Kiss my Enemy

見たこともないくらい美しい青空だった。
文句もつけようのない平和な空だ。
そして、世界の広さを教えてくれる雄大な海原だった。
見渡す限り水平線が広がっている。
サンダルが埋まる白い砂浜とざんと波が砂浜に寄せる潮騒。
バカンスに相応しい最高の場所だ。
派手なプリントがされたオレンジ色のTシャツにダークグリーンのカーゴパンツ。
足下ははきこんだサンダル。頭にはブランド物のサングラス。
バカンスに相応しい格好だった。
元親は一度大きく頷いた。
相応しいのは当たり前だ。
何せ元親は事実バカンスに来ていたのだから。
久しぶりの長期休暇をもぎ取り、汗くさい軍の基地から華麗に逃亡したのが昨日。
恋人と待ち合わせていた空港で、再会のキスとハグをするまえに別れの言葉を突きつけられたのが12時間ほど前。
それなりに落ち込んだ元親が、リゾート地の飲み屋で昼間から一杯引っかけたのが5時間ほど前で。
3時間ほどまえにどこぞの秘密機関とカーチェイスをし、太平洋に浮かぶ孤島に拉致されてきたのがついさっきだ。
たたき上げの軍属であるこの自分を問答無用で拉致ってくれた男は、元親からしても知らぬ相手ではなかったが、いい意味ではない、決して。
真っ赤なスポーツカーの運転席からエスコートするかのように右手を差し出されて頬を染めるのは、平和な世界で夢を見ているお嬢さんたちの特権でありつまり元親には全く当てはまらない資質である。
さらにいうなら、背後には大量の重火器を積んで、後ろからは黒塗りの車が減速せずに突っ込んでくるなんて状況で、キザったらしく恭しく右手を差し出されても滑稽なだけだ。
「Shall we enjoy this party?」
「何がパーティだ巫山戯んな」
「この言い方が不服か?なら、『Please help me! 命を狙われてるんだ、助けてくれないかSir.』」
「テメエが追いかけられてるのはみりゃ分かる。んなもんどうせ自業自得だろうが!おれを巻き込むんじゃねえよ!!」
「Ah,んな冷たいこと言ってくれんなよ。アンタじゃなけりゃ、おれだってこんなみっともねえとこ見せてまで助けを請うたりしねえよ」
いますぐこの減らず口をふさいでいただきたい。できれば、この男を追っかけている皆さんに。
本気で元親はそう思った。
元親は決して薄情な男ではない。むしろ情に厚い人間だ。
もし友人の誰かが(基地ですれ違っただけの人間でもいい、帰り道にすれ違う散歩中の犬の飼い主でも、元親に別れを告げた元恋人でも!)この男と同じ台詞を言ったなら、元親は迷わず相手を助けてやっただろう。
しかし何が悲しくて自国を諜報しに潜入している男、しかもかつて自分が追いかけてついに捕まえられなかった男の起こしたもめ事に巻き込まれたいと思うだろうか。
そう遠くはない過去に、まるでからかうように散々元親を振りまわしてくれた男の所業を元親は忘れてはいない。
「スパイのもめ事にバカンス中の一般人を巻き込むな」
「あんまりに熱心に追いかけてくれるもんだから、ちょいと遊んでやっただけだぜ?Ah,でも楽しくはなかったな。時間の損失だった」
スパイのくせに何て偉そうな言い草だろうか。男はちろりと唇を舐めて言う。
「アンタが追っかけてくれたときほど楽しかったことはねえな」
元親は思わず拳を固めた。
元親はこの男の相手をしている皆さんに同情する。
けれどその同情も自分に向けて熱のこもった銃弾が飛んでくるまでだ。
思わず眉を寄せてのアピール。
「おれはこいつとは何の関係もねえ一般人だ!!」
男の顔に指を突きつけての絶叫はもちろんわざとだ。
他の人間ならこんな失礼な真似は誓ってしない。指を突きつけられた男のほうは怒る素振りは欠片も見せず、むしろ駄々をこねる子供を宥めるかのような余裕に満ちた穏やかな微笑を唇に刻んだ。
「軍曹、アンタが一般人だなんて謙遜にもほどがある。あえて一言でアンタを表してみせるならそうだな、You are so excellent!」
「無駄によく回る口だなスパイのくせによ」
「スパイだからこそよく回るんだぜHoney」
流し目を寄こされて黙ってしまったのは、思わずその反論に納得してしまったからで他意はない。
