のような激しさを、力を、その身の内に秘めている。
青い空を背に従え、白い雲は一時も同じ姿をせずに形をかえて流れていった。
強い風が吹いていた。
自分たちは海賊だ。
風に乗って海を越えていく。
この男になら、託してもいいと思えた。
政宗は薄く唇を開いたが、こぼれる言葉はなく、もどかしげに頭を振った。
その様を見て、元親は笑った。
元々、自分の内面を言葉にして伝えることが得手ではないのに、何とかこちらに答えを返そうとしてくれるのが嬉しかった。
わざと明るく元親は言った。
「手合わせしようぜ?」
そのためにここへ来たんだ。
もう一度、鬼としてお前の目に映るために。
二十五
空を見上げた。
鳥が飛んでいる。
柔らかなかごを破って羽ばたく姿。
太陽を背に悠々と。
その姿に、焦がれたのだ、自分は。
貴方には、その姿こそがふさわしい。
***
張りつめた空気と熱がその場を満たしていた。
木刀同士がぶつかり合う音。
元親の獲物は、大型の碇槍だが、剣も問題なく扱えることを、政宗は実感していた。
いや、問題なくどころではない、大層な使い手だ。
実力伯仲故に、勝負は一瞬でつくか、長引くかのどちらかしかなかった。
立ち会い始めてから、どれくらいの時間が経ったのか分からない。
互いを包む空気が時間を間延びさせ、まるで永遠にも似た時間を過ごしているかのような錯覚に陥る。
打ち合う前には、色々小難しいことも考えていたはずなのに、今この瞬間、己の頭の中にあるものは、剣を合わせるこの静かな、けれど熱い興奮だけだった。
全身の細胞が騒ぐ感覚。
濃密な空気に混じる汗の匂い。
政宗は無意識に笑っていた。
そして、その瞬間は唐突にやってくる。
一瞬の反応。
瞬間、元親の木刀を、政宗ははねとばしていた。
静かな呼吸音。
一拍後響く、がらんという木刀が床に転がる音。
息を吐きながら、政宗と元親は互いにそのまま目を合わせていた。
ふと、元親の唇が弧を描くのを、政宗は瞬きもせずに見つめていた。
元親の体が弛緩する。
「やっぱ、なまってる体でテメエに勝とうなんざ、虫がよすぎるか」
柔らかな笑みが、逆に政宗の胸を刺した。
体を熱くさせていた興奮が瞬時に冷えて、自分の傲慢さを思い知る。
ちがうと、声なき声で否定した。
「万全のときでも負けちまったもんなあ。これじゃあ、戦につれていく気にもならねえか」
そうじゃない、そうじゃないのだ。
政宗は、顔を歪めた。
始まりのあの日。
この鬼と剣を合わせたあの日は。
風が強い日だった。
青い空を、雲が移ろいながら流れていた。
今ここにはない。
互いしかいない。
「本当はお前の勝ちだった」
それは告白だった。
告白であり、懺悔であった。
告げる己の声は不自然なほどに強ばっている。
元親は、話が分からないのか、不思議そうに首を傾いだ。
「お前と、立ち会ったときのことだ」
ああと頷きながらも、元親の顔にある不思議そうな色は消えなかった。
「お前が勝ったから、おれがここにいるもんだと思うんだが」
とまどったような声には答えず、政宗は木刀を握る手に力を込めた。
唸るように、歯の隙間からこぼれた声は、熱く滲んで。
「何故、殺さなかった」
「?」
「おれを殺していれば、お前が勝ったはずだ」
そう、この鬼は強い。
そんなこと、自分が一番よく分かっているのだ。
真剣での勝負だった。
それで相手が死んだとしても、何の問題もないだろう。
あのとき政宗を殺していたら、無理矢理繋ぎ止められることもなかった。
元親の顔はとまどいの色を残してはいたが、政宗の問いの意味は理解できたのか、あっさりと唇を開いた。
「お前だっておれを殺す気で来なかったじゃねえか」
政宗が殺す気がなかったのは、この男を手元に繋ぎ止めたいという欲があったからだ。
「おれから喧嘩は売っちゃあいたが、おれを殺そうとしてない奴を、どうしておれが殺せるんだよ」
何を当たり前のことを言うのだろうと、その顔が不思議そうにしていることが、何故こんなにも胸を熱くさせるのか分からない。
「お前相手だったら、喧嘩で負けるぐらいいいかと思ったのさ」
こちらを見返す元親の目は、鮮やかに光って、うっすらと汗が浮く肌はかすかに上気していた。
胸が詰まって、呼吸することすらもどかしく、政宗は顔を伏せた。
握りしめていた手から力がぬける。
木刀が床に滑り落ちる音に、元親が驚いたように顔を床に向けた。
対して、政宗はそんなことには欠片も意識を払わなかった。
だって、抱きしめるのに木刀は邪魔だろう?
腕は二本しかなく、抱きしめたいこの男は、自分の腕の中に収まるような人間ではないのだ。
囲い込めなくとも、伝わる体温がある。
それで、十分じゃないかと。
政宗は、ようやく、思うことができた。
この鬼が、一番美しく輝く場所を知っている。
知っていて、目を背けてきた。
我が儘なそれに、この鬼はつきあってくれた。
優しいから、この男は優しいから。
自分が作ったかごの中に、囚われていてくれた。
それはきっと、自分に向けられている元親の確かな情なのだ。
だから、お前が謝る必要なんてないのだと。
惹かれたのは、太陽を従えた、気ままに渡る風のようなその魂。
情を交わすことと、情で縛り付けることは同じではないことを、知った。
元親の体に回した腕に力を込めれば、元親の両腕が己の背に回るのが分かった。
ぎゅうとすがるように抱きしめられていることに、目眩にも似た喜びが胸にわき上がった。
「そんなんだから、おれみたいのに引っかかるんだよ」
掠れた喉で、からかうように笑ったが、声はどこか湿っぽく。
でもそれは仕方ないだろうと自分を擁護して、政宗は顔を上げた。
「I love you」
見上げた元親の顔が、くしゃりと歪んだ。
異国の言葉は伝わったらしく、元親は同じように、Thank youと、慣れぬ発音で返してくれた。
「豊臣が動いている」
目を合わせて一言、政宗は告げた。
それはつい先頃届けられた情報だった。
元親にどう伝えようか、元親がここに来るまで迷っていた。
伝えないわけにはいかない。
けれど、本心を言えば、伝えたくなかった。
戦場に、行って欲しくなかった。
今も本当は、行って欲しくないと思う心もある。
けれど、それは元親の魂を殺すことになるのだ。
自分が望んでいるのは、そんなことじゃない。
元親の目が、静かな光を宿して政宗をじっと見返した。
「四国は、おれの国だ」
「ああ」
「おれは国へもどるぜ」
「…ああ」
政宗は口元で柔らかく笑んだ。
飛び立つ姿を見送ろう。
だから、今この一時だけは、腕の中にいてくれと。
そう願うことを許してください。