十八
梅雨が明け、虫の声が涼しい夜の空気を震わせている。
こっちはやはり四国に比べて涼しいと、元親は思った。
今頃の四国は、夏本番になるまえから、蒸し暑いのだ。
障子を開け放ちながら、寝そべって酒をちびりちびりと舐めているときに。
ふと、政宗の手が視界に入った。
六本の爪を操るその手は、元親のものと比べても変わらないほどに大きい。
いや、大きいというか、指が長いんだなと元親は考えた。
「What?」
「お前、指、なげえよなあ」
杯を脇に置いて、元親は銚子に伸びた政宗の手を掴んだ。
政宗が、面白そうに笑うのが気配で分かる。
寝そべったまま、掴んだ手を目の前にもってきて、元親はしげしげとその手に目をやった。
分厚い手のひら。
指で探るように動かせば、くすぐったいのか、政宗の指がぴくりと動く。
刀を持つ指の脇の皮膚は、固い。
この手が、いつも己の体の上をたどっているのかと。
ふと、思って。
一瞬の間の後、かっと首が火照った。
心臓がどくどくと大きな音をたてている。
余計なことに気づいてしまったと、元親は政宗の手を離した。
こんなことを考えている自分は、ものすごく恥ずかしいのではないかと、元親は思った。
視線を上げれば、唇を引き上げて、笑っている顔があって、元親は嫌そうに顔をしかめた。
目元が熱く、それを自分ではどうしようもないのが、また忌々しい。
さっきまで元親が掴んでいた手で、政宗は元親の手を取った。
ふりほどこうとしたが、ぎゅうと掴まれているのでそれもできない。
だてに六爪、操っているわけではない。
痛みを感じる一歩手前で、捕らえられて、元親は諦めて己の腕から力を抜いた。
それに気をよくしたのか、政宗は親指で、掴んだ元親の手の甲をつと撫でる。
元親は体をかすかに震わせた。
政宗は唇を弧に描いたまま、楽しげに目を光らせて元親を見下ろした。
何かを喚起させる、意図を持った動きに、元親は目を細めて政宗を睨め付けた。
くっと喉で笑って、政宗が体を伏せる。
元親の体の上に。
もう片方の腕を、政宗の後ろ頭に回して、元親は目を閉じた。
酒に酔った、だから体が熱いのだと。
そういうことにしておこう。
お前の指に、欲情したなんてのは、腕を伸ばす理由としては、やっぱり恥ずかしすぎるから。
***
「何でこんなことになってんだろうなあ?」
喉をふるわせて元親は笑った。
吐息混じりのその声は、我ながら機嫌がいいことだと思う。
政宗の厚い手のひらが、体の表面をまさぐっていく。
それだけで、己の身体は簡単にほどけていく。
何でこんなことになってんだろうなあと、元親はもう一度声に出さずに自問した。
まったくもって生産的ではない。
これがどちらかが女だというのならばまだ、子供を作るためという大義名分がたつのだろうが。
自分は、姫と呼ばれたことはあっても、女ではないから、その理由付けは使えない。
では何故、政宗の背中にすがりついて、身体を開くのか。
快楽も得られるが、それを理由にするには少し弱い。
なんせ体の構造は、そのようにはなっていないからだ。
それでも拒まなかったのは、仕方ないというある意味あっけらかんとした諦めと、あの男が抱きたがるのだからという、受動的なものでしかなく。
たぶんこの男が自分を抱いていたのも、欲を沈めるためという即物的な理由からだけではなかった。
この男は自分を抱きながら、何かを求めてあがいていた。
かみ合わないにもほどがあるのに、体はぴったりと一つになるという矛盾。
けれど、今は、少し違う。
自分で感じてくれているなら、嬉しいと思う。
この身体は柔らかくもないが、抱きしめてやりたいと思う。
重なる自分のものではない体温。
与えられる口づけに、絡まる舌に、繋げられる手に、喜びを感じる。
ああ、たぶんこれが、惚れてるということなのだろう。
***
「何でこんなことになってんだろうなあ」
その言葉は疑問の形をとってはいたが、紡ぐその声は、疑問の色をまとってはいなかった。
その声は、どこか機嫌良さそうに笑っている。
何でもなにもない。
触れたくなった。
だから、触れた。
それだけのことだ。
それだけの理由で、この身体を抱きしめることを、お前は許してくれるのだろう、と。
政宗は胸の内で逆に問いかけた。
肌に埋めていた顔を上げて、元親と目を合わせる。
そこにあるのは色違いの一対の目。
片方は潤みながら、熱を湛え金色に光っている。
