Ⅵ スターダスト
夜の守護者である月が、たおやかな腕に誘われて、闇の帳へその身を隠す。
守護者の居ぬ間にと、星たちは身を飾りたて、闇のビロードを色とりどりな輝きで満たす。
天の舞踏会。
中でも目を引く深紅の煌めき。
地上の男はその輝きに目を奪われた。
声を奪われた。
心を奪われた。
男は腕を伸ばした。
星に触れられぬことなど知らぬように。
いくら手を伸ばしてもその輝きに触れることはかなわない。
のばした手の間に光る輝きを眺めて、まるで掴めたかのように錯覚するだけ。
その赤は燃えるように熱いのか。
それとも、凍えるほどに冷たいのか。
星に恋をした男は地上から愛を唄った。
けれども、地上の声など天に届くはずもない。
喉が枯れるまで愛を唄い、腕が引きちぎれるほどに手を伸ばし。
誰のものにもならぬ天に輝き続ける美しい深紅。
そして男は、星を堕とすことにした。
Ⅶ Lullaby
優しい歌を聞きたいわけではなかった。
街道というにはいささか寂しい道だった。
山の稜線を縫うように走ったそれよりも、距離はかかっても山とは反対側を行く平野の道のほうが需要は多い。
現にこの道も、整備しているとは名ばかりのものだった。
あえてこの道を選んだのは政宗だ。
こちらのほうが次の町まで近いという至極単純な理由だった。
星はか弱い女の足だ。もう一本の道のほうを行くんじゃないのかと言えば、女でも越えられねえことはないと政宗は一言で言い切った。
第一、アンタが拾ったときは山越え真っ最中だったんだろと続けられれば、
確かにこのくらいの道なら平気かと、思わず納得してしまっった元親だった。
見ろ海賊と、政宗は地図を指し示した。
一般に許されている出回っている大ざっぱなものではない、事細かなもの。
一つずつたどった街、村などを指で愛撫するかのようにたどって、今二人が行く道をなでていく。
山にそって北上していくその道の先。
「アイツらがたどった道筋と、おれたちが追いかけてきた道筋はさほど違っちゃいない」
元親は小さく頷くことで同意した。
それは高い時計塔のある街で再会したことを考えても間違っていないように思えた。
「このまま行けば、王都にでる」
「王都?」
ああと頷いて、政宗はその顔に微笑をひらめかせた。
元親を見て、地図上の都を指でなでた。
「星を手にした男は、追っ手を全て退けるか、王になるかと言ったんだろう?」
政宗の笑みは楽しげだった。それは元親が見たことのあるものだ。
けれどそれは、元親相手に軽口を叩くとき見せるものととは違う。元親の話に茶々を入れるとき浮かべるものとも。
上の兄が死んだと伝え聞いたときに見せた、鮮烈な微笑。
そのときと同じように。
瞳に一片、楽しげな色をきらめかせ、唇を美しい弧に描いて、どこまでも美しく政宗は笑った。
玉座を、星を、兄弟で争う醜悪さは、そこにはない。
憐憫も悲哀もなかった。
時折、王族の人間たちをの在り方を皮肉下に揶揄う唇で、魂が覚えるまま楽しげに笑う。
「王都に行くには、この道を行くのが一番早いのさ」
「……。なあ、王族以外でも玉座に座れるのか?」
さて、と政宗はこの問いには興味なさそうに視線を前へと向けた。
「今まで王の系譜以外の者が星を手に入れた例はねえからな」
だいたい、こんな遠くで見つかることすら稀だと、政宗は言った。
確かに、星を拾った山は、都からはだいぶに離れている。
「この国の王は星が選ぶ。星を手に入れた者が王だ」
政宗はくつりと喉をふるわせた。
「蛇は食われるのかもしれねえな」
その言葉は王家の交代を揶揄する言葉。
それを、おとぎ話でもするかのように唇に乗せる様に、元親は呆れたように眉を上げた。
が、実際呆れたわけではなかった。
これが政宗という男なのだと思っただけだ。
道中、政宗から城の占い師と連絡が取れないことを聞いていた。
どういうことなのだと眉をひそめた元親に、さあわからねえと首を傾いだあと,
元親が視線を外さないことに気づいた政宗は。
「消されたかもな」
そう一言、告げた。
おそらくそれは限りなく事実に近い可能性なのだろうと思った。
元親が黙っているのを見て、政宗は苦笑した。
「んな顔すんなよ、海賊」
「どんな顔だよ」
「迷子を見つけたような面してやがるぜ?確かに、おれにゃ星を見つける力はねえ」
その言葉には何の気負いもなかった。
絶望も、無念さも、何も。
「諦めないのか?」
何を、と唇に乗せずとも、政宗は元親の問いの意味を正確にくみ取っていた。
