七
彼という存在は在るべきところから切り離された力そのもの、記憶そのものであった。
内側と外側からかけられたいくつもの枷。
外からかけられた枷の一つを解いてくれたのは千翁だった。
内からの枷の一つをはじきとばした鍵となったのも、千翁だった。
『ちおう』
たった一つの宝物のように大切に、彼はその名前を胸に抱いた。
虚ろなはずの胸が熱く火照る。
その火照りは奮う力の源だった。
その火照りがあるから、彼は己を構成する力を使う。
凍える吹雪。
千翁を閉じこめた女を手始めに凍らせて、彼はその身を翻した。
女の悲鳴で起きてきた者たちが彼を見てまた悲鳴をあげる。
甲高い耳障りなそれ。
煩くてたまらない。
これでは千翁の声が聞こえない。
『ちおう』
どこにいるの。もうだいじょうぶ、あの女は動かなくなった。どこにいるの。ここが煩いから出てきてくれないの。
親を求めるひな鳥のように、彼はその名を繰り返す。
そして彼は押さえられなくなった胸の熱が命じるままに力を使う。
ただ、一人を求めて。
***
上体を傾いだ拍子に千翁の懐からころりと転がり出た物を見て、秀吉は目を見開いた。
それは梵天がくわえていた薄紅色の石。
慌ててその石を拾い上げる千翁を見て、秀吉がそれは、と問うた。
千翁は瞬いて、秀吉に見えるように石を手のひらに置いた。
「梵天が持っていたんです」
「そもそも、経緯を聞いていなかったな。どうして梵天と一緒に落ちてきたんだ?」
千翁は僅かに逡巡した。
閉じこめられたことは言わないほうがいいだろうと思ったのだ。
「湯殿の露台から海を見たんです。そうしたら、梵天が何かから逃げるように泳いできて。呼んだら、露台に落ちてきたんです。梵天の体には銀色の棘のようなものがいっぱい刺さっていて、口元からはこれが落ちてきたんです」
そう言って千翁は秀吉に石を手渡した。
「そうしたら、梵天の体に刺さっていた棘が抜けて、それで傷が痛んだからだと思うんですけど、梵天が興奮してしまって…」
秀吉は分かったという風に頷いた。
そして千翁から受け取った薄紅色の石に視線を落とす。
「これは花園の花だ」
「花?」
「ならば、あの傷は花園で負ったのだろう」
秀吉は状況を理解したかのようにもう一度頷いた。
逆によく分からない千翁が、あの、とかけた声にかぶるように、秀吉は千翁と名を呼んだ。
「上にいる半兵衛を呼ぶから、少し待っていろ」
そして秀吉は腰をあげて、部屋の奥へと向かった。
秀吉が戻ってきてからほんの少しして、半兵衛がまったく、と顔をしかめてやってきた。
「この忙しいときに、秀吉の言づてでなかったら無視してるよ」
まだ湯屋が開く時間ではないのだが、気にかかることが他にある千翁は、半兵衛の忙しいという言葉を気にとめることはできなかった。
「半兵衛様、梵天が怪我をして」
「半兵衛」
秀吉が差し出した石を受け取って、半兵衛は神経質そうに片眉を上げた。
「おやおや」
そしてそれだけで事態を把握したように肩をすくめる。
「僕のお使いだけで満足せずに、花園に行ったね」
「治りますか?」
千翁の懇願にも似た声に、半兵衛はようやく寝かされている梵天に視線を向けた。
「放っておけばそのうち治るよ。」
「そんな!」
「生命力が強いのが竜族の特徴だからね。それに、信長様から頂いた団子を食わせてやったんだろ?あれは強烈な滋養強壮剤だ。あれほどのクラスの神気をまとっているんだからね。現に傷はもうふさがってきてるだろ?」
え、と声をこぼして、千翁は梵天の側へ寄った。
そうっと羽織をずらして、血の乾いた晒しをとると、確かに血はもう止まっていて、肉が覆っていた。
「そのうち目覚めるよ」
千翁は思わずほうと息を吐いた。
梵天に関してはそれで終わりだと言わんばかりに半兵衛は続けた。
「それより、客が君を呼んでいる。座敷にでてくれるね?」
***
梵天のことは秀吉に任せておけば大丈夫だと促されて、千翁は半兵衛とともに上へ登った。
連れて行かれたのは五階。
以前信長が使った部屋だ。
けれど部屋の前に来たとき、千翁は体を震わせた。
己の腕を見れば、まるで寒さで泡立っているかのようだった。
千翁は隣の半兵衛を見上げた。
半兵衛は唇を微かに歪めて、今は閉じられているふすまを顎で示した。
「今は結界を張ってあるから、それくらいで済んでいる。まったく、大赤字だよ」
「あの…」
