ピアノ・ジャック


その音を聞いたとき、その横顔を見たとき、政宗は胸を打たれた。
けれどそれは、感動に胸を震わせたわけではなかった。
言いようもないほどに腹が立ったのだ。
今までこんなに腹立たしい思いをしたことは、己の人生で片手で数えるくらいしかないだろう。
その中でもド級だ。
何故今になって、見たくもなかった事実を突きつけられなければならない。
もう逃げられなくなった今になってどうして。
政宗はぎりと歯を噛みしめた。
政宗の憤りなど知らぬ元親は、ただ己の手元、白と黒の計算しつくされた配列だけを見て一心に一つの世界を構築している。
節の目立つ長い指がめまぐるしい早さで白と黒の上を舞う。
音の乱舞。
その指がそんな音を出すと知っていたら・・・。
初めに知っていたら、もっと上手く逃げ道を作っておけたのに。
元親と知り合って半年。
初めは気の合う友人として。
そして、友人以上になって一月。
政宗の中では元親という存在が食い込んで久しく、無理矢理離そうとすれば政宗自身も抉られて痛みを伴うことになる。
もう手放せない。
手放すつもりもない。
そんなところまできてしまった今になってどうして。
政宗のマンションではなく、屋敷のほうに元親を招待したのは、こんな現実を知るためではなかった。
応接間に置かれたままのピアノ。
弾く者がいなくなったあとも、それは一つのインテリアとして部屋の主の如く佇んでいた。
それを見た元親が、弾いてみてもいいかとそう言ったのだ。
元親がピアノを弾けるのは知っていた。
結構な腕だと評判だということも。
けれども政宗は一度も聞いたことはなかった。
二人で会うときは政宗のマンションか、もしくはホテルでだったからだ。
己の部屋に呼ばぬ理由を、元親は汚くて狭いからだと笑って言った。
実際その理由以上でも以下でもないことは、一度だけ訪ねたときに納得した。
古い木造住宅の角部屋。
部屋の隅に安っぽい電子ピアノが置かれてあった。
不似合いなそれが気にならなかったといえば嘘になるが、政宗のほうから何か問うこともなく、また元親も何も言わなかった。
それがどれだけ正しい判断であったか。
軽く頷いた少し前の己の首を絞めてやりたいと政宗は思う。
sureと軽く頷けば、元親は楽しげに唇で笑んだ。
中指が躊躇いもなく白い鍵盤を叩いたとき、とーんと艶のある音が響いた。
その音を聞いた瞬間、政宗は己の中で何かが揺らいだのを知った。
まるで突然おそいくる地震のように。
待てととどめることも出来なかった。
硬直してしまった政宗になど目もくれず、元親は一呼吸の間に鍵盤に両手を添えて、何の躊躇いもなく静謐な応接間の空気を揺り動かしたのだ。
僅かな振動から始まったそれはやがて抗いようもない波になる。
音の洪水。
飲み込まれてしまったあとは息をすることすら苦しい。
そう、政宗は元親の作りだした世界に呑まれたのだ。
政宗が何も知らずに愛していた指が、政宗の知らぬ世界を作る。
「ピアノは趣味で、謂わばただの手慰みなんだよ」
ピアノを弾くと知ったときに元親が政宗に寄こした答え。
元親の言葉を鵜呑みにした政宗は、そうかと頷いて、それ以上興味を持たなかった。
「・・・ふざけてんのか」
こぼれた声は掠れていて己でも聞き取りがたい。
無意識に握った拳が震える。
ただの手慰みだと?
これが、この音が、ただの手慰みだというのか?
とうに沈めた政宗の中にあるものを、無遠慮に簡単に揺さぶり起こしたこの音が。
ただの、手慰みだと、お前はいうのか?
事実、元親にとってはその通りなのだろう。
元親は嘘をつかない。
そのことを政宗は知っている。
つまり、その言葉は掛け値なしの元親の本音なのだ。
それだけで満足できるという、満足しているのだという、元親の本音。
腹が立つ。
聞いた者を音の世界へと攫っていく音だ。
それは誰にでもできることではない。
天から与えられた才を咲かせた音。
元親がその気になれば、きっと彼を取り巻く世界は変わる。
世界が元親の音を求めるようになるかもしれない。
或いは、世界が元親の音に恋いこがれるかもしれない。
だというのに。
何故お前は満足できる。
何故手を伸ばさない。
許された者だけが見れる景色があるというのに。
お前はその一握りの人間になれるだろうに。
それは政宗が見てみたかった景色でもあった。
けれど、政宗が手放したものでもあった。
そう、政宗は手放した。
自身で選んだ。
後悔はない。
けれども、政宗の中に沈んでいた憧憬を、果てなき焦燥を、その音は簡単に引きずり出した。
引きずり出して突きつける。
体の底が疼く。
「政宗?」
いつのまにか部屋には静けさが戻っていて、政宗を揺さぶる音は絶えていた。
かわりに、元親がどこか不思議そうな顔で政宗を見上げている。
ピアノの前に座りながら、もうそこには座ることのない政宗を。
「どした?顔が真っ青だぜ」
眉を心配げによせて、元親が腰を上げる。
伸ばされたその右手が己の頬に伸ばされるのを見た。
さっきまで冷たい鍵盤に触れていた指が己の肌に触れようとするその瞬間、政宗は呼気を吐き出した。
「Don't touch me」
「え?」
戸惑ったような声が鼓膜を震わせる。
「その手で、おれに、さわんじゃねえ」
行き場を失った手が揺れて落ちる。
「政宗・・・」
困ったように元親が政宗の名を呼ぶが、それに応えることもできず、政宗は目を固く閉じた。
捨てたものを突きつける音など聞きたくなかった。
掴めるかもしれなかったいつかの可能性など知りたくなかった。
もう政宗は元親を手放せないのに。
その指を、憎らしく思う。
掴めるものを掴もうともしない手を、憎らしく思う。
手を伸ばさぬ元親自身を、こんなにも、こんなにも。
だから。
「さわってくれるな・・・」
元親は何も言わなかった。
気配が離れて、かわりに静かな一音が返事のように空気を震わせた。



その指に触れられたら終わってしまう。
愛しむだけではいられなくなる。
何よりも愛おしく、厭わしい者のそばで、どう呼吸すればいいというのか。




=あとがき=
ピアノと打楽器のインストのCDを流してたら、ものすごいテンポの早いやつにどうにもテンションがあがって、
ぶつけてみました。
いつもなら、ピアノは筆頭にひいてもらいたいんだけど、そこを敢えて外したいと思い、兄貴にひいてもらいました。
筆頭は、本当はプロのピアニストになりたかったけど、親の跡を継ぐことを選んでピアノを捨てた過去があって、
兄貴はプロ並みの腕を持つアマチュア。
ピアニストになろうとは考えてなくて、ただ弾くことが好きでたまらないから一生弾いて生きていこうとは思ってる。
プロになれる腕も可能性ももってるのに使おうとしない兄貴に、複雑な想いを抱く筆頭、でございます(説明終わり)
ちなみに、兄貴は筆頭のそんな過去なんて全く知りません。