六
元親とともに港へ出かけたときだった。
近々到着する四国からの船に乗せる積み荷に目を通していた元親は、一枚の着物に目をとめて、感嘆の声をもらしていた。
金糸銀糸を織り込んだ豪奢なそれをみて、見事だなと、頬をゆるめて笑っていた。
その笑顔をみて、自然と起こった気持ち。
喜ばせたいと思ったんだ。
笑わせたいとそう思った。
そのためにどれほど金がかかろうが、惜しむ気持ちは少しもなく。
それで、元親が喜んでくれるなら、それだけで十分な価値があると。
自然と笑みが浮かんだ。
柔らかな笑みが。
胸の内が温かくなる。
そう、それはまるで、
忘れてしまった遠いいつかに浮かべたような
純な笑み。
七
元親の生活は、少し変わった。
毎日昼間、離れには相変わらず来ようとはしない政宗の部屋へ、元親の方から顔を出すようになった。
政治的な話をするときもあるが、話す中身はほとんどが他愛もないことだ。
政宗に暇ができれば、共に出かけるようにもなった。
そのへんは、政宗の方が気を遣ってくれるようになったというべきか。
さすがに毎日部屋に押し込められているのには飽きてきていたところだ。
港にも行ったし、山へも行った。
四国はそろそろ梅雨に入り、蒸し暑くなる頃だろうが、奥州はまだ長雨の気配はなく、涼しい。
あの暑さが恋しいとも思うが、涼しい初夏も悪くない。
元親は奥州の生活を楽しんでいた。
この日も政宗の部屋へ顔を出して、その帰りのことだった。
元親は己の風貌が目立つことは承知していた。
背の高さもあるだろうが、何より目を引くのは己の色のない髪だということを、元親は知っている。
ここは政宗の城で、離れではない城内ならば、当然、行き交う人も多くなる。
誰にも会わず、離れと政宗の部屋を往復することなどまずなく。
なので、元親は誰かしら、伊達家の家臣と会うのであるが。
家臣達の視線が己に向けられているのには気づいてはいたが、元親はあえて目を向けようとはしなかった。
向けられる視線は、大まかに分けて二つほどあると元親は感じていたが、どちらにしても良い感情を抱いているものではないからだ。
まあ、気持ちは分からなくもねえがなあと、元親はのんびりと思う。
己の主君が、余所の国の当主を捕まえて、毎夜通っているというのだから。
それだけではなく、その囲われている方も、最近では図々しく城内を歩いている。
まあ、面白くはないだろう。
分からなくもなかったが、その不満を向けられても困るんだが、と元親は思った。
ただ、自分の主君に、面と向かって文句をいうこともできないのだろう。
以前のように、昼間は離れで大人しくしていればいいのだが、そこは譲る気も元親にはなかった。
何故なら、自分は政宗のことを知りたいのだから。
案外、肝心なところで口べたなところがあるのを知った。
そのくせ、普段は嫌味なほどに口がまわることも。
酒は辛口が好きだと聞いたし、甘いものはそれほど好きじゃないことも知った。
一つ、何か新しく知ることが、こんなにも楽しく、嬉しいと感じる。
なので、まあその辺の所は多めに見て欲しいものだと、そう考えていたら。
二人連れだつ男たちと、すれ違ったその瞬間。
耳を掠めた、人を侮るねとりとした笑い声。
『客人というより、これではただの妾じゃ。さすが姫若子殿といったところか』
『まさに』
元親は静かに足を止めた。
目の奥が燃えるように熱くなったが、それが怒りからであることに認識するのに、少しの時間がかかった。
それは元親の心の一番底にある領域だ。
己ですら、容易に触れることはできぬもの。
年月を経て、ようやく、穏やかに眺めることのできるようになったもの。
そのようなところを引っかかれれば、不快になるに決まっているではないか。
意図せず、唇を引き上げた。
歯を噛めば、喉の奥からこもった笑い声が響いた。
確かに。
同盟国からの客人というよりは、妾のような扱いといったほうが、しっくりくるだろう。
毎夜男に抱かれているのは事実。
だから、この身は『女』なのだとでも?
元親は笑った。
「オイ、テメエら」
振り返れば、男達もまた足を止めて、顔だけで振り返っていた。
その小馬鹿にしたような顔へむけて、とっておきの笑みを一つ。
馬鹿にしたような表情がぎくりと強ばるのを眺めながら。
「おれは確かに『姫』だったがなあ、姫は姫でも、おれは『鬼姫』だ」
歯をむき出すようにして唇を弧につり上げて、元親は笑った。
獰猛なそれはまさしく鬼の性をかいま見せ、男どもを身震いさせたが、元親にはどうでもいいことだった。
「そこんとこ、よっく覚えとけよ?」
言い捨てた後は、さっさと背を向け歩き出す。
あのような手合いは相手にしないのが一番だが、何もなかったように通り過ぎるることができるほどには、自分もまだまだ、大人にはなりきれぬらしい。
にわかに上がった己の体温を苦々しく思いながら部屋へと戻れば。
「何だこれ」
部屋へと届けられたものを目にして、元親は思わずつぶやいた。
「政宗様からの品です。お納め下さい」
元親の世話をしてくれている年かさの女はそういって、うやうやしく塗りの箱を元親のもとへと差し出した。
「政宗が?」
ありがとうよ、と答えて彼女を下がらせ、結構な大きさの箱を見やって、元親は首を傾げた。
いつものように書の類かと思ったが、わざわざ箱に入れていることやその大きさを考えれば、そうではあるまい。
南蛮渡来の図面かな、と思いながら、元親は少し楽しみにしながらふたを開けた。
政宗は元親が特にからくりに凝っていることを知っている。
元親がいつか話していたそれを覚えていてくれたのかもしれないと、そう思えば、さきほどの嫌な熱も引いていく気がした。
けれど。
「…」
ふたを持ち上げたその下から現れたものを見て、元親の表情は固まった。
それは、着物であった。
金糸銀糸が施された見事な一品。
女ならば、目を輝かせてため息をつきそうなほどの。
ずるりと引き出して膝の上へ広げてみせれば、元親の口からかすかな笑い声がこぼれた。
このような一品を身につけることが許されるのは、色町でも最上位の太夫ぐらいであろう。
そう、それは目の肥えた元親から見ても最上と言い切れる一品。
最上の、女物の一品だった。
「・・・何の冗談のつもりだあの野郎」
こぼれる声は低い。
先ほど耳にした忌々しい言葉が蘇る。
どこから聞きつけてきたかはしらないが、噂ほど遠くへ広がるものもない。
あの男たちも、昔どこかしらか聞いた噂を思い出したか、掘り返してきたかに違いないのだ。
四国の跡取りが、姫若子と呼ばれているそうな、などといった話を。
九割が根も葉もない噂に含まれる一割の真実。
己が、姫若子と呼ばれていたという事実。
元親は漆ぬりの箱を、立てた膝を伸ばして蹴飛ばした。
それ自体、金がかかっているであろう箱は簡単に部屋の端まで蹴飛ばされて、障子にぶつかり固い音を立てて止まった。
その音を聞きつけたのか、障子の向こうに影。
「どうかなさりましたか?」
微かに心配そうな色をにじませたその声に我に返って、無意識に元親は己の左目を押さえた。
意識して、唇を引き上げてから、口を開く。
「いや、何でもねえ。悪い、ちょいと箱を落としたんだ」
「お怪我などは?」
「ないない。おれの不作法だ。悪かったな」
「いえ」
下がっていこうとする影を元親は呼び止めた。
「政宗は何か言ってたか?」
「何か、といいますと?」
「この箱の中身について」
はいと頷いて彼女は続けた。
「貴方様への贈り物だと」
「…」
元親は左目を押さえつけていた手のひらから力を抜いた。
「そうか…。ならアイツに伝えてくれねえか?」
「はい」
「確かに受け取ったと」
「かしこまりました」
影が見えなくなったのを確かめて、元親は喉をふるわせて笑った。
「あの野郎、喧嘩売ってる気か?それとも退屈でもしてんのか?」
どちらにしろこちらにとっては誠に効果的な嫌がらせではある。
そういう意味ではお前の作戦は実に素晴らしいと、元親は内心で政宗を褒めた。
褒めてそして。
「…くそっっ」
舌打ちして、膝に広げた着物を乱暴に振り払う。
うつむいたのは、目の奥が焼けるように熱かったから。
歯をかみしめたのは、喉が掠れるような音を立てるから。
怒りに満ちた声を上げるのは、こちらの敗北宣言に他ならない。
だから、元親はのど元までせり上がる罵声の言葉をどうにかこうにか押し込めた。
罵声の中に混じった、一片の湿り気とともに。
体を駆けめぐった熱は、怒りと、屈辱。
そして、政宗からの届け物と聞いて、喜んだ自分に対しての、恥ずかしさだった。
この仕打ちは一体何だ?
