八
誰かが呼んでいる。
名を紡ぐ優しい声を知っている。
その声は、強くなるよと、そう言った。
自分からはもう逃げない。
そう告げる声は凛として。
優しい声が遠ざかる。
この身を置いて、先へ行く。
当たり前だ。
ずっと進むこともできずに留まっていた自分。
自分は、力から逃げてばかりいた。
いらないと思っていた。
捨ててしまいたかった。
母に厭われた記憶とともに。
そうしたら父親はそれでもいいと頷いた。
力は記憶と共にこの身から切り離されて。
そして黒い影となった。
母から受け取った恨み憎しみ悲しみ。
掴まれることのなかった手。
寂しさ。
黒い影が浮かぶ。
それは己と同じ姿。
手放して背を向けて、全て影に押しつけた。
静かな目が、こちらを見ている。
ずっと、見られていることを知っていた。
けれども見て見ぬふりをして。
与えられた安らぎに縋って。
「梵天」
去ってしまったと思った声が、名を呼んでいる。
影が、すうと腕を持ち上げ、闇の一点を指さした。
視界にじわりと光が滲む。
そして、彼は目を開けた。
***
「半兵衛、しかし花園は…」
「大丈夫だよ秀吉。さっき使い魔が来て、慶次君がいまどこにいるのか見つけたらしいからね。彼は今、花園で昼寝をしてるらしい。昼寝をし出したら、三日は起きない。問題はないよ」
何やら頭の上がごちゃごちゃうるさいと梵天は思った。
瞼の裏から、光を感じて、目を開く。
途端、何やら全身が引きつったかのような痛みを訴えて、梵天は思わず呻いた。
その声に気づいたのか、半兵衛が梵天を見下ろした。
「やっと起きたかい」
「大丈夫か?」
呆れを含んだそっけない声の半兵衛とは違って、秀吉の言葉は短くともこちらを案じてくれているのが伝わってくる。
「おれ、気を失ってたのか……?」
「それすらも分からないのかい?やれやれ、本当に馬鹿だね、君は。こんな馬鹿のために必死になる千翁はよっぽど、人が良い」
その言葉に、梵天ははっとした。
次々と浮かび上がってくる記憶。
そうだ、自分は使いの帰りに千翁への土産をと思って、花を摘みに行ったのだ。
薄紅色の花を手折ったときに、背後から空気を切り裂く音が聞こえて。
竜の体に変じてもなお体に刺さった幾つもの棘。
とにかく湯屋へ戻ろうと空を駆けて。
痛みで薄れていった意識。
暗闇の中たゆたっていた。
名を呼ぶ声が聞こえた。
千翁が、呼んでくれる声が聞こえたのだ。
「千翁の声が、聞こえたんだ…」
半兵衛は面白そうに鼻を鳴らした。
秀吉が大きな手で梵天の頭を撫でた。
「お前は千翁と一緒にあそこから落ちて来たんだ」
あそこと示されたのは天上付近に開けられた換気口。
「お前は怪我をしていたのだ。千翁は大層心配しておったぞ」
そう静かな声で言われて、梵天は唇をきゅっと引き結んだ。
千翁に心配をかける気も、ましてや迷惑をかける気もなかったのにと、己の力に過信していた自分を叱咤して、梵天は顔を上げた。
瞬く。
「千翁は、今は上にもどっているのか?」
秀吉は何故か隣の半兵衛を見た。
代わりに答えをくれたのは半兵衛だ。
半兵衛は腕を組んで、さらりと千翁の居場所を告げた。
「君の代わりに、花園へ花を返しに行ってもらった」
「…っな?!」
その言葉の意味を飲み込んで、梵天は思わず体を起こして立ち上がった。
いきなり立ち上がったからか、くらりと目眩がしたが、そんなこと気にしていられなかった。
「何考えてんだこの馬鹿半兵衛!あそこには力の強いあやかしがいるんだろう?!そんなとこへ千翁一人でやるだなんて…」
どうかしてるぜと続くはずだった非難は、半兵衛が梵天の額に喰らわせた容赦のないデコピンで強制的に遮られた。
