蝉時雨
そこはどこか懐かしい気を起こさせる場所だった。
とはいいながらも政宗はこの場所に今まで訪れたことなんてなく、
だから懐かしい気持ちになんてなるはずはないのだけれど。
政宗はゆっくりと四国の空気を吸い込んだ。
ここは元親の母親の実家。
元親が言ったとおり、周りにあるのは山の緑で、夜になってもネオンなんて無粋なものはない。
夏の初め、七夕の日に、一緒に里帰りしないかと誘われたけれど、実際夏休みに入るまでは、
元親が本気で誘ってくれてると実感は持てなかった。
実際に瀬戸内海を渡ったあと、元親の祖父母に迎えられてようやく実感がわいたのだ。
二人にあてがわれたのは応接間で、午前中は扇風機を回しながら勉学に励んだ。
夜は応接間に二人布団を並べて寝た。
山の麓に家があるからか、蝉の合唱は普段耳にするのとは比に鳴らないほどに騒がしい。
目覚ましなどなくても、健康的な時間に目が覚めて、我ながら健康すぎていっそ笑えると思った。
毎日聞いてると、きっと戻ったあと物足りなくなるぜ、と元親は言った。
確かにそうかもしれないと政宗も思わず頷いた。
何もしないで、二人並んでただ寝るというだけのことが久しぶりすぎて、
初日の夜は二人で盛大に笑い転げてしまった。
そのまま夏の夜に、二人で枕投げをした。
これまた馬鹿みたいだと笑って、ぐっすりと寝た。
元親が毎年過ごす山の夏。
日差しがどことなく眩しかった。
応接間の机にもたれるようして、暑さで汗をかきながら、けれど何となく新鮮で気にならず、素直にそう口に乗せれば、
元親はおかしそうに笑った。
「普段は冷房漬けだもんなお前」
「それが普通だろむしろ」
「だから最近の若者は軟弱だって言われるんだよ」
「いきなりジジイぶって説教か?そっち解けたのかよ」
手が止まって偉そうに力説するのをあっさりと流して問えば、元親はちっと舌打ちした。
思わず笑う。
「いいか?英語は暗記だ。数学もこの際暗記だと思え。分かったら諦めて手動かせ」
「わあってるよ!つうかテメエの名目は専属カテキョなんだから、あとでおれがわかるようにちゃんと解説考えとけよ!
わかんなかったらぶっ飛ばすぞ?!」
「I see,I see 午前中で終わらせるんだろ?」
珍しくこちらから折れて、宥めるようにそう言えば、元親は頬を緩めておうと頷いた。
四国についてから聞かされた計画。
朝と夜に勉強する。
昼間は、遊ぶ。
高校三年生だというのに、そのとてもシンプルな計画は、まるで小学生のようだ。
最後の夏に与えられた期間は四日。
盆の終わり頃、突然居候させてもらうことについて、政宗の頭を遠慮という至極真っ当な文字が掠めたが、
元親のほうが気にするなと笑い飛ばした。
話したら若い子の世話を焼くのは久しぶりだからって張り切ってるみたいだから、と。
苦笑しながも結局くっついてきたのは、政宗自身も楽しみにしていたからだ。
二人でのこの旅を、一時を。
午前中に問題集を黙々と、いやときおり五月蠅く言い合いをしながらすすめて、昼にだされたそうめんをすすり、
連れだって家を出た。
今日の目的地はどうやら川らしい。
綿の短パンにビーチサンダルと首にはタオルを引っかけて、泳ぐ気満々な出で立ちで元親は機嫌良く足をすすめる。
政宗の手には、途中の自販機で買ったジュースが二本。
ショートカットだというあぜ道を抜けて、古くなったアスファルトの一車線の道路の端をしばらく歩いて、更に分け入った山の中。
空気がしめっぽく少しばかり冷たくなった。
あそこだと元親が示した先には吊り橋。
煤けたガードレールを乗り越えて、無理矢理作ったような階段を下りていけば、流れる清流。
「あーやっぱ川はいいなー!!」
両手を突き上げて元親は声を上げた。
うきうきとしたその声に、政宗は苦笑しながら元親を見た。
元親の横顔は子供じみていて、あけすけだった。
