十三
幾日ぶりかに触れたその肌。
合わせればぴたりとくっついて。
重なった心臓。
手のひらを絡めてつないだ。
触れた唇は熱く火照っていて、体の内にいとも簡単に火をともす。
絡む舌はどことなく甘く。
まるで喉の奥から、吐く息すらも灼いてしまいそうな熱。
ああ。
どくどくと体中の血が脈打っている。
己以外の、もう一人の男の存在を感じて、鼓動は走る。
目を細めた。
ああ。
ああ、重ねた肌から、全てが伝わればいいのに。
体に燻る熱も、言葉に出来ない想いも何もかも。
重ねた肌から、伝わればいいのに。
十四
隣で体を起こす気配を感じて、元親はふと目を開けた。
外が少しばかり明るいように感じるのは、月明かりのせいだ。
少し乱れた夜着を直して、音もなく静かに立ち上がる姿を、ただじっと見ていた。
政宗が、この離れで朝を迎えたことはない。
今まで一度も、だ。
朝、元親が目を開けたときにはいつも、隣の褥は冷え切っている。
夜、男が隣にいた事実すらも曖昧にしてしまいそうなほどに。
何故、眠っていかないのだろう、と元親は思っていた。
寝首をかくとでも、警戒されているのだろうか。
まあ、いつでも首をとれるのだと、確かに一度は脅したけれども、あれは双方の勘違いだったということで収まったことだ。
夜中に一度起きあがって、部屋を変えて寝直すよりも、そのまま眠ったほうが体は休まると思うのだが。
つまるところ、寂しいのか、と元親はふと思った。
埋めようのない距離を見せられているようで?
そういうことだろうなと己の発した問いに、納得する。
拒絶されているわけではないのだろうけれど。
今日もまた、このままこの部屋を出て行くのだろうかと思うと、少しだけ落胆のため息が胸の内でこぼれた。
視界から消えるまで、見届けてやろうと、その背中を見ていた。
静かな足が、障子に手をかけようとしたところで止まる。
ゆっくりと振り返った男の姿を、瞬きもせずに見つめていた。
政宗は、こちらが目を覚ましているなどとは思いもよらなかったのだろう。
開かれている元親の目と合った瞬間、驚いたように目を見開いた。
「起きて、いたのか」
元親は体を起こした。
「なあ」
目を合わせたまま、気づけば、唇を開いていた。
「何で眠っていかねえんだ?」
「…」
政宗は押し黙った。
横たわる沈黙と空間が、そのまま自分とこの男の間にある距離なんだろうと元親は思った。
お互いの顔を認められる距離ではあるけれど、少し、遠い気がした。
これじゃあ、手を伸ばしても届かない。
「別に、寝首をかくつもりはねえぜ?」
「分かってる。テメエを疑ってるわけじゃねえ」
すぐに返される反応は心地いい。
真剣なその低い声は、元親の気持ちを軽くした。
そうでないというのなら。
「男の部屋から朝帰りするとこを見られたくねえのか」
ある意味当然かもしれぬ理由に思い至り、元親は思わず苦笑した。
それが理由であれば、まあ、仕方ないよなあとも思った故の苦笑であった。
けれど。
「違う」
短く、けれどもはきと唇が紡いだ否定の言葉に、驚いた。
じゃあ何だというのだろうか、と元親は内心で首を傾げた。
政宗はそれきり口を閉ざしたまま、部屋を出て行くわけでもなくその場に立っている。
元親は立ち上がった。
政宗はじっとこちらを見ている。
己と政宗との間にあるその数歩の距離を、元親はゆっくりと詰めた。
政宗は、動かずに、二人の間に横たわる距離が埋められていくのを見ていた。
手をのばせる距離で、足を止めれば。
政宗の眉が、寄せられている事に気がついた。
「政宗?」
逡巡しながら問いかければ。
「いやじゃ、ねえのか」
「あん?」
「テメエは、いやじゃねえのか?」
おれが、隣で眠っていても、と。
ひそやかな声が、夜の静けさに紛れるように続けられ。
元親は瞬いた。
自然と、顔には苦笑が浮かんだ。
この男は、また変なところで嫌になるほどに気を遣う。
あるいは、臆病とすら思えるほどに。
その臆病さが、どうしてか愛おしいと思っている自分に、元親は気がついた。
たぶん、その臆病ともいえる優しさが向けられているのが、己だけだということが、分かるからだと元親は思う。
自惚れちまうぞ、と溢れる感情で胸を満たしながら、言葉にせずにつぶやいた。