きっとあの男もどこかで耳にしたに違いない。
姫若子という名を。
だから、こんなことを思いついたのだろう。
元親は、政宗のことを認めていた。
まず第一に、その剣の腕について。
そして、時折見せる年相応の笑みと、見せる優しさについて。
だから、元親は政宗のことを、悪いヤツじゃないと思っていたのだ。
むしろ、イイヤツだと、そう思っていたのに。
「いっそ妾にでもしてやるってか?」
巫山戯るなと、元親は低く吠えた。
裏切られた気分だった。
いや、むしろ親しい関係を築いてきていると思っていたのは自分だけで、政宗は欠片もそんなことは思っていなかったのかもしれない。
ただの暇つぶし、玩具のつもりなのかもしれなかった。
この体を好いているというのなら、それこそ笑えるほどにイイ趣味をしてやがるとしか言いようがない。
けれども、もしかしたら何かの手違いなのかもしれぬ。
そう弁解する思いも、元親の中にはあった。
どう手違いをすればこのようなことになるのかなんて、元親には皆目検討がつかなかったが。
さて、これから自分はどうするべきか。
からかい目的でも、誤解でも、どちらにせよ政宗は今夜もやってくるだろう。
元親は息を吐いた。
一人考えたところで何の解決にもならぬ。
なら、直接聞けばすむことだ。
怒りはそれまで取っておけばいい。
元親は重い腰を上げて、蹴飛ばした箱を取りに行った。
もちろん、豪奢な着物を収めるためだった。
日が暮れるまでの数刻をじりじりとしながら過ごした。
時が経つのがいつもより遅く感じられた。
政宗が訪れたのもまた、普段より遅かったのでなおさらだ。
さてどう切り出したものかと元親が思っていたら。
「あれは気に入ったか?」
そう問われて、元親は一瞬動きを止めた。
政宗の言うあれとは、例の着物のことだろう。
政宗の顔を見返せば、少しばかり浮き足立っているように見えた。
瞳が楽しそうな色にきらめいている。
それはまるで、こちらの反応を楽しみにしているようで。
こちらが怒って取り乱すのを待っているかのように、見えた。
「お前さ」
「Han?」
「おれが、昔なんて呼ばれていたか、知ってるか?」
「幼名のことか?」
「違う。あざ名のことだ」
もし、政宗が頷かなければ、ただの質の悪い悪戯で片づけられたのだろうが。
その問いに政宗は、ことなげに、ああと、一度、頷いた。
元親は声もなく笑った。
身の内側に静かに火がともった。
それこそ、屈辱という名の火だ。
確かに、自分はこの男に抱かれている。
離れを与えられ、夜忍ばれている状況を考えれば、確かに妾のようではあろう。
しかしだ。
知りもしない過去を持ち出されてからかわれるなどご免だった。
姫と呼ばれたことを、恥じているわけではない。
姫若子と呼ばれた時分も、今の己の大切な一部だ。
左目を押さえた。
思い出すのは嫌悪感と恐怖を隠すための嘲りの声。
乱暴者よさすが鬼子じゃと眉をひそめられた。
それが悲しくて、なるべく大人しくふるまうようにした。
己の容貌が、皆と違うから悪いのだと言われ、ならばせめて皆も認める綺麗な着物を身につけた。
美しい刺繍の着物は女物が多い。
女物の着物を身に纏えば、男のくせに女のようじゃと、姫若子と馬鹿にされた。
今では元親を当主として慕ってくれる者達。
可愛い家臣だ。
そんな家臣たちのためなら、愛するものたちのいる国のためなら、大概のことは受け入れられる。
そう、だから、この男の言葉も呑んだのだ。
元親は静かに燃える火を抱えながら、冷静に考えた。
声をあらげれば、このよい趣味の男を喜ばせるだけだろう。
喜ばせる筋合いはない。
人質ではないと、政宗がいつか口にした言葉を思い出した。
人質ではないのなら、やはり玩具か。
手を下ろして、元親は政宗の目を真正面から見た。
唇に笑みを。
「ああ、見事なモンだった」
その言葉を聞いて、政宗も笑った。
「そりゃよかった」
そう言って、手を二度打ち鳴らせば、障子を開けて、女がまた箱を持ってきた。
さきほどと違うのは、己の中に期待する気持ちが欠片もないことだ。
丁度元親の目の前に置かれた箱をみやって、政宗は女にむかって顎をしゃくった。
彼女は頷いて、うやうやしく箱を開けた。
女の手にあるのは、これまた見事な帯だった。
蒼く見えるのは、よく見れば深い藍色の細かな刺繍のためだとわかる。
「帯の方がちょいと遅れちまってな。あとからになっちまったが」
「…」
納めてくれ、という一言に、元親は小さく笑って頷いた。
政宗は女を下がらせたあと、箱を横に押しやって、元親の顔に唇を寄せてきた。
体の力を抜けば、あっさりと抱き込まれ唇を合わせられる。
抵抗もせず流されながら、元親は腹の内で一言つぶやいた。
そうかそうか、テメエはそういうのが好きなんだな。
そう、投げやりにつぶやいた。
八
望むのであれば見せてやろう。
姫若子と呼ばれたその姿。
ただし、覚えておくがいい。
豪奢な着物の下に隠されているのは、鬼の爪だということを。
***
次の日の夜、政宗が離れへ足をむければ、出迎えたのは、夜の静けさを従えるほどの眩しいばかりの姿だった。
政宗は思わず呆然と、足をその場に縫い止めた。
政宗が贈った着物に身を包んだ元親が、それこそまるで女のように、手をついて頭を下げていたからだ。
着物も帯も、最高級の一品だったが、元親はそれに欠片も見劣りしていない。
肌は女もうらやむような白さだし、顔立ちも整っているのだから、それなりに着こなすのだろうとは思っていたが。
予想にもしていなかった、元親のあまりの化けっぷりに、政宗は心底驚いて、そして、呆けていた。
楚々と頭を下げている様からは、普段の様子など想像も出来ない。
「なんとまあ、見事なもんだな」
ぼうっと立っているのも馬鹿みたいなので、政宗は取りあえず部屋へ入り、元親の横へ腰を下ろした。
元親が伏せていたその顔をゆっくりと上げる。
政宗は知らずに、息を呑んだ。
磨かれたような肌。
その白さの中にある、目をはっとさせる唇の赤。
紅をさしたのか、とその赤の理由を納得しながらも、政宗の目は一つに引き寄せられて離れない。
元親は普段はその左目を布でできた眼帯で覆っている。
政宗とは丁度鏡でうつしたかのような。
理由を尋ねたことはなかった。
政宗にとっても、己の右目について触れられたくはなかったから、きっと何か理由があって、目を負傷したのだろうと、そう思っていた。
元親の左目は、つぶれてもいなかったし、傷跡が覆っているわけでもなかった。
琥珀と黒の一対が、政宗の姿を映していた。
今まで見たことのないその瞳の色に、驚きとともにとらわれる。
ふと、元親が静かに笑った。
目をちらつかせる赤が三日月を描く。
どきりと、一度心臓が跳ねた。
その鼓動一つ分の間に。
「?!」
ぬっと突き出された腕がのど元を抑え、そのまま容赦なく体重をかけられ押し倒される。
何だと、とっさに体を起こそうとしたところへ、覆い被さるように体を上から押さえられ、政宗は唇を開いた。
が、そこから息をこぼすかわりに、政宗は細く息を吸った。
のど元にぴたりと吸い付くようにして向けられている銀色の鈍い光は、よく見知った刃物の輝き。
