序
その人は滅多に見ないほどに綺麗な銀の髪をしていた。
閑静な路地裏にある、静かなバー。
たまたま、友人との待ち合わせで来ていただけだったが、その友人が結局仕事の都合で来れなくなった。ならそのままちょっと飲んで帰ろうかと腰を上げずにいたところへ、ちょうどその彼が私の隣に座ったのだ。
しばらくはだからといって何か話しかけるわけでもなく、静かに酒を飲んでいたのだが、何となく、彼の持つ雰囲気にひかれるようにして、この店は初めてかと話しかけていた。
彼は突然話しかけられたことに驚いたふうもなく、静かに笑って、いやと首をふった。掠れた耳に心地いい低温の声は、何故か不思議と、夜の空気に紛れてしまいそうな慎ましさを持っていた。
「久しぶりに来たら、まだこの店があったから、懐かしくなって顔をだしちまった」
旅行か何かで立ち寄ったのだろうか。
首を傾ぐようにすれば、彼はこちらの考えを読んだかのように、旅行みたいなもんだなと頷いた。
色んな所を回ってるんだと彼は言った。
しばらくゆっくりと酒を片手に話をした。
新しい酒を頼んだところで、故郷の話になった。
私が、故郷は東のほうにあるおっとりとした雰囲気の小さな町なのだと言えば、彼はへえと頬を緩めた。
おれの故郷も東のほうにあると彼は言った。
グラスに触れるその唇が、酒精のせいか、ほのかに赤みを帯びているように見えた。
女の私から言うのも変な話だが、白い肌に映えて綺麗な唇だと思った。
「昔話を聞く気はあるかい?」
私は頷いた。
約束がキャンセルになって時間はあったし、どうせ明日は休日だからだ。
そして彼は昔話を話し始めた。
T
そこは国のはずれの小さな村だった。領主が時々避暑地として訪れる館があることを除けば、ごくごく普通の村だ。
元親はそこで鍛冶をいとなむ男だった。
数年前にふらりと流れてきた元親を、初めは村特有の性質から、警戒の混じった目で見ていたが、そのうちに元親を受け入れてくれた。
それは元親のもつ人当たりの良さや笑顔の素直さ、そういったものが村人に信用を得させたからだったが、元親自身にはそんなことは分からない。
ただここ数年は鍛冶屋として、静かに、幸せな生活を送っていた。
そう、元親は幸せだった。
元親には友人がいた。
その友人は、この辺りを治める領主の息子で、時折この村に息抜きなのだろうか、遊びにきていたところに、元親と出会った。
元親は己の外見がそれなりに目立つことは知っていたので、声をかけられたときも、今まで村では見たことがないよそ者がいるから声をかけたのだと思い、素直に相対した。元親はそういったことには慣れている。
そうやって、二度三度と会っては話すうちに、その領主の息子とは友人と呼べる関係になった。
彼は名を政宗といった。
政宗は月に一度は必ず、ひどいときには週に一度、村にふらりとやってきて、元親とともに過ごした。
「アンタんところは居心地がいい。五月蠅いお目付役もいねえし、メシも旨い。ま、ベットが固いのは仕方ねえか」
「人ん家の寝台横取りしといて固いとは言ってくれるじゃねえかよ」
「メシは旨いって褒めてやったじゃねえか」
そんな軽口をたたき合って、暇ができたときには二人で森に狩りにでたりもした。
政宗は元親のところが居心地がいいと言ってくれたが、それは元親も同じだった。
元親も、政宗と共に過ごすのは居心地がよく、楽しかった。
そんな頻繁に抜け出すもんじゃねえよと釘を刺しながら、けれど本当は、気の置けない友人が訪ねてくるのを楽しみにしていたのだ。
ありえないことは百も承知していたけれど、こんな日がずっと続けばいいと、政宗の隣を歩きながら、ともに食事をとりながら、元親は分不相応にも何度も願った。
ずっと、『友達』でいられたらどんなに幸せだろうかと。
いつかは壊れてしまうことは分かっていたけれど、それはまだ遠いいつかのはずだった。
優しい穏やかな生活の終わりは唐突にやってきた。
村が盗賊の襲撃にあったのだ。
たまたま、その日も政宗は元親のもとへと遊びに来ていた。
元親が研いだ剣を片手に、政宗は外へと飛び出していった。
しょっちゅう館を抜け出すとはいっても、政宗は己に課せられた義務を知らぬような男ではなかった。
果敢に盗賊に立ち向かった。
元親も後に続いた。
身一つで生きてきた元親は剣の腕もそこそこにたつ。
政宗はどこだと目で探した。
政宗は、盗賊の首領格とやりあっているところだった。
盗賊の首領は体の大きな、愚鈍にすら見える巨漢だったが、そのくせ動きは機敏だった。
けれど、政宗の動きのほうが遥かに早い。
その剣のうでは思わず見惚れるほどだ。