自分に感じてくれている証拠だと言えば、元親は怒るだろうか。
いや、むしろただ驚いて、目を丸くするかもしれない。
鬼の目と、元親が己で言うその目が、美しい金色に染まることを、元親自身は知らないようだから。
手のひらを合わせるようにして繋げば、元親は顔を綻ばせて、短く吐く息の合間に笑う。
「何でかねえ。今さらだけどよ、初々しい気持ちに、なるんだよ」
「初々しい、ねえ?」
開いた足を腰に絡めておいて、そんなことを言う。
でも、元親が言いたい意味が、何となく政宗にも分かった気がした。
先に、互いを思う心があって。
そうして、今身体を繋げているということ。
求められていることを、嬉しく思う。
「政宗」
名を紡ぐ掠れた熱い声に、頭の奥が痺れたようになる。
身体の中にある何かが震えた。
押し入っている政宗自身を包む暖かさに、ため息がこぼれる。今まで身体を繋げても、感じたことのなかった充足感があった。
「元親」
名を呼ぶという行為に、ぞくりとする。
きゅうと自身を締め付けられて、元親も感じているのだと分かる。
それが、嬉しい。
満たされていると思ったのもつかの間、すぐさま新たにわき上がってくる欲がある。
もっと感じさせたい。
この自分に、感じて欲しい。
ああ、幸せだと、唐突に思った。
「元親」
名を呼べば、元親が照れたように、顔をくしゃりとさせて笑うものだから。
まるで子供のように、何度も何度も名を呼んだ。
十九
それは、寝物語にしては不穏当な話だった。
「はあ?何じゃそりゃ」
元親は眉を盛大に跳ね上げさせて唇を歪めた。
政宗は布団の上で片膝を立てて、横向きに寝そべっている元親を見下ろした。
表情を消したその顔は少しばかり冷たく、怒っているようにすら見えた。
しかしそれを言うならこちらも同じだと、元親は思った。
何が悲しくて、好いた男と体を繋げた後に、アンタは、おれ以外の男相手でもそうなのか、などと聞かれなければならないのか。
何のことだと訳が分からず首をひねれば。
「最近小十郎と仲がいいようじゃねえか」
「…はあ?仲がいいって、仲が、いいかあ?」
仲がいいという言葉の持つ何とも言えない居心地の悪さに、元親は思わず問い返してしまった。
いや、そりゃあ政宗が信頼する右目殿なのだから、いがみ合うよりはそりゃ仲良くしていたほうがいいだろうが。
そんなものは単に話す機会が増えただけだ。
しかも、会話の内容はいつも、今自分を冷たい目で見下ろしている男のことばかり。
何故こんな目で詰問されなければならないのか。
元親は、ふと、とある事に思い至って、目を細めた。
体を起こして、政宗と同じように片膝を立てて座った。
政宗が、何を問いたいかが分かったのだ。
「テメエ、何くだらねえ嫉妬してやがる」
「くだらねえか?」
くだらないに決まっているだろう。
この男は、よりにもよって己の信頼する副官と、元親の仲を疑っているようだった。
本気ではないにしても、気分のいいことではない。
「じゃあ何か?テメエは、おれが、誰彼構わず足広げるヤツだとでも思ってんのか?」
それはひどい侮辱だ。
そりゃ昔は体を繋げることに対して、何の感情も抱かなかったが、今は違う。
それを、お前も分かってくれているのではないのかと、元親は言葉に出さず目に込めた。
けれど、それを見返す政宗の瞳は、どこまでも静かだった。
「…大事なもんのためなら、何だってやるんだろうが、テメエは」
「ああ?!」
回りくどい言い方に、思わず声を荒げれば。
「…だから、おれに、抱かれたんだろうが?」
「…」
元親はぱちくりと大きく瞬いた。
政宗はふいと顔をそらして、うつむいた。
髪が流れるその横顔を丸い目でじっと見て。
元親の中から、熱く燃えていた火があっさりと消える。
正直言えば、気が抜けた。
なので、元親は肩から力を抜き、息を吐いた。
「お前、そんなこと気にしてたのか」
「そんなことじゃねえだろ」
「いやいやじゃあ今さらだろうがよ」
「…」
政宗は顔を背けたまま、目線だけを元親に向けた。
唇の端はきゅっとしめられている。
元親は、今気づいた。
この男は、拗ねているのか。
小十郎を引き合いにだしたのも、そのためだろう。
「ああ、そうか、おれがテメエに対して大人しく抱かれてたから、他の男にもそうだろうって?そういうことか、あ?!」
わざと声を荒げてすごめば、政宗はこれまたふいと目線を反らした。
何だその反応は。