喉を押さえる手は容赦ない。
暴れればきっとこのまま喉を絞められるかするだろう。
目線を上げれば、色違いの瞳が無慈悲に政宗を見下ろしていた。
「一つ、お前が耳にしたおれの昔のあざなについて、付け加えておいてやろうと思ってよ」
いっそ楽しげな声が赤い唇からこぼれ落ちる。
政宗はとっさに頭をめぐらせて、そのあざなを記憶から引っ張り出した。
そう、四国の姫若子。
その声は、女の高い声とは似ても似つかぬ、少し掠れた男のもの。
片方の目が、隠されていた琥珀の目が、色を変える。
にじむように色を吸った瞳は壮絶な金色に輝いた。
政宗は目を見開いたまま、上から落とされる視線をただ見つめ返していた。
腹の上にかけられる重みがかわったのは、元親が顔をより近づけたため。
その金色の中には、静かな炎が燃えている。
強い視線は政宗のそれを絡めて離さず、まるで熱さえも感じられるようだ。
政宗の体は無意識に強ばって、まるで自分のものではないかのような錯覚に陥った。
元親の唇がゆっくりと動く。
唇の隙間から覗く歯の白さと、その奥に収まっている舌がちろりとかいま見え、どくどくと脈が速くなる。
「ざまあねえな?ええ?」
眉を上げた顔は笑っていた。
ひどく、楽しそうに笑っていた。
抑えられたのど元が何故かひやりと冷えた気がした。
このとき初めて、政宗は元親が怒っているのだということに気がついた。
どこまでも静かに、この男は怒っているのだ。
自分に対して。
けれど、政宗が思考できたのもここまでで、それ以上のことは考えることはかなわなかった。
暢気に考えられるような状況でもなかったが、それよりなにより。
怒りの気配を纏わせて笑うそのすさまじい姿に気圧されていた。
気圧されて。
見惚れていた。
「テメエの寝首をかこうと思えば、いつでもかけるんだよ」
元親の言葉は正しい。
現に自分は今、まったくの抵抗も出来ずに首をかかれようとしている。
「それをしなかったのはなあ、テメエのことを認めてたからだ」
政宗は、一度、瞬いた。
その言葉に、心は逸り、けれどどこか冷静な部分が、その言葉には続きがあることを告げた。
元親の口元から笑みが消える。
それだけで、見下ろす瞳がひどく酷薄なものにみえた。
「おれは確かにテメエに負けた。おれは確かにテメエに抱かれてる。けどなあ」
さらに近づけられた顔。
政宗の視界には元親の顔しか映るものはなかった。
その瞬間、政宗は、喉に突きつけられている刃物の存在も、元親が纏っていた着物のことも、何もかも忘れた。
「おれは鬼ヶ島の鬼だぜ。爪も牙も、まだ持ってる。それはテメエごときじゃ折れやしねえもんだ」
息が詰まった。
まるで口づけるかのような距離で。
それが呑まれた瞬間だった。
「あんま調子にのってんじゃねえぞ」
どれくらいその瞳にとらわれていたのか政宗には分からなかった。
ただ、干からびた喉が、無意識に、ごくりと喉を鳴らしていた。
呑まれて何の反応も出来ない政宗を見透かしてか、元親は体を退けて首に添えていた小刀も引いた。
溶けるように消えた圧迫感に、政宗は細く呼吸した。
気がつけば、じっとりと汗がにじんでいる。
心臓は変わらずどくどくと音を立て。
政宗は瞬いた。
瞬いて、ゆっくりと体を起こしながら、面倒くさそうに髪をかき上げている元親のその様を見た。
見ているのに気がついたのか、元親の目がこちらを向く。
呑まれて。
そして、魅せられたのだと。
その金色に輝く瞳に。
元親の瞳は、今はもう、金色の色はうすまり、もとの琥珀色にもどっている。
「それが鬼の由縁か?」
からんだ喉で政宗は一言問うた。
言わずとも左目のことを尋ねているのだと分かったのだろう、元親はああと頷いた。
「目自体は、見えてるのか?」
「いや?」
元親は、どうしてそんなことを聞くのかといった風に眉を上げた。
「視力はあまりねえんだ」
だからほとんど見えないのと同じだと、律儀に答えてくれながらも、その様は、どこかとまどってすらいるようだった。
政宗は手を伸ばした。
警戒するように目を細める元親など気にもせずに。
手の甲で、その左目の横をかすめるようにして、頬を撫でた。
元親は目を見開いたあと、どこか不思議そうな、何とも判別のつかない顔をした。
「テメエは、この目をまっすぐに見やがるな」
せっかくビビらしてやろうと思ったのに、と元親は続けた。
「…気味悪いとか、そういうのはねえのかよ?」
「Why?」
気味悪いというよりも、むしろ。
瞳は鏡だ。
持つ者の魂をそこに映す。
燃え上がるような壮絶な色。
「綺麗だ」
激しいそれは美しい。
九
金糸銀糸の豪奢な一品をその身に羽織り。
慣れた手つきで帯を締め。
その小指で紅をさす。
だてに姫と呼ばれていたわけではない。
見苦しくない程度の着飾り方は知っている。
その真っ赤な唇を弧に描き。
左目を覆っていた眼帯を、外した。
色を忘れて生まれ落ちた髪と片方の目。
恨んだこともあった。
悲しくおもったこともあった。
『姫』はそんな幼い自分。
今では恨むことも悲しむこともない。
これが、己なのだと。
鬼だというなら鬼でよい。
だが姫を所望というなら化けてやろう。
ただし。
華奢な小刀を袖に仕込んで笑った。
瞳がきらりと光った。
ただし、それは所詮、姫の皮をかぶった鬼だ。
***
元親は己の容姿についてよく自覚していた。
人とは異なるということが、時には怖れにつながるということ。
瀬戸内の海賊達をまとめるとき、立ちはだかった者達に対して、元親はときにはその左目をためらいもなくさらした。
「テメエら、この鬼を相手にするのかい?」
自らを鬼と呼ぶことにもためらいはなくなった。
元親を慕う家臣達は、だれも元親の髪や目についてとやかく言う者はいない。
いないが、それは普段、その瞳を見せていないからだと、元親自身は考えていた。
ただ純粋に、気味が悪かろうと、元親はある意味冷静に、己の容姿を受け入れているのだ。
初めてその瞳を見たとき、まあそれは元親が敵として立ちはだかっているということではあるが、皆わずかなりとも怖れをその顔に浮かべるものだからだ。
なので、このときも元親は、政宗を牽制する意味合いも含めて己の左目をさらしたのだ。
お前の前にいるのは、鬼なのだと、そう知らしめるために。
だというのに。
政宗は目を見開き、驚いた様を見せはしたが、その瞳に怖れの色はなかった。
かわりに、呆けたように瞬きもせずに元親の目を見続けた。
そしてあろうことか、元親の左目に触れるかのように、手を伸ばしてきたのだ。
のぞき込まれるように合わせられる黒い瞳は底が見えない闇のようで、元親をとまどわせた。
そのときになってようやく、元親はこれほどの至近距離で、左目をさらしたまま見つめ合ったことが、今までの人生で初めてのことだと自覚したのだ。
じっと合わせられる視線が何故か慣れず、元親は思わずつぶやいた。
気味悪くはないのかと。
それは純粋な元親の疑問だった。
その疑問に返された答えに、元親は瞬間、己の耳を疑った。
「綺麗だ」
元親は眉を跳ね上げた。
二度、瞬きをした。
今この男は何と言った?
