V

 元親は己ののど元に手をやって、小さく息をついた。
 この場所は息が詰まる。
 息が詰まるのは香水とおしろいの匂いが充満するこの場所と、首をしめるスカーフのせいだ。
 元親自身は似合わないと思うのだが、視界の先にいる男には大層似合っていると元親も思う。
 今の二人の肩書きは、どこともしれない異国からやってきた貴族の子弟。
 領主の親切で領地にある屋敷を借りて、優雅な生活を送っている。
 それもこれも、元親の視界にうつる男の滑らかに動く舌と甘い囁きのたまものだった。
 元親も別に口下手という訳ではなかったが、政宗の弁論術には劣る。
 少なくとも、口先だけで屋敷を勝ち取ることはできない。
 口先と、あとは手癖、かもしれなかったが。
 この日は丁度領主の館で夜会が催され、当然のごとく二人にも招待状が届いたのだ。
 元親はどちらかといえば、このような貴族階級の夜会とやらには縁遠いし、初めて顔を出したときにはっきりと、自分には苦手な場所だと知ったから、あまり乗り気ではなかったが、政宗に無理矢理引っ張ってこられたのだ。
 気分転換に丁度いいだろうと政宗は言う。
 踊り狂って旨いモノでも喰えば、その辛気くさい顔も多少は晴れるんじゃないか、と。
 言葉通り、政宗は着飾った令嬢たちと戯れに言葉を交わし、円舞に身をゆだねている。
 くるくると回るドレス。
 見目麗しい令嬢たちから名残惜しそうに引き留められる、これまた見目のいい男。
 白い肌に赤い瞳は幻想的だと大層評判で、漆黒の髪が尚更映えると、女達はため息をこぼす。
 政宗は時折女の耳元に唇を寄せては、唇を弧に描いて微笑んでいる。
 一応顔は出したし、元親はそろそろ帰ろうかと腰を上げた。
 ここにいても居場所がないし、政宗と違って、いる理由もなかった。
 湿った夜の冷たい空気を胸一杯にすいこみたかった。
 何の匂いか分からぬような甘さで充満したものではなくて。
 半ば逃げるように、おざなりに礼をして退席しようとしたところで。
「Hey,元親。もう帰るのか?」
「…ああ」
 いつのまに来たのか、政宗がすぐ後ろにいた。
「来たばっかじゃねえか。もう少し楽しんだらどうだ?」
「…おれには向いてねえよ」
「そうか?」
 政宗は手を持ち上げて、唐突に元親の髪に触れた。
 長い指が元親の銀色の髪をつまむようにして撫でていく。
「アンタの見目も、大層評判がいいぜ?」
「んなことねえだろ」
「おれが言うんだ、信じろよ」
「……」
 元親は眉を下げた。
 褒められているのだとは思うが、そのまま受け取るのもどうかと思ったのだ。
 政宗は髪から手を離して、くっと喉の奥で笑った。
「素直に喜んどきゃいいんだよ」
 元親はその言葉には触れずに、先に帰るわと一言告げた。
 あっさりと、政宗はそうかと頷いた。
 お前は、と問う前に、政宗は少し首で振り返って、後ろを目で指し示した。
「おれはこの夜を楽しんでから帰るぜ」
 何人もの女が、伺うようにこちらを見ているのが分かった。
 にっこりと笑って、政宗が手を上げればもう、女達の顔がとろけたようになるのが手に取るように分かる。
 首を再びこちらに巡らせ、政宗は機嫌良さそうに笑った。
赤い瞳が楽しそうに光り、政宗はちろりと唇を舐めた。
 その様はひどく扇情的だ。
 それでいて、それはまるで捕食する前の獣のような即物さを含んでいて、元親はいつも居心地悪く目を反らすしかない。
 政宗も分かっているのだろうが、だからといって取り繕うなんて考えはないようだった。
「今日は上玉ぞろいだ。なあ、そう思わねえか?」
「精一杯着飾ってんだ、そりゃ綺麗に決まってる」
 政宗は呆れたように鼻を鳴らした。
「アンタは粗食だからな」
 そんなんじゃないとは言えなかった。言ったところで会話は続かないことは知っていたからだ。
 朝までには帰るさ、帰してくれたらな、と見惚れるような笑みを残して、政宗は女達の元へと踵を返した。
 元親は何も言わずに、その場を去った。
 湿った夜の空気を吸い込んでようやく、呼吸ができたような気がして、元親は顔をしかめた。
 のど元にまとわりつくスカーフを乱暴に抜き取る。
 やっぱり堅苦しい格好は向いていない。
 けれど政宗が似合うと言って見繕ってくれたのだから、着ないわけにはいかなかった。
 あてがわれた屋敷に帰って、元親はさっさと自室に引っ込んだ。
 使用人を何人かつけようかといってもらえたが、それは元親が固辞した。
 気ままな旅の果てでの現地暮らしには慣れているから、二人のほうが気を遣わなくて楽だと。 
 好意でやってきてくれた使用人を屍で帰すわけにはいかない。
 柔らかい寝台に着の身着のまま寝そべって、元親は目を閉じた。
 やっぱり夜会になんて出向かなければよかった。そんなに酒を飲んだわけでもないくせに、悪酔いしたかのような気分だ。
 こんな日に眠ると、大概悪夢に苛まれるのだ。
 元親にとっての悪夢。
 一年前のあの日から、元親にとっての悪夢は一つだった。
 あの日、元親が罪を犯した日。