そしてうし泳ぐぞ!と一声挙げて、シャツを脱ぎ、ビーチサンダルを脱ぎ、タオルを投げ捨て、意気揚々と川に突撃した。
「おいおい」
いきなりはいると冷たいんじゃねえのと思っていれば、案の定、冷てえとの声があがる。
思った通りの反応にくっと笑って、政宗は取りあえず持ってきたジュースを冷やすために川縁に即席ダムをつくって、缶ジュースをひたした。
その間に元親は水温になれたらしく、さっそく水の中に潜ったりと好き勝手に満喫している。
政宗は丁度木の枝が垂れ下がってる下に腰を下ろした。
何となく、一緒になってはしゃぐよりも、はしゃぐ元親を見ていたい気分だったのだ。
元親は一度腰を下ろした政宗を見たが、別に誘うこともなく、微かに笑っただけだった。
そのまま泳いだり潜ったり、気ままに水の感触を楽しんでいるようだった。
後ろでに手をつけば、ひやりとした石の感触。
頭を後ろに反らせば、木の葉の隙間からきらめく金色がこぼれ落ちてくる。
その輝きに目を眇めて、政宗はそのまま瞼を伏せた。
どれくらいそうしていただろう。
一瞬意識がどこかへ飛んでいたかのような錯覚。
目を開けた。
穏やかなだけの時間。
先客の小学生たちの声がする。
視線をやれば、いつのまにうち解けたのか、小学生達と戯れる元親の姿があった。
子供に懐かれやすい男なのだ。
我知らず唇の端が綻んだ。
訳もなく愛おしさがこみ上げて、ふとした瞬間にこぼれ落ちそうになる。
休憩だと元親が水あがってきたあとは、二人並んで冷えたジュースを飲んだ。
そのまま、何も言わずにただ並んで座っていた。
青い空は目に痛い程で。
蝉の音、川のせせらぎ、時折混じる子供達の声。
ただ、隣にある存在を感じてた。
もうすぐ夏が終わっていく。
四日なんてあっという間だ。
高校生活の三年だって、振り返ってみればあっという間だった。
夏が終わる。
秋が来て、冬が来れば。
この高校生活も終わるのだ。
「チカ兄ー!」
「おー!」
呼ばれて元親が立ち上がるのを横目で見上げた。
元親は政宗を見下ろして小さく笑った。
「行ってくるわ」
「おう」
飽きもせずに川へと向かう背中を、やはり政宗は共に行くことなくただ目で追った。
誰かの声に呼ばれて離れていく背。
ふと、苦笑した。
胸に広がったほろ苦いものを自覚したからだ。
なあ、と内心で子供のように素直な問いをこぼす。
なあ、時が経っても、このまま二人でいられるのかなあ?
春になって、進路調査票を出したときから聞けずにいたこと。
進学と就職という進路で、とりあえず大学へ行くことは知っていたが、それだけだ。
その先の肝心な問い。
どこの大学を希望しているのかという一番気になることは聞けていない。
元親も聞かなかった。
だから政宗からどこの大学を受けようとしているのか口にしていない。
ただ、政宗が推薦で受けることを知っているだけだ。
渡された白い調査票を見ながら、どうせなら、一緒のところへ行きてえなあと無意識にこぼれた己の心の声に、
政宗自身が驚いた。
世の大人達が聞いたら嘆きそうな選択理由。
今思っても、その選択理由は我ながらどうだろうと思う。
でも一番単純な、それでいて一番素直な、己の本心ではあった。
そのことも、分かっていた。
気の置けない友人達で彩られた優しい時間が終わる。
今までなかったほどに、過ぎ去っていく時を惜しむということ。
新鮮で、どこかほろ苦く胸を締め付ける。
政宗ははっと息を吐き出して唇を引き上げた。
柄でもねえのにと呟いて、目を伏せた。
佐助あたりが聞いたら、腹を抱えて笑い転げそうなほどに。
でもきっとまあ、笑い転げたあとは、かすかに笑って頷いてくれるだろう。
元親は、どうだろうか。
少しでも惜しんでくれているか。
この時を。
この、身を。
なあ、アンタはどう思ってる?
アンタは、どう思ってるんだろうな?