半眼になって、睨め付けるように目の前の顔をじっと見返せば、政宗は至極真剣な顔でこれまた元親の顔をじっと見返してくる。
目を合わせて、元親は微かに眉を寄せた。
「…お前、実は目が悪いんだろう」
「生憎ときっちり先まで見えてるぜ」
「いやいや嘘だろ」
「嘘じゃねえよ」
元親は内心でひどく、動揺していた。
何故こんなところで自分が動揺しなければいけないのかと、自分自身に悪態をつくが、一度揺れてしまったら仕方ない。
さざ波のようにすぐには収まらぬし、元親自身にもどうしようもない。
「色違いの目なんざ今までお目にかかったことはねえが、アンタの目は綺麗だぜ」
元親は一度目を伏せた。
そして、目を開いた次には、政宗を睨み付けた。
「テメエな、人を馬鹿にするのも大概にしろよ?」
「それだ」
「ああ?!」
政宗は少しばかり眉を寄せた。
不快になっているのではなく、困っているかのようだった。
「おれは別に、アンタを馬鹿にした覚えはねえんだが」
何を、怒っているんだと誠に素直に質問され、元親は目を見開いて、阿呆のように唇を大きく開いた。
呆れて声も出ない。
思わず体からは力がぬけた。
怒り続ける気力もだ。
口をぱくぱくとさせたあと、元親は肩をさげ、上目で政宗にとろんとした視線をやった。
「例えばよ、女モンの着物贈られたら、お前は嬉しいか?」
「おれにゃそういう趣味はねえからな。むしろ馬鹿にされてるかと思うが」
あっさりと答えてくれる政宗はどこまでも真面目だ。
元親はため息をついた。
何故自分が、懇切丁寧に説明しなければならないのだろうか。
「おれも、テメエと同じように馬鹿にされてると、そう思ったんだが」
「……」
政宗は唇をぴたりと閉じたまま元親を見つめていた。
ふと、その視線が泳ぎ出す。
「…おれが、お前を馬鹿にしてると思って、それで怒ったのか?」
「おう」
「…じゃあ何で素直に着てやがる」
元親は髪をかいた。
怒りはすっかりと抜け落ちて、代わりにあったのは、情けなさともの悲しさだ。
何だこの間抜けな状況は。
ようやく元親は、この男の意図と、自分が見いだした意図が見事にかみ合っていないことに気がついたのだ。
間抜けとしかいいようがない。
「お前、おれのあざな知ってるって言ったろ?」
「ああ、ひめ」
「それ以上言うな」
ぴしゃりと釘をさせば、政宗は素直に口をつぐんだ。
「お前は、さっき、こんな目にゃ今までお目にかかったことがねえって言っただろ?」
「ああ」
「おれもそうさ」
「…」
「おれも、自分以外知らねえよ。この見た目のおかげで、それなりに色々あったのさ」
なあ、と元親は続けた。
「誰にでも、触れられたくないものの一つや二つはあるだろう?」
政宗の体が一瞬強ばったのを、元親は見た。
己と対になるかのように隠されている竜の右目。
四国の噂が奥州まで届くように、奥州の噂も南に流れてくる。
病で見えなくなってしまったというその瞳。
「おれの場合はこのナリがそれなのさ」
さまよっていた政宗の瞳に映っている色を見て、元親はふと、口元をゆるめた。
本気で嫌がらせのつもりではなかったらしい。
政宗は薄く唇を開いた。
そして、悪かったと、一言謝った。
「アンタを怒らせるつもりも、侮辱する気もなかった」
「じゃあ何のつもりだったんだ?」
それは当然の問いだった。
姫若子と呼ばれていたことを揶揄るため以外に、こんなデカイ男に女物の着物を贈る意味が分からなかったのだ。
政宗は口ごもった。
「言えよ。口に出せねえような理由なのか?」
声の高さを落として問えば。
「喜ぶと、思ったんだ」
居心地悪そうに、顔を伏せて返された答え。
「は?」
元親は純粋に驚いた。
予想もしなかった答えだった。
そして要領を得ない答えだった。
訳がわからないと顔に出ていたのか、政宗はもう一度言った。
「アンタが、喜ぶかと思ったんだ」
「…はあ。いや、つか、何で?」
「港に行った時、見てただろ」
「あ?」
どこまでも政宗の言いたいことが分からない元親に焦れたように政宗は繰り返す。
「四国からの船に乗せる品を見に行ったじゃねえか。その時、これと似たような着物を見て、綺麗だって、ずっと見てただろ」
「ああ~、そういや、見てた、か?」
己の記憶を探って、元親は自信のないまま首を傾げた。
四国への積み荷を政宗と一緒に見に行ったのはすぐに思い出したのだが。
政宗は、言ったんだと自信を持って言い切ってくれたのだから、まあたぶん言ったのだろう。
元親はこれでも己の鑑定眼にはそれなりの自信を持っている。
でなければぶんどったお宝を、釣り合う高値で売ることはできないからだ。
見事な品を見れば、普通に感心もすれば、褒めもする。
だが、そんなものは普通の感想であって、別に着てみたいとか、そういうこととは全く関係がないだろう。
これまた疑問が素直に顔に出ていたのか、政宗は元親の声なき疑問に答えてくれた。
「昔のアンタのあざ名を聞いて、こういうのが好きなのかと…」
「……」
元親は呆れた。
呆れて、盛大に脱力した。
「お前なあ」
「悪い」
「いや、誤解だったんならもういいけどよ」
何故だかむしろ頭が痛くなったのは気のせいではあるまい。
馬鹿なのか、と一瞬思ったが、先ほどこちらの顔色をきっちりと読んでいたところを思うとそうでもなかろう。
考えなしとも、たぶん、違う。
考えていないわけではないのだ。
政宗はバツが悪そうに元親を見ている。
喜ばせたかったと、この男は言った。
その手段は最高にずれていたのだが、その気持ちは嘘ではないのだろう。
そう、こいつはどこかしら、ずれているのだ。
「お前さ」
「ん?」
「これ、結構したんじゃねえの?」
元親は今着ている着物を示して見せた。
「上物だろ、これ」
「別にそれはいいんだよ」
「いや、よくねえだろうよ」
カラクリに金をつぎ込んでいる己のことは棚上げにして、元親は思わずそう返していた。
それこそ目の玉が飛び出すような値段がするはずだ。
「テメエを怒らせる気はなかったんだ」
「いや、それは分かったけどよ」
「気にいらねえなら捨ててくれ」
眉を寄せて吐かれた言葉に、元親は再び目を見開いた。
「…は?!だってこれ…」
「アンタが気にいらねえなら、意味がねえ」
目を合わせられ、唇にのせられたその強い言葉に。
驚いて。
驚いて何故か。
どきりと、心臓が跳ねた。
急に己の格好が居たたまれなく感じて、元親は咳払いをした。
「と、とりあえず捨てはしねえよ。もったいねえし」
「…だが」
「そのかわり!」
言いつのろうとしていた政宗の唇はぴたりと止まる。
「そのかわりだ。悪いと思ってんなら、団子貢げ」
「……」
目を丸くして、政宗はびっくりした風に瞬いた。
「そんなんで、いいのか?」
その声の情けないことといったらなかった。
元親は思わず口元で笑っていた。
「そんなんでいいんだよ」
