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 血を求める本能からか、血の臭いには敏感だ。そしてその臭いは一種の興奮剤でもある。
本能が求める、魂からの餓えを満たしてくれるモノを目の前にして、獣が興奮を抑えられなくなるのと同じだ。
そしてその興奮は、捕食しているときに頂点に達している。血の臭いで乾きを呼び覚まされ意識させられ、吸血行為に及んでいるとき、自分たちは興奮の頂点にある。
そしてそれは、一種の快楽をともなって、吸血される側をも恍惚状態にさせるのだ。

 元親はそう考えていたし、それは実際事実だろうと思っている。
 でなければこんなくだらないことをくどくどと考えているわけがないからだ。
 喰ってやるという言葉はある意味では正しかったが、元親が思っていたそれとは少しばかり逸脱していた。
 首筋に歯を埋めて血を啜り、政宗は正しく元親を喰いもしたが、元親の命はそこで消えはせずに、まだ心臓は動いている。
 いささか動きすぎだと思うほどに、早い脈を刻んでいる。
 身につけていた服はその手によって脱がされ、寒さで肌を震わせているはずが、どうしてか燃えそうな熱さを持て余すようにあえぎをこぼす。
 肌を晒しながら、元親は涙でにじんだ視界を少しでも明確にしようと瞬いた。
 滴が目の端からこぼれ落ちるのと同時に新たな刺激が脊髄を這い上って、声を上げて体を震わせた。
 まさしく今、政宗は元親を喰っているのだ。
 絹一つまとっていない元親とは対照的に、政宗自身は首元のスカーフを取り払って上着のボタンを二三外しただけである。
 丁寧に首筋を舐められたからもう血は止まっているのだろうかと元親は考えた。
未だ傷口から血が滴っていたとしても、それは政宗の糧となるだけで無駄にはなりはしないだろうが、むわりとこもるような血の臭いにそんな馬鹿みたいなことが気になった。

 元親の体に口づけを落としながら、政宗が問う。
「なあ、何でさっきから黙って言いようにされてんだ?」
 欲の滲んだ甘い声だ。
 毎夜女と踊ったあと、真白いシーツの中、こんな声で女に囁いているのかと思えば、胃の腑が焼けそうになった。
「おれに負い目があるからか?それで大人しくいいようにされてくれてんのか?」
 こちらが答える隙もなく降り注がれる問いかけ。
 思わず違うと唇を開けば、音になるまえに政宗のそれによって塞がれ、言葉は政宗に届かない。
 翻弄される口づけの合間。
「寂しかったんだろう?一人でいることが。道連れが欲しかったんじゃねえのか?」
 これまた反射で違うと答えようとして、元親は瞬いた。
 絡まる舌。皮膚をたどっていく手のひらの温度。
 皮膚の下で何かが疼く。
 男の体温が愛おしいと喜んでいる自分がそこにいる。
 否定の言葉は喉の奥でつまった。
本当に違うのか?政宗の言葉は正しいのじゃないのか?
「こんなおれを見たくないというなら、どうして血を飲ませておれをこんな生き物にした?」
断罪の刀がぎらりと光る。
 唇が開放される。咳き込むようにして呼吸をした。
 爛れたように唇が熱い。
 元親を抑え付けて、政宗は瞬きをせず炎を凝らせた赤い瞳で元親を見つめた。
 逃げることは許さないと瞳が告げる。
 伸ばし続けた最後の審判。
 今がそのときなのだ。
 唇を歪んだ弧を描いて、政宗は笑んだ。
「ああ、それとも罪悪感で大人しくしてんのか?化け物にして悪かったって?」
 乾いた声は誰を笑っているのかも分からぬ嘲笑だった。
 胸にささった断罪の刃。
化け物。
今まで一度も政宗が口にしなかった言葉。
涙が溢れた。
この瞬間元親の中で何かが壊れた。
 親愛愛情後悔負い目淋しさ孤独絶望手放せなかった生消せぬ本能執着脅え。
 政宗と出会ってから得た光にも似た愛おしい思い出も、後に抱えた十字架も、元親が人だったころの思い出も、後に積もっていった悲哀も。
静かに沈んでいたものが噴き出した。