「この部屋にいる者が、君を呼んでいるんだよ。そりゃあもう盛大に暴れてくれて手が付けられなくてね」
とはいいながらも、半兵衛のその口調はどことなく面白がっている風でもあった。
「大丈夫。傷つけられる心配はない。行ってくれるね?」
「…はい」
頼まれれば千翁に否やはなかった。
そして半兵衛はふすまに手を掛け、意味深げな微笑で千翁を部屋へと送り出した。
「君はあの男の本当を見てやれるかい?」
***
ふすまを部屋に入り後ろでふすまを閉められて感じたのは、部屋中に充満している射すような冷気だった。
肌のうぶ毛が総毛立った気がした。
千翁は思わずぞっとした。
半兵衛が結界を張ったこの部屋は、元々は神々の中でも力を持った、所謂上客専用の部屋だ。
だから元々、力に対する耐久力は他の部屋よりもしっかりしているはずだった。
けれど、それを忘れてしまいそうになるほどに、この部屋は力で満ちている。
否、満ちているだけではない。力が荒れている。
傷つけられることはないと言われても、本能的な脅えまでは捨てられない。
それはまるで、凍てついた吹雪のようだった。
何故か、遠くで誰かの泣き声が聞こえた気がした。
「ちおう」
千翁ははっとした。
部屋の真ん中にうずくまっている姿。
何度か顔を合わせたことがある。
黒い着物の、白い仮面をつけた人。
「ち、おう」
たどたどしくもう一度名を紡がれ、居竦んでいた体の強ばりがとける。
千翁は恐る恐る、けれど逃げ出すこともなく、彼のもとへと寄った。
「……」
手前で足を止めて、同じように千翁もしゃがみこむと、彼はもう一度、千翁の存在を確かめるように名をつぶやいた。
その声。
かすれた、低く沈んだ抑揚のない声。
けれど、聞き覚えがあると千翁は感じた。
千翁はこの声を知っている。
白い仮面の向こうから、見つめられているのがわかった。
虚ろな仮面の眼窩。
脳裏に浮かんだのは、獣のように光る目で吠えた竜。
その白い仮面の後ろ、幼子のような頼りなげな顔が見えた気がした。
千翁は唇を湿した。
息を吸う。
「…梵、天?」
静かな声で呼びかければ。
彼はびくりと、その体を震わせた。
凍てつくような冷気がすっと消えていく。
白昼夢。
遠くで、誰かの泣き声が聞こえる。
暗闇の中、痛々しいほど体を丸め、うずくまっている姿。
伸ばしても取られることのなかった小さな手。
望まれることのなかった手。
否定され続けた手。
それを嘆く権利すらないことを、彼自身が知っていた。
ああ、と千翁は息をこぼした。
彼は私だ。
だからか、と千翁は思った。
だから千翁は、彼を見つけることができたのだろう。
千翁を認め、引っ張り上げてくれた彼が、体を丸めて、声に出さずに涙をこぼしている。
彼は、声を上げて泣くことすら己に許さなかったのだろうか?
「やっぱり、梵天なのね?」
確認するように尋ねれば、答えの代わりに、白い仮面が軽い音を立てて割れ落ちた。
仮面の下にあったのは、見慣れた、けれど暗い目をした千翁の知らぬ梵天の顔だった。
千翁は思わず手を伸ばしていた。
手を伸ばして、梵天の頭を抱くように腕をまわせば、梵天の体は千翁が泣きたくなるほどに冷え切っていて。
千翁は胸に熱がじわりと滲むのを感じた。
目を伏せる。
涙を流す代わりに、抱きしめる腕に力を込めた。
「…見つけた」
***
流石だね、と声をかけられて、千翁は『梵天』を抱いていた腕を下ろして、後ろを振り仰いだ。
「さすがに、二十年以上も自分探しで迷われても鬱陶しいと思っていたところだったんだよ」
笑いながらそんなことを言うものだから、千翁は思わず眉を寄せて非難するように半兵衛の名を呼んだ。
半兵衛は口元に手をやってくすりと笑った。
「君は切り離された彼を見つけた。見つけて、手を伸ばしてくれた。これでようやく僕も秀吉も、あの坊ちゃん竜のお守りから開放されるよ」
憎まれ口を叩いても、その声の底にある梵天への情が分かって、千翁は苦笑した。
半兵衛は素直じゃないと言った梵天の言葉の通りだと思ったのだ。
「ところで千翁、君に頼みたいことがある」
何でしょうと千翁は立ち上がった。
半兵衛は胸もとから、薄紅色の石を取り出した。
「あの馬鹿竜が勝手に取って来たこの花を、花園にもどしてきてほしい」
石を受け取った千翁は目を丸くして石を見つめた。
「これが、花なのですか?」
どこをどう見ても、薄紅色の平べったい固い石にしか見えないのだが、半兵衛は頷いた。
