元親は自分が確かに知性派ではないことは認めていた。
 そりゃ使わなければどうしようもないことが往々にしてあるものだから、そういうときには頭も使うが、得意ではないのだ。
 幸いなことに、周りの人間はそれでいいと言ってくれている。
 金勘定やら文書作成やらは出来る人間がいたします。むしろそろばんをはじくことが好きな殿なんぞ気持ち悪い、とまで言われたことがある。
 話がそれた。
 つまり、元親は自分が単純で、考えるよりはまず自分の体で動く類の人間であるという自覚があった。
 そんな元親だが、今は結構真剣に頭を使っていた。
「ええっとそもそもの原因からまず考えるべきなんだよなこういうときは」
 頭をかこうとして、できぬことに元親は舌打ちした。
 脇腹がじんじんと痛むが、肋骨やらが折れているということもなさそうだ。
 純粋に、痣になっているんだろうと推測する。
 何たって脇腹を確認しようにも、確認出来ない事態に陥っているからだ。
 苛々としながらも、元親の脳みそは結構冷静に状況判断をしようと動いていた。
 そもそもの原因は、たぶん、甲斐の若虎の言葉に興味を覚えて奥州くんだりまで船をすすめたのが始まりだろう。
 己を負かした相手に喜々として、元親殿は強うござるな!と褒めちぎるそいつに、気をよくしたのが少し前のこと。
 元親から言わせれば、甲斐の若虎も大層強く、その相手から強いと言われれば嬉しいものだ。
 そんな腕を認めた相手がこぼした名前。
 めっぽう強い男が北にいる。
 その一言に、妙に体がさわいで、いてもたってもいられず、そのまま北の地までやってきたのだ。
 隻眼の竜と相対したときには、肌が粟だった。
 興奮で。
 強い相手と手合わせするときに興奮するのは武芸を嗜むものとしては当たり前の反応だろう。
 刃物みたいに冷ややかで鋭い気配を、それでもむき出しにするのではなく、身に薄く纏わせるだけで、緊張も殺気もなく。
 ちらりと、面白そうな色を瞳に閃かせて寄越される視線は心地よく元親を挑発していた。
 やっぱ喧嘩はこうでなくちゃならないと元親はその時思った。
 血が音を立てて肌の下を流れていく感覚に、ぞくぞくした。
 たまらない。
 この男は最高だ。
 そう、思ったのだ。
 純粋に、喧嘩を楽しんでいた。
 勝負の結果よりも、喧嘩そのものを、腹の底から楽しんだ。
 冷たい瞳が、実は熱を孕んでいたことに気づいたときは、思わずこちらも頬をゆるめた。
 自分が唇に笑みを刻んでいたように、男も、唇を引き上げて笑っている。
 こぼれる白い歯はまるで牙のように見えた。
 ひどく、嬉しかった。
 遠く離れた北の地で、このような男に会えたことは、何て幸運なんだろうと。
 六本の刀から繰り出される衝撃をこの身にうけながらも。
 この男となら…、そう胸を逸らせた。
「で、目が覚めたらこうなってたわけだ」
 元親は流れを反芻し、目を細めた。
 己の体を見下ろした。
 少々窮屈な着流しの隙間から見える白はサラシの色。
 きっちりと手当はされているようである。
 隻眼の竜と喧嘩をしていて、意識の空白を経てこの結果。
 つまり。
「おれは負けたのか」
 唇からこぼれた声は我ながらあっさりとしていた。
 悔しくないのかといえば、まあ嘘になるのだが、それほどでもなかった。
 相手が自分よりも強かった。
 自分が認めた強さをもった相手だった。
 それだけのことだ。
 むしろ、そんな相手と出会えた喜びのほうが大きい。
 だから、負けたことに対しては、それほど嫌な気分を抱いているわけではないのだ。
 ただ、この状況には多少不快な気持ちを抱いてはいる。
 日はくれているらしく、ろうそくの火が周りを照らしている。
 はて、腹が減ったなあと思いながら視線を下にやった。
 元親の視界に映っているのは、がっちりと拘束された手首。
 捕虜にされたのだから、そういう状況はあり得るというのは、理性では納得した。
 けれど、どうにもこうにも不快だった。
 今更逃げやしないし、負けを認められずに暴れるような往生際の悪い男でもないつもりだ。
 そのくらいには、自分のことを認めてくれると勝手に思っていた故の不快感であった。
「起きたか」
 声がして、元親はぶすりと唇を引き結んだまま顔を上げた。
 元親と同じように、だが色違いの紺の着流しを着た竜、独眼竜政宗と呼ばれる男がそこにいた。
 やはり元親と同じようにサラシの白がこぼれている。
 座ったままの元親を見下ろし、政宗は片眉を面白そうに上げた。
「機嫌悪そうだな?」
「そりゃこんだけがっちりと縛られてりゃあな。愛想のない顔にもなるだろうがよ」
「生け捕った敵将を自由にしておくわけねえだろうが」
 敵将ね、と元親は内心で繰り返した。
 まあ確かに、自分はこの男の領地に乗り込んできたのだから、確かにそういうことになるのだろう。
 元親としては、別に敵対しているつもりはないのだが、突然乗り込んでこられたほうはそう思わないのが普通なのかもしれない。
「別におれはお前の敵になりにきたわけじゃあねえぜ?」
「よく言うぜ」
「別に戦しにきた訳じゃねえ。喧嘩しにきただけなのさ」
 相手が相手なら、激怒するようなことを言っていると自覚しながらも、元親は己の本心を唇に乗せた。
 この男なら、分かってくれるだろうと、勝手な期待を抱いていた。
 視線を、剣を、合わせたお前なら、こちらの言いたいことを、分かってくれると。
 確かに、知り合ったのはつい先ほどのことで、顔を合わせていたのなんざ、ほんの少しのときでしかないのかもしれないが。
