+雷音+

 元親が奥州の城に来るたびに、決まってやることがある。
 それは試合だ。
 元親にとっては、政宗のところへ向かうのは、貿易やら同盟国としての付き合いやらのためというよりも、独眼竜と手合わせするのを楽しみにしているからというところが大きかった。
 政宗の仕事が一段落したところを見計らって、声をかければ、政宗はにやりと唇で笑って、OKと一言頷いた。
 耳慣れて久しいその異国語に、同じように頷き返して、庭に出た。
 空は暗い。
 昼頃までは、雲はあっても、青空や太陽が見えていたというのに。
 夕方前だということは、空気の静けさで分かる位だ。
 鈍色の分厚い雲が、頭上の青や太陽光をいつのまにやら覆い隠している。
 互いの獲物を担いで向かい合って。
「Ready…」
 政宗の目が光り、その唇が笑う。
 次に続く言葉を、元親は己の口の中で小さくこぼして。
 竜と鬼はぶつかった。
 この瞬間が、元親は一等気に入っていた。
 海の上で風を感じることよりも。
 新しいカラクリの図面を見るときよりもだ。
 そう、一等好きだ。
 どこか反射にも似た動きで、刃を流す。
脳で理解してからでは遅すぎる。
 取り巻く空気の摩擦。
 間延びする時間。
 いつだって、元親は全力だった。
 それはきっと、刃を合わせているこの男も同じだろう。
 首を獲りたいのではない。
 ただ、楽しいだけだ。
 二人とも真剣でぶつかり合っているのだ。
 ちょっとした手元の狂いで、いとも簡単に血は飛び散るだろうに、何故か今まで一度も、大けがをしたとか、ましてやどちらかの首が飛んだ、
なんて事態にはなっていなかった。

 どうしてか、これからもないと、無意識に元親はそう思っている。
 流し損ねた刀の刃を避けるときに、僅かに元親の重心がずれた。
 竜の唇からこぼれた白い牙が見える。
 あ、と思う暇もない。
 脳が認識するまえに、地に引き倒され、その体の上に馬乗りになられた。
 目を光らせ、政宗は一度笑った。
「八勝七敗三引き分けだな?」
 脳に刻まれる正確な数字。
 忘れっぽいと自覚している元親でも、政宗と試合った戦績だけは、正確な数字で覚えている。
 政宗の言うとおり、八勝七敗三引き分けだ。
 肩を僅かに竦めることで、それに答えて、元親は体から力を抜いた。
 負けたことは悔しいが、それ以上に突き抜けたような高揚感が体を支配していた。
 勝ち負けは大いに気にはするが、どちらにしろ楽しいことには変わりはないのだ。
 男の向こうにある重い空は、まるで今にも落ちてきそうにも見えた。
 元親は青空が好きだったので、鈍色の曇り空を眺めれば、体を支配していた高揚感は静かに引いていった。
 これが突き抜けるような晴天であれば、何のもう一戦とばかりに声を上げたのだが。
 瞬きをして。
 馬乗りになったままの男と、目が合った。
 己と対になる目だ。
 瞬間、自分という存在がどこか曖昧になったかのような錯覚を覚えた。
 鈍色の雲。
 すぐさま、泣き出しそうな色をしている。
 ああ、雨が降るのかもなあと、何の脈絡もなく元親は思った。
 思いながら、何故だか、瞬きもせずに政宗と見つめ合っている。
 交わす言葉もなく、目を反らすという選択肢も、脳裏に浮かぶことはなかった。
 ただ、政宗の黒い眼球に映る己の姿が見えた。
 政宗の瞳には、自分はこう映っているのかと、どこまでも埒のないことを考えた。
 己と政宗の間にあった距離が縮む。
 いつのまにか、柔らかく結ばれた唇が、視界から消えた。
政宗は丁度元親の顔の横の地に手のひらをついた。
顔にかかる男の黒髪の感触を、くすぐったいと眉をひそめることもしなかった。
目を閉じることも、瞬きすらも。
静かに重なった唇は少しばかり乾いていた。
その温度。
元親は唐突に、他者として、政宗という男の存在を意識した。
まだ、目は合ったままだ。
己の物ではない唇はかさついている。
けれど、柔らかい。
ふと、では己の唇はどうだったかと思った。
 重なったときと同様に、静かに、そして唐突に、その唇は離れていった。
 まだ、目は合わさったままだ。
 己の視界に映っている暗い空。
政宗という男。
遠くの空で、低い唸りにも似た音がした。
雷音。
急激に、己を取り巻く周りを、世界を意識した。
湿ったような空気の匂いがする。
屋敷から聞こえる人の声や、足音。
今まで、元親の世界は遮断されていた。
そのことを自覚した。
そう、さっきまで、元親の意識にあったのは。
好きではない空の色と、黒い瞳、乾いた唇、体にかかる男の重さ。
元親は瞬いた。
ついさっきまで閉じられていた己の意識の大半を占めていたのが、一人の男でしかないという事実が、自分の事ながら面白かった。
唇が柔らかく緩んだ。
地面に仰向けに寝ころんで、下から見上げた男ごしの空は悪くなかった。
そんなことを何気なく考えてしまっている自分が、また面白かった。
「もうすぐ夕立が来るな」
 柔らかな声でそう言えば。
 政宗も微かに唇を綻ばせた。
「そうだな」
 こちらも、何の気負いもない声だった。
 腹の上に乗っていた重さが引いていく。
 元親は体を起こす前に、もう一度だけ空を仰いだ。
 







視界の端でちかりと瞬く青い閃光が見えた。
遠くで鳴った遠雷が俄に胸を貫いていった。