あまりの痛さに、思わず梵天はうずくまった。
「馬鹿な上に尻も青い君に馬鹿呼ばわりされる謂われはないよ、梵天。もとはといえば、君自身がまいた種じゃないか。今更狼狽えるんじゃない」
「けどっっ」
「心配しなくていい」
半兵衛とたしなめるような秀吉の声に、半兵衛は肩をすくめた。
「花園には今慶次君がいるからね」
「?」
「あそこは彼の庭だから、彼がいればあやかしは大人しいままさ」
***
花園はその名の通り、花が咲き乱れている場所だった。
様々な色の、そして様々な大きさの花が、濃い緑の草間から顔をだし、誇り高く咲いている。
半兵衛は花を返してきてほしいといったが、花を返すとは具体的にどうすればいいのだろう。
千翁は悩んだ。
何せ件の花は、今は綺麗な石でしかないのだ。
悩みながらも、その麗しい眼前の風景に、千翁の頬は自然と緩んだ。
隣の梵天に、綺麗ねと笑いかければ、梵天は僅かに首を傾いだ後、ゆっくりと頷いた。
二人で花園を歩いていくと、ふと、何やらくぐもった声が聞こえてきた。
一度足を止めて、よくよくその声に聞き耳を立てると、それはどうやらいびきのようだった。
誰かいるのかしら、とそろそろと音の出所へと足をすすめれば。
「慶次様?」
花園の奥にぽつんと建てられた東屋で、大きな体躯が寝そべってある。
いびきの発生源は、空が茜色に染まった今も気持ちよく午睡を楽しんでいるようだった。
千翁は申し訳なく思いながらも、慶次を揺り起こした。
初めは眉間に皺を寄せた慶次だったが、何度か千翁が声をかけると、その瞼を開いて体を起こしてくれた。
ふわあと大きな体で大きくのびをしながら欠伸をして、慶次はぱちりと瞬いた。
すっきりと目覚めたらしい慶次は、千翁をみやって、あれと首を傾いだ。
「千翁?どうしたんだ、こんなとこで」
「あの、これを返しにきたんです」
千翁は懐から薄紅色の石を取り出した。
慶次に手渡して、ごめんなさいと頭を下げる。
石を受け取った慶次は目を丸くして瞬いた。
「あの、梵天が、禁域のここから、花を手折ってきてしまったのです」
そう説明すれば、慶次は納得がいったというふうに、ああ、と頷いた。
慶次の視線が、千翁の後ろでじっと佇んでいる『梵天』に向けられた。
慶次は千翁にもう一度視線を戻して、見たこともないような柔らかい微笑を浮かべた。
「千翁は、梵を見つけてやったんだな」
千翁はにこりと笑った。
体をずらして、『梵天』と並ぶように一歩下がる。
「ここまで、私を守ってくれたんです」
「そっか」
笑みを浮かべながら頷いた慶次は、手のひらに乗せた石を一度宙へと放り投げてみせた。
掴んだそれを、二人の眼前に差し出して言う。
「ここの花はな、ここでしか咲けねえのさ」
「半兵衛様に聞きました」
うんと頷いて、慶次は『梵天』にいたずらっ子のように目をきらめかせて目配せした。
それから千翁を見て言葉を続ける。
「梵に言っといてくれ。花を摘むならもっと良い場所、教えてやるからってよ」
「? は、はい」
よく意味が分からなかったが、とりあえず千翁は頷いた。
慶次は二人に、着いてきな、と告げて、東屋から下りた。
千翁は『梵天』と二人で慶次の後を追いかけていくと、花が咲いていない一角があった。
慶次が足を止めたのにならって立ち止まれば、花が咲いていないそこにはあったのは、鏡のように磨き込まれた湖面だった。
慶次は屈みこんで手に持っていた石を湖の水に浸した。
湖面から引き上げられた石は、まるで果実のように慶次の手のひらの中で柔らかく形を変え。
慶次がふうと石に息を吹きかけ、土の上に落とせば。
石はたわんで、翡翠色の茎を伸ばし、薄紅色の花をつけた。
「わあ…」