 剣を合わせて、通ずるものも、ある。
 元親がじっと政宗の目を見返せば、政宗はかすかに笑ったようだった。
 その笑みに、元親も唇をゆるめた。
 政宗は元親の前でしゃがみこんだ。
 先ほどまで元親を見下ろしていた視線の高さが同じになる。
「なあ、お前が勝ったら、おれの所からお宝を奪っていく気だったんだよな?」
 元親は瞬きした。
「ああ、まあなあ」
 確かにそう言った気はする。
「でも負けたのはテメエの方だ」
「……」
 喉をふるわせて笑う声に、何が言いたいと元親は目を眇めた。
 すっと唇から笑みを消した元親を見て何を思ったのか、政宗は元親の左目に手を伸ばした。
 政宗と同じように眼帯で覆われた、けれど政宗のものとは反対の左目に。
 指先で眼帯に触れ、反射で体に力を入れた元親をみて、少し笑う。
「おれが勝ったんだから、おれはお前から宝をもらうことが許されるはずだろ?」
 政宗は元親の頬を親指で撫でた。
「だから、鬼をもらうことにした。You see?」
 元親は眉を寄せた。
「つまり、どういうことだ?」
 馬鹿正直に問い返した元親だったが、いまいち政宗の真意が分からなかったのだから仕方ない。
 四国に対しての人質にでもする気なのかと思ったが。
 拘束されていた両手首を上から押さえられ、何故か思い切り、肩を抑え付けられた。
 押されれば、体は後ろへと倒れていくのが筋というもの。
 おいと声をあげる間もなく、視界には天井と、見下ろしてくる一つ目が映っていた。
 この状況は何なのだと、これまた再び頭が働き出そうとしたのだが。
 唇に触れている熱を認識した脳みそは、その瞬間動きを止めて固まってしまった。
 何だこれはと反射的に叫ぼうと開いた唇に、隙間を逃さず押し入ってきたぬるりとした異物の感触に、かっと体の内側が瞬間火を噴いた。
「?!」
 唐突に唇を離して、政宗はちろりと舌で己の唇を舐めた。
 舌がたどった唇には、鮮やかな朱。
 噛みついたそこから口の中へと溢れた朱を、元親は顔を横に向けて唾に混じらせ吐き出した。
 とたん、髪を掴まれ、無理矢理顔を向けさせられる。
 眉間に力を込めた瞬間、左の頬を殴られた。
 その痛みで、脳裏に火花がちった。
 だが、その衝撃で、元親は少しばかり冷静になれた。
 まあ、あくまで先ほどに比べて、ほんの少しばかりではあったが。
 一度目を伏せ、乾いた瞳を覆い隠してから、目を開ける。
 見下ろしてくるぬらりとした目を見返しながら、頭が床に押しつけられて反らせぬこの状態じゃ、頭突きもできやしねえと、元親は判断した。
 口惜しいことだ。
「奪われる覚悟もねえくせに、竜の宝を奪いにきたのか?それはちょいと、目出度すぎやしねえか?」
 体に体重をかけられ、脇腹がうずいた。
 今更かもしれないが、こちらがけが人であることを考慮する気はないらしい。
 こうがっちりと体の上に乗られていては、足蹴にすることもできそうにない。
 殴られたおかげで、頭から余計な血の気は引いたが、冷静に、元親は殴られたお返しをする手段を模索していた。
 泳ぐ視線が気に入らなかったのか、もう一度唇を押しつけられた。
 二度目のそれはすぐに離れていったが、血の味が口腔内に広がり、思わず非難する目で元親は政宗を睨んだ。
「負けたら奪われる。海賊のテメエがわからねえとは、言わねえよなあ?」
 元親は、唇を引き上げ、歯をむき出すようにして笑った。
「言われるまでもねえよ」
 そう言われれば、納得せざるを得ない。
 そう、海の上は自由だが、言い換えれば、その自由は力があるからこそ得られる自由さだった。
 感情はさておき、負けた自分から勝った政宗が何かを得ようという構図には納得がいった。
 だいたい、確かによく考えれば、それはもともと自分のやり方でもあったはずだ。
 まあ、何を奪うかはさておいて、だ。
「それで?テメエはおれから何を奪おうってんだ?いっとくが、国はやれねえぜ?おれは気ままに喧嘩をしに来ただけだからなあ」
「大将の身柄を押さえられてるってのにか?」
「そうさ。この航海はおれのわがままだからよ。おれが海に出ている間は、おれは国の頭首じゃねえ。ただの船頭なのさ。四国にいるやつらも、そう思ってる」
 もし海にでている間にこの身に何かあるようならば、という取り決めは、初めて海にでたときからしてあった。
 もちろん、家臣達は、頭首自らが海賊と称して海を征くことを快くは思ってはいない。
 しかし、陸の上でのそろばん勘定は、元親でなくても適任がいる。
 自在に海を渡り、新しい風を読むことは元親にしかできぬのだからと、家臣達は考えているのだ。
 そして、それが元親の、四国の頭首としての価値だと、認めてくれている。
 だからこそ、元親はこんな北の海までくることができたのだ。
 いざということがあれば、家臣達は自分の首を切るだろう。
 それは家臣達に対する元親の信頼であった。
「ほう?そりゃまた余裕だな」
「そりゃ余裕の一つもかますさ。ここでおれが大口叩いてテメエがこの首を落としたとしても、奥州は四国にや攻め入らねえ」
「そりゃおれたちが舐められてると思えばいいのか?」
「物理的な問題だろ?四国と奥州の間にゃ、やっかいな国がごろごろしてる。一足飛びにするにやあ水軍がいるが、この辺じゃ船戦なんてしないだろ?」
 政宗は面白そうに目を細めた。
「テメエんとこの城は残しておいてやる」
「城だけかよ?」
「城と、その中いるやつらも、残しといてやるよ。おれにつく気があるならな」
