片陰


こいつは時々、ひどく綺麗な顔で笑う。


しゅわしゅわと木々の間を木霊する蝉の鳴き声。
濃い陰影がその顔に落ちて、瞳に紗をかぶせたような薄影。
生ぬるい濃密な空気が肌をじんわりと湿らせる。
それはまるで蜉蝣のようだった。
黒の着流しを着た若い男の姿。
浮かび上がったその姿がゆらりと揺れる。
男は笑った。
声もなく。ただ、穏やかな微笑をその唇に薄くのせて。
墓参りとは違うだろうが、似たようなもののようなものじゃないかと元親は思っている。
菊の花でも持ってこようかと思わなくもない。
けれど、元親がこの場所にくるときはいつも手ぶらだった。
酒の一献、水の一滴も手向けたことはない。
何故ならその理由を見いだせないからだ。
元親はこの男の名すら知らない。
元親は男のことなど何も知らなかった。
姿を見ることはできても、声を聞くことは叶わぬ。
初めて会ったときに、元親は何故かそのことを分かっていた。
山の中にある竜ヶ淵。
川魚が泳ぐ清水。流れ込む細い滝。
初めてその姿を見たのは子供の頃。
夏の終わり。
お化けだ幽霊だと騒ぐことも知らない幼き頃に、元親は男と出会った。
それ以来、毎年夏に、男はこの竜ヶ淵に姿を見せる。
夏の終わりだけに。
男はただ静かな、かすかに笑みを含んだ柔らかい顔で元親を見た。
それだけの、たったそれだけの時間を、毎年、何故か元親は飽きずに繰り返してきたのだ。
我ながら体が呆れるくらいに大きくなっても、それはかわらず。
触れたいと思ったことすらない。
触れられぬことを知っているからだ。
ただ、声を聞けぬことは残念に思っていた。
元親は男に聞きたいことがあった。
男の名前を聞きたいのではない。
男が誰なのかを聞きたいわけでもない。
ずっと問いたくて、でも口に出せずにいたこと。
何年経とうが変わらぬ外見。
手を伸ばせば突き抜ける透ける体躯。
空気を震わせることのない声。
もしこの男が幽霊だというのなら、あるのはこの世への未練なんだろう。
ならば何故。
ならば何故この男は。





「なあ、何でお前は、おれを見て嬉しそうに笑うんだ?」







そして何故おれは、お前の綺麗な笑みを見るたび泣きたくなるんだろう?