 このまま眠ると良くないと分かっていても、重さを増した体は動くことも億劫だとばかりにシーツに沈み、瞼も意志に反して落ちようとしている。
 逆らうことも面倒で、元親は大人しく目を閉じた。
悪夢に身を落とすことは、ある意味当然のことだから。
 幾たびかの夜を経て目覚めた政宗は、元親の血によって人ならざるものへと生まれ変わっていた。
 新たな目覚めの祝福にはワインではなく命を繋ぐ深紅の滴。
 個人差で、血を飲むことに拒絶反応を示すこともあると聞いていたが、政宗は一気にそれを飲み干し、あまつさえ旨いと言った。
 血の匂いと味に酔ったような、甘い声と恍惚とした表情に、元親は顔を歪めた。
 こんな顔をさせたかったわけじゃない。
 けれども、元親には他に選択肢がなかったのだ。
 政宗を死なせないためには、他に選択肢がなかった。
 政宗の意志など関係なく。
 元親は今さらながら、己の身勝手さを知った。
 政宗の意志を無視して、その身を、人ならざるものにしたこと。
 人からすれば永遠にもにた寿命。
 多少のことでは死ぬことも出来ない。
 血をすすることでしか命を繋げず、また子を成すこともできない。
 そんな存在にしてしまった。
 ただ、一人残されるのがいやだったからという理由で!
 元親は人が好きだ。
 それは元親自身がまだ人だったころの記憶を留めているからかどうかなのかは分からない。
 人が好きな元親は、人でなくなっても、人とともに暮らしたかった。
 寿命の違いから、一つの場所に落ち着くことはできないとは知っていたけれども、それでも何年かは同じ場所で生活をして、人と交じって暮らしてきた。
 元親ももちろん、命を繋ぐために血を必要としてはいたが、人と暮らしていくために、人の血は口にしないと決めていた。
 森に行けば獣たちがいたから、どうにでもなった。
 けれど、政宗は人の血が気に入ったようだ。
 あれは政宗が目覚めた後すぐ、逃げるように街道を北上していたときだった。
 立ち寄ったのはその辺りでは大きな町。
 人が多いから、紛れるのも簡単だ。
 そんな所では諍いが起きるのも簡単で、ちょうど二人が食事をとろうと酒場にいたときにも、喧嘩が起きた。
 初めは興味ないと言ったふうに、気にもとめずに酒をなめていた政宗だったが、その様が変わった瞬間があった。
 鼻孔をくすぐる鉄の匂い。
 しまったと元親は思った。
 振り返れば盛大な喧嘩につきもので、流血沙汰になっていた。
 血を好む性からか、血の臭いには敏感だ。そしてそれはある種の興奮作用をともなって身をざわつかせる。
 目覚めたばかりの政宗には刺激が強すぎるのだと気がついたときには、遅かった。
 外に連れ出したとき、政宗は元親に言った。
 喉が渇いた、と。
 唇を舌で示しながら、元親の瞳を見てそう言った。
 そこへ、花売りの女が二人に声をかけてきた。
 元親が止める間もなかった。
 政宗は女を強引に路地裏に引きずりこんで。
 その細い首筋に顔を埋めていた。
 うっとりとした女の顔からそのうちに血の気が引いていき。
 政宗が顔を上げれば、女の体はまるで人形のように崩れ落ち動かなくなった。
 政宗は立ちつくす元親に顔を向けて。
 あれより旨いもんがあるなら、さっさと教えてくれよ、と笑った。
 それ以来、政宗は女の血を好んで口にするようになったのだ。
 人の血を啜ることを、政宗はさっさと割り切ってしまった。
 そういう生き物になったってだけの話だろう、と簡単に。
 簡単に割り切って、好んで人の血を口にする。
 それは確かに、自分たちにとっては命を繋ぐ、いわば食事にあたるものだけれども、口にする量はさほどに多くなくても生きてはいける。
 実際、元親はそうやって生きてきたのだ。
 けれど政宗は違った。
 町にいる間は、誰も気にとめないような下層の女達を相手にして、『食事』としていた。
 元親は止めろと言った。
 そんなに血を求めなくても生きていけるんだと。
 そう言えば、政宗は眉を寄せて、何故と問うた。
「何故我慢する必要がある?いいじゃねえか、下水代わりの河に女が一人浮かんだところで、誰も気にしちゃいねえ。おれに私を買わないかと声をかけてきたのはあっちのほうだぜ?おれはちゃんと金を払って女を買った。それで納まる話だろう?」
 元親は目眩がした。
 誰だこの男は。政宗は、元親が共に過ごした政宗という男は、こんなことを平気で口にするような人間じゃなかった。
 人の命を、塵芥と同じように口にするこの男は誰だ。
 元親の声にならぬ声が聞こえたわけではないだろうに、政宗はまるで鼻が触れあいそうなほどに顔を近づけて言った。
「そんな顔するんじゃねえよ。おれはおれだ。アンタのよく知ってる政宗だぜ?アンタこそ何にこだわってるか知らねえが、おれたちはそういう生き物だ。アンタが一番よく知ってるだろう?」
 元親は何も言い返すことが出来なかった。
 そうだ、政宗が政宗であることに代わりはない。政宗の言うとおりだ。そんなこと元親が一番よく知っている。
 もし政宗が変わってしまったというのなら、それは、元親のせいだ。
 元親が政宗を変えてしまったのだ!