それでチャラにしてやらあと胸を張れば、政宗は、安いなお前とそう言った。
どこまでも失礼な男だ。
どこまでも失礼で、肝心な所が抜けている。
「かけた金の量じゃねえだろうがよ、こういうもんは」
「?」
元親は政宗の胸、心臓の上を人差し指で押さえた。
「お前、もうちょいここ使え」
「What?」
「お前は、おれを喜ばせようとしてくれたんだろ?」
「…ああ」
「その気持ちってもんがよ、一番大事なもんだろうがよ」
顔を上げて、目を合わせた。
小さく笑ってみせれば、政宗は眉を下げた情けない顔で元親を見返した。
「テメエが、おれを喜ばせようと思ってくれた。その気持ちで、おれは十分嬉しくて、おれは十分喜べるんだよ」
「…そうか」
そう小さく返された声に、ひとまず納得をして、取りあえず、この重い着物をさっさと脱いでしまおうと立ち上がりながら、元親は顔だけで振り返り、唇を引き上げてにやりと笑った。
「まあ覚悟しとくんだな。テメエが横で青くなるまで喰ってやるから」
政宗は、想像したのか、それこそ何とも言えない苦い顔をして押し黙った。
その様を見て、元親は楽しげに笑った。
十
政宗様、と名を呼ぶ焦った声が聞こえた。
言われなくても、ちょいとヤバイなという自覚はあった。
突然飛び出してきた子供。
驚いた馬。
絞った手綱。
竿立ちになり暴れ。
あ、こりゃ落ちるという妙に冷静な判断。
ただ、下で固まったようにうずくまっている子供を己の体で踏みつぶすわけにはいくまいという反射的行動。
体をひねって避けたはいいが。
避けれたと認識した瞬間鈍い衝撃。
最後なんてものはきっとこんなふうにあっけなく訪れるものなのだろう。
***
梅雨空の間の晴れ間をぬって、元親とともに団子屋へいった。
横で青くなるまで喰うと宣言した通り、元親は政宗が思わず顔を歪めるほどに団子を食った。
よく胸焼けしねえなと思わずつぶやけば。
甘いものは別腹なのだとしれっと返してくれた。
団子屋で心ゆくまで団子を堪能した元親は、上機嫌だった。
せっかく来たんだから、お前も食えばと言われたが、政宗は見ているだけで胸がいっぱいになっていた。
遠慮する、と断れば、じゃあ一口だけ味見にと串を差し出され。
思わず、目を丸くして、差し出された団子と元親を見比べてしまった。
ほら、とせかされて、気がつけば、我ながら素直に口を開けていた。
もぐもぐと甘い団子を噛めば、元親は政宗に差し出した串に残っていた最後の団子を口に運んだ。
団子が口腔内に入り、喉が動く。
ごくりと喉を鳴らして団子を飲み込んだ。
妙に口の中が甘ったるいとこぼせば、団子なんだから甘いのは当たり前だろうと逆に笑われてしまった。
甘いものを好む元親だが、同時に酒好きでもあった。
政宗も酒には強い質だが、元親は下手をすればそんな己よりも酒に強いのではないかと思われる。
団子屋からの帰り際に、元親は政宗に、お前の好きな酒をよこせ、と言ってきた。
安い男と思われたままじゃ不本意だからなと、喉で笑って元親は言った。
この分では、出せば出した分だけ、綺麗に飲み干されてしまうのだろう。
けれども、結局苦笑して政宗は頷いていた。
夜、要求通りに、政宗が一番好んでいる辛めの酒を出せば、元親はきゅっと一口、流し込んで。
いい酒だなと満足そうに言った。
旨いと。
政宗の方へ顔を向けて、あけすけな表情で笑った。
政宗の隣で、笑った。
***
時折頭が鈍く痛むことに、政宗は忌々しい気持ちで米神を手のひらで押さえた。
落馬して、その上、一瞬気絶していたことがこれまた情けなさに拍車をかける。
頭を打ったのですから、今日は安静にしていて下さいと言われ、城へ戻ってすぐさま、部屋へ押し込められたのが先ほどのこと。
と、そこへ、廊下を走る音が聞こえ。
政宗は何故か一瞬身を固くした。
まさか、と考えたその瞬間に、すぱんと気持ちよく音を立てて障子が左右に開かれ。
「政宗?!馬から落ちたって本当か?!」
その容赦のない一言に、思わずぴくりと眉を跳ね上げた政宗である。
落馬なんぞ我ながら情けないと思っているところを、よりによってこの男に指摘された。
誰かに聞いたのだろう。
余計なことをと、ちっと忌々しく舌打ちをして、政宗は顔を上げた。
このようなところ、元親にだけは見られたくなどなかったのに。
元親はそのまま部屋へと入り、政宗の前で膝をついた。
「気絶したって聞いたけど」
これまた言わずともよいことを律儀に唇にのせる男である。
元親には事の経緯はすっかりと伝わってしまっているらしい。
最悪だと政宗は内心で吐き捨てた。
「お前、怪我は?」
その焦った声に、ふと政宗は元親の顔を仰いだ。
元親は政宗の頭に触れようか触れまいかと、手を伸ばしかけて逡巡していた。
「ねえよ」
その一言に、元親はすとんと腰を落とした。
政宗の顔を見て、ほうと息をつく。
それだけで、元親の纏う空気が変わる。
「そっか。怪我はねえんだな」
顔を伏せて、こぼれる声。
「…よかった」
もしや、元親はこの身を心配してくれたのだろうか。
この、自分を。
いつか元親に押さえられた心臓がふいに軋んだ気がした。
脈の音が聞こえる。
「ったくよお、ビビらせやがって」
子供、かばったんだってなと、元親は顔を上げて政宗の前を真正面から見た。
「馬鹿だな、お前。ガキかばって自分が落ちて気絶してりゃ、世話ねえだろうが」
その言いざまに、むっとしかけた政宗だったが、すぐさまそんな気持ちはどこかへ消えた。
「馬鹿だなあ…」
ふわりと、緩んだ口元。
言葉の中身とは裏腹な、柔らかな声。
少しばかり眉を寄せて笑む、その苦笑の中にある暖かなもの。
政宗は瞬間、混乱した。
何故元親はそんな顔で笑うのだろう。
どうして、己を映す瞳は柔らかいのだろう。
ことりと、政宗の肩に額をよせて。
「…心配、させんじゃねえよ」
少し掠れたその声に。
心臓を、つかまれたかと思った。
肩に触れている体温、重さ。
頬をかすめてくすぐる髪。
何だこれは。
体の内側がぞくりと騒ぐ。
まるで、この体の中へ元親の熱が入ってくるかのような。
不快ではないのがまた問題だった。
不快などではなくむしろどこか心地よく、慣れぬそれは、どこか怖ろしさを呼び起こす。
そう、怖ろしいのだと政宗はその感情を理解した。
己の内側へ入ってこられるのが怖い。
己の内側を覗かれるのが怖い。
だって、これほどまでに近くに来てくれた人などいない。
だれも、熱が伝わるほど側に来てくれたことがない。
何故この男はこんなにも温かいのか。
それは、元親が優しいからだ。
「!」
体が震えた。
嫌な汗が背中を伝う。
近づかれるのが怖い。
己を知られるのが怖い。
離れられるのが、怖い。
その優しさに慣れてしまったら、その暖かさに慣れてしまったら。
自分は変わってしまうかもしれない。