そして切迫した状況とは場違いな会話は、妙に甲高い銃声で中断させられる。
頬をかすめた熱風にカチンときても罪はあるまい。
何故なら自分はこの男の仲間でも何でもなくて、確かに軍属の人間ではあるが今は休暇中の一般人なのだから。
「バカンス中なんだろ、軍曹?」
「知ってるなら有り難いね。さっさとあの五月蠅い連中連れて水平線の果てにでも沈んでくれ」
「おれもバカンスを楽しむつもりなんだよ」
「へえ?」
「南の島でのプライベートビーチで。Loverと一緒に」
「自慢かテメエ」
「NO!だから迎えに来たんだぜ?アンタを」
唇を弧に描いて笑う男を元親は胡乱気な眼差しで見返した。
怒る気にもなれない戯れ言を聞いた。
背後を顎で示して言う。
「あんなお邪魔虫同伴で?」
「まさか。すぐにお引き取りいただくさ」
こちらに向かってしなやかな腕が伸びる。
見た目の甘さに反してごつごつとした手が問答無用で元親の肩を引き寄せた。
さっきまで元親の体躯があったそこを、弾丸が寂しげに通り抜けていく。
ちっと元親が盛大な舌打ちをした瞬間、アクセルを踏んだのかタイヤがアスファルトを擦る音がして。
「こんの悪党!!」
「Ah,アンタにそう言われるのはたまんねえな」
乗りたくもなかったスポーツカーの助手席につっこむようにして乗り込んで、元親は背後に乗せられたライフルを手に取り背後に向かって発砲した。
そして己のささやかな休暇が爆発炎上するのをしくしくと見送ったのだった。
途中男の仲間に小型クルーザーの上から小さなバックを放り渡して、おそらく男の仕事は完了したのだろう。何故って、そのままこの無人島へ連れてこられたので。
バカンスと称した通り、美しい島だった。
そりゃもう恋人達ならまさしく世界にいるのはボクとキミだけ状態にひたれること請け合いな状況だったが、生憎と元親は男、政宗の恋人ではない。
スパイである男は幾通りもの名を持っているだろうが、元親にとっては男は『政宗』でしかなかった。
何故って本人がそう呼んでくれと名乗ったからであって、それ以上の意味はない。
本名か偽名かなんてことは考えても仕方ないことだし、ぶっちゃけどうでもよかった。
政宗は元親の国とはお世辞にも関係がいいとは言えない国のスパイで、元親はそんな諜報員を追う軍人だからだ。
つまり、敵とも言える男と世の恋人達が羨むような美しい無人島のビーチに二人っきりでいるというのは、どう考えても問題で減俸ものだということだ。
減俸ですめば御の字ということはあえて無視した。
「そんな怖い顔をしてくれんなよ。ここは気に入らないか?」
振り返った元親はうなり声を上げて否定した。
「いや?ここは確かにバカンスには最高の場所だろうよ」
「気に入ってくれたなら嬉しいよHoney」
「ただし!テメエがいなけりゃの話だ!」
「それは無理な相談だな。何故ってここはおれの秘密の隠れ家なんでね」
「秘密の隠れ家ならもっと大事にしろや!馬鹿にしてんのかテメエ?!」
「アンタはバラさねえよ。バラされたら今日のことをおれも吹聴するからな。
そうなりゃ減俸どころじゃすまねえ、だろう?」
その通りなのだが、分かってて人を巻き込んだのかと思えばいっそう腹が立つというものだ。
「なあ政宗、まずはその面殴らせてくれや。っていうか殴ってもいいよな?殴る権利があるだろおれには?」
許可を求めず脇を締めて空を切り裂く拳を見舞えば、政宗は楽しげな笑みを浮かべて元親の拳を軽くいなしてみせた。
まったくもってかわいげのない男だ。
簡単に元親の拳を無力化できる男が軍でもどれだけいると思っているのだろうか。
上背は僅かに元親が勝っている。ウェイトは完全に元親が。
けれど政宗の拳にはパワーはそこそこだがスピードと鋭さがあった。
そのことを元親は知っていた。
射撃は舌を巻くほどの腕前で、ロープ一本で高層ビルを壁沿いに降りることができる身体能力があることも。数カ国語をすらすらと操りスラングまでマスターしていることを。
プロの摺りが絶賛するほどの鮮やかな手癖の悪さと、目を疑うほど滑らかにピアノの鍵盤の上を指が踊ってみせることを知っている。