有事の際には兵を抱え将として王に仕えるのだ。領地を治める治と同じく、剣の腕、指揮官としての武もみっちりと仕込まれているのだと分かる。
実際、すでに何度か政宗は盗賊の討伐などに出ている。この時代、深い森が広がる街道などには盗賊が頻繁に横行していたのだ。
政宗の腕は確実に首領を上回っていたし、さして時間も経たぬうちに、その剣は太ったその首を貫いていた。
これでだいぶに楽になるはずだと、気を抜いた自分を元親は生涯許せないだろう。
政宗と声をあげれば、政宗は元親を振り返ってかすかに口角を引き上げた。
駆け寄って、あとは雑魚どもを追い払うだけだと、笑い合ったところで。
その表情が怖ろしいほどに引き締まった。
それは刹那のこと。
「元親!」
ひゅっと空気を切る音がしたと認識したときには、元親は政宗に突き飛ばされていた。
目を見開いたとき、視界にあったのは、矢をその体に突き立てた政宗の姿。
まさむね、と元親は声にならぬ声で呟いた。
その体がぐらりとかしぐ。
向こう側にはボーガンを構えた男の姿。
状況を理解したわけではなかった。本能ともいうべき何かで、元親は何が起こったのかを知った。
咆吼を上げて元親は駆け、矢を射た男を剣で屠った。
首領の首が落とされたことを知って、退却しようとしていた盗賊たちの、最後の意趣返しらしかった。
馬の嘶き。逃げ去っていく盗賊達には目もくれず、元親は地面に倒れた政宗の元へと駆け寄った。
矢を抜いてはいけないことは分かったが、それでも元親はその矢を引き抜きたい衝動に駆られた。
こんなモノがこの男の体に刺さっていることが許せない。
いや、それ以上に許せないのは自分自身だ。
元親は混乱していた。
泣きそうな顔をして、政宗とその名を呼んだ。
元親の腕の中で、元親を見上げて、政宗は小さく笑った。
見慣れた、ふてぶてしい笑顔だった。
「ア、ンタは、肝心な、とこで、ぬけてるから、なあ」
だから、目が離せねえんだと、そう笑った。
元親はその体を抱きしめて唇を震わせた。
腕の中にある命が細くなっていくことを知ったからだ。
どうしてかばったりなんかしたのだ。
元親は声に出さずに政宗を詰った。
気にかけてくれなくていいのに。お前は次の領主になるんだから。なのにどうして、ただの鍛冶屋をかばったりするんだ。
放っておいてくれてよかった。
どうせ矢があたったところで、元親なら大丈夫だった。
元親は、人ではないのだから。
だから、矢が刺さったところで、どうせ死にはしない。
だから、放っておいてくれてよかった。
「馬鹿野郎…」
「ヒデエ、な」
荒く息を吐いて、政宗は眉を寄せた。
その瞳が遠いところを見て揺らめく。
瞼がすっと落ちていく。
声にならぬ悲鳴を上げた。
か細い息がその喉を上下させている。
政宗の体を抱きかかえながら元親は石像のように体を硬くしていた。
めまぐるしく誰かの言葉が脳裏を埋めた。
それは自身の声だった。
良心の声だ。罪を留める声だ。
そして同時に、それは誘惑だ。暗い声だ。甘美な声で宥めるように罪を肯定する声だ。
元親は体を一度ぶるりと震わせて立ち上がった。
意識のない政宗の体を両腕で抱えて、走り出す。
向かった先は己の家でも、他の住人の家でもない。
村のはずれ、深い森に接する墓地。
混乱のただ中にあった。村人の誰も、走り去っていく元親を見ることはなかった。
U
罪に落ちる瞬間はあっけない。
所詮罪の重さをその身に感じるのは、その時ではないからだ。
足を踏み出させるのは驚くほどに単純な理由だ。
***
いやだいやだいやだ。
元親の内にあったのはたった一つの感情だけだった。
腕の中で失われていく命。
それを見送ること。
いやだった。
みおくること。一人残ること。
胸を占めるのは、政宗と過ごした日々の思い出。
言葉、笑顔、声。今腕の中にある体温。
無くすことを受け入れられない。
その存在を失うこと。それだけは許せない。
死なせたくなかった。
理由なんてそれだけだ。
そこは後ろにある深い森に飲み込まれそうになっている村の墓地。
普段は誰も近づかないそこは、村が混乱の夜を迎えていても、変わらず静かだ。
墓地の一番奥。さらに森に入ったそこは忘れられた神の地。いつに建てられたのか分からない、今はない教えを授ける、教会の残骸。
その下に真っ黒い棺桶はあった。
墓地に棺桶と十字架はつきものだ。
その棺桶の前に重くなった政宗の体をゆっくりと下ろす。
その胸に耳を押し当てて、元親は息を詰めた。
まだ心臓は動いている。
元親は泣いていた。
泣きながらその血の気の失せた頬を撫でた。
胸に刺さっている矢を無造作に抜いた。
赤が飛び散った。頬を汚すそれをぬぐいもせずに、元親は普段から身につけている小さなナイフをとりだして、己の手首を薄く切った。