Why?とおどけたように目を丸くして逆に元親に問い返す。
「諦めるなんて選択肢、はなっから持ってねえよ」
「でもどうやって星を追うんだ」
「近くまでは来てんだ。言っただろ?運だってよ」
一人では星を追うことすらできない。そう言いながら、政宗は追うことを諦めない。
「天がおれを見放していなけりゃ、星のところまでたどりつけるだろうよ」
そのあっさりしたものの根底にあるものは何なのだろう。
この男の根幹をなすもの。
元親とはまるで違う、けれどどうにも意識を引くもの。
当てもない旅につきあう身としての文句を口にすることもなく、元親は軽く笑った。
「本当に運任せになったな?」
政宗も肩をすくめて笑う。
その様はやはり皇子などには見えない。
「Ya,分かりやすくていいだろう?」
確かになと頷いて、元親はふと政宗を見た。
「なあ」
「An?」
「王になれなければどうなるんだ?」
元親自身、不躾な質問だとは思ったが、聞いてみたいことだった。
政宗は不快そうに眉を寄せるわけでもなく、ただ笑った。
答えはなかった。
その笑みは力強い。同時にどこか儚かった。
まるで、岩肌に咲く花のようだ。
咲くことをおそれない。ためらわない。
王になれなければどうなるか。
王家の系譜は常に一つだと、いつかこの男が言った言葉が耳をかすめた。
王になれなければ散るだけなのかもしれない。
けれども、この男は王になることを諦めない。
それはこの男にとっての、それが生だからだ。
その先に待っているのが光でなくても、前に進むことをためらわない。
「お前の味方が消されたかもってことは、テメエが生きてるってことがばれたんじゃねえのか?」
「だろうな」
「お前を殺しにくるのか」
「さて。おれなんかより星を追うほうが重要だからな。おれなんかにあえて手をだしてくるとは思わねえが、行きあえば別だろうな」
そうさな、と政宗は己の顎に手をあてた。
「おれに限らず、ぶつかって共倒れてくれることが一番いいと思ってるだろうよ」
「兄弟でも剣を向けるんだな」
元親は別に責めたわけではなかった。
それは単なる確認だった。
それがわかったのだろう、政宗は笑みをはいたまま、軽く首を傾いだ。
「違うな海賊。兄弟だから、だ」
元親はそのとき深く納得した気がした。
「因果な一族だろう?」
低い、艶のある声。
元親はただ肩をすくめた。
「難儀な一族だとは思うぜ?」
そう言えば、政宗は声に出して笑った。
「アンタは、優しいな、海賊」
「…絶対バカにしてるだろ」
まさかと返すその歌うよう声と、からかうような笑みに、軽くその頭をこづくことで返して、寛大な元親は皇子殿下の無礼な言を許してやった。
子供みたいに声をあげて笑う様を見るのは嫌いではないから。
***
その日の宿は猟師小屋だった。
主のいないそこで、暖炉をかりて火をおこす。
今日は太陽が雲で隠れていたからか、山際だということをのぞいても冷えた日だった。
せっせと火をたいて、酒でも飲もうと元親は思っていた。
狭い小屋の中に視線を巡らせていた政宗は、ふとその動きを止めた。
その瞳が暗がりの中で細められる。
政宗の様子に気づいた元親が振り返れば、政宗は己の唇に指をあてて元親を制した。
元親とて気配に疎いわけではなかった。むしろ部下たちには畏敬とからかいをこめて、獣並とまで言われたことすらある。
瞬時に肌をかすめるような薄い気配をつかむと、表情を消す。
獣並と言われた元親ですら、気づくのが遅れた。
足音を消して、政宗は元親肩に己のそれを寄せた。
耳元に触れるかすかな声はまるで睦言のよう。
「…無粋な客が来たらしい」
甘いとすら言える声音だが、その言葉の意味は正反対だ。
「…テメエの客か」
だろうな、と政宗は頷いた。
「一人や二人じゃねえようだな」
元親は素早く目を小屋内に走らせた。
窓は一つ。
さすがに屋根裏の天窓からは入ってこないだろう。
扉と併せて、実質入り口は二つだ。
当然、無粋な客人は、二カ所同時に破ってくるだろう。
「…酒はしばらくお預け、か」
ぼそりとつぶやけば、政宗が笑んだのが気配で分かった。
「アンタらしいな、海賊」
触れていた肩が離れる。
元親は無造作に腰に手をやった。
なじんだ柄の感触に唇をゆるめたその刹那。
空気が音を立ててひび割れる。
窓を突き破って飛び込んできたナイフを最小限の動きでたたき落としたところへ、