政宗は元親の体を引きはがした。
見開いた目で元親を見やる。
唐突に、悟った。
もう、とらえてはおけないのだと。
「触んな」
驚いた顔をする元親の顔を、正面から見返すことができずに、政宗は顔を背けた。
勝手なことを言っている自覚はある。
自覚はあったが、混乱した頭はどこまでも理性的とはほど遠い言葉しか伝えてはくれない。
何を言いたいのか、自分でもよく分からないのだ。
心配してくれて嬉しい。
けれど、どうしてか、つらかった。
元親は優しい。
無理矢理城につなぎとめている自分にすら、笑いかけてくれるのだから。
元親の矜恃を傷つけ怒らせたときも、政宗を許してくれた。
その肌に手を伸ばせば、背中を抱き返してくれた。
元親の優しさはきっと広く暖かで。
その優しさは、きっと誰へでも向けられているのだろう。
でなければ、自分にまで優しく笑いかけてくれるはずがない。
その笑みは、己だけのものじゃない。
胸が苦しかった。
心臓が痛む。
体の内で、何かが声を上げている。
けれど、その声が何を言っているのか政宗には分からなかった。
「何か用か?」
「いや、お前のことが気になったから」
胸を押さえて、政宗は下から元親を睨め付けた。
「用もないのにこっちに来るんじゃねえよ。余計な世話だ、出てけ」
元親の驚いたように見開かれた目を見るのがつらかった。
その表情が静かなものへと変わっていくのを見た。
ゆっくりと、腰を上げて、おろされる視線に耐えきれず、目を反らせば。
「…わあったよ」
障子が閉まる音でようやく、顔を上げることができた。
喘ぐように息をこぼした。
体の節々が軋んだ。
喉がひきつったように鳴った。
手のひらで顔を押さえた。
目を閉じる。
頭が鈍く痛んだ。
けれど、もうどこが痛むのか、政宗には分からなかった。
その夜は、離れへと行かずに夜を明かした。
元親がこの城に来て、初めてのことであった。
十一
それは、この北の地が梅雨入りしたころのことだった。
元親は板張りの廊下を荒く踏みしめながら歩いていた。
その寄せられた眉間の皺と引き結ばれた唇に、すれ違う者たちは驚いたような顔をして元親を振り返ったが、元親の足は止まらなかった。
城内が騒がしいようだと思えば、戦の準備をしているからだという。
初耳だった。
上杉と武田が交戦するのに乗じて、北条を攻め取るつもりなのだという。
それについては、元親には異論などない。
確かに、時節としてはいい機会であろう。
戦をすること自体は、全く問題ではないのだ。
問題なのは、同盟国の当主であるというのに、己が何も知らされていなかったということで。
そして、その戦へ赴くのが今日であるということ。
女中に元親が尋ねなければ、今も元親は知らずにいたであろうということ。
これらのことが、元親の表情を苦く彩っているのである。
はっきり言えば、少しばかり、怒っていた。
そりゃ別に奥州の国政に口を出す気は欠片もない。
ないが、それでも一応戦をするぞと、知らせるのが筋ではないのか。
一言文句を言ってやろうと、元親は出立間際の政宗を捜して城を走り回っていたのだ。
そして、すでに厩(うまや)にいることを耳にして走った。
何も言わずに出かけるなんてさすがにしないだろうと、以前であったなら言えたかもしれないが、今の状態ならそれもあり得る話だと、元親は焦ったのだ。
ここ数日、ろくに口も聞いていない。
さらに言えば、顔も見ていない。
あの日、出て行けと、そう拒絶された日からずっとだ。
幸い、政宗はまだ厩(うまや)にいた。
元親の姿を認めたとき、政宗の顔がかすかにしかめられたのを、元親は見た。
瞬間、元親の眉間の皺が深くなる。
苛々としながらが、元親はひさしぶりに政宗に言葉を向けた。
「戦に行くそうじゃねえか。同盟国に何の知らせも寄越さねえとは、礼儀に欠けるんじゃねえか?」
政宗は青い外套を羽織っていた。
初めて、元親が政宗と相対したときに着ていた服だった。
嫌味のつもりでわざと含んだ声で問えば、四国には知らせを飛ばしてあると、さらりと返され。
元親は次の言葉を飲み込んだ。
用件はそれだけか、と続く声の冷ややかさに、胸がきゅうと痛んだ。
元親は開いていた唇を結んだ。
問いたい言葉は一つだ。
では何故、自分には言ってくれなかったのだろうかと。
これでも四国の当主である。
この城にいるのも、人質ではないと、政宗は言った。
言ってくれれば、元親も共に、戦場へ向かう気だった。
それなりの働きはできるという自負はある。
だというのに。
自分は何一つ、知らされなかった。
「せっかくここにとどまってるんだからよ、使えばいいのに」
かろうじて、それだけを唇にのせれば。
「テメエを連れて行く気なんて、端からねえよ」
切り捨てるかのような声だった。
じっさいその温度のない声は、元親の中の何かを切り捨てていった。
元親はその場に立ちすくんだ。
体を強ばらせた元親を一瞥して、政宗は用は済んだとばかりに、馬上へと上った。
「おい」
呼びかけられて、元親はぎこちない動きで政宗を仰いだ。
政宗は、眉を寄せて、目を眇め、元親を見下ろしていた。
忌々しそうな顔で、元親を見下ろしていた。
「…勝手に四国へ逃げるんじゃねえぞ」
元親はどうにか唇の端を引き上げて笑うことに成功した。
かなりの労力を伴う作業ではあったが。
精々、こちらも不機嫌な様に見えるように。
「逃げねえよ」
僅かに交わった瞳。
その黒が揺れたと思った瞬間、その目はふいと元親から外れ、政宗は戦へ発っていったのだった。
***
そもそも不公平だと思わないか、と元親は誰かに問いかけた。
何故自分が、あの男の言葉にこれほどまでに振り回されなければならないのか。
何故、これほどまでに動揺しなければならないのか。
何故、胸を、痛めなければならないのか。
政宗が城を出立して二日が過ぎた。
その間、元親は離れで大人しくしていた。
大人しくしていたというよりは、考え込んでいたら結果的にそうなったというほうが正しかったが。
あの日、馬から落ちたという政宗を無理矢理見舞った日から、政宗は離れへと来なくなった。
顔も合わせない、言葉も交わさない。
もちろん、体を合わせることもない。
元親は、城の方へは足を向けず、ずっと離れにいた。
理由なんぞ簡単で。
政宗に、来るなと、そう言われたからだ。
今までに感じたことのない拒絶だった。
そう、自分は政宗に拒絶されたのだ。
そのことを自覚した瞬間、元親の中に芽生えたのは悲しみという名の感情。
元親にとっては忌々しくも腹立たしい。
自分が一体何をしたというのか。
何があの男の気に触ったというのか。
この二日、元親は政宗の豹変した態度について考えてばかりだった。
知らぬ間に、自分はとんでもないことをやらかしたのか?
それとも、単純にこの体に飽きたのだろうか?
馴れ馴れしくしすぎたとでも?