慶次は、これでよし!と手を叩いた。
それからしばらく千翁は『梵天』と一緒に花園を巡ったり、慶次に不思議な力を見せてもらったりして時を過ごした。
慶次は半兵衛がやったように、手のひらから蝶を出し、その蝶を集めて花に作りかえたりして見せてくれた。
けれど、楽しみながらも千翁の意識は湯屋へと向いていた。
湯屋で眠っている、梵天へと。
傷はふさがっていたし、半兵衛も大丈夫だと言っていたけれど、傷が痛んだりはしていないだろうか。
目は、覚めているのだろうか。
気がそぞろな千翁の様子に気づいているだろうに、慶次は何も聞かなかった。
ただいつもと同じように、少しおどけたような口調で話をしてくれた。
茜色の空から明るさが失われ始めた頃。
ふと、『梵天』が身じろいだ。
慶次が顔を上げる。
「千翁、お迎えがきたみたいだぜ」
ほら、と慶次が目で示した方へ、顔を向けると。
空ににじみ出た黒。
星がまばらに輝きだした空と、まだ明るさが少しのこっている空の合間を泳ぐ優美な姿。
それはみるみるこちらへと近づいてきた。
ふわりと風が髪と花を揺らす。
「梵天!」
降りたった黒い竜の元へ駆け寄って、千翁はその首に思わず抱きついた。
「目が覚めたのね?よかった…!」
そして慌てて体を離して、千翁は心配そうに顔を歪め、竜の顔をしたからのぞき込んだ。
「大丈夫?傷は痛くはない?」
千翁の手に顔をこすりつけるようにして目を伏せ、竜は短く鳴いた。
あ、と声をあげたあとには、梵天がそこにいた。
柔らかい笑みを浮かべた唇が千翁、と名を紡ぐのを間近で見て、千翁は先ほど思わず飛びついてしまったことが、今更ながらに恥ずかしくなった。
「ごめん。千翁には、たくさん迷惑をかけてしまったな」
謝られて千翁は目を見開いた。
恥ずかしいと思ったのも忘れて、首を必死に横に振る。
「迷惑なんかじゃない!迷惑なんかじゃ、ない、けれど…」
「けど?」
千翁は顔を歪めた。
うつむく。
「…心配、したの」
「…ごめん」
うつむいた頭のてっぺんに唇を寄せて、梵天は謝った。
「こら、梵!千翁を心配させて、泣かせちゃ駄目だろう?」
慶次に頭をくしゃくしゃにされても、梵天は文句を言わなかった。
慶次をまっすぐに見て、勝手に花を手折って、ごめんなさいと頭を下げた。
慶次はもう一度梵天の頭を乱暴に撫でて、うんと笑った。
「花を摘みたいなら、今度とっときの場所を教えてやるよ」
ああと頷いて、梵天も微かに唇を緩めた。
そして、梵天は千翁の後ろを振り返った。
音もなく気配もなく、ひっそりとそこにいた影。
梵天は無理に笑んだかのように、顔を歪めた。
「…千翁が、見つけてくれたんだな。おれの欠片。おれが逃げてきたもの。…もうひとりの、おれを」
影はただじっと梵天を見つめている。
千翁は梵天の手にそっと触れた。
「もう一人の梵天は、私を守ろうとしてくれたの。梵天と同じ、優しかった」
梵天は眉を下げてかすかに笑った。
千翁の手に手を重ねて、梵天は首をふった。
「優しいのは、アイツのほうだ。おれは、捨てたいものを全部アイツに押しつけて逃げてきたんだ」
「……」
「でも、いくら捨てたいと思っても、それもおれ自身だから」
千翁の手をそっと外して、梵天は一歩踏み出した。
『梵天』は後ずさることも、また同じように側に寄ることもなかった。
ただ、そこに在った。
じっと梵天をその静かな瞳で見つめている。
「ありがとな」
梵天は手を伸ばした。
影が目をふせる。
梵天の腕に抱かれた影は、すうっと溶けて消えていった。
「ずっと、おれを守ってくれて、ありがとう」
目の縁から一筋、涙を流し、震える声で梵天はもう一人の自分に別れを告げた。