呆れたように思いながらも、その仕草に、元親の頬は自然と緩んでいた。
「そうさなあ、確かにおれは、あんまり自分の身にゃ、頓着してねえよ」
姫若子と呼ばれていた頃から、外見というものに対する価値を見いだしていなかったから。
大事なのは、その人の持つ魂自身だ。
それを守るためなら、外見なんぞと思わないでもない。
元親はにいと唇を引き上げて笑った。
「お前、おれを舐めてるだろ?」
悪戯っぽく問えば、政宗はむっとしたように眉根を寄せた。
こちらに向けられた顔は相変わらず冷ややかだったが、元親は気にならなかった。
「舐めてねえ。舐めてねえから…!」
「んだよ?」
政宗はふと眉間から力を抜いた。
己の膝に目線を落として、自嘲するように唇を開く。
「ずっと不思議だったのさ」
「…」
その声に、元親は表情をあらため、政宗の横顔を見つめた。
「何で、大人しく抱かれてんだろうなってな」
「お前が言うか」
「おれだから言えるんだろうが」
「そりゃそうだ。おれを抱いたのなんざ、お前が初めてだからな」
「何でだ?」
そう真正面から問われても困る。
お前が求めたからだと、返してしまうのは、身も蓋もない気がしたし、政宗が望んでいる答えでもないだろう。
それに、今さらなことには変わりないのだ。
今はだって、この男の肌に触れることは嫌ではないのだから。
なので、元親は唇に曖昧な笑みを浮かべた。
「まあ、思うところがあったのよ」
そしてその曖昧な空気を飛ばすために、にやりと笑ってみせる。
「まあどうしても気にいらねえやつなら、食いちぎってやってらあ」
これで互いに笑いあって、それでこの意味のない会話を終わらせるつもりだった。
けれど。
「気に入ったら、大人しく抱かれんのか」
政宗はどうにもこの話題から離れる気はないようだ。
元親はいい加減苛立ってきた。
「結局、何が言いたいんだよテメエはよお」
そう吐き捨てるように言えば、政宗は元親の方へと首を巡らせ、じっと目を合わせた。
眉間に皺を刻みながらも、こちらもじっと見返せば、目を合わせたまま、ゆるりと押し倒された。
眉を寄せて唇を開こうとするが、結局そこから言葉はこぼれずに、政宗は唇を閉じて、そのまま顔を伏せようとした。
元親は表情を変えずに、べちりと政宗の顔に容赦なく手のひらを押しつけて、降ってくる唇を阻止した。
「先に言え」
剣呑に寄せられる眉。
元親はふんと鼻を鳴らした。
そんな顔でごまかされるかというのだ。
こちとら、テメエの顔を読むのはもはや匠級だということを自負している。
不安そうな目で、こちらを見下ろしているくせに。
問いたい言葉を秘めて、その瞳をさざめかせているくせに。
「言え」
短くそう告げれば、手のひらの向こうで何やらもごもごと唇を動かすのが分かったので、それを肯定と受け取って、元親は手のひらを退かしてやった。
仕方ないといった諦めのため息をついて、政宗は唇を開いた。
「今もアンタは、そうなのかよ?」
婉曲にもほどがある。
指示語だらけの問いに、器用に片眉を上げ。
「もっとはっきり言えや」
ほら、と促せば。
「…今は、おれのもんだろ」
傲慢な言葉とは裏腹な弱い声。
元親は再度、目をぱちくりとさせた。
今度こそ元親は脱力した。
何にこだわっているかと思えば、そんな、それこそ当たり前で、今さらなこと。
「ああ、何だ。お前だけだって、そう言って欲しかったのか?」
「…」
嫌そうにしかめられる顔を、元親は心底可愛いと思った。
思わず唇をゆるめて笑めば、そのまま唇を押しつけられた。
与えられる口づけには、欠片も可愛げなんぞなかったが。
息をつき、濡れた上唇をぺろりと舐めて、元親は己を見下ろす政宗の顔に、手を伸ばした。
「そうさなあ、大事なもんのためなら、おれはたぶん、足ぐらいは開くんだろうが…」
眉を寄せるその怒ったような顔も可愛いと。
元親は機嫌良く笑う。
「銜えて抱いてやるのは、テメエだけだ」
「…」
「足は開いても、テメエ以外のなんか、食いちぎってとっとと逃げてくるぜ」
政宗は眉を寄せたまま、けれどようやく、笑った。
政宗はそのまま体を元親の上に伏せて、肩に顔を埋めた。
その背中を撫でてやりながら、元親は苦笑した。
「けど、テメエ以外におれの足開いて楽しいと思う野郎はいねえと思うんだがなあ」
そうこぼせば、いてたまるかとの答えと共に、抱く腕に力を込められて、元親は思わず声を上げて笑った。