「……」
 元親は政宗の真意を探るためにその瞳を見返した。
「…それが奥州の属国という意味なら、答えは否だ。ただし、同盟だというなら、断る理由はねえな、こちらとしては」
「この状態で同盟とはよく言う」
 政宗の言うとおりだ。
 自分から仕掛けた喧嘩で負けて、且つ、体を拘束されている状態ではある。
「こういう状態でもどういう状態でも、言いたいことは言うぜえ、おれは。もともと回りくどい陰険な交渉ごとはできねえ質だ」
「だろうな」
 鼻で笑われたことには、多少かちんときたが、今の状況ではあまりにも些細なことに入る。
「対豊臣の同盟を組みたい」
 ずばりそう言えば、政宗は眉を上げた。
「織田じゃねえのか?」
「織田を睨むのは豊臣が勝手にやってくれてっからな。それほど気を遣うほどでもねえ。四国としての問題は、そのあとなのさ」
 もともと、海にでた当初の目的は、豊臣の航路をつぶすことにあった。
 今回は向こうが手を引いたが、それは反対側に織田という一番の敵がいるからだ。
 今の西側の情勢としては、海に区切られているせいか、勢力が拮抗していると言える。
 東も今は情勢が落ち着いて、互いに互いを伺っている状況だ。
 目下のところ騒がしいのは中央だった。
 中央の織田と豊臣がぶつかった後、どう国が動いていくかが問題だった。
 風を読むには、情報がいる。
 そう、今回の元親の航海の目的は、同盟国探しが狙いだった。
 甲斐の武田に、同盟の話をもちかけようかとも思った。
 甲斐の忍びの情報網は魅力的だ。
 が、甲斐は実際は上杉とのにらみ合いで身動きが取りにくいのだ。
 そんなおり、独眼竜の名を耳にした。
 実際剣を合わせて、この男なら、手を組んでみたいと思ったのだ。
「同盟国としてなら、テメエについてやる」
 元親はわざと含みを持たせるようにゆっくりと言葉を紡いだ。
「…いいぜ?互いに西と東の情報を提供しようじゃねえか。こちらの港をあける。交易航路はテメエらに任せる。ただし」
 一度言葉を切って、政宗は顎を少し反らした。
「その際、兵糧の一部をこちらに回してもらうぜ」
 北のほうの作物の出来がここ最近いまいちなんでな、と政宗は続けた。
 同盟国としては扱うが、立場としては伊達が上だということだ。
 元親は頷いた。
 それぐらいのことは許容範囲だった。
 一番重要なのは、四国を四国という国のまま守ることだ。
「承知した」
「OK. 同盟成立だ」
 元親はかすかに息を吐いた。
 まあ、色々と言いたいことはあるが、一番の目的である同盟国探しはこれで達成されたことになる。
「それと、テメエにやここにいてもらうぜ」
「……は?」
 元親はぽかんと口を開けた。
「それが呑めねえならこの話はナシだ」
 どうしてこの身の置き場で同盟の話が左右されることになるのか、元親には理解できなかった。
 政宗は戒めた元親の手首を撫でる。
「言ったろ?鬼をもらうことにしたってよ。おれはテメエが欲しいのさ」
 元親は瞬いた。
 ああ、と唐突に、政宗の言いたい答えにたどり着く。
 先ほどの勝手な口づけの味が蘇った。
「よくよくテメエから部下どもに言い聞かすんだな」
 目に冷たい光を宿しながら、政宗は唇を引き上げてそうささやく。
 部下達の処遇はこちらの返答次第だと言われては、首を横に振れるわけもない。
 ああ、この男は自分に似てるだなんて、ちょいと見当違いをしていたかと、自分の甘さに頭が痛くなる。
 何を己に求められているのか理解して、人質のほうが幾分ましな境遇なんだろうなあとしみじみと思った。
 人質か、はてさて体のいい玩具か、これから自分にかせられるのはどちらなのかねえ、と元親は内心で息を吐く。
 元親は己の体つきを見下ろして、思わず呆れた顔をした。
 肌の色は確かに白いが、固い筋肉ばかりの体だ。
 柔らかくもなく、ましてやいい匂いもしないだろうに。
 こんな潮風にまみれた鬼の体を喰らおうなんぞ。
「お前、趣味悪いのな」
 声もなく、政宗は笑った。
「いいぜ。ここにいてやらあ。そんかし、きっちり飯は喰わせろよ。いっとくが、おれは量は喰うからな?」
「All right.」
「意味わかんねえし」
「分かったって言ったんだよ」
「そうかい」
 元親は手首を軽く上げて見せた。
「これ外せよ」
 しかし、戒めは解かれることはなく。
 元親は内心でため息を吐いた。
 顎に手を添えられたのを機に、目を伏せる。
 そっと重ねられた三度目の口づけは、どこか優しかったので、元親も噛みつくことはしなかった。
 口づけの合間につぶやいた。
「テメエとは、いいダチになれると思ったんだけどな」
 どうやらそう思ったのはこちらだけであったらしい。

 




 元親は縁側にだらりと寝そべり、午後の日差しをのんびりと楽しんでいた。
 おそらく、この城の中で、これほどまでにのんきな時間を許されているのは自分だけだろうが、許されているからには遠慮なくぐうたらさせてもらおうと元親は開き直っている。
 大きなあくびを一つ。
「いい天気だねえ」
 四国じゃそろそろ田植えやらの下準備を始めるころかなあとつらつらと考えた。
 鳥のさえずる声が耳に心地よい。
 元親の身を心配する部下達に、大丈夫だからと、信親にあてた文を持たせて送り出してから、もう一月が過ぎた。
 さて、これから自分の身はどう処されるのかと思っていたが、ふたを開けてみれば、意外とあっさりとこの一月は過ぎていったように思う。
 ただ、まあ、夜に男が忍んでくることを横に置いたらという話だったが。