「ここはテメエの城じゃねえかよ」
「…今は、アンタの部屋だ」
元親は政宗の手を取った。
戯れのようにその手を引いて体の向きを反転させる。
子供のように素直に、政宗は手を繋がれたまま後をついてきた。
布団の上で手を離して。
「朝まで、寝てけよ。そんで、ついでに朝飯も一緒に食おうぜ?」
「…」
「一人で食うより、二人で食ったほうが旨いだろ?」
「…そうだな」
ふわりと浮かんだ笑みに、元親もほっと息を吐いて笑った。
さて寝直そうかと思ったら、そのまま手を掴まれて。
政宗の布団の上に引き倒され、元親はあれ、と非常に間の抜けた声を出した。
見下ろしてくる唇の端を上げた笑み。
その人を食ったような笑みは、結構好きだ。
体の中を覗かれているような気になるほどに、油断のならないそれは、元親の体をざわつかせ高揚させる。
「おいおい、さすがにくっついて寝るのは寒いだろ」
そうとぼければ。
「テメエから誘っといて何言ってやがる」
くつりと喉で笑いながら、政宗は袷に手を滑り込ませてくる。
「別に誘ってねえよ」
そう言いながらも、己の身体からは、抵抗する気がないかのように力が抜けているのを元親は自覚していた。
なので元親もつられるようにして、思わず唇を引き上げれば。
唇に降ってくる男の唇もまた、弧を描いていて。
は、と声を上げて一度笑えば、その隙に入り込んできた舌の熱さに。
目を閉じて、その首に腕を回した。
そのまま一度体を重ねて眠りに落ちた。
朝、目を開ければ。
政宗は、隣で静かに寝息を立てていた。
どうしてかたまらない気持ちになって、元親はその瞼に、唇を落とした。
その瞼が持ち上がって、男の瞳が己を映したら、まず何を言おうか。
この男の使う南蛮語を真似て、おはようでも言ってやろうかと、元親は頬をゆるめて、その静かな寝顔を見下ろした。
***
結局迷ったあげく、目を覚ました政宗に対して、何のひねりもなく、おはようと言えば、政宗はどこか照れたように目を細めて笑みを浮かべ、元親を見返した。
それから、二人して思わず笑って、政宗は顔を洗ってくると部屋を出た。
廊下から足音がして、政宗が戻ってきたのかと思ったが、その足音はどこか普段よりも重いものように感じられて、元親が首をひねれば。
「朝早くにすまん。片倉小十郎だ」
その低い声に、元親は己の身だしなみを見下ろしてから、何か用かと声を返した。
入っても、との言葉に、短くああと返せば、障子がすっと開かれ、独眼竜の右目殿がそこにいた。
右目殿の口からこぼれた質問は、元親の予想したとおりのもので。
「政宗様は?」
「今顔を洗いに行ってる」
「昨日は、こっちに泊まったのか?」
合わせられる視線は静かで、それが逆にこの男のまとう空気を重く剣呑にしている。
下手なことを言えば、問答無用で斬られそうだと元親は思った。
自分を見る、伊達家の家臣達の視線には二種類あることに、元親は気づいていた。
一つは、以前元親を貶めた男達のような、侮蔑混じりの視線。
もう一つは、この小十郎のような重臣の一部たちから投げかけられる視線だった。
侮蔑ではないが、眉を寄せて苦慮しているようにも感じられるそれ。
まあ、結局底にある理由はどちらも同じなのだろうとは思うが。
右腕殿としても、自分のことは歓迎すべきことではないのだろうということは、元親も分かっている。
いよいよ、苦言を呈しに来たのかもしれぬとも思いながらも、元親は、小十郎の目をまっすぐに見て、頷いた。
「ああ」
「…」
「やっぱ、問題あるか?」
「いや…」
小十郎の言葉は短く、逆に元親の方が不思議に思った。
「文句を言いにきた訳じゃねえのか?」
「誰にだ?」
「いや、まあ、政宗と、おれに」
頬をかきながらこぼせば、小十郎の眉間に皺が刻まれた。
けれど、それは不快というよりも、どこか諦めているようでもあった。
「文句を言ってどうにかなるなら、とっくに言っている」
「?」
「一つアンタに聞きたい」
「あ?」
「アンタは何故大人しくこの城にとどまっている?」
「…」
四国へ帰ろうと思うならば、帰れたはずだろうと、小十郎は続けた。
向けられている目は、元親自身を見通そうというようだった。
なので、元親も真摯な目で、小十郎を見返した。