「ああそうだ!」
 元親は両腕を持ち上げ顔を覆った。
 熱く掠れた声はどこか悲鳴に似ていた。
「お前の言うとおり、おれは化け物だ!おれの身勝手で、テメエも化け物にしちまった。許されねえことをした!」
 目の奥、喉が燃えるように熱かった。
 あふれ出てくる言葉を熱を留めることができない。
 断罪の刃はこの身に落ちたのだ。
 全てをさらけ出すことしか元親には出来なかった。
「テメエの未来を奪っちまったんだ!お前が継ぐはずだった領主としての地位も名誉も、愛したはずの伴侶も、子供も全部!」
 手のひらで目を覆い隠し瞼に爪を立てた。
 あんなことさえなければ、政宗が当たり前に得るはずだっただろうもの。
 政宗の、未来。
「おれのせいだ!おれが悪いんだ、おれがっっ!」
 それしか言葉をしらぬ幼子のように元親は繰り返した。
 立てた爪でこの忌々しい深紅の瞳を抉ってしまいたい。罪を叫ぶ悲鳴で喉をつぶしてしまいたい。
 指先に力を込めたとき、無理矢理に顔を覆う腕をはがされた。
 その腕をシーツの上に縫い止められて、元親は脅えたように瞬いた。
 脅えたのは抑え付けられた腕の強さにではなく、間近にあった政宗の瞳にだ。
 絡まった視線。
 唇を塞がれ、元親は思わず目を閉じた。
 息も叫びも奪うかのような口づけに、閉じた瞳の端から滴が流れ落ちた。
 今この瞬間死んでしまいたかった。
 唇が離れた、でも吐息がかかりそうなその合間に。
「もう、殺してくれ…」
 元親は消え入るような声でこぼした。
 元親を抑え付けていた体が離れていく。
 政宗は体を起こして項垂れた。
 その様をのろのろとした視線で元親は追い、ついで目を見開いた。
「おれは!」
それは血の吐くような声だった。
 聞いたことのない声だ。
「おれは別にそれでもよかった!」
「……」
顔をその両手のひらで覆って、政宗は弱々しいとすらいえる声で言葉を吐いた。
「アンタと一緒にいられるなら、それでもよかったんだ…」
 沈黙が落ちる。
 元親は涙を拭うこともせず目を見開いたまま下から政宗を見つめていた。
 この男は、何を言っているんだろう?
 元親には分からなかったのだ。
 政宗が何を言っているのか。
 その言葉の意味も。
 どうして声がかすれているのか。
 上げた顔のうえにある、どこか泣きそうにも見える表情の理由も。
「あの頃から、ずっとアンタと一緒にいたいって思ってた」
 揺れる指先が、頬に触れる。
「ずっと、こんな風に触れたかった」
「……」
「好きだったんだ。アンタを、愛してる」
これは何の幻だ?
それともこれは罰なのだろうか。
これが元親が侵した罪に対する罰だというなら、非道すぎる仕打ちではないだろうか。
胸が喜びで満ちるのを止められない。
 気がつけば、元親は唇を開いていた。
「お前を無くしたくなかったんだ…。お前を死なせたくなかった。いつか別れる日がくるとしても、ずっと先だと思ってた」
 腕の中で冷たくなっていく体。
 身を包む恐怖を思い出す。
 罪だと自覚していてもなお、踏み出すことをためらわなかった瞬間を。
「いきなり奪われることが、許せなかった。それだけのために、おれはお前を化け物にしたんだ…」
 頬を包む少し冷えた手のひらに、胸が詰まる。
 この温度は幻じゃない。
「お前の言うとおりだ。どこかで、ずっと一緒にいてくれる相手を欲してた。それがお前ならとも思ってた」
 向けられる瞳が揺れた。
「お前のためじゃない、自分の欲のためにやったんだ。けどおれは、お前を人を殺める存在にしたかったわけじゃねえっ…」