いや、でもどうせならば、いい関係を築きたいではないか。
考えても答えは出ないだろうに、思考は止まらぬ。
そしてその思考のどれもこれもが、妙に弱々しくあの男にすがっているようで、嫌になる。
逃げるなとわざわざ釘をさすくせに、相変わらず離れには見張りもいない。
釘をさすわりには、逃げ出すかもしれぬ可能性を全く警戒してやがらねえと、元親は苦々しく思った。
どこまでも、自分は舐められているのかもしれないと。
そう考えてまた苛立ち。
その繰り返しだ。
そこへ、女中が客の来訪を告げた。
客?と不思議に思えば、部屋に入ってきたのは、奥州との貿易を任せている元親の家臣であった。
船を任せている男で、奥州の港で顔を合わせたことはあるが、城にまで来たことはない。
元親は思わず目を丸くした。
「お前、何でこんなとこにいんだ?」
元親にとっては、当然の疑問だった。
「やだな。アニキが久方ぶりにお戻りになるってきいたんで、迎えにきたんっすよ」
「へ?」
これまた初耳もいいところだった。
元親の驚きを不思議に思ったのか、男はきょとんと瞬きをした。
「違うんすか?奥州からの文に、そう書いてあったと聞いたんすけど」
「何だと?」
元親は居住まいを正して、頭を切り換えた。
詳しく話せと言えば、男はとまどいながらも元親に説明した。
奥州からの文に、北条との戦をすることの報告とともに、元親が四国へともどるから、迎えに城まで上がってこいと書いてあったと。
「アニキのお考えじゃなかったんすか?」
「……」
元親は黙り込んだ。
元親はにわかに混乱していた。
奥州からの文ということは、政宗が書いたものだろう。
その政宗の言葉の食い違いが全く理解できない。
片や、逃げるなと釘をさし、片や、元親を四国へ返すために迎えを頼む。
矛盾もいいところだ。
「アイツ、何考えてんだ?」
元親には政宗の考えていることが分からなかった。
そこへ、失礼いたしますと、女中が部屋へと入ってきた。
差し出されたものを見て、元親は息をつめた。
それは、元々元親が身につけていた着物であった。
奥州にいる間は、用意されていた着流しを着ていたから、元親が元々着ていたそれは、捨てられてしまったのかと思っていた。
「何で…」
うわごとのようにつぶやけば。
「お迎えがいらしたら、お返しするようにと承っておりましたので」
元親ははっと瞬いた。
彼女の顔をのぞき込むようにして問う。
「四国から迎えがくると、政宗が言ったのか?」
はいと頷いて彼女は下がった。
元親は顔に手のひらを当てた。
「アニキ?」
男の不思議そうな声がしたが、元親は己の考えに没頭していた。
ふと、逃げるなと言ったあの声が鼓膜に蘇った。
逃げるなと言ったその言葉が。
まるで、逃げろと言っているように。
ふと、思えて。
目の前に置かれた己の着物。
四国からの迎え。
分かったのは、政宗が、元親の手を離そうとしているということ。
「何だってんだ、本当に」
元親の唇からこぼれた声は、わずかに震えていた。
疑問が体の中を駆けめぐった。
だいたい、人を無理矢理つかまえたのは、政宗のほうではないか。
何故今さら、その手を離そうとするのか。
最後に見たのは、こちらを忌々しそうに見下ろす顔。
眉を寄せて、唇を曲げて。
細められた目。
元親は手のひらから顔を上げた。
黒い瞳は、狂おしいような色を押し隠しながら、微かに揺れていた。
その熱を押し殺した瞳は元親をとらえ、そして元親の視線から逃げるかのように反らされた。
ああ、と元親は息をついた。
すとんと、胸にはまったこと。
「アイツ、馬鹿なのか」
あの男は、何かを必死に求めてあがいているのではないかと、ふと思った。
すがるように毎晩伸ばされた手があった。
何かに脅かされているかのように、この手を戒めていた。
こちらからすれば、何でもないようなことに、驚いたように逡巡して。
傲慢にさらったかと思えば、時には臆病なほどに慎重な様で。
いつか名を呼んだときに、たったそれだけの事で、こちらがどきりとするほどに、切ない顔をして笑ったその顔が瞼に映った。
喉で笑って、元親は体の力を抜いた。
元親はこのとき、何故自分がこれほどまでに政宗の言葉に揺らいでいたのかを自覚した。
単純な話だ。
自分は、あの男のことが気に入っているのだ。
拒絶されて、悲しいと思うほどに。
だってもう、側にいることが当たり前のことのように思っていたんだ。
こちらに不器用に向けられる気持ちが嬉しかった。
落馬したと聞いたときには、心臓がとまるかと思った。
子供をかばったのだと聞かされて、実は少し泣きそうになった。
ほら、やっぱりおれの勘は間違っていなかったと。
あの男は、優しい。
あまり自分自身で自覚はないようだけれど。
今更、はいそうですかと、手を離されるのを黙って見ていられるわけがない。
これも巡り合わせってもんなのかねえと声に出さずにこぼした。
あの男に相対したのが運の尽きというところか。
しかも、始めに首をつっこんだのはこちらなのだ。
文句も言えやしない。
だって、あの男のことを好いている。
このまま離れていくのはごめんだと思うほどには。
「仕方ねえやなあ」
元親は横でじっと待っている男に向けて、笑って言った。
「悪い。あの手紙はちょいとした間違いだ。おれはまだこっちに用がある。だから当分国には戻れねえ。国元のヤツラにもそう言っといてくれ」
男は残念そうな顔をしたが、元親のゆったりとした笑みを見て、分かりましたと頷いた。
国への文を書いて男に持たせて見送ったあと、元親は廊下に立って、空を見上げた。
山に落ちていく陽が、空を染め上げている。
息を吐いて、目を伏せた。
瞼の裏に映るのは、しばらく見ていない四国の海。
気ままに海を船でいくのもいいが、共に山を歩くのも悪くない。
茜色の空を見て、ふと気づいた。
口の端で苦笑する。
ああ、そういえば。
「名前も呼んでもらったことねえなあ」
十二
北条との戦は勝ち戦であった。
兵の犠牲も少なく、むしろあっさりとすんだといえるほどの手応え。
普段の自分なら、まあ多少の物足りなさを感じながらも、勝利に気をよくしての凱旋であるはずなのだ。
しかし。
奥州の地を踏み進めていくうちに、政宗の勝利を喜ぶ気持ちは薄まっていった。
北条を落としたときも、去来したのは喜びよりもまず先に、ぽっかりとした欠落感だったのだ。
己の城を視界に納めて、知らず息がこぼれた。
戦の最中はよかった。
余計なことは考えずにすんだ。
今は違う。
帰り路の間中、自分は考えてばかりだ。
元親のことを、考えてばかりだった。
あれから、離れへ足を向けなくなってから、戦の報告のために四国に文を書いた。
むしろ、戦のことのほうがついでのようなもので。
四国の当主を迎えに来いと。
もう、とらえてはおけぬと思った。
だから、あれほどまでに離れていくことを怖れたその手を、離そうとした。
けれど、己ではそれができないことを、政宗は自覚していた。
何故なら、政宗の元親を求める気持ちは欠片も変わらないからだ。
求めてやまないくせに、それ以上の怖れを抱いている。
離れられることより、近づかれるほうが怖いと、政宗は初めて思ったのだ。
城を出る前に一度だけ、離れへ足を向ける気でいた。
だが、政宗が出向く前に、元親のほうから政宗のもとへとやってきた。
これが最後かと思えば、肺が縮み、喉の奥から熱いものがこみ上げてきそうになった。
それをごまかすように、わざと冷ややかな声で。
逃げるなと言えば、元親は眉を寄せて、逃げねえよと吐き捨てるように返した。
最後に顔を合わせた元親は、顔をかすかに紅潮させて怒っていた。
四国から迎えが来れば、元親は潮時だと、国へと帰るだろう。
政宗は顔を歪めた。
城の門をくぐる。
皆、明るい顔をしているというのに、己だけが場違いだった。
胸が痛んだ。
痛む理由なんぞ一つしかなくて。
この城には、もう、元親はいないのだ。
その些細な事実が、政宗をさいなむのだ。
慣れぬ恐怖からこれで解放されるのだと思えば、安堵した。
安堵して、けれどそれはすぐさま、寂しさという名の波にさらわれる。
政宗は、己の心中が矛盾だらけであることを知っていた。
馬を預けて、どこか重い足取りで、己の部屋へと向かった。
瞼の裏に映っているのは、眉をしかめて己を睨め付ける元親の表情。
最後の見納めが怒った顔でしかないのは、自分の自業自得だった。
笑った顔を思い出す資格もないのだと思えば、乾いた自嘲の笑みがこぼれた。
目の前で手放すこともできないから。
見えぬところでいなくなってくれればと思って城を出た。
背を向けたまま一度も振り返らぬ姿など見たくないから。
