勢いのある涼やかな風が、教室の黄ばんだ古いカーテンを引きちぎりそうに揺らした。カーテンが揺れる向こう、散り始めた桜がヒラヒラと地に落ちていく様子が見えた。
新学期に浮かれていた教室の空気も、今はほとんど残っていない。当然といえば当然だろう。何しろ今年の自分達は、受験戦争という荒波に放り込まれる立場なのだ。
だが、まあいいこともあった。あてがわれた机の上に肘をついて向けた視線の先。
「おっしゃ、んじゃ今から名前確認していくからな〜!呼ばれたら返事して手えあげろよ!」
思わず顔がにやけてしまう。彼がクラス担任だと知った時の、自分の喜び様は凄まじいものがあった。長曾我部元親。社会科・世界史担当教師。同時に、3年B組の担任でもある。人の目を引く銀色の髪が、春の陽光を受けて穏やかにきらきらと光っている。それを綺麗だと思うのは惚れた欲目だろうか。
まだ真新しい出席簿を片手に持った元親が、一度ぐるりと教室を見渡す。ゆっくりと動くその視線が、不意に一点で止まった。じっと教壇を見つめる己とかち合った眼差しは一瞬だけ和らぎ、またすぐに「教師」のものへと戻る。
別にこの時間はそれでもいい。だって実際おれは「一生徒」でしかないし、アンタは「先生」だ。
「伊達政宗」
はいと、手をあげて答えるその声に含ませた想いに、たぶん元親が気付くことはないのだけれど。それでも、あの声で己の名前を呼ばれると、ちょいとばかり体が熱くなるから我ながら面白い。
まさか、こんなに誰かを愛しいと感じるようになるとは!数年前に遡り、ひねくれすぎてクソ可愛くもない自分へ、見せびらかしたいものだ。さぞ悔しがることだろう。政宗は、過ぎ去ったあの日を鼻で笑い飛ばす。
「政宗」
呼ばれてはっとした。意識を現実へと引き戻すと、ひとつ前の席から身を乗り出した佐助が政宗の眼前でヒラヒラと手を振っている。
「何トリップしてんの、ホームルーム終わったぜ」
その言葉に辺りを見回せば、生徒達はもう席を立ち、廊下に出たり窓際に集まったりしていた。
正面の掛け時計を見るに、それほど時間は経っていないが、空想世界に浸って元親の姿を見つめる時間を減らしてしまったのは悔しい。
ちくしょう、と顔をしかめていると、また佐助が自分を呼んだ。呆れた声色のそれに「何だ」と低い声を返せば、佐助は小さく息を吐く。
「……その調子だと、聞いてないだろ。明後日までに進路調査書出せってさ」
「Ah〜,進路オ?」
眉をひそめてから、ああそういえば確かに自分は三年になったのだからまあ当たり前の成り行きかと納得はした。進路ということは、それはつまり、高校卒業後、自分はどうするのかということで。
「ああ、あと一年しかねえのか」
先生と一緒に学校で過ごすタイムリミットを自覚して、政宗は思わず目を細めて頭をがしがしとかいた。何故か瞬間焦りのようなものが浮かんで、思わず舌打ちする。余裕がないと自覚できてしまうのが嫌だった。
「はいはい。感慨に耽るのもそこまで。今年こそ、未定、ってのはナシにしなよ。じゃ」
そう言い残すと、佐助は通学バッグを背負って廊下へと消えた。
彼の背中を見送りながら、政宗は問題のプリントを机の上に広げる。出席番号と氏名以外、あとは空欄ばかりが残っていて、虚しい。白紙の未来に望むのは、いまのところとにかく、元親の姿が変わらず在ることだけだった。
溜め息を一つ、現実から目を背けるように視線を窓の外に逃がした。階下には、帰路につく生徒の姿が見える。教室に音は無い。他人事のような遠さで、人の声がさざめいているだけだった。進路。一言にそう言っても、道は色々ある。大まかに分けてしまえば就職と進学の二つだが、そのどちらもあまりピンとは来ない。だが考えてみれば、この学校に通う生徒の多くは、自分と同じように明確な方向性など持っていないだろう。それでも彼等は、進む道を決めている。もちろん自分とて、方向性が無いわけではない。何がしたいのか、という問いかけに出る答えは一つだ。だが、それをここに書けないだけの理性はある。
「どうすっかな……」
呟いたところで答えはでない。放っておけばどんどん陰鬱な方向に進んでいく思考に嫌気が差し、政宗はプリントを鞄の中にしまうと勢いよく立ち上がった。廊下にでたところで。
