+跫音+

 その格好はまるで遊山にでも来たかのような軽装だった。
 実際政宗の今の気分は、遊山そのものだったのだから、別段、問題はない。
 元親の格好も、政宗と大して代わりはなかった。
 互いの他には、誰か供がいるわけでもない。
 そう、政宗と元親の二人での気ままな旅だった。
 つまり、奥州の城を、二人で密かに抜け出してきたのである。
「今頃、城は大騒ぎなんだろうなあ」
「人ごとみたいに言うんじゃねえよ。テメエだって同罪だぜ」
 そうきっちりと釘をさしてから、政宗もにやりと唇を引き上げて見せた。
「まあ、安心しろよ。最高の書き置きを残してきてやった」

***

 そのころ、主と主の客の姿が消え失せた奥州の城では、独眼竜の右目とも評される男が、皺を刻んだ眉間を手のひらで覆って、大きなため息を一つ吐いていた。
 その手にある主自らの書き置き。

『二人で駆け落ちします。探さないでください』

 小十郎は特大のため息のなかに、主に対しての小言やら何やらを全てつめこんで、その巫山戯た書き置きを懐にしまった。
 戯れも大概にして欲しいと思いながらも、まあ駆け落ちの相手も、駆け落ち先も検討がついていたので、よしとしようと無理矢理納得する。
 あの客人が来ているのだから、まあ元々、何かしらしでかすとは思っていた右目殿であった。

***

 城に残してきた書き置きを、神妙な口調で話してやれば、元親は声を上げて大笑いした。
 腹に手を置いて、ひいひいと身をよじらせて笑っている。
「そ、そりゃさすがに、右目の兄さんひっくり返ってんじゃねえの?」
「ひっくり返っててくれりゃあ、戻ったとき小言がなくて助かるがな」
「小言が嫌なら、ちゃんと話つけてくりゃいいくせによお」
「Han,一々許可とってちゃ駆け落ちする意味がねえだろうが」
 元親と連れだって、小十郎には何も告げずに城を抜け出すという企みは、閃いたその瞬間から、大層政宗自身が気に入っていたものだった。
 善は急げといわんばかりに、仕事を片付けたのが昨日のこと。
元親に話を持ちかければ、この男は面白そうに目をきらめかせて、こちらを留めるような言葉は一切唇にのせず、じゃあおれは旅装束を仕入れてくると喜々として町へ出て行った。
ひっそりと進められた企みとともに、閃いた書状の文面についても、政宗は大層満足していた。
最高の戯れで悪巫山戯だ。
 いつのまにやら、隣から笑い声は消えていた。
 代わりに、妙にゆったりとした声が言葉を引き継ぐ。
「でもどうせ戻るんだ」
 政宗は首を横に向けて、隣の男に視線を向けた。
 元親は唇で微かに笑んでいる。
 笑んで、政宗を見返した。
 何かを含むように、その瞳は不思議な色を映してきらめいているように見えた。
 質の悪い目をしてやがると政宗は思った。
「だったらやっぱり、駆け落ちって言わねえんじゃねえの?」
 政宗は僅かに眉を上げてみせた。
 元親は政宗の反応を伺うようにしてその唇を閉じた。
 視線が絡み合う。
 無意識に、政宗の唇は静かな弧を描いた。
「何だ、攫っていってくれるのかい?」
 歌うように声が返る。
「お前が攫って欲しいっていうのなら」
「もちろんアンタの船でだよな?」
「船に乗ってどこへなりとも、ってか」
「アンタの船に乗るのは気分がいい」
「そりゃ嬉しいことを言ってくれるねえ」
「世界の果てまでアンタと二人で、かい?」
 流し目を寄越せば、元親はあっさりと肩を竦めてみせる。
「駆け落ちってのは、そういうもんだろう?」
 間近にある瞳は柔らかい不思議な色を映している。
 深いビードロのような紫苑だ。
 どうにもがさつなだけの男だが、時折、綺麗だと思う瞬間がある。
 今も丁度その瞬間なようだ。
 政宗は苦笑した。
 確かに。
「駆け落ちってのは、そういうもんだな」