軽い身のこなしで窓から入ってきた焦げ茶色の旅服を着た男が、元親の元へと無言で肉薄した。
狭い小屋内だ。暖炉の火をたいているとはいえ、視界もいいとは言い難い。
同じく扉から入ってきた男を横なぎに切り伏せた政宗を背中に、元親も剣をふるった。
低いうめき声に意識を向ける間もなく、次の凶器がひらめく。
甲高い剣の声。
受けた鋼を流して、背中に当たる体を軸にくるりと回る。
政宗に斬りかかろうとしていた男の腹を、振り向きざまにないだ。
演舞のように血霞の舞う中、二人は剣をふるった。
それほど長くはない時間だ。
貴族たちが催す舞踏会の、ダンス一曲分にも満たない時間だろう。
元親は剣をふって血をとばした。
元親の、そして当然のように背をあわせた政宗の息も乱れてはいない。
元親はむしろ、鉄のにおいが充満した小屋に顔をしかめた。
さすがにこのにおいの中、いい夢を見て寝られる自信がなかったのだ。
政宗の意見はどうかと、首を向けようとしたところへ、場違いな拍手が聞こえた。
政宗の体がその音の出所、扉の方へと向きなおる。
その動作は警戒心や気負いなどはなく、ただ言うならば少し面倒くさそうだった。
「相変わらず、人を殺すのがお上手ですね兄上」
扉から入ってきたその男は、元親からみれば十五、六のまだ少年だった。
「Ha!テメエも相変わらずの口の悪さだな?」
その少年は、政宗を兄と呼んだ。
政宗とは似ても似つかぬ、甘い顔と金色の髪を持つ童顔の少年だ。
元親は思わずとっくりと、この似ていない兄弟を見つめてしまった。
これが政宗の言うところの、双頭の毒蛇の片割れかと思った。
「てっきり船とともに湖に沈んだと思っておりましたのに」
その言葉に、元親の眉はぴくりと上がった。
内心で言葉に出さずにほうと頷く。
つまり、こいつが元親の船を台無しにしてくれた憎っくき相手らしい。
「手足だけは全てもいだつもりでいましたが、ずいぶん性能のいい『腕』を新しくつけられたようで」
腕呼ばわりされた元親は、お言葉に応えて、曲芸師のように剣をくるりと回してやった。
「星よりもおれを殺すほうに執心のようだな?ご苦労なこった」
にこりと、それこそ天使のような微笑を浮かべたあと、少年は形相を一変させた。
「あなたのそういうところが嫌いなんだ!」
あどけなさの残る口唇が、身のうちに沈んだ怨みをたれ流す様は、他人事とはいえ、見ていて元親ですら眉をひそめるものだった。
髪の色が気に入らない。
剣の腕も。
周りを雑草のようにしか思わぬその態度も。
何もかもがしゃくに障る。
「あなたの存在そのものが、忌まわしいんだよ!」
すさまじい怨みだった。
小屋に満ちた血のにおいすら気にならなくさせるほどに。
今この狭い小屋に満ちているのは、どろりとした闇だ。
それは政宗が身をおく世界に横たわる闇だった。
元親はこのとき初めて、その闇の深さをかいま見たと思った。
自らを毒蛇とあざ笑い、王宮を毒蛇の巣だと言ったその意味を。
「…気はすんだか?」
息を乱した少年の言葉が途切れたとき、滑り込んだのは温度のない声だ。
冷えた、耳に心地よい政宗の声。
顔を伏せた少年は小さく笑ったようだった。
顔を上げたときには、はじめ見せたような美しい微笑があった。
「いいえ。おわかりでしょう?あなたを殺すまでは気などすみはしませんよ、兄上」
少年はすらりと剣を抜いた。
白い両手に収まったのは双剣だ。
政宗の腕である元親の出番はなかった。
そして、兄弟は互いの身を喰らいあうために牙をむいた。
***
勝負は長くは続かなかった。
双剣をはじきとばし、少年の喉に剣先をつきつけて、政宗は静かに少年を見下ろした。
少年が弱いのではない。
歳を考えれば十分な腕だと、状況が状況でなければ元親はそう言って少年をねぎらい慰めただろう。
ただ、それ以上に、政宗が強いだけだった。
それだけの、本当にそれだけのことだった。
「流石兄上。二つの血を同じくする幼い弟をためらいなく殺したあなたなら、私なんぞを殺すのに欠片も心を動かされないでしょうね!」
瞬間、政宗の眉が神経質そうにぴくりと震えたのが見えた気がした。
いつか言っていた政宗の言葉を思い出す。
右目を弟にくれてやったのだ、と。
冥土のみやげという言葉に、そのとき元親はさして何も思わなかった。
ただ、ああそうか、とその言葉をそのまま受け取っただけだ。
王家の紋章。
互いの身を喰らいあう双頭の毒蛇。
己を毒蛇と称する通り、片割れの身を喰らったのだろう。
動く心が欠片もない?