己の中にある確かな気持ちは、一つしかなくて。
「おれはよ、あいつのことを、気に入っちまったんだよ」
「妾のような扱いをうけてもか」
元親は唇で柔らかく笑った。
「あいつはさ、必死で手を伸ばしてるんだと、おれは思ってる。その手をつかむのが、おれの手でいいっていうのなら…」
一度、言葉を切った。
「つかんでやりたくなるじゃねえか」
あんただって、そう思うんじゃねえのかと、そう続ければ、小十郎は瞠目した。
「おれは」
「うん?」
「アンタを城に置くことには、今も反対だ」
「だろうなあ」
「だが」
言葉を切った小十郎は、元親を見た。
「アンタには感謝もしている」
元親は首を傾げた。
あの人は駆け続けるしかなかったのだと、政宗を側で支えてきた右目は言った。
立ち止まって弱音を吐くことも、振り返って泣き言をもらすことも許されなかったのだと。
「あの人の横には、誰もいなかったのさ」
元親は眉を寄せた。
「それこそ、あんた達がいるじゃねえか」
独眼竜の右目と言われた男や、政宗を支える近臣達。
政宗がそんな家臣達を頼みにして大切に思っていることぐらいは、元親にも分かる。
小十郎は苦笑したようだった。
「おれたちは、家臣なんだ。それを誇りに思っている。それを、政宗様も知っている」
「?」
「おれたちは、政宗様の横に並ぶ気はない。振り向かないあの人の背中を守るのがおれたちの誇りだからだ。あの人も、それを分かっているから、それ以上のことは求めない」
「でもよ」
「だから、アンタなんだと、おれは思っている。アンタは四国の当主だ。そして、何より、政宗様と向かい合って刃を合わせただろう?」
「…」
何ともいえない顔をしている元親に口元で笑いかけて言う。
「だからおれは、あんたには感謝している」
朝から済まなかったなと言って、小十郎は部屋を出て行った。
廊下から政宗の声がした。
「おれに、何か用か?」
「お部屋にいらっしゃらないようだったので」
「…」
「朝餉はこちらでご一緒にお持ちしてよろしいですね?」
「…ああ」
その声が、とまどっているように聞こえて、障子のこちら側で元親は声に出さずに笑った。
遠ざかっていく足音と入れ替わるようにして、顔を洗ってさっぱりした政宗が顔を覗かせる。
何がなにやらよく分からないといったような、奇妙な顔をして、政宗は元親を見た。
「あいつ、お前に何か言わなかったか?」
少し心配そうな、申し訳なさそうな声だった。
元親は首を振って見せた。
「いや。お前が部屋にいないから探しに来ただけらしい」
「そっか…」
ほっと安堵する表情に、元親は己の胸が温かいもので満たされるのが分かった。
いい家臣を持ってるなとは言わずに。
今日の朝餉は何かな、とたわむれのように元親は尋ねた。
十五
朝、目が覚めたときにまず目にするもの。
天井、そして、体を起こせば、己の隣に眠るもう一つの体。
元親の部屋で休むようになってから、政宗は、朝は元親よりも早くに目を覚ますようにしていた。
元親よりも後に起きたのは、初めてこの部屋で朝を迎えたその日だけだ。
規則正しく上下する胸。
時折もぞりと寝返りを打つ体。
その姿を少しの間見下ろしていると、政宗の顔はいつも自然と柔らかなものになる。
胸がふくらんでどうしていいか分からなくなると同時に、どこか切なくて喉が渇くような感覚に襲われる。
起こさぬように気をつけて、部屋をでて、じとりとした空気の中、顔を洗いにいく。
雨は降ってはいないといえども、梅雨特有のすっきりとしない空。
おかげで、この日の朝も薄暗かった。
水をくみあげ、政宗は己の右目に手を伸ばした。
眼帯を外して、横に置く。
ただれた皮膚は、おろした前髪に隠される。
水面が映す己の姿を、政宗は動かずにただじっと見ていた。
自分は、元親のことを、恋うている。
元親のことが、好きだという気持ちは、政宗自身、初めて見つけた宝物のようなものだった。
最近、ふと思うことがある。
元親から向けられる、視線、空気。
元親から与えられる、言葉、体温。
もし、これが己のうぬぼれではないのなら。
自分という存在が、元親の中で、特別なものになってきているのではないかと。
嫌われてはいないことは分かる。