 こんな体を抱こうなんぞ、悪食にもほどがあると、元親は真剣に呆れているのだが、政宗は毎晩元親のもとへとやってきた。
 性急に体を求められたかと思えば、肌に触れあうこともなく、ただ酒を飲むだけのこともあった。
 出される酒は文句なく旨く、元親は酒をついでくれる政宗に遠慮することもなく杯をあけた。
 ただ、毎晩時間を共に過ごすくせに、共に朝を迎えたことは一度もなかった。
 元親が気がついたときには、隣の褥はいつも冷え切っているのだ。
 当たり前だが、寂しいなんて思ったことはない。
 ただ、まあこんなもんかねえと、諦めにも似た感想を抱いている。
 この生活は一体何なのか、と考えれば、おそらく囲われているという言葉が一番当てはまる気がした。
 何せ元親が寝そべっているこの縁側。
 周りに人の気配はなく、聞こえるのは鳥のさえずりと、木々のざわめき。
 城の離れを丸々与えられているのだ。
 そして夜も、こちらから政宗の寝室にいくのではなく、向こうから忍んでくる。
 囲われているというしかない。
 女みたいな扱いだと怒りや屈辱を覚えることもなかった。
 組み敷かれて、三度目の口づけを受け入れた時に、元親はすっぱりと己の現実を受け入れたのだ。
 意識の切り替えは我ながら早いほうだと思っている。
 たぶん、それは己の気質のようなもので。
 まあ仕方ないかと思ってしまったときに腹は決まったのだ。
 男を抱いたことも、ましてや抱かれたことも元親にはなく、さすがに初めて体をつなげた時は、本能的な恐怖と嫌悪感が体の中を満たしてどうしようもなかったが、己は負けたのだからと上げそうになる苛立ち紛れの声を飲み込んだ。
 だがまあ、思っていたほど悪い生活でもないと、他の者が聞いたなら、前向きに考えるにもほどがあると呆れるようなことを、元親は思っていたりする。
 ていのいい玩具のように扱われるかと思っていたが、そんなことはなかった。
 初めこそ頬を殴られたりしたが、腹をくくって大人しくしていれば、乱暴にされることもなかった。
 むしろ、政宗は丁寧に自分を抱く。
 それこそまるで、女に触れるかのように丁寧に、男の手はこの体の上を滑っていく。
 元親の中に入っても、衝動のまま動くことはなく、こちらの息が整うまで待っていたりする。
 こちらを嬲ろうとか、そう思っているわけではないのだろう。
 ただ、毎回手を戒められることだけは辟易していた。
 今更逃げやしないというのに。
 逃げるなら初めから、同盟の話を蹴ってとっとと国へ逃げ帰っているというのに、政宗にはその理屈が分からないのだろうか。
 おかげさまで、ここ一月、布と皮膚とがこすれた痕が肌から消えることはなかった。
 元親は目を閉じた。
 余計な雑務もなく、はっきりいってしまえば、暇な日々であったが、嫌いではない。
 元親は、ゆったりと時間を楽しむことも好きなのだ。
 思い出すのはまだ幼かったころの自分。
 姫若子と呼ばれていたときは、自分は外にでることもなく、部屋で一日を過ごしていた。
 温かくなってきた風を頬に受けて、ぼんやりと時を過ごす楽しみも、元親は知っている。
 庭へ降りて植えてある花を見たり、ゆっくりと散歩をすることもできるし、城の中もほとんどは好きに歩いていいとさえ言われている。
 だがまあ、近臣達がいい顔をしないのは分かっていたし、それをおしのけてまで城を歩き回りたいかと言われると、そんな気力も興味もなかった。
 なので、元親は大人しく、離れでまるで隠居のような生活を送っている。
昼間が暇だと言えば、政宗は書物を届けさせてくれた。
 兵法書に混じって、南蛮渡来の書物まであり、感心したものだ。
 昼間、政宗がこの離れへ来ることはない。
 あの男が来るのはいつも、日が暮れてからだ。
「一体何がしたいのかねえ」
 初めて相対したときの姿を思い出す。
 目を閃かせて、唇を引き上げて、笑うその姿。
 とぎすまされた刃物のような。
 太陽の光をぎらりと反射して目を灼いてしまいそうなほどの強烈な光をみたと思った。
 太陽の下、あの男の姿を見たのはそれが最初で最後。
 ろうそくの火が照らす横顔は、少し影が濃かった。
 考える時間はいくらでもあった。
 考え込むのは好きではないが、つらつらと思考するのは嫌いではない。
 ある意味暇つぶしのようなものでもあった。
 体を求められれば、紡ぐ言の葉は意味をなさない物になるが、ただ酒を酌み交わすときは、横に並んでいろいろと言葉を交わしたりもする。
 政宗は、初めは驚いたように、少しばかり目を見開いて元親を見た。
 その反応にとまどったのは元親も同じで、おれの顔に何かついてるか、と問い返したものだ。
 政宗はすぐに、いや、と言葉を濁して、酒を口に含んだ。
 気にせず口を動かしていれば、政宗もいろいろと言葉を返してくれた。
 一度話し始めてみれば、話題はいくらでもあるのだ。
 この奥州のこと、四国のこと。
 いくらでもある。
 特に船の話は政宗の興味を引いたようだ。
 夜にみる星を抱く海の光景を唇に乗せれば、いつか見てみたいものだなと政宗は頬をゆるめて笑った。
 その柔らかい笑顔は元親に、そういえば、この男は己よりも年下なのだということを思い起こさせた。
 年下といっても、戦にでた年は、この自分よりも早いのだろうと元親は思っていたから、さして重要なことでもない。
「悪いヤツじゃあ、ねえんだろうなあ」
 唇からこぼれた声は温かい日差しにふさわしく柔らかで。