 ずっと閉じこめていたものまでが叫びとなって溢れるのを止められなかった。
「おれだって昔は人間だった!人間でいたかった!」
 元親が人をやめたときからずっと身のうちに沈めてきたもの。
遠い記憶。
そのとき元親は運悪く森の中で迷ってしまったのだ。
雨が降っていた。視界がきかぬなかで、せめて日が暮れるまでに村に帰ろうと焦ったのが、またさらに良くなかったのだろう。
黒い森で道を失った者の末路など決まっている。
森をあてもなく彷徨ったあげく獣に喰われるかのたれ死ぬかの二択だ。
死にたくない。そう思いながら動けずにいたら、誰かに同じ事を問われた。
「死にたくないか?」
 助けかとも喜ぶ気持ちも麻痺していた。
 ただ、言葉にだけ反応して頷いた。
「なら、可能性をくれてやろう。このままだと主は数刻もしないうちに死ぬであろう。が、運が良ければ新たな生を得られるだろう」
 もう一度、死にたくないかと問われた。
 元親はもう一度頷いた。
 唇を指がこじ開けて、芳香の強い何かが喉を灼いて落ちていった。
 そこで一度記憶は途切れる。
目が覚めたとき、元親は己の体が軽いことに驚いた。
見知らぬ男が側にいた。
兎を投げつけられ、男に何か言われる前に、新たに芽生えた本能が反応した。
その獣にかぶりつき、むさぼるようにして血を啜った。
 一息ついたあと、元親は己に愕然とした。
 男はただ淡々と、元親の疑問に答えるようにいくつかの言葉を残して消えた。
 一つ。簡単には死なぬ体を得たこと。
 一つ。血でよってのみ生を繋ぐことができること。
 一つ。子供を残せぬ事。
 つまり人ならぬ生き物になったのだということ。
 一人となった元親は、逃げるように旅をした。
 故郷の村に帰るという選択肢はなかった。
 泉で水を飲もうとしたときに映った己の姿に、男の言葉は真実だったのだということを突きつけられたのだ。
目が紅玉のようになっている。
 村には戻れない。
 それでも人恋しさはどうにもならない。
我慢できずに、旅先でたどり着いた村に住み始めた。
けれど外見が変わらない自分は、長く定住することはできない。
数年経てばまた逃げるように村を離れ、違うところでまた数年過ごす。
そんなことを繰り返してきた。
人ではない自分が人と交じって暮らしていても、結局のところで淋しさを埋められるはずもない。
どのくらいの間、そうやって過ごしてきただろう。
 ふと、郷愁が芽生えた。
 おぼろげな記憶をどうにかたどって、かつて己が育ったであろう村に帰った。
 記憶とは違う視界に映る光景に、けれど何故か涙がこぼれてとまらなかった。
 知る人が誰もいないことに覚えた感情は、寂しさではなかった。
 ただ、実感しただけだ。
 こうやって自分は、取り残され一人で生きていくしかないのだということを。
 離れがたくて、その村で住み始めた。
住み始めてしばらくして、政宗と出会ったのだ。
「できるのなら、人間としてお前と出会って、一緒に生きていけたらって、そう思ってた!人間のお前に惹かれたんだ…」
 最後の言葉は呟くように闇に溶けて消えた。
 見下ろす政宗は、絶望的な笑みをその顔に浮かべた。
元親と同じ赤い瞳に、暗い炎が揺らめいた。
政宗は乾ききった声で嗤う。
「化け物のおれは望まないか」
「違う!お前はお前だ。だからおれは、お前の側を離れられねえんだ。お前のやることが許せなくても、おれは離れることができねえんだよ。
お前を止めることもできねえくせに、側にいることを手放せねえっ」