好かれているのだとも、思う。
ただ、政宗が求めているのは、不特定多数に向けられる好意ではなく、己一人に向けられる好意なのだ。
政宗が元親を好いているように、元親も、己のことを好いてくれているのではないかという淡い期待。
その期待は、ふとしたときに政宗の胸に起こり、そのたびに政宗の鼓動を走らせ、体温をわずかに上げていく。
朝、隣で無防備に眠る姿を、目を開けたとき、おはようと目をこすりながら言う顔を見るたびに。
大口を開けて笑い、眉を寄せて拗ねるその顔をみるたびに。
その唇がこの名前を形取り、その声がこの名前を紡ぐたびに。
期待してしまう自分がいる。
だからこそ、前以上に気をつけなければならないと政宗は思っていた。
戦の時はもちろん、普段の生活の中でも、政宗は眼帯を外すことはない。
もちろん、閨にいるときも。
持ち上げた手のひらを、政宗は前髪の下に差し入れた。
指にふれるのは、ただれた皮膚とつぶれた右目。
政宗は、これまで己に不利になるもの、必要ないものは投げ捨てて生きてきた。
いっそこのつぶれた目も捨てられればと思うのだが、消えてなくなってくれる類のものではないから、それもかなわない。
忌々しいことこのうえなかった。
この醜い姿を厭うた母。
政宗を追い落とそうとしたかつての家臣。
政宗が欲しかった、けれど手に入れられなかったものを持っていた弟。
駆けていく道行きでこの身から切り捨ててきたものだ。
『振り返ってはなりませぬ。
己の不利になるものは切り捨てて、ただ前だけを向いて情を残すものではありませぬ。
前を見据えて、その先に欲しいものがあるのなら、全力で奪えばよろしい。』
だから政宗は今、駆けていられるのだ。
いらぬものは捨ててきた。
けれど、一番忌み嫌う右目の残滓は捨てられぬ。
自分は元親に期待を抱いている。
気持ちが通じるかもしれぬという望みと、そして不安を。
喪失の不安は、以前にも増して、政宗の心にしっかりと根を下ろしている。
恋うているからこそ、去って行かれることをさらに怖れるようになった。
だからこそ、この目を元親には見られぬように、気をつけなければならない。
この醜い目をみたら、元親も離れていくかもしれない。
元親ならば、気にせず側にいてくれるかもしれない。
けれど、そんな保証なんてどこにもなくて。
己の思考にとらわれていたからだろか。
政宗の意識は己の内側に向けられており、近づいてくる気配に気づくのが遅れた。
「政宗?何やってんだ?」
どきりとするほどに近くで聞こえた声に。
政宗は目を見開いて顔を上げた。
同じく顔を洗いに来たのか、それとも政宗を探しに来たのかは分からぬ。
分からぬが、元親が、一歩離れただけの距離で佇んでいた。
とっさに強ばった筋肉は、何の動きも生み出すことはできずにいる。
元親は首を傾いで、とまどったように眉を寄せた。
「目が、どうかしたのか?」
「!」
一瞬目の前が真っ白になり、血が凍った気がした。
「見るなっっ!」
飛びずさった勢いで、側にあった水をたたえた桶が転がり、水しぶきが着物を濡らしたが、政宗は気づかなかった。
手のひらで右目を押さえつけて、政宗はあっけにとられている元親を見た。
「見るな!見るな見るな見るな!」
唇から迸った声は震えていて、まるで悲鳴だ。
体が小刻みに震えた。
体を包む冷ややかさは怖れと名を持つもの。
怖い。嫌だ。嫌われたくない。
短い言葉が、思考の中を飛び交っている。
この右目を見てしまったら、元親は今度こそ、己の下から去っていくかもしれない。
顔が嫌悪に歪むのなんて、見たくないんだ。
もう手放せない。
向けられる背を、見て見ぬふりをすることに耐えられない。
だから。
「見るんじゃねえっ!」
「……見ねえよ」
みっともなく掠れた声のあとに返された静かな声に、政宗は顔を上げた。
見つめたそこにあったのは、元親の苦笑した顔だった。
かすかに眉を寄せたそこにあったのは、呆れではなく、ましてや嫌悪でもなく。
ただ、寂しそうな色。
それでも、小さく微笑む元親に。
心臓が、掴まれた。
喉の奥で喘ぐ。
空気が己の喉を擦る音がやけに大きく聞こえた。
胸が刺されたように痛んだ。