 無理矢理奪ったくせに、まるで儀式のように手を拘束するくせに、あの男は人の体をひどくいたわりながら抱く。
 酒とともに交わす会話も不快ではなく、いっそ馴染んでいるとさえ感じる。
 初めて相対したときに、自分と似ていると感じた。
 その最初の勘は、たぶんそれほど的はずれなものではないのだと、元親は思った。
 だからこそ分からなかった。
 政宗が、己に何を求めているのか。
 表向き結ばれた同盟の他に、一方的に結ばれた関係に、あの男は何を見いだしているのか。
 元親には未だに分からない。
 分からないことが、少しばかりもどかしいかなと。
 いつの間にか、そう思うようになっている自分がいることを、元親は知っていた。
 まあ、政宗のほうは、分からなくてもいいと思っているかもしれないが。








 太陽が出ている間、政宗は離れに足を向けない。
 それは最低限のけじめをつけるためであった。
 四国の鬼を捕らえることについて、反論する者はいなかった。
 同盟についても、文句を言う者はいなかった。
 けれど、その捕らえた鬼を、まさしくこの城で捕らえ続けることに関しては、皆、よい顔をしなかった。
 右腕の小十郎などははっきりと、それは意味あることではないと諫めてきた。
 幼い頃からそばにいるこの男には、政宗の本音などお見通しなのだろう。
 四国との同盟で、奥州の方が上だと思わせるため、と家臣達の前では公言したが、そんなものは後付の意味でしかない。
 あの男自体を、城で捕らえておくことそのものに、この自分は最大の意味を見いだしているということに、小十郎はおそらく気づいている。
 そんなことは承知で認めさせた。
 我ながら、当主としての判断よりも、己個人の我を優先させたという自覚はある。
 だから、けじめのつもりで、昼は離れには行かぬ。
 けれど、それは単なる言い訳で、本当は怖いだけなんじゃないかと内側でひっそりと囁く声も、政宗は自覚していた。
 後ろめたいことをしているという自覚があるからか。
 太陽の下で輝く元親を目にすることを避けているかのよう。
 目を眇めずにはいられないだろう。
 そして、太陽のまぶしいばかりの光は、政宗に見せたくもないものを容赦なく暴いて突きつける。
 ろうそくの明かりが照らす柔らかな視界の中で、己を写す元親の瞳を見た。
 この自分を映しているということに、心臓が音を立てて鼓動を刻んでいた。
 戦以外で、久しぶりに体の芯が熱を帯びていた。
 そして、元親の瞳から、すうっと色が引いていくのが見えた。
 そのとき自分が抱いた気持ちをどう言い表せばいいか、政宗は知らぬ。
 まるで胸に刃物をさし込まれたかのように。
 どきりと心臓が一度跳ね上がり、ついでうるさいほどに聞こえていた己の鼓動の音が聞こえなくなった。
 熱を帯びていた体の内側が凍り付く。
 呼吸すらも不規則になり、喉の奥で喘いだ。
「テメエとは、いいダチになれると思ったんだけどな」
 抵抗も侮蔑の色も欠片もないその声音は、何よりも政宗の血を内側から冷えさせた。
 ガラス玉のような冷めた瞳には、何の熱もこもってはおらず。
 まるで、政宗のことなどどうでもいいと、そう言っている気がした。
 何か大切なものを、大きく違えてしまったと、このとき初めて気がついた。
 けれど、何を間違えてしまったのか、政宗には分からなかったのだ。
 己と似ている、けれど、己よりもまぶしいその存在に目を奪われて。
 ただ、欲しい、と。
 欲しいという強烈な感情が走って。
 どうにか、己の元へとつなぎ止めておきたいと。
 それだけしか考えられなかった。
 いいダチになれると思ったのに、と元親は言った。
 その言葉は政宗の中に歓喜と、これ以上はない痛みをもたらした。
 この出会いに、この自分に、そう感じてくれたことに喜びを。
 そして、その喜びを、自分の手でたたき壊してしまったことに対する痛みを。
 けれど、どうしていいか分からないまま。
 元親の体を、抱いた。
 政宗は知らないのだ。
 今まで欲しいと、心の底から思ったものは手に入ったことがない。
 決して与えられることのないものを欲して、がむしゃらに手を伸ばすことしか政宗は知らぬ。
 力をつけて、奪えばよろしい。
 幼いころ誰かが言った。
 欲しい欲しいと嘆くだけでは何も手には入らないのだと。
 欲しいのならば、それほどまでに欲しいものがあるならば、力をつけて手を伸ばせ、と。
 無理矢理にでも何でも、心底欲しいと思ったならば、奪い取ってでも手を伸ばせと。
 だから、政宗はそうしたまでの話だ。
 元親は、さしたる抵抗もせず、政宗に抱かれた。
 その従順さが、逆に政宗をかすかに冷静にさせた。
 政宗が元親を手に入れた瞬間、元親の中ではきっと、自分はどうでもいい輩に成り下がったのだと、政宗は思った。
 瞳は鏡だ。
 内面を写す。
 物をみるような瞳で己を見る目など、誰がみたいものか。
 だから、太陽の下で、元親に会いたくないのだろう。
 抵抗はしないかわりに、元親はただ一言、手首の戒めを外せとそう言う。
 外せというなら、政宗が戒める際に抵抗すればいいのだ。
 日が暮れて元親の元へ訪れて必ず自分がすることは、その両手を戒めることだった。
 縛られなければ、外せという意味もなくなるだろうに、元親は大人しく政宗の好きにさせているのだ。
 嫌なら抵抗してみせろよと口の端で笑えば、元親は小さく息を吐いて肩をすくめただけだった。
 その反応に、喉の奥で笑いながら、目の奥が鈍く痛んだ。
 自分に都合がいいはずなのに、違うとどこかで声を上げている。