「お、伊達!どうした、新学期早々景気の悪い顔して」
「・・・」
政宗は丁度鉢合わせた元親のそのお気楽そうな顔を眺めた。
当たり前のことだが、学校では元親は決して下の名前をよんでくれない。それは自分が「高校生」だからで。だったら、とっとと卒業してしまえば、こんな当てのないいらだちも覚えることはないのだろうけれど。
「センセ、それ何?」
「ああ、これか?資料作り!」
手に抱えたプリントの束を目を細めて見下ろした政宗に、元親は笑いながら言った。
「なんだ、手伝ってくれっか?」
きっと元親は冗談のつもりだったのだろうけれど。
「いいぜ。手伝ってやるよ、先生」
元親はひどく驚いた顔をしたが、政宗はそんな元親を放って、とっとと社会科準備室へと足を向けた。
半分受け取ったプリントの束を抱えて、立て付けの悪い扉を開ける。少しだけ埃くさい空気が流れてくるが、去年から元親目当てで足繁く通う内、そんなことは気にならなくなった。ばさり、と余って運ばれてきた教卓の上に置くと、政宗は近くにある大きな地球儀をついでとばかりに回した。ねじの軋む音がかすかに聞こえる。もっと丁重に扱えよ、とサンダルをぱたぱた言わせて歩く元親が、不満げに言った。
「高いんだぜ、ソレ」
丁重に扱えなどと言う割には軽い調子で言うので、大して心配はしていないのだろうと思う。生返事を返して元親へと視線を移すと、元親はあくびをかみ殺しながら定位置となっている椅子に腰掛けた。
「よっこいしょ」
「ジジむせぇ」
「うるせーよクソガキ」
人が気にしていることを、あまりにズケズケと言うので腹も立たない。そんなことで言い争いをする時期は、とうに過ぎた……というのは、あまり正しくない。単に自分が逐一怒るのを止めただけの話だ。別の人間から言われるのならばともかく、元親からの言葉まで気にしていたら、神経がいくらあっても足りはしない。
「なあ」
その代わりに、こうして二人きりになる時間を作った理由を語るために呼びかける。政宗からの呼びかけに、プリントをまとめなおしていた元親は顔だけを振り向かせた。手伝うといっていたにもかかわらず、地球儀を指でつと撫でながら政宗は唇を開いた。
「何でこんな三年になって早々に、あんな紙くばるわけ?」
「そりゃお前、色々大事だからじゃねえか」
ありきたりな答えに我知らずため息がこぼれた。こぼしてからようやく、聞くんじゃなかったと声に出さずにつぶやく。横目でちらりと元親を見れば、元親は顔もあげずに、黙々とプリントを枚数を数えては種類ごとにわけている。
政宗は方眉を持ち上げた。何故だろう。こういうとき、心底「学校」という場がもどかしく煩わしいもののように感じる。
「元親」
「先生ってつけろよ〜伊達」
万の想いを込めて紡いだ声を、軽く流されたときなどは特に、だ。
「元親」
なのでしつこく名を呼んだ。三度目でようやく、元親は顔をあげて政宗を見た。少し呆れたように眉を下げて唇で笑む。
「学校じゃ先生だっつってんだろ?」
学校で会えるのはひどく嬉しい。担任にあたったことは幸運だと思う。だというのに、その喜びは何故か今は遠く、妙な焦りばっかりが胸を占めていた。
「…元親は元親だろ」
子供の駄々だと知っている。けれど、唇はその動きを止めてくれなかった。
「なあ、あのプリント、出さなきゃ駄目か?」
「お前だけ特別ってわけにはいかねえよ」
鞄の中で拉げているであろうプリントに思いを馳せた。あんな薄っぺらな紙一枚が原因で、どうしてこんな風に焦ったりしなければならないのか。
進路調査のプリントなど、いい加減にでっち上げても良いのだ。きっと要領のいい佐助などはそうしている。けれど、目の前に居るこの男にだけは、不実を言ってはいけない気がした。嘘を言ったところで、この関係が変わることはきっとない。だが確かに、自分の心の中で何かが変わる。彼に対して常に真摯でいようと決めた、この心が。
深く溜息を吐き、政宗は口をゆがめる。
(……やりたいこと、か)