政宗はどうしていいのか分からずに、右目を押さえ、短い呼吸を繰り返したまま、元親を瞬きもせずに見やることしかできなかった。
息を吸ったあと、政宗は眉を寄せて、唇を結んだ。
そんな顔をさせたいわけではなかった。
十六
とっさに思ったのは、しまったという言葉だった。
自分はここに来るべきではなかった。
大人しく部屋で政宗が戻るのを待っているべきだったのだ。
起きたらまず顔を洗いたい、というある意味至極当然な己の欲求に、元親は文句を言いたくなった。
何でもうちょっとだらだらしようとしなかったのか。
そんなきびきび目覚めて規則正しく顔を洗うこともあるまいに。
我ながら意味不明な文句だとは分かっていたが、それでも言わずにはおられなかったというのが本音だ。
政宗は、水をくんだその水面を見下ろしながら、動き一つせずにただ立ちすくんでいた。
どうしたのだろうと、疑問に思ったまま、声をかけた。
強ばった体。
いつか政宗に言った言葉が頭の中に蘇る。
心臓の上に指を置いて、もっとここを使えと。
その言葉を、そのまま今の自分に言ってやりたい。
目がどうかしたのかと。
そう、深く考えずに口走った自分に、もう少し、心を使えと罵倒したくなった。
こちらを向いた瞳に映った強烈な拒絶の黒を認めた瞬間、元親は、後悔したのだ。
見るなと喉から叫びを発しながら、まるで逃げるかのように飛びずさった体。
桶が転がり、水しぶきが飛んだ。
思わず、反応もできずに、きらりと輝くしぶきを見ているしかなかった。
見るな、と政宗が言っているのに、自分は目を反らすこともできなかった。
視界の端に映る、転がった桶と、眼帯の黒。
政宗は、手のひらでそのあらわになった右目を強く押さえつけていた。
その存在を消そうとするかのように。
ああ、目を、見られたくないのだと。
小刻みに震える体。
認識して、愕然とする。
政宗、独眼竜と名を持つ、この男が、震えている。
全身から発せられているのは、激しい拒絶。
そう、元親だけではなく、ありとあらゆるものを拒んでいるように見えた。
喉が干からびる。
胸がしくりと痛んだ。
ふと、元親は思った。
だから、この男は今まで自分の隣で眠ろうとしなかったのではないか?
絶対的に踏み込まれたくないものがあるからこそ、夜のうちにひっそりと己の部屋へ戻っていたのではないのか?
そう、誰にでも、触れられたくないものの一つや二つ、あるだろう?
体を重ねたことなどなかったかのように冷えた褥が寂しかった。
横で眠るその静かな寝顔を視界に映したとき、胸が一杯になった。
その時感じたのは、確かに、幸せと名の付くものであった。
だから、政宗も、悪い気ではないのだと思っていたけれど。
それは元親のわがままな言い分だろう。
元親は顔を歪めた。
苦いものが体の内側に広がった。
後悔、そして、政宗に対する、申し訳のなさといったもの。
おれのわがままで、傷つけた。
「見るんじゃねえっっ!」
「……見ねえよ」
だから、そんな身を切るような声で言わなくてもいい。
お前が見るなというのなら、無理に暴いたりなどはしないから。
だから、そんな脅えた目で見ないでくれないか。
お前に拒絶されるのは、とても悲しいことだから。
ふと、唇からこぼれた言葉。
「おれは、お前が好きだぜ?」
なあ、どうすれば伝えられる?
元親は唇をゆるめて、小さく笑みを作った。
目の奥がじんとした。
言葉にして、元親はああと、納得した。
だから、自分は寂しさを覚え。
だから、自分はこの男に近づきたくて。
だから、自分は、ここにいるのだ。
なあ、どうすれば伝えられる?
政宗は目を見開いたまま、呆けたように元親を見つめた。
体の震えは収まっている。
元親は少しだけ安堵した。
右目を押さえつけていた右手が、ゆっくりと下に下ろされる。
「お前のことが、好きだぜ、政宗」
十七
その声はどこまでも鮮やかに体の中を通り抜けていった。
思考も、体の動きも何もかもが、一瞬己の意識から放り出されたかのような感覚。
政宗は、ぽかんと、元親を見返すことしかできなかった。
眉を下げて、元親は小さく笑っている。
「好きだ」
その言葉は三度目だった。
一度目のそれは幻聴だと思った。
二度目のそれも、何かの間違いだと思った。
では三度目のこれは?