まさか。
元親は内心で唇をゆがめた。
毒蛇というには、この男は、政宗は、情を捨ててなどいない。
右目に触れたとき、とびずさった身体。
元親に向けて発せられた殺気は本物だった。
触れようとした者に牙をむいたそこにあるのは、血の熱さだ。
それは甘さなのかもしれなかった。
毒蛇には、不要なものなのかもしれなかった。
厭うてすらいるのかもしれない。
元親には分からない。
けれども、政宗はそれを手放さない。
この男は捨てないのだろう。
愚かだと笑いながら、馬鹿だと笑いながら、けれどもそれを蔑まない、憎まない。
少年の手が政宗の頬に伸ばされる。
まるでその愛撫を受け入れるかのように、政宗はそのまま少年の喉を貫いた。
剣に縫い止められた身体は、政宗の身体に支えられ倒れることはなかった。
政宗はただ前を向いていた。
元親が見た少年の顔にあったのは、かすかな笑み。
ひゅうと喉が音をたて、真っ赤に染まった唇が動く。
やがて、少年の首が人形のようにくたりと倒れた。
痙攣がなくなってようやく、政宗は静かに剣を抜いた。
飛び散る赤が、黒衣を濡らす。
崩れ落ちる弟だった身体を片腕で支えて、政宗はそのまま床へと横たえた。
口を閉ざしていた元親は、唇を開いた。
その背に向かって静かに問うた。
「何で殺した?」
それは正確に言えば、問いではなかった。
疑問ではなかったからだ。
ただ、元親は政宗の言葉を聞いてみたかった。
政宗は肩をふるわせて、低く笑った。
「言ったろ海賊?おれは、おれたちは、互いに身を喰らいあう蛇だ」
ゆっくりと立ち上がって、政宗は血に塗れた剣を振った。
鋼が暖炉の火をうつしてぎらりと輝く。
それは何の意図もなくただ美しい。
「それ以外の生き方をしらねえ毒蛇さ。噛み殺される前に噛み殺す。それだけのことさ」
「テメエとそいつは違うだろうに」
振り返った政宗は元親の瞳を見て、唇で笑んだ。
「いや、違わねえさ。今まで生き残ってきたんだ。こいつも、肉を噛む味を知ってる」
元親が言いたかったのはそういうことではなかったが、黙っていた。
「そうでないやつらは、死んでいったやつらだ」
横たえた亡骸に一瞬視線を向けて、政宗は唇に笑みを刻んだまま目を伏せた。
「自由になって幸せだろうよ」
ふと、その一つの真実が胸に沁みた。
元親は持っていたままだった剣を鞘に納めた。
「なあ」
「An?」
「テメエは、幸せじゃねえのか?」
政宗はまるで思ってもみなかったことを聞いたかのように、わずかに目を見開いた。
答えを待たず、元親は言葉を重ねた。
「お前はそれでも、王になることを望むんだな?」
今更の問いかけだった。
政宗はまるで元親をなだめるかのように苦笑した。
「ああ。それが、おれがここに在るということだからな」
元親は唇を閉じて瞼を伏せた。
ああ、この男に惹かれる理由が分かった。
人の生を、物か何かのように口にする男。
けれどもそれは他人の生だけでなく、己の生もそうで。
そのくせ、強烈な意志を持って己の生を歩んでいる。
執着などもっていないくせに、貪欲に、前に敷かれた無機質な道を走っている。
そのことを恨むことも、嘆くこともしない。
静謐さと燃やし尽くされそうな熱を抱えている。
相反するものがその身に収まっていて、矛盾すらも真実だ。
瞼を持ち上げた元親は、ただじっと己を見つめている黒色の瞳を見返した。
ついさっき、弟を手に掛けたとは思えないほどに静かな瞳だった。
元親は、政宗、とその名を唇に乗せた。
「お前は、本当は、肉を噛みたくねえんだな」
政宗は唇に苦笑を刻んだまま、吐息をこぼした。
「噛まないわけにはいかねえんでな」
政宗は、左手を持ち上げた。
右手には抜き身の剣がある。
伸びてきた左手が、元親の肩を掴んで引き寄せる。
首の根本に、寄せられた顔。
ぴりとした痛みに、元親は顔をしかめた。
「っっ、何しやがる」
首筋に思い切り歯をたててくれた政宗は、顔を上げて喉で笑った。