目を開けたのは、風が肌を撫でたから。
首を巡らせて、川面を見た。
子供達が三人一列に並んで、どこかを見上げている。
視界の端がきらりと光ったような気がした。
つられるように視線を持ち上げたその場所。
飛び込み岩だと元親が言った、張り出した平たい大きな岩の上。
昔は怖くて飛べなかったんだよなあ、と懐かしそうに笑っていた。
中学生になってからじゃないと飛んではならぬという昔から受け継がれてきた伝統にのっとって、
中学一年で初めて飛んだときはあまりの興奮にその夜寝付けなかったと。
見上げる子供達を見下ろして、そして、元親はこちらを見た。
視線を寄越しながら、政宗が見上げていることには驚いたらしい。
元親は目を大きくして一度瞬き。
次いで、唇を引き上げて、目を閃かせて、得意げに、ふてぶてしいとすら言える笑みを刻んだ。
後ろに下がって助走を付け。
焼けた岩の上を走り抜けて。
「イイイヤッホーー!!」
馬鹿みたいな歓声をあげ空気を鮮やかに切り裂きながら。
爽快に一分の躊躇いもなく、空中に踊らせた肢体。
伸びやかに。
政宗の唇が無意識に弧を描いた瞬間、爽やかな水音。
子供達の歓声がした。
蝉の鳴き声までもが歓声のように聞こえた。
なあ、知ってるか。
子供に交じって歓声を上げるような馬鹿みたいに子供じみてるヤツに、惹きつけられてやまない馬鹿がここにいることを。
いつだって鮮やかな軌跡をこの胸に描いていく人。
政宗は立ち上がった。
沈んでいた身体が浮かび上がり、悠々と泳いで岸辺に来る。
政宗はサンダルを履いたまま浅瀬に入った。
水面から身体を起こした元親が上目でこちらを見た。
手を差し伸べれば、元親はにかっと笑って、手を取った。
濡れた手はそれでもどこか熱く。
そのまま引き上げてやれば、見事なダイブだったろ?とそう聞かれたので。
政宗は素直に頷いて言ってやった。
つまりアンタは中坊から成長してないんだな、と。
すると元親は、若さが衰えてないといえ、と不服そうに堂々とそう言い返してくれた。
子供達が帰るのを見送ったあと、そろそろおれらも帰るかと、政宗は元親が濡れた身体をふくのを腕を組んで見ていた。
「何じろじろ見てやがる」
「Ah,舐めたくなるなと」
「ヤらしいセリフを即答すんじゃねえよ」
「見てるだけで実際舐めちゃいないんだからいいだろうが」
「だったらそのムカツク目つきをやめろ」
心底嫌そうに細める目に、肩をすくめて答える。
つれない恋人だ。
肌を隠すように勢いよくTシャツを着て、元親は生乾きの髪を後ろへ流した。
河原の上に落としていたタオルを拾って、おらと差し出せば、元親は、んとタオルを受け取り、そのまま政宗の手を取った。
そのまま手を離そうとしない元親に、何だよと少し首を傾いで笑み混じりの視線をやれば、元親は笑ってそのままきゅうと指先を握った。
政宗がするりと指を抜いたとき、一瞬へにょりと眉が情けなく下がるのが分かった。
代わりに、手のひらを合わせるようにして指を絡めとってやれば、その瞳はぱちぱちと瞬いた。
繋がれた己の手を見下ろして、そして元親は顔を上げた。
視線を合わせたまま、絡めた手に力をこめてやれば、元親は照れたように笑って肩をすくめた。
そのまま手を繋いで、人も車も通らない古びたアスファルトを歩いた。
時折思い出したように、元親が昔は父親と母親と三人でこの道を歩いたとか、昔のことを静かな声で唇に乗せた。
さし込んでくる日は傾きかけてはいたが、それでもじりじりと空に張り付いている。
蜩の声がする。
この声が悪いんだと思った。
視覚から聴覚から、そして取り囲む空気全てで、理由のない寂寥感を駆り立てる。
繋いだこの手も、するりと離れていきそうで。
足を止めたい衝動に駆られる。
いつまでもとどまっていたい、だなんて。
埒もないことを考えてしまうこと自体、惑わされている。
この、夏の空気に。
いや、たぶん違うなと政宗は認めた。
惑わされているわけじゃない。
さらけ出されているだけだ。
近道のあぜ道を歩いていると、遠くその先から、こちらに向かってくる一台の自転車を認めた。
絡めていた手の平。
ペダルをこぐ鈍い金属のこすれる音が通り過ぎていった。
どちらからともなく、繋いでいたその手を離した。
+あとがき+
四国旅行編もとい進路編
素直にどこ行くんだと聞けばいいのに、そんな簡単なことが何故かできなくなるとき。
高校三年生って、唐突に「今」ではなく広がる未来その先を見ろと促されるときだと思います。
まあその時点で全てを決められるわけないのですが、それでもぐるぐるっと色々考えてしまうこともあるんじゃないか。
私は考えることを半ば放棄してましたがね!!(そしてツケがきているわけですね)
兄貴sは1,2年時のおうとつのはまりっぷりが凄まじいので、余計に今が楽しくて仕方ない、今を全力で楽しんでる、
そんな気がします。
だからこそ、エアポケットのように突きつけられた先を意識して、ちょっと立ち止まっちゃうんじゃないかなとか。
らしくもなくぐるぐる考えすぎたりするんじゃないかしらと。
取りあえず兄貴には自然児でいて欲しいと願っている私(そこ?)