とっさに息を吸った。
瞼が痙攣し、瞬いたのをどこか人ごとのような感覚で捉え、後に自覚する。
投げ出された意識と体、思考が繋がりだす。
繋がったはいいが、相変わらず自由にはならぬ体をもてあまして、政宗は喉をならした。
元親は少し顎を引いて、一度視線を外した。
「テメエはわかっちゃいないだろうが、この鬼の目で、まじまじと瞳を合わせたのなんざ、テメエが初めてだったんだぜ?」
「…」
「馬鹿みてえだけどよお、結構嬉しいことなんだって、思ったのさ」
元親の視線が、ゆるりとまた、政宗を映した。
元親の顔が近づくのを見ていた。
指が、前髪をそっとかき分け。
右目に静かに与えられた暖かな温度。
心臓が一度、大きな音をたてた。
唇が触れたつぶれた目の奥が痺れた気がした。
宥めるように触れていった元親の唇を視界に映して、政宗は手を持ち上げて、そっと己の右目に触れた。
「…目、見せろ」
発した己の声は掠れていた。
元親は言われるままに、政宗とは対になるその左目を覆う布を取った。
その下から現れる、琥珀色の瞳。
色違いの一対は、まっすぐにこちらに向けられている。
気味が悪くないのかと、不思議そうに言った声が蘇る。
気味悪くなどない。迸る感情を映すその瞳を、自分は心底美しいと思ったのだ。
「…綺麗だ」
掠れた声でつぶやけば、元親はほろ苦い笑みを浮かべた。
軽く目を伏せて元親は問う。
「何でそう思う?」
「アンタ自身を映してる」
「テメエの目だってそうだ」
「…」
「だから、テメエの目も綺麗なんだよ」
政宗は己の唇が震えるのが分かった。
奥歯を噛みしめたが、震えは収まらず、それどころか、体の内側までもがざわざわと震えている。
「お前は、おれの器が欲しいのか?」
いつかされた質問に、違うと、いつか返したように否定を返す。
「おれだって同じだ」
「…」
「お前の器に惚れたんじゃねえよ。お前の魂に、捕まったんだ」
政宗は手を伸ばした。
手を伸ばして、その親指で、元親の左の目元を撫でた。
手のひらで頬を包み。
「元親」
「ん?」
「おれが、好きか」
元親は、一度瞬いて、ふと、息を吐いた。
口元をほころばせて、笑った。
「ああ、好きだ」
「そうか…」
政宗は歯を噛みしめた。
体の内側から、色んなものが溢れてしまいそうだと思った。
後から後からわき上がってくるこの想いは何だ。
この温かくて、けれども強いこの感情は何だ。
じわじわと皮膚が熱を持つ。
政宗は口元を手のひらで覆った。
ああ、こぼれ落ちてしまいそうだ。
これが、満たされるということなのか。
そう、自分は今、満たされているのだ。
体のそこからわき上がってくる元親への想いと、元親から注がれた想いで、満たされている。
「あのよ、政宗」
「An?」
目線を上げれば、元親は政宗から少しばかり視線を外すようにして、人差し指で己の頬をかいていた。
「おれ、さっっからテメエに告白してんだけどよ…」
何か苦いものでも噛んだかのような顔で、元親はちらりと政宗を見た。
苦いものを噛んだような、でも、赤く染まった顔でだ。
「お前は、どうなんだよ?」
後から思い返せば、間抜けなことこの上ないのだが、どうとはどういう意味だろうかと、このとき政宗は普通に疑問に思った。
元親はじれったそうに、ぼそりと吐き捨てる。
「言ってくれなきゃ、分かんねえだろ」
そこまで言ってもらってようやく、政宗はそういえば自分の気持ちを口にしていないことに気がついた。
「おれも、好きだぜ」
唇にのせて、ふと、いや、違うなと政宗はこぼした。
そのつぶやきに、ふと不安そうに揺れる元親の瞳を見た。
政宗は両手で元親の頬を包み、その額に、己の額を押し当てた。
小さく笑って、目を伏せた。
溢れてくる想い。
それは。
「愛しいんだ」
ただ一つの存在を、愛おしむということ。