「……」
「お前に喰われてもいいって思ったのは本心だ。気が付いちまった。おれは結局ただ、お前を誰かに獲られるのが嫌だっただけだってことに。
お前が他の誰かを求めたって、おれに止める権利なんてない。分かってても嫌だった。
お前の側にいられなくなるならいっそ、お前に喰われたかった。お前のものになりたかったんだ…」

「…何で、おれがお前以外を求めるなんて思ったんだ」
「…おれたちみたいな生き物がどうやって存在を繋いでいくのか、聞いただろ?誰か道行きを共にしたい女が出来たのかと思ったのさ」
 自嘲しながら答えれば、政宗は眉を寄せて瞼を固く閉じた。
「…もう、殺さねえ。血の味は、覚えちまったから、飲まねえとはいえないが、それでも、殺さねえようにする。
アンタが望むなら、人だったころのように振る舞う」

「政宗?」
「アンタがおれを変えたのは、おれを惜しんでくれてるからだと思ってた。おれは嬉しかったんだ。
あのときおれはもう、アンタの側にはいられないと知っていた。でもアンタが生きてる。それで満足してた」

 元親は体を起こした。
「もういちど、アンタの顔を見れたとき、共に生きれる体を得たのだと知ったとき、おれは嬉しかったんだ」
泣きそうな顔が元親を見ている。
「けど、アンタは笑わなくなった。いつでも、喉に言葉がつかえたような顔で、そのくせ何も言わねえ。眉を寄せて泣きそうな顔して、おれを見てる」
 たまらず、元親は手を伸ばした。
 政宗の手の甲に触れた指は、恐る恐るといったように政宗の長い指に掴まれる。
 握りしめてくる。
「アンタが手に入ると思ったんだ。でもアンタに手が届くどころか、どんどんアンタは離れてく。
おれが変わってしまったから、アンタはおれを疎んだんだと思った。
アンタがおれを変えたくせに、わき上がってくる欲求に従ったら、アンタは絶望したような顔をした。そのくせ何もいわねえ」

 どうしようもない苛立ちばかりが募っていくのだと政宗は熱のこもった掠れた声で言った。
 元親の指を掴む手の力は痛いほどに強く。
「押さえがきかなくなるんだ。血が騒ぐ。アンタを求めて、血が騒ぐんだ」
 元親は喉が干からびているのをどうにかしようと唾を飲んだ。引きつったような音に、政宗は眉寄せたまま元親を見た。
 先ほどと違うのは、目の高さが同じなこと。
 迷子みたいに揺れる目がそこにあった。
 その瞳に、同じような目をした自分が映っている。
「なあ、おれにはもう、アンタしかいねえんだ。あの頃は、大事なモノはたくさんあった。
家や領民、それこそたくさんだ。でも一年前のあの日から、おれの中に残っていたのは、アンタだけだった」

 元親は己の顔がくしゃりと歪むのが分かった。
 政宗の声に、言葉に、その瞳が己だけを映すことに、体が震える。
「アンタしかいらない。アンタだけがいればいい。そう、簡単に思えちまった。いっそ自由さえ味わった。こんなおれを軽蔑するか。
おれは、アンタだけがいればいんだ」

 震える唇をこじ開ければ、掠れた吐息がこぼれた。
 喉の奥からせり上がってくるものがある。
 瞳を合わせたまま、元親はわななく唇を動かした。
「おれも、お前のことが好きだ。好きだからって理由で、許されないことをした」
 こぼれおちるむき出しの願い。
「なあ、側にいてくれるのか。永劫にも似た長い時間を、一緒に生きてくれるのか。こんなおれの、側にいてくれるのか…?」
 許されないことをした。
 許されることなどないと思っていた。
 政宗は眉を寄せたまま、壊れそうな笑みを唇にはいた。
「言っただろ?おれはアンタさえいればいいんだよ。おれにこの命をくれたのはアンタだ。アンタがおれの生きる理由なんだよ」
 元親、と紡がれた声が、体の一番奥にある何かを震わせた。
腕を伸ばして、政宗の頬に両手を添え口づける。
 吐息を混じらせ、神様と声に出さず泣きながら願った。
 してはいけないことをしました。
 赦されないことだと分かっています。
けれど。
「おれから求めてもいいのか…?」
 手を伸ばしてもいいですか。
 差しのべてくれる体温があるのなら。
 手を差しのべてくれるのなら、その手をとってもいいですか?
「求めてくれよ」
 頬にあてた手の甲を包むようにして添えられた政宗の手。
 額を合わせて、滲む視界に映っているのは政宗だけだ。
「…好きだ、政宗。ずっとずっと好きだった。許されるなら、ずっと一緒にいたいって、そう思ってた」
 熱く火照る唇を舐めて、元親は息を吐き出した。
「愛してる」
 元親の手を包んでいた手のひらが震えたのが分かった。
 政宗の肩口に、額を寄せて目を伏せる。
求めることを許してくれるというのなら。
「おれをお前のものにしてくれ…」
 応えるように抱きしめられた。
 強く。
 耳元に、濡れた声。
「You are mine and I am
yours,my dear」
 それは鼓膜が溶けそうなほどに熱く。
「I love you」