 本当に欲しい物は、もっと別の物で。
 でも、それが何なのか、政宗には分からない。
 どうしようもない。
 けれど、元親を求める声は止むことはなく。
 結局毎晩のようにその体に手を伸ばすのだ。
 男の両手を戒めながら。
 伸ばした手を、振り払われないように。
 






 準備期間は終わりだ。
 待っていたって、たぶん何も分からない。
 何せあの男は自分からは何も言わないし、明かりの限られた夜にしか訪ねても来ないからだ。
 なら自分から動けばいい、それだけのこと。
 まあ言ってしまえば、じっと待っているのに飽きたのだ。
 お目出度いとでも楽天的でも何でも、これが己なのだから仕方ない。
 それは何度目かの酒の席でのことであった。
 隣で酒を飲んでいる政宗の顔を横目でちらりと見ながら、元親は、さてと唇を少し湿らせた。
 空になったその杯に、無造作に酒を注いでやりながら。
「なあ、お前、昼間は忙しいのか?」
 政宗は大人しく元親の酌を受けながら視線をこちらに向けた。
「何故だ?」
「いや、昼間は全然こっちに顔出さねえからよお」
「……」
 元親は己の杯を煽った。
 政宗の薄く開かれていた唇は、その間に静かに結ばれていた。
 その柔らかさの消えた表情に、少しばかり、躊躇したが、今更怖じ気づいても仕方ない。
 元親は空になった杯の縁を親指でたどった。
 顔を、政宗の方へと向ければ、こちらを見ている政宗と真正面から向かいあう形になる。
「せっかく奥州にいるんだし、色々見て回りてえなと思うんだけどよ、お前、案内してくれねえか?」
 そう頼めば、政宗は何も言わずにじっと元親を見つめ返した。
 その黒い瞳に言葉もなくただ当てられ、元親は、
 あ~早まったかなあとらしくもなく後悔の念を抱いた。
 出過ぎたことを言うなと顔をしかめられるかもしれない。
 別に政宗の機嫌を損ねたいわけでもなかったので、元親は決まり悪げに頬をかいた。
「お前に案内頼むのはまずいかな、やっぱり?」
「……」
「んな顔すんなよ。忙しいんなら別にいいからよ」
 続けて言えば、政宗は一度瞬きした。
 その途端に、その表情はどこか間の抜けたようなあけすけなものになって、元親は少し驚いた。
「いや、そうじゃねえ」
目が丸くなっているとはこういうことを言うのか、と元親はこのとき何故か納得した。
「んじゃ何だよ」
「おれでいいのか」
「あ?」
 返された疑問に、意味が分からず思わず素で聞き返した。
 何が言いたいのだろうかと眉を寄せた元親をみて、政宗はもう一度言った。今度はもうちょっとばかり言葉を付け足して。
「案内は、おれでいいのか?」
 今度は元親が瞬きをする番だった。
 何にひっかかりを覚えているんだこいつは。
 城に留め置いているのはお前自身だろうに。
 第一、この城の中で元親と交流のある人間など限られているのだ。
 言葉も交わしたこともない部下に案内されたところで別段面白くもないし。
 元親の薄い反応にじれたように、政宗は視線を下に落とした。
 つられるようにして元親も視線を下に向ければ、空になった杯に政宗は酒を注いでくれた。
 床に置かれる銚子を目でそのまま追いかけて、そして目線を上げた。
 同じような瞬間で上げられた政宗の視線と、そこでかち合った。
 瞬いた。
 こいつ、もしかして遠慮でもしてやがるのか。
 ふと、そんなことに思い至ったとき、元親は軽く体から力を抜いた。
杯を軽く掲げることで注いでくれた礼にした。
「お前でいいんだよ」
「……」
「おれ、何か変なこと言ってっか?」
「…いや」
「だったら返事はどうなんだよ?」
「Han?」
「案内してくれんのか、してくれねえのか、どっちなんだ?」
 そのときの表情の変化は誠に顕著だった。
 思わず、呆けた目で見つめてしまうほどに。
 向かい合ったその唇から力が抜け、ふと柔らかい弧を描く。
 一度伏せられた瞼の下から現れた瞳が、まっすぐにこちらを映していた。
 微かに、あ、笑んだ、と。
 そう脳が認識したとき、元親もまた無意識に頬をゆるめていた。
 言葉にしてしまえば、少し笑った、たったそれだけの変化で、こちらの心は劇的な変化を遂げている。
 言わなきゃよかった、なんて思ったことなんて簡単に撤回して。
 笑った顔は、自分と同じじゃないかと。
 そのことに、少し胸が温かくなる。
 それだけのことで、ちょっと嬉しくなる。
 やっぱり、悪いヤツじゃないと思うのだ。
 だから、こちらから近づいてみようかと。
 一月過ごして分かったことがある。
 それは、元親から動かなければ、何も変わらないのだろうなということ。
 この男は夜にしか元親の元を訪れない。
 それ以外の男の記憶は、出会ったあの一時のものだけだ。
 切り捨てることなんていつでも出来る。
 まずは情報が大事だろう?
 戦に勝つのも、人とつきあうことも。
 この男がどんな男なのか、もっと知りたいと思うのはそれほどおかしな流れではないはずだ。
 どうせこの城に腰を据えざるをえない状況でもあるのだから。
 元親のこの考えを聞く者がいれば、やはりお人好しすぎると言うかもしれない。
 自分でも少しそう思う。
 そこまでしてやる男なのかどうか、確固とした自信はない。
 けれど、元親は己の直感を信じる人間だった。
 一番初めに思ってしまったのだ。
 あの鮮やかな、まぶしくきらめく瞳の黒の印象がすり込まれてしまった。
 未練がましくても何でも、この男について自分はまだ諦めきれないことがある。
 だって、なあ?