ぷくりと盛り上がり、つと流れ出す真っ赤な血。
手首を高く上げ、したたり落ちる赤を己の唇で受け止める。
鉄くさい味に息を乱しながら、己の血で汚れた唇を、政宗のそれにゆっくりと重ねた。
乾いた唇をこじ開けて、赤いそれを口移す。
ごくりと嚥下したのを認めて、体を起こした。
ついで、ふせられていたはずの政宗の瞳がかっと開かれ、体が跳ねる。
苦悶の声を上げてのたうつ体をその身で押さえるようにして抱きしめて、元親は泣いた。
泣きながらただ名を呼んだ。
やがてその体から再び力が抜けてしばらくしたあと、元親はその顔を見つめて立ち上がった。
青白かった政宗の頬には血色が戻っている。
けれど、健康的だった肌の色はもう戻らない。
元親と似た、真白い肌。
胸がゆっくりと、けれど規則正しく上下している。
元親は隣にある棺桶を開けた。
政宗には寝床が必要だ。
静かに眠るその体を抱き上げて、ビロードが張られたその上に横たえる。
泣きはらした真っ赤な目で。血に濡れた真っ赤な唇をわななかせて、元親は蓋を閉じた。
そのまま地面に膝をついてくずおれる。
遠い昔に消えていった、どんな神がいたのかもしらぬ朽ちた教会の前で、頭を地面にすりつけるようにして元親は懺悔した。
いつか別れが来ることは分かっていた。
けれどそれはもっと先のことだと思っていた。
唐突に奪われそうになった己の幸せのために。
身勝手な脅えと恐れに唆されて。
してはいけないことをした。
***
彼らは闇に住まう眷属。
人の身をしながら人ではない生き物。
雪のように白い肌をして、血の凝ったような瞳で、月の映える夜に微笑む。
漆黒に紛れて密やかに隣人を訪ね。
その首筋に口づけを落とし、深紅の甘露で身を繋ぐ。
彼らは子を成さない。
彼らが繋ぐ血は、まさしく血でありそれ以外の何ものでもない。
彼らは戯れに自身の血を人に与える。
人ならぬ生き物の血は、人の身を苛み速やかな死を贈るだろう。
しかし、安らかな死の贈りものを拒絶した者は、幾たびかの夜を経て呪われた新たな生を受けるだろう。
闇に住まう眷属の一人として。
***
それは分の悪い賭のはずだった。
血を与えた相手のほとんどは安らかに天へと昇ると聞いていたからだ。
元親が負けるはずの賭だったのだ。
数年前まで自身が眠っていた黒い棺桶の表面を撫でて、元親は目を閉じた。
黒いそれにぴたりと身を寄り添い頬を押し当てる様はどこか迷い子のようだった。
涙が枯れ果てたあとは、できることなど終わりのつきない懺悔だけだ。
これから自分はこの身が滅ぶその日まで、懺悔し続けなければならない。
赦してくれと言うことも自分には許されないことを元親は知っていた。
枯れたと思った涙が一筋、目じりから流れ落ちた。
分の悪い賭のはずだった。賭に負けたあとは、それこそ自分で銀の剣をしつらえて、心臓を貫いてしまえばいいだけの話だったのに。
元親は、賭に勝ってしまった。勝ってしまったのだ。
幾たびかの夜を棺桶に寄り添って過ごした。
細い三日月が闇を切り裂く夜に。
気配がして、元親は体を起こした。
棺桶の蓋が、内側から押し上げられる。
元親は唇を引き結んでそれを見ていた。
ゆっくりと体を起こした男の動きは、以前と同じものだった。
ただ、月光に照らされた肌は、はっとするほど白かった。
「Ah,おはよう、元親」
髪をうるさそうにかき上げた政宗は、元親を認めてそう言った。
元親も、おはようと返した。
政宗はだるさを振り払うかのように頭を振って、喉が渇いたと言った。
元親は立ち上がって、用意しておいたグラスに、ワインの瓶から深紅のそれを注いで手渡した。
一気にそれを呷った政宗は、満足そうなため息をこぼした。
真っ赤な唇を手の甲で拭う。
綺麗な闇色だったはずの深紅の瞳が元親を見た。
「旨いな。こんな旨いワイン、どこに隠しもってたんだ?」
「……」
元親は曖昧に笑ってみせた。
政宗はけれど、手の甲についた赤をふと見て、ぺろりとそれを舐めた。
己の唇を舌で拭って、首を傾ぐ。
「Ah,しかしこりゃ、ワインじゃねえなあ」
びくりと体が跳ねるのを元親は押さえられなかった。
「ワインより甘い。初めて口にする味だ。何とも旨い、後を引く味だな?」
「……」
元親は目を伏せた。
白い手が頬にかかり、無理矢理顔を上向かせられた。
間近に真っ赤な瞳がある。
血の色を解かしたかのような綺麗な深紅。
罪の証。
脅えた幼い子供のような顔をした自分が映っているのが見えた。
その赤い唇が細い弧を描く。
「なあ元親。アンタおれに何をした?」
そう低い声で囁きながら元親の罪が笑った。