頭の中でそう呟いてみるも、やはり明確なものは浮かんで来ない。ならばどうすればいいのか。許容量が決して多いとは言えない脳が悲鳴を上げたことで、政宗は今度こそ本当に考えることを放棄した。
「じゃあ」
理性を離れた言葉が、唇をついて出る。思いの外真剣さを含んだ声に元親の目が僅かに見開かれるのが分かった。
「あんたは、俺にどうなって欲しいんだ?」
「………は?」
口をぽかんと開け、呆気にとられる元親の顔を凝視しながら、政宗は続ける。右も左も分からず、どうしていいのか分からない幼子のように。
「自分がどうしたいのか、俺には分からねえ。だからあんたが教えてくれ。だって俺がなりたいのは、あんたが望む姿なんだ」
政宗は元親の背後にまわり、後ろからその首筋に腕を回して体を伏せた。
「なあ、アンタはおれにどうなってほしい?」
元親は、ここは学校だと怒ることもせず大人しく後ろから抱かれていた。唇から息が零れるのが分かって、心臓が一度どくりと大きく鼓動した。のびてきた元親の腕が、政宗の頭を抱えるようにして回され、手のひらでくしゃりと乱暴に髪をすかれる。ふと、元親が笑むのが気配で分かった。
「おまえ、ホント、ガッキだなあ」
台詞の中身だけをみれば、顔を真っ赤にして激昂するところだが、政宗は大人しく髪をすかれていた。元親の声が、ひどく柔らかく、甘やかだったからだ。
「何でそんなに焦るかねえ?おれなんざあもう戻りたくても戻れない輝かしい青春だってのに」
己の体に回っていた政宗の腕をやんわりと外して、元親は体を反転させた。
「おれは別にこれ以上先にやいかねえよ。走るのもいいが、ぶらぶら歩くのもいいもんさ」
だから、なあと首を傾ぐその様を、政宗は瞬きもせずにみつめていた。
「別にかみ切れ一つに縛られるこたあねえよ。この一年、青春を気ままに走りぬけりゃいいさ。まあ浪人したってアメリカンドリームに挑戦したってかまわんわけだしよ」
「・・・先生、アメリカン・ドリームは古くね?」
「ロマンがあるだろ?」
にかりと笑う顔は無邪気なのに、ああ、それでもやはり元親は「先生」なんだなあと政宗は思った。二人の間に聳え立つ年齢という壁は大きくて分厚い。それを実感させられた気分だ。いつも、年齢の差にはコンプレックスに近い思いを抱いていたけれど、今日はなぜか、年齢差を思い知らされてなお清々しい気分を感じている自分に気付いた。
けれど、やはり目の前に横たわる問題は解決したわけではなく。
「…で、当面の問題として俺はあの紙に何て書けばいいんだ?」
「テキトーに書いとけば?」
「元親を嫁に迎えます、って?」
「ば、バカじゃねぇのかお前…!!」
やっと崩れた大人の余裕を鼻で笑って、政宗は元親を抱き寄せた。
「っつうか先生!!」
顔を赤くして訂正されても全然制止にはならないのに。はいはいと軽く頷いて、その額にすばやく唇をおとした。
「!!政宗っ!!テメエここは学校だって言ってんだろうが!!」
素早く体を離して、政宗は元親のむかいの椅子に腰を下ろした。プリントをよりわけながら唇を引き上げて。
「学校じゃ名前は呼ばねえんじゃなかったんですか?元親先生」
うぐっと言葉に詰まった元親を見返して、政宗は小さく笑った。
「先生が唸るアメリカン・ドリーム並のロマンに溢れた進路希望を書いて提出してやる」
「いや、アメリカンドリームは比喩だからな?ホントに書くなよ?学年主任に小言いわれるのはおれなんだからな?」
「何がいっかねえ?」
「おい、伊達聞いてんのか?!」
そうだなあとプリントを揃えながら考える。先生につりあうイイ男ってことにでもしとこうか?嘘ではないし、立派な進路目標だ。だがまあ。
「学年主任に小言くらったら、二者面談だよな?」
楽しそうなその言葉を聞いた元親は、顔を歪めて頭をかいた。
「・・・出された紙みるの、楽しみにしてるよ!」
焦りはまだ体の底に沈んでいるけど、体をかき立てるような焦燥はもう感じなかった。
=一言=
生徒×先生万歳!(イイ笑顔)
先生は世界史担当なんです。こぼれ話とかコネタとか面白く熱く語ってくれます!
筆頭は色々考えちゃう高3生!
3−Bです。
つまり「3年B組元親先生」です(笑)
皆様の細やかな情景描写にパソコンの前でため息ですよ!!