 いいダチになれると思ったんだ。

「ついでによ、何か旨いもんも食わせてくれると嬉しいんだけどよ」
「むしろそれが目的なんじゃねえのか?」
「ばれたか?」
 悪びれなくあっさりと認めると、政宗は少し吹き出した。
 喉で笑いながら杯を持ち上げる。
「OK. じゃあお忍びで出かけるか」
 お忍びという言い方が気に入って、元親は機嫌良く頷いた。
 そのままちびりちびりと酒を飲んだ。
 酒は旨く、気分は上々。
 かたりと固い音がした。
 元親は顔をゆっくりと音のしたほうへと向けた。
 政宗が杯を床に置いた音だった。
 それにならうように、元親も残っていた酒をあおって、杯を置いた。
 軽い音がした。
 そのまま顔を合わせて、ああ、来るなと元親は思った。
 己とは違う手が、元親の腕を軽く引く。
 もう片方の手は、慣れた手つきで腰の帯をつかみ、しゅるりと引き抜いていく。
 引き抜かれた紺色の帯が、己の手首に巻きついていく。
 元親は文句も言わずに、無言で両手を戒めていく男を見ていた。
 うつむいているため髪が目のあたりを隠していて、この男がどんな顔をしながら手を縛っているのか元親には分からない。
 結び終えたのか、政宗が顔を上げた。
 色のない表情がそこにある。
 けれど、冷たいわけではない。
「なあ」
 声をかければ、その瞳が向けられる。
 戒められた両手を微かに上げて見せた。
 目をあわせながら、言ってみた。
「これ、外せよ」
「……」
 毎晩口にしてきた言葉だった。
 そして毎晩かえりみられなかった言葉だった。
 合わせられた政宗の瞳がかすかに揺れた。
 元親にはそれが分かった。
「結構痛いんだよな。別に逃げねえからよ」
 湖面のような瞳の表面がさざめいた。
 目線が、かすかに下へ向く。
 元親は気にせず黒い瞳をのぞき込んだ。
 のぞき込めば、色んな声がそこには映る。
 不躾かとちらりと思ったが、この状況で多少の不躾さを気にして何になる、と開き直った。
 まるで何かに脅えているみてえだなと元親は思った。
 己のその考えに、内心で首をひねる。
 何が怖いというのだろう?
 ここには別に、政宗を脅かすものはないはずだ。
 それにどちらかといえば、脅えるのならば、がっちり拘束されてる自分の方ではないのか?
 元親が内心で困惑していると、政宗は一度目を伏せた。
 布がこすれる音がした。
 戒めがほどかれる。
 帯がぱたりと床に落ちていく。
 元親は目をぱちくりとさせ、次いで己の手首を見た。
 支えていた政宗の手が静かに肌から離れていった。
 元親は顔を上げた。
 息をついて、小さく笑った。
「あんがとよ」
 そう言えば。
 政宗は何故か眉を寄せた。
 何か言おうと開かれた唇から言葉がこぼれるのを、元親は待った。
 けれど、言葉は紡がれることなく。
 そのまま顔を寄せられ、元親の唇から音をすいとっていった。
 あとはそのままなし崩しだ。
 体を倒され、着物を肌けられ。
 元親は抵抗らしい抵抗をしない。
 このことについては、初めの頃に諦めていたことだったが、今日はこちらも乗り気だった。
 もともと、元親には己の身体に対してはそれほど執着がないのだ。
 快楽を共有する手段と割り切ってしまえば、抱く抱かれるなどまあ、どちらでもいいかと今では思っている。確かに、抱かれる方が負担は大きいのだろうが。
 重なる肌。
 その背中に腕を回して体を合わせれば、その肌が震えるのが分かった。
 初めて触れた背中は、思っていたよりも固い筋肉で覆われていて、驚きとともにさすがだなあと感心もした。
 やっぱりしがみつけるものがあると楽だ。
 手の指を滑らせれば、肌が汗ばんでいるのが分かる。
 ああ、熱いなあと溶けた脳で考える。
 それはこの男の肌の下に、血が通っている証拠。
 燃えるような血が流れている証。
 当たり前のことだ。
 そんな当たり前のことに、まるで綺麗な貴石を見つけたかのように。
 馬鹿みたいに喜んでいる自分が、少し笑えた。





 その日の自分の行動は、我ながらどうかしていると思う。
 元親と「お忍び」で城下へでるため、やらなければならない仕事を、政宗は午前中の間に全て仕上げたのである。
 いつにもまして仕事に没頭する姿に、小十郎などは、その強面な眉間にさらに皺を刻んで、何かありましたかと尋ねたほどだ。
 そんな部下の反応に、少しばかり恥ずかしさを覚えた政宗だった。
 どこのガキの反応だと、自分で思ったのだ。
 そう、まるでガキの反応そのまんまだ。
 一緒に出かけようと誘われて、浮かれるなんて。
 昼からちと出かけてくると、そう言えば、小十郎はしばし黙った後、鬼殿とですか、とそう返した。
 その含むような返答に、政宗は横目で小十郎を見、ああと一言頷いた。
 目で、余計なことは言うなと釘を刺せば、竜の右目は何も言わずに目を伏せるだけで了解した。
 元親がこの城にとどまるようになって、優に一月が過ぎた。
 小十郎の言いたいことは分かる。
 そろそろこの辺りで酔狂はおいておけ、と言いたいのだろう。
 無理矢理引き留められている身だというのに、元親は文句一つ言わずに離れで生活している。
 いや、それどころか、自分に対して、元親は笑いかけてさえくれるのだ。
 酒を交わせば、奥州の酒を旨いと褒め、ひどく機嫌良く海のことを語る。
 酔狂というなら、元親のほうがよほどに酔狂だと政宗は思う。
 その酔狂を強いている己のことは棚に上げていた。
 政宗を出し抜こうとしているのだとか、部下の中には言う者もいたが、それはないと断言できた。
 あの男は、そこまで深く考えちゃいない。
 あの男はきっと、ただひどくおおらかなだけなのだ。
 毎夜、体を求める己に、大人しく抱かれてくれるほどに。
 昨夜背中に回された腕の感触が、肌にとどまっている。
 毎夜、何かに脅されているかのように手を戒めた。
 その手で、振り払われないように。
 元親は逃げないと言った。
 目をのぞき込まれた政宗は、元親の言葉に従うしかなかった。
 合わさった瞳には、政宗に対する侮蔑も怒りも映っていなかった。
 そんな目を見てなお、戒め続けることはできなかった。
 それは、己が脅えていることを認めることになる。
 ただ、戒めを外したとき、無性に心細くなったのは確かだった。
 けれど、元親は小さく笑ったのだ。
 ありがとよ、とそう言って、政宗を見て笑った。
 何故そこで笑うことができるのか、政宗には理解できなかった。
 何故そこで、ありがとうなんて口に出来るのだ?