 元親には政宗をとどめる言葉を持たず、政宗は己のしたいようにした。
 政宗が西へ行こうと言えば、黙って元親は付き従った。
その土地に潜り込むのは案外簡単だった。政宗はその言葉で、笑みで、いつも簡単に人の心にひっそりと入り込んだ。
 元親は政宗に言われるままに、その度役どころを演じるだけだ。
 夢はいつもあの日に帰る。
 あのあとき、元親が己に向かう矢に気づいていたら。
 いやむしろ、出会わなければ。
 狂おしいほどの後悔と罪悪感を抱えることはなかっただろう。
 けれども、どこかで、共にあれることを喜んでいる自分がいることも、元親は知っていた。
 永遠ともいえる長い生。一人でいることが寂しくなかったといえば嘘になる。いつも誰かを求めて飢えていた。政宗と過ごしていたときも、幸せだったけれど、いつか終わってしまう儚さに脅えていた。政宗が傷を負わなくても、あと何年かしたら、結局元親はあの土地を去らなければならなかった。
 変わらぬ外見。人ではないことを政宗に知られる前に。
 ふと、頬に触れた温度。元親の意識が浮上する。
 戯れのように、長い指が頬を撫でている。
 元親は薄く目を開いた。
 寝台に腰掛けて、政宗が、いた。
 柔らかい優しい笑みを浮かべて、元親を見下ろしている。
 元親は思わず唇で笑んだ。
 胸が満たされ、そして胸が締め付けられた。
 手放せない喜びと身を苛む罪悪感と嫌悪感に縛られて、元親はやんわりと拘束されているのだ。
 訳もなく目の底が熱くなって、じわりと涙がにじんだ。
 困ったような顔をして、政宗は元親の上に覆い被さるように身を伏せる。
 目を閉じれば、目じりになった涙の粒を、政宗の唇が攫っていった。
 香水の香りと本能を騒がせる甘やかな血の香りがした。
 瞬間、元親は目を見開いて、政宗の体を押しのけて体を起こした。
 強ばった元親の顔を見て、政宗は目を細めた。
 冷ややかな瞳が元親を一瞥して、興をそがれたとでもいうように反らされる。
 政宗が立ち上がったとき、寝台が軋んだ音を立てた。
 乾いた喉を手のひらで押さえて、元親は唇を開いた。
「…また、殺したのか?」
 政宗は整えられた己の長い爪を見ながら、否と答えた。
 元親が安堵の息を吐いたところを見計らったように、にやりと笑って続ける。
「ま、明日の朝には冷たくなってるかもしれねえけどな」
「っっ!」
 思わず元親は政宗を非難するように睨み付けた。
 睨み付けた後、視線を落として目を閉じた。
 シーツを握る手に力がこもった。
 こうなることを知っていて止めもしなかった自分に言えることなど何もなかった。
 自分も同罪だ。
「今日の女はいまいちだったがな。ま、酒よりかは喉を潤してくれたが」
「…そういう言い方は、やめろ」
「……」
「やめてくれ…」
 項垂れるように呟けば、政宗はI knowと肩をすくめながら頷いた。
「そういや、厨にいた兎はアンタが獲ってきたのか?」
 元親は政宗から目線を反らして頷いた。
 元親とて、何日も血を口にせずには生きられないからだ。
「あんなマズイもんを何も好き好んで口にしなくてもいいだろうに。今度の夜会のときには最後まで残ってろよ。アンタに一番気に入った女、譲ってやる」
「馬鹿なこと言うんじゃねえ!」
 声を荒げたのは、元親の意志ではなかった。
 その声に一番驚いたのは元親自身だ。驚いたあとは戸惑った。
 体を震わせて政宗を伺えば、政宗は少しばかり苛立ったように目を眇めて元親を見返した。
「おれに言わせりゃ馬鹿はアンタだと思うけどな。まあいい。アンタはアンタの好きにしたらいいさ。それこそ、嗜好の問題だしな」
 そんなことじゃない、嗜好とかそういう問題じゃないだろうと言えたらよかったが、元親の唇はそれ以上言葉を紡ごうとはしなかった。
 部屋を出ようとした政宗が、そうだと振り返る。
 瞳がきらりと光った。
「次にどこ行きたいか考えとけよ」
 その言葉に、元親は己の顔から血の気が引くのが分かった。
 唇がにいと笑みを刻む。白い歯がこぼれる。それはきっとさっきまで赤に染まっていた。
「そろそろここにも飽きてきたしな」
 潮時だろ、とそう言って、政宗は部屋から出て行った。