***
 
 遊山気分の旅の終着点は小田原。
 そこにそびえる巨大な門。
 小田原城を難攻不落と言わしめる強固なそれを見上げて、元親は唇をぽかんと開けた。
そして感心したようにへえと声をもらした。
「間近でみるとすっげえな」
 元親には旅の行き先を告げてはいなかった。
 ただ単に、ちょいと遠出したいから付き合えと言っただけだ。
 それだけで、深く問い返しもせずに、この男は分かったとあっさりうなずき、むしろ楽しげに城を抜け出す手配を手伝っていたのだ。
「馬鹿みたいに感心してんじゃねえよ。これが小田原城難攻不落の要因だ」
 元親はこくりと一度頷いて、首をそらして門を見上げた。
「まあ、こりゃ確かに、馬じゃどうにもならねえよなあ」
「やっぱ爆破するのが一番手っ取り早そうだな」
 政宗のその言葉に、隣で元親が唇を閉じる気配がした。
「……」
 頬に視線を感じて、政宗は一度ふと笑い、隣へと顔を向けた。
 にやりと唇を引き上げて笑う。
「どんくらいの火薬がいる?」
「……」
 どこか呆れたような目が見返していた。
「お前、相変わらず無茶っつうか派手っつうか、問答無用だなあ」
「アンタにだけは言われたくないね」
「しかもそんな算段に、独眼竜自らが偵察とはねえ」
「のこのこついてきてる鬼さんに言えた台詞か?」
 確かに、政宗自身がわざわざ偵察にくる必要などないのだ。
 ちゃんと役を担っている者がいるのだし、普段であれば、政宗とてわざわざ出向こうなんぞとは思わない。
 だが。
「でもまあ確かに、こんな忍みたいな真似、テメエと一緒でなきゃする気もおきねえがな」
 元親は片眉を上げて、唇を尖らせた。
「どういう意味だ」
 大層心外だという風に、大まじめにそう聞き返すものだから。
「そういう意味さ」
 悪びれもなくあっさりと言い返せば、元親は微かにうつむいて、笑い混じりに低く唸った。
「にゃろう」
 普段なら、思いつきもしないことでも、隣にこの男がいるのであれば話しは別で。
 馬鹿の一つ覚えみたいに打ち合うことも。
 側近には何も告げずに戯れに城を抜け出すことも。
 間者のまねごとすらも。
 ひどく、楽しいものに思えてしまうのだから不思議だ。
 元親に言ったとおり、告げた言葉にはそれ以上もそれ以下もなかった。
 この男が奥州に訪ねてきた。
 元々、北条との戦を考えていたときのことだった。
 だから、偵察と称して、連れだって自分たちはここにいる、ただそれだけだ。
 この男とはひどく気が合う。
 政宗は時折ふとそう思う。
 顔をあわせる前までは、西海の鬼の異名をとるこの男のことは、頭の端に追いやられていて、己の中に存在しているかも疑わしい存在だ。
 自分はこの男のことを気に入っているのだとは思うが、それほど特別な思いでもないとも思う。
 けれど、顔を合わせれば。
 今度は逆に、意識の表層に浮かばないほどに、その存在に、空気に、馴染んでいる。
 そう、まるで長い間使い手に馴染んだ刀のように。
 その存在が傍らにあることは自然で、意識しないほどに居心地がいい。
 たぶん、元親もそう思っているだろうと、政宗は考えていた。
 それは根拠のない勝手な共感だったが、間違ってはいないだろう。
 ただ、あまりにも自然すぎて、唐突に、自分と元親の間に横たわっているものは何なのか、分からなくなる。
 分からぬことを強く自覚するときがある。
 物理的には空間が横たわっているし、空気やら風やらが間にあるだろう。
 他には?
 言葉にしがたい、それこそ精神的な壁のようなもの。
 隔たり。
 そういったものは?
 存在するのだろうか、それとも、存在しないのか。
 互いの境界線はどこにある?
 分からなくてもいいような気もするが、時折、互いの間に横たわるそれに、無性に名を付けて断じてみたくなるときもあった。
数日前に唇に触れたのは、己のものではない、ざらついた体温。
きっと口づけたとき、互いにそう思っていた。
 同盟者、友人、好敵手、共犯者。
 言葉は不自由だ。
 自分が元親に抱いている感情を全て言い表してくれる言葉などない。
 そのことを自覚したとき、政宗に残されていたのは言葉以外の手段でしかなかった。
 己の体の下に、己とは別のもう一つの体躯があった。
 その体躯は温かい。
 そのことを政宗は知っていたが、どこか新鮮な気持ちで実感したのだ。
 まっすぐ見返す瞳があった。
 瞬きもしない男の瞳の鮮やかさに気がついた。
 触れてみようと思ったのは本能で、気づけば、目を合わせたまま、唇を合わせていた。
 何とも色気の欠片もない行為だった。
 あれを口づけと呼ぶのか甚だ疑問だ。
 目を閉じることもせず、互いの眼球の底をながめながら、舌を絡めるわけでもなく、ただ唇を合わせていた。
 今まで女と交わした口づけを口づけとするのであれば、あれは口づけには入らない。
 しかし、その行為を、口づけ以外のなんと呼べばいいのかも、政宗には分からなかった。
 分からなかったし、今では、分からなくていいかとも思っている。
時折無性に、元親との間にある関係に名を付けて断じてみたいと思うくせに、わざわざ名を付けるなんて無粋な真似はしなくてもいいと。
そう思うこともまた多い。
さしずめ今は、別にそこまではっきりと区分してしまわなくてもいいではないかと思っていた。
そう、この男と、馬鹿みたいな理由で城を抜け出して、二人並んで馬鹿みたいに城の門を眺めている。
そんなことをしようと思う相手はこの男しかいないという事実。
たぶん、その事実がきっと一番大切なことで。
分からなくなったときにはまた、手を伸ばして己のものではない体温に触れてみればいいだけのことなのだ。













足音がする。
姿は見えぬ。
それは己のものなのか、それとも隣を行く誰かのものなのか。
重なる響きに耳を澄ます。
見えぬ誰かの存在を、感じ取ろうとするかのように。