そしてきっと、自分はまた、その背に手を伸ばしてしまうだろうから。
だから、知らぬところで、去っていってくれればと。
そう、思っていたのに。
政宗は己の部屋の少し前で、足を止めた。
「な、んで…」
こぼれた声はみっともなく掠れていた。
呆然と目を見開いて、政宗は部屋の前に腰を下ろしている男を見た。
政宗に気づいた男は、唇の端を少し引き上げて、立ち上がった。
「何で、ここにいやがる…?」
細く揺れる声に、その男は、元親は、首を微かに傾いで。
笑った。
息が詰まる。
「おいおい、戦疲れで寝ぼけてんのか?お前が逃げるなって言ったんじゃねえか」
確かに言ったが、そんなものは何の枷にもならないだろう。
四国からの迎えが来なかったのかと思ったが、そんなことはない。
途中寄った港では、ちゃんと四国から船が来たと言っていた。
なのに何故、元親はここにいるのか。
政宗の前で、笑っているのか。
言葉のない政宗の様子に、元親は苦笑した。
纏う空気は、柔らかく。
まっすぐに合わせられた瞳は、優しい色で政宗を映していた。
「おかえり、政宗」
その一言で、そのたった一言で、たやすくさらわれてしまう己自身に、いっそ笑えてくる。
その言葉は、自分だけに、自分のためだけに向けられている。
それだけのことで、こんなにも胸が軋んで、目の奥が熱い。
体がざわついてどうしようもなくなり。
政宗は、自分が喜んでいるのか、そうでないのか、分からなかった。
こちらの思惑にあくまで従ってくれぬ元親にたいしての苛立ちやもどかしさもあった。
何を好き好んで、せっかくの機会をフイにしたのか。
馬鹿じゃないのか。
もう、もう一度なんてきっと無理だ。
だって。
その身に触れたくてたまらない。
元親の姿を見て、驚いた。
苛立ちやもどかしさも、確かにあった。
けれど、それよりも前に。
名も知らぬ胸の内にある想い、あるいは本能が、悦んだ。
元親の声に、表情に、歓喜の声を上げていた。
元親の言葉に、どう返せばいいのか、政宗は分からなかった。
ただ、どうしてか一瞬、泣いてしまいそうだと思った。
一歩、引き寄せられるように近づいて。
どこか震える腕を伸ばした。
けれど、元親の肩に触れる手前で指は止まり。
眉を寄せて、政宗は元親を見た。
元親は眉を上げて、小さく笑った。
「怪我、ねえな?」
元親の腕が持ち上がり、政宗の肩を包むようにして撫でた。
触れられた肩が震え。
体の内を何かが走り抜けていった。
気がつけば、縋るように、その体を抱きしめていた。
「…ああ」
「そっか」
耳に流し込まれる声が、安堵していて。
背に手を回して、抱き返してくれる腕の存在に。
目の端から熱い滴がこぼれ落ちていった。
苛立ちももどかしさも、その滴に流されて。
残ったのは、結局たった一つの子供のような願い。
それは、側にいて欲しいという言葉。
***
政宗の背中を撫でながら、元親は問うた。
「なあ、お前は、何が欲しいんだ?お前は一体何を求めてる?」
その静かな声に、顔を上げれば、ひどく真剣な表情がそこにはあった。
何が、欲しいのかなんて。
そんなものは決まっている。
『元親』が欲しいのだ。
元親は唇を歪ませた。
「お前の手に反応するこの体か?それとも嬌声をあげるこの声か?お前と反対側のこの目か?絡ませるこの舌か?お前が求めてるのは、この器なのか?」
「何言って」
「言ってみろよ。欲しいものがあるんだろ?だったら、何が欲しいのか言ってみろ」
顎をわずかに反らして、対になる目が政宗を見下ろした。
「この器が欲しいなら、おれを殺して従順な死体を抱けばいい。ぬくい体がいいっていうなら、薬でも使ってさっさと人形にしちまいな」
「アンタ、何言ってんだ?」
元親の意図が分からず、政宗は思わず声を荒げた。
確かに自分は、この男の体を抱いている。
手に入れるということ、手をのばすということ。
その存在をつなぎ止めたくて、伸ばした手に触れた体は温かく。
強烈な餓えにも似た欲情があった。
欲情したから、その体を抱いた。
政宗は瞬間、混乱した。
では、元親の言うとおり、自分が欲しいのは、求めているのは『元親の体』なのであろうか?
「おれの体が欲しいのなら、そうしろよ」
「違う!」
反射的に政宗は叫んでいた。
心臓がばくばくと音を立てていた。
「違うっていうなら、考えろよ」
元親の指が、いつかしたように、政宗の心臓の上に置かれた。
政宗の体はその瞬間に動けなくなる。
「ここ使って、必死に考えろ」
ゆっくりと噛むように。
お前は、何が欲しいんだと、元親はもう一度問うた。
「おれはお前じゃねえからよ。お前が欲しがってるものが何なのか、分かんねえよ」
「…」
「お前は何が欲しくてあがいているんだ?」
政宗、という声が鼓膜に響いた。
政宗は顔を上げた。
「名前…」
「ん?」
「名前を、呼べ」
それは、この男の中に、自分という存在が確かに在ることを教えてくれるように思えた。
心臓の上に置かれた元親の指は温かい。
ここを使って考えろという言葉がどういうことなのか、政宗にはいまいちよく分からなかった。
ただ、理屈を問うているわけではないのだろうということだけば、漠然と理解できた。
自分は、この男の何を求めているのだろう?
側にいて欲しいと願ったのは、どういうことなのか。
言葉には出来なくて、そのことが我ながらもどかしいと思えた。
ただ、政宗に今分かるのは、元親の中に、自分という存在が在ることが、嬉しいということだ。
そう、自分は喜んでいる。
嬉しいのだ。
元親の声が、この名を紡ぐことが嬉しい。
だから。
「名前で、呼んでくれ」
元親はその頬をゆるめた。
「政宗」
たまらなくなって、政宗は元親の体にしがみつくようにして抱きしめた。
体がざわざわと騒いでいる。
我ながらなんて簡単な男なんだと、政宗は思った。
こんな簡単なことで舞い上がれるのは、元親だからだ。
他の誰でもない、元親だから。
自分はこんなにも単純に、舞い上がっているのだということに、政宗は気づいた。
肩口に額を寄せれば、髪を撫でられた。
「お前のことは政宗って呼ぶぜ。その代わり…」
顔を上げれば、合わせられる瞳。
「おれのことも、名前で呼べよ」
「…」
「おれの名前、知ってるだろ?知らねえなんて言ったら、さすがに泣くぞ?」
情けなそうに眉を少し下げて、元親は小さく笑って政宗を見ている。
もちろん、知っている。
忘れるわけがない。
今まで一度もその名を唇に乗せなかったのは。
「…呼んで、いいのか」
政宗のこぼした言葉に、元親は眉を寄せて、苦笑した。
「おれが、呼べと言ってんだ。いいに決まってるだろうがよ」
政宗は唇を閉じた。
喉の奥がつまったかのように、声が出ない。
嫌がるんじゃないかと、そう思っていたのだ。
無理矢理繋ぎ止めた自分に名を呼ばれることを、元親は不快に思うのではないかと。
政宗の名を唇にのせるたび、顔を強ばらせ、表情を歪めていた女性を知っている。
嫌悪に歪む顔なんてみたくないだろう?
唇を結んでいる政宗に、元親は笑い混じりの声で促すように言った。
「ほら、試しに呼んでみろよ、政宗」
己の名を紡ぐ声に、引きずられるようにして、政宗はようやく唇を開くことが出来た。
「…元親」
名を呼ばれた元親は、破顔した。
一瞬、目を奪われた。
それは空気を艶やかに染めるかのような変化。
「おう」
元親はどこか嬉しそうに笑う。
この自分が、元親にそのような変化を起こさせたのだと認識するのに、僅かに時間がかかった。
自覚すれば、体の奥がかっと熱を帯びて火照った。
「元親」
「おう」
「元親」
「おうよ」
「元親」
「だから、何だよ、政宗?」
政宗は口元を手のひらで覆って、かすかにうつむいた。
喉が絡んだみっともない声で。
「お前、馬鹿なんだろう」
そう言えば、元親は何故かふんぞり返って。
「お前にだけは言われたくないね、政宗」
そう、すぐさま返してくれた。
確かに、自分ほど馬鹿な男もいないだろうなと、このとき政宗自身思ってしまったので、元親の言葉に返す文句はなかった。
求めているもの。
手に入れたいのは。
心臓の鼓動が響く。
切ないほどに、胸を締め付けるものがあった。
この男の心が、欲しいのだと。
自分のことを、想ってはくれないかと。
政宗が元親を想うように、欲するようにまた、元親も、政宗のことを想って、欲してはくれないかと。
それが、自分が求めているものなのだと。
ああ、と声にならないため息を胸の内でこぼした。
この心の動きは何なのか。
考えて、一つの答えのようなものを見つけることができた。
長い間、心の底に埋もれていた感情。
人を、恋うということ。