「ダチにいきなり殴りかかるだなんて、ヒデエ男だねえ」
「テメエにダチなんて上等なもんがいたとは驚きだ」
「アンタのことだぜ?ダチって言い方はおれからすれば物足りねえが」
「そうかい悪いな。おれはテメエのダチになった覚えはねえ」
ちなみに今も言い合いながら、軍の教官が感心するような攻防を繰り広げている。
拳を交わしながら、けれどもすぐそこにある政宗の顔は飄々とした色を崩すことはない。
「Ah,つれねえなHoney。前はおれだけを求めて熱烈に追いかけてくれたってのに」
「それがおれの仕事だったからな」
それ以上の意味はねえ!と言外の意味をこめて、蹴りを放つ。
油断はない。つまり、砂浜に倒されたのは純然たる勝負の結果でありつまり運の差だ。
砂浜に押しつけるように政宗に乗り上げられた元親ははっきりと顔をしかめた。
焼けた砂に押しつけられた背中が大層熱かったからだ。
グレーのタンクトップから両腕が伸び、元親の肩を包むように掌を当てた。
そのままするりと政宗の指が肩の線をたどる。その感触にとっさに元親は唇を引き結んだ。
足の先から駆け上ってきた感覚を無理矢理無視する。
くすぐったいようなタッチで肩をたどった政宗の指は、元親の首の根もとで動きを止めた。
脈を探るように首を包み、親指でのど元に触れる。
元親はますます歯を噛んではっきり渋面を作った。
止めろと視線で射抜いてやるが、どうやら逆効果らしい。
政宗は正々堂々と真正面から元親の視線を受け止めて、楽しげな色を瞳に閃かせ優雅な獣のような仕草で舌なめずりをしたのだ。
ホント、コイツは手に負えねえ。
「さっきは仕事じゃねえのに付き合ってくれたな?」
「巻きぞいで死ねるほどおれは安くねえ」
「I know my dear. アンタはそんなに安くねえ!だから上等のバカンスをアンタに貢ごうと思ってな」
「何だ100万ドルの夜景でもくれるってのか?」
「100万ドルの星空を」
「…相手をちゃんと見て言えよ」
呆れた声でそう言えば、政宗は顔を近づけて音もなく笑んだ。
「だから、アンタの目を見て言ってるだろう?」
「……」
金色に光る虹彩に身のうちを暴かれる感覚は無視するには強すぎた。
胸の内側がぞくりと泡立つ。
それが嫌悪だったら元親は自分を褒め称えただろう。正しい反応だ。
元親は喉をのけぞらせて仰向き嘆息した。
まんまと煽られている自分を、軍人式のスラングを駆使して誰か罵ってはくれないだろうか。
「元親?」
「で?」
「Han?」
「こんな素敵なリゾートにおれなんぞを連れてきて、それでテメエはどうしようってんだ?」
色々諦めて真正面の端正な顔を見返すと、政宗は元親の首から手を離して乱れた黒髪をかき上げた。
「Play game with me,darling」
「ゲームだあ?」
元親の上から体を引いて、政宗は元親の腕を掴んだ。引き上げられるままに体を起こして立ち上がる。
嫌になるくらい爽やかな青空を背負った男は潮風に嬲られる元親の髪を押さえるようになでつけた。
元親の腕を掴んでいた手がそのまま滑って、指を掴んで持ち上げる。
この男に大層似合っている優雅な様で腰を折って顔を臥せるのを元親は見送った。
指先に熱。
触れた唇、その皮膚の感触。
かりと爪ごしに噛んだ歯の白さが瞼の裏でフラッシュして、元親は比喩でなく目眩がした。
どうか目眩の原因が殺人光線のような太陽の熱でありますようにと神に祈る。
上目で寄こされる視線は物騒でいて火傷しそうに熱い。
唇が弧を描いて、低くどこかざらついた声がゲームの内容を告げる。
「どっちが溺れるか、GameといこうぜHoney」
元親は目を眇めた。
ほんとコイツは手に負えねえ。
更に言えば、自分の趣味の悪さも。
苦笑が顔を掠めたのは一瞬。
仕方ない。
だってここには自分とこの男しかいなくて、さらにいえば自分は休暇中で誰も元親に正論の説教をしてくれない。
何て最悪で最高のバカンスだろうか。
こらえきれずに元親は喉を震わせる。
政宗の瞳をのぞき込み。
首を傾いで甘えるように元親は笑んだ。
「…負けねえよ?」
「Me,too」
 



触れた唇の温度が開始の合図。さあゲームの始まりだ。