 礼を言われることなど何一つしてはいない。
 罵倒されこそすれ、感謝されることなど何一つ。
 責められなかったことに安堵しているくせに、その一言に、訳もない苛立ちを感じた。
 薄く開いた唇からは、真っ当な言葉が出てくるはずもなく、結局逃げるように己の唇を元親の唇でふさいだ。
 離れに行けば、元親はすでに用意を調えて政宗を待っていた。
 それから連れだって、城下へと下りた。
 馬を使わず徒歩なのは、どこかでまだ元親のことを疑っているからだ。
 馬に乗せれば、そのまま駆け去っていくかもしれないと。
 その可能性は政宗を常に脅かし、そして常に熱い情をかき立てる。
 そう、政宗には元親の考えが理解出来ず、故に元親を信じることが出来ないのだ。
 ひとしきり城下を案内したあと、一件の茶屋に腰を下ろした。
 旨いものを、という元親の所望に応えてだ。
 団子を頬張りながら、元親は旨い!と一言感想を述べた。
「そりゃよかった」
 茶をすすってそう返しながら、政宗自身は団子を食べずに、隣で団子を食べる元親を横目で見ていた。
 元親は非常に気持ちのいい喰い方をする。
 大口で口の中に放り込んだ後、よく租借してごくりと飲み込む。
 喉が上下に動くのを何とはなしに眺めながら、そんなことを考えていたら。
「なあ、おれは人質なのか?」
 視線は団子に向けたまま、元親にそう問われて、一瞬政宗は湯飲みを持つ手を固まらせた。
 問う声はあっさりとしていて、それが逆に言葉自身の持つ重みを際だたせて、政宗は内心でぎくりとしたのだ。
「いや、そんなつもりはねえ」 
 そう返しながらも内心では、人質だと元親が思うのも当然かもしれないと思った。
 押しつけている境遇はそう変わりない。
 元親は団子の串を皿の上に無造作に置いた。
 顔がこちらに向けられる。
「ならよお、四国からの航路がどうなってんのかとか、聞いても問題ねえよな?」
「ああ」
 同盟を結ぶという言葉に嘘はないし、実際四国からは文も来ている。
「おれから、国へ文をだしても、別にいいよな?」
「ああ」
 頷けば、元親はにっと笑った。
 その飾り気のない笑みに、政宗はどうしてだか一瞬息を止めていた。
「随分ぐうたらしたから、そろそろ仕事すっかなあと思ってよ」
こっちにいてもできることはあるからな、と元親は続けた。
「さすがにそろそろ文の一つでもやらねえと、アイツがぶちきれるころだしなあ」
「アイツ?」
「ウチのお目付役。怒らせると怖えんだ。すずりとそろばんが飛んでくるんだぜ?」
「そりゃおっかねえな」
 おっかねえんだよと、元親は至極真面目な顔で頷いて、茶をすすった。
「昼間、お前のとこに顔だしても、いいか?」
 そして続けられた声は、少しばかり静かだった。
 政宗は、己の手の中にある湯飲み目を落とした。
 薄緑色をした茶が、陶器の底に少し残っていた。
 元親が何を思ってその言葉を唇にのせたのか、政宗には分からなかった。
 ただ、その静かな声は耳に残り、噛むように紡がれた言葉の重さが政宗をとまどわせた。
 まるで、こちらを探るかのように慎重な。
 そう、こちらに一歩近づいていてもよいかと、そう問うているかのようで。
 政宗は茶を一口、口に含んで喉を湿らせた。
「別に、かまわねえぜ」
 顔を見ながら返すことは出来なかったけれど、ゆっくりと、そう答えを返した。
 横目で隣を伺えば、元親は機嫌良く頷いていた。
 その姿に、無意識にほうと息をついた。
「うし!じゃあ帰ったら早速文書くか」
 元親は残った茶を一気に飲み干している。
 そういえば、国に帰せとは言わないなと、政宗は思った。
 まあ、帰せと言われたところで、頷くはずもないのだが。
 口元が苦く歪んだ。
 湯飲みを持つ手に力が入り、底に溜まった緑が濁る。
 だからこそ、元親は言わないのかもしれない。
 政宗の身勝手さに、言うだけ無駄だと呆れているのかもしれぬ。
 でもそれなら、何故こんなにも好意的なのだ?
 何故、共に出かけようなどと言うのか。
 何故、近づこうとするのか。
 己の考えにとらわれた政宗は、元親が席を立ったことにも気づかなかった。
「おい」
 呼びかけられて、ようやく焦点があった。
 政宗は顔を上げた。
 先に立った姿が、振り返って政宗を見ている。
「そろそろ戻ろうぜ」
「あ、ああ」
 斜めに傾いた日の光が、横から元親を照らしていた。
 その白い肌が、少し黄金色に染まっているように見えて、政宗は腰も上げずに元親の姿を見上げていた。
 元親は僅かに首を傾げた。
「どうかしたか、政宗?」
 その声に。
 呼ばれたのが己の名であるということに気づくのに、少しの時がかかった。
 政宗はゆっくりと瞬いた。
 その呆けた様に、元親は頬をゆるめて、僅かに笑んだ。
「ほら、行こうぜ」
 その声につられるように腰を上げた。
 体の奥にある何かが、さわさわと揺れていた。
 何故だか、喉の奥が熱くなった。
 脳が甘く痺れる。
 まるで涙がこぼれる落ちるその瞬間のように。
「…ああ」
 唇を開けば、掠れた声がこぼれた。
 己ですら掴みがたい切なさをまとった甘やかさが、体の中をじわりと満たしていく。


 この気持ちは何だ?