「海賊」
「ああ?」
「アンタは時々、その身に喰いつきたくなるほど愛しいことを言う」
元親は呆れて眉を上げた。
「だからってマジで噛みつくやつがあるかよ」
違和感のある肌を指で探って、元親は嘆息した。
「あーあー、これ痕になってんじゃねえの?」
「So sexy」
「テメエにアピールしてどうすんだよ」
肌をなでていた元親の手の上に、ひやりとした手が重なった。
冷えていると感じたのは、触れたその瞬間だけで、すぐにむしろ熱いじゃないかと思い直す。
「海賊、アンタの言う通りだ」
「……」
すぐそばにある瞳に、暖炉の揺れる火が映っているのが見えた。
「誰もがおれのように生きているわけじゃない」
重なった手がそのまま元親の指を握り込んだ。
もう片方の右手にはまだ剣があるのだろう。
「その言葉をそっくり返すぜ?誰もが、アンタのように生きているわけじゃない」
愛を囁くように密やかな声が鼓膜をふるわせる。
元親は瞼を伏せた。
それは反射のようなものだったかもしれないし、もしかしたらそれ以外の理由からかもしれなかった。
与えられた口づけは、まるで子供のような触れあわせるだけのもの。
触れた唇が柔らかな笑みの形を刻んでいるのが分かった。
甘やかなキスをしておいて。
「勘違いすんじゃねえよ。おれは王になるために星を追ってる。そのためにテメエを連れてるだけだ」
そんなことを言う。
唇に触れた温度が、指を掴んでいた熱が離れていく。
政宗は元親に背を向けて、持っていたままの剣を鞘に納めた。
元親は苦笑した。
テメエもときどき、愛おしくなることを言うと、そう思ったのだ。
このおれが、その身を抱きしめたくなるほどに。
Ⅷ ノクターン
『あなたは眩しすぎる』
声はなかった。
ただ唇の動きだけを見て、元親が勝手にそう読みとっただけにすぎない言葉だった。
けれども、元親はその言葉を信じた。
その男のことを、元親は夜の海のようだと思った。
少年にとっては、星空だったのかもしれない。
時折、その黒い瞳が己を見つめていることを知っていた。
けれど、言ってみればそんなことは理由にはならないのだ。
柄にもなく振り返りたくなるのはどうしてか。
元親とは正反対の人生を歩んでいる男だった。
その手には何もかもがあった。
望めば、きっと何にでも手が届くだろうと思えるほどに。
ただ、あの男には、誰もが手に握っている可能性、それだけがなかったのだ。
あの男はそれを知っていた。
知っていて、歩みを止めることをしなかったのだ。
一体誰が、あの男と同じように道を歩いていける?
一体誰が、あの男ほどに、この意識を惹きつ続けることができる?
今まで一体誰が、この胸の中に居続けただろう。
元親は別に己のことを血も涙もない冷血漢だとは思っていないが、薄情なところがあることは、自覚していた。
好意を向けることは簡単だ。
けれど、空を行けば、元親は全てのしがらみから自由になれた。
自分勝手なことだとは承知していたけれど、変えようとは思わなかった。
それが、「元親」という人間だった。
それはただ珍しいからだけなのかもしれなかった。
好奇心だけからなのかもしれなかった。
そのうち、元親が愛しながら置いてきた他の何かのようになるのかもしれない。
それでも、今このとき、元親はこの男の存在を惜しんだ。
欲しいと思ったのではない。
ただ、惜しんだ。
だってもったいないだろ、と元親は思う。
元親にひけをとらない剣の腕。
夢ではないと言いながら、それ以外の選択がないだけだと言って、その生をまっすぐに注ぎ込んで駆けていく。
そのくせ、この男は手にのせられたものを捨てようとはしない。
こぼれていくことを無理矢理とどめようともしない代わりに、自分からは捨てない、踏みつけない。
元親は別にこの男のことを、まぶしいとは思わない。
墨を溶かし込んだような水面に映りこむ瞬きは愛おしい。
その存在自体が元親から言わせれば貴石だ。
その魂が、愛おしい。