ちはやぶる
よお、と聞き慣れぬ声がして、元親はふと手を止めた。
瞬いてバチを持つ手を下ろす。
声のしたほうへと顔を向ければ、舞殿の下から元親を見上げるようにして、
男が少し離れたところに立っている。
最近ではお目にかかれないほどに純粋な黒色の髪。
妙に造作の整った顔立ちをした男だったが、はっとするほどに目を惹くのは金色に輝く野性的な一つの瞳だ。
片方、右目を黒い眼帯で覆い隠していてもなお、思わず目を伏せてしまいたくなるほどに。
気が付けば、この場所にいるのは元親とこの男の二人だけだった。
静寂が満ちた神社の境内。
今は丁度、明日の祭りの最終練習だったはずだが、いつの間に休憩になったのか。
首を傾げはしたが、元親はさして気にしなかった。
元々、太鼓を叩いているときは周りのことに気づかないほど打ち込んでしまう質だということは自覚している。
男は舞殿の下に立ったまま、何してやがるとそう問うた。
元親は瞬いた。
舞殿の真ん中に据えられた大太鼓。
バチを持つこの手を見れば、何をしているかなど分かるだろうに。
「太鼓を叩いてんだよ」
けれども元親は律儀に男に答えてやった。
男はなおも問う。
「何のために叩くんだ?」
「何のため?」
元親は少し笑った。
何を今さらのことを聞くのだろうと思ったのだ。
明日はこの神社の祭。
穢れを祓い、この地を見守る神へ感謝するための祭だ。
祭の太鼓は神事の一つ。
それはこの社におわす神のため。
そこまで構えて叩いてるやつは、まあいないだろうけどよと、胸の内で微苦笑を浮かべて、
そうさなあと元親は首を傾いだ。
遥か昔からこの土地を見守ってくれている神へ。
「一年、おれたちを見守ってくれたここの龍神様を、ねぎらうために叩くのさ」
そうか、と男は軽く頷いた。
その金色の目が面白そうな色を讃えて光る。
「なら、明日は直に聞きにきてやるぜ」
風がまるで愛撫するかのように頬をなでた。
男の声が風に乗って届く。
まるで耳元で囁かれたように。
「おれを満足させてみな」
唐突に、喧噪が耳をついた。
瞬く。
舞殿の周りには祭の関係者が何人もいた。
ただ、鮮烈な金色をその瞳に持つあの男の姿だけがなかった。
***
祭は日が落ちたころに始まる。
夕焼けの薄いオレンジ色が雲が薄く流れる空を染めていた。
神主が神事の奉納を告げる。
舞殿から少し離れた所に人の列。
元親はゆっくりと立ち上がった。
真ん中に据えられた大太鼓。
バチを両手に持ち腕を伸ばす。
す、と流れるようにまっすぐと上へと持ち上げ。
どおん。
元親の音でそれは始まる。
初めは低く静けさを破らぬように。
胎動にも似た深く低い震え。
どおん。
一打、叩くごとに空気が震える。
大地が震える。
血が、震える。
眠っていた何かが起きあがるように。
手のひらに返る振動がそのまま体の内側まで入ってくるようだ。
臓物を揺さぶり、心の臓を揺さぶり、魂を揺さぶるその波。
だんだんと早くなるリズム。
緩急を付けてうねる鼓動。
「ソッ、ヤッ」
風が吹いてきた。
遥か彼方から、鈍色の雲がすごい速さで流れてくる。
まるで音に引き寄せられているように。
どおん
静から動へ。
変わる空気。
舞い踊る鐘の甲高い声。
練習で疲弊したはずの腕が、バチさえ持てば、筋肉の震えは止まる不思議。
雲が流れる。
鈍色の雲が空を覆う。
遠雷。
風が髪をけぶらせる。
雨がふっても、よほどのことでないかぎり奉納は続く。
元親はただ叩けばよい。
一心不乱に。
何も考えずにただ空気を、魂を震わせればいい。
どおん
それはどこか雷の唸りに似ていた。
元親は息を吐き出した。
ああ、見られている。
見られていることを知っている。
誰が見ているのかも。
体に突き刺さるその視線を、全身で感じていた。
本殿の前に設えられた祭壇。
そこはこの社の主、この地を守る神が座る坐。
元親の視界にあるのは太鼓だけ。
なのに、重なるようにして見えるのは。
輝く肌は鱗のそれ。
漆黒の髪から伸びる艶やかな角。
そして金色の一つ目。
その男は神坐にあぐらをかき、右手には神酒の入った盃をもって、瞬きもせずに元親を見ている。
元親は体をぶるりと震わせた。
けれどその震えは腕に伝わる前に霧散する。
神坐に座る不遜な者がいるというのに、誰も騒ぐ者がいないということは、皆には見えていないのだ。
元親だけが気づいている。
元親だけが知っている。
ああ。
心臓の鼓動と込めた魂が連なった音が大気を震わせる。
雨。
雷音。
ざわつく周りの喧噪など耳に入らない。
視界にも。
耳を打つのは己の鼓動と、太鼓の音。
瞳に映るのは太鼓と、己を見つめる一つ目の男。
もっと激しく降ればいい。
もっと激しく鳴ればいい。
元親は知っている。
それは証だ。
神が歓ぶ吉兆。
元親は声に出さず吐息をこぼした。
脳が痺れる。
息が詰まる。
心臓が破れそうだ。
それでも。
いつまでも打っていたい。
なあ。 アンタは この音で この魂で 満足してくれているか?
これは貴男へ捧ぐ音。
どおん。
神鳴り。
それはまるで是というように。
その唇が弧を描いたのが見えた気がして。
=後書き=
久々の和太鼓は腹に、というか内臓にずしんときた。
まさしくダイレクトアタック。
距離が近かったってのもあるけど、内臓が振動するってあんまりないよ。
天気はあまりよくなくて。
丁度太鼓をたたいている人たちの上に曇天。
すごい速さで流れていくけど、風は冷たく、夕立がきてもおかしくない空で。
その下で、静かに、ときに激しく打たれる太鼓の音は、何だかとっても、胸が震えました。
そんな感動を妄想へスライド(正直)
着流しで酒かっくらいながら兄貴が汗を流して太鼓を一心不乱に叩いているのを眺めている龍神筆頭って絵は
とてもエロイと思いませぬか(真顔)
ちはやぶる は神にかかる枕詞。