「この世界でも貴重な花なんだ。花園の花は、花園でしか咲くことができないのさ。花園にもどしてやれば、それはまた咲くことができる」
分かりましたと千翁はその『花』を懐にしまった。
「途中までは送ってあげられる。そこから先は、案内にしたがって歩いていけばいい」
「案内?」
ふわりと、半兵衛が上向けた手のひらから金色の蝶が一匹浮かび上がった。
「こいつが連れて行ってくれる。帰りは心配しなくてもいい。迎えを寄こすから」
「はい」
頷くと、きゅと着物の裾がひかれた。
目を向けると、『梵天』が立ち上がって、千翁をじっと見つめている。
「君が許すなら、彼も連れて行けばいい」
「一緒に来てくれるの?」
『梵天』はこくりと頷いた。
千翁は破顔した。
「じゃあ一緒に行こう」
***
半兵衛が何事かを呟き、それに応じるようにして千翁の周りを光の粒が取り囲んだ。
一瞬、強い煌めきが視界を覆い。
気がつけば、『梵天』と二人、森の入り口に立っていた。
千翁は驚いて、すごいと声を上げた。一瞬で遠くへ移動できるだなんて、流石、神様がいらっしゃる湯屋を取り仕切っている半兵衛だと感心した。
金色の蝶が千翁の顔の周りをふわりととんだ。
こちらだという風にひらひらと飛んでいく。
「あっちね」
千翁は『梵天』を促すように一度振り返り、そして歩き出した。
『梵天』は千翁の一歩後ろをついてきた。
相変わらず気配もなければ足音もないので、千翁はときどき振り返り、彼がついてきているかを確認した。
森は薄暗くまたどこかじめっと湿気ていた。
光る蝶は千翁のすぐ先をとんでいて、千翁が立ち止まったら同じように先へ進まずいてくれたので、千翁が蝶を見失うことはなかった。
どれくらい歩いただろうか。
ともすれば方向感覚を見失いそうな場所だ。
道案内してくれる蝶を追いかけていれば大丈夫なのだと分かっていても、神経の疲れる場所だった。
森は静かで、虫の音もしない。
動物もいないのかしらと考えていたら。
眼前に飛び出してきた影に、思わず千翁は短く悲鳴を上げて足を止めた。
千翁が声を上げた瞬間に、『梵天』が千翁を背にかばうように前へ飛び出した。
千翁が瞬くと、そこにいたのは美しい紫がかった銀糸のうさぎのような生き物だった。
それは鼻をひくひくさせて二人を見上げている。
「ちおう」
千翁の目の前にある背中が、突如として膨れあがったかのような錯覚。
噴き出しそうな、凍える力の気配がざわりと森を脅えさせる。
それは脅えるように身を縮めるようにした。
逃げ去らないのは足がすくんだのかもしれない。
千翁は慌てた。
「梵天、待って!」
千翁は『梵天』の背中を取りすがるようにして抱きしめた。
肌を舐めるような冷気を纏わせた背中は、怖いけれど、怖くない。
「私は、大丈夫」
背中に額を押しつけて、大丈夫と告げる。
千翁は分かっていた。
『梵天』は千翁を守ってくれようとしているだけなのだ。
幼子のようにたどたどしく千翁の名を呼びながら、全身で千翁を守ろうとしてくれている。
その想いが嬉しい。
けれど、その力自身が、梵天の体を凍てつかせてしまうことは嫌だった。
「ごめんね、いきなり声をあげたりして、びっくりさせて。でも大丈夫だよ、ほらこの子おとなしいもの」
体を震わせて動けずにいるそれを示して、抱きしめていた腕を解く。
『梵天』の前に回り込んで、千翁は迷い子のような顔をのぞき込んだ。
「ね?」
だから、『梵天』が己の力で傷つくことはないのだ。
その身すらも凍らせる力なんて使わないで。
千翁は『梵天』の手を取った。
『梵天』が体を震わせ千翁を見返す。
手のひらを合わせて、千翁は『梵天』の手を引いた。
それに、またねと内心で別れを告げて、森を行く。
手を繋いでいるから、『梵天』は千翁の後ろではなく、横を歩く。
千翁は笑った。
たったそれだけのことで、胸がふわりと温かくなる。
「ねえ、梵天」
『梵天』は答えない。
けれど、千翁の横顔を見てくれていることが分かる。
視界を、美しい蝶が行く。
その先に、草色の波間が見えた。
「私、強くなるよ」
それは初めて千翁が得た望み。
逃げるわけじゃなく、目をそむけるわけでもない。
「私は、もう私自身から逃げない」
『私』を見つめられる強さが欲しい。
私が忌避していた『私』を見てくれる人がいる。
「梵天…」
森を抜けたとき、蝶が空に溶けて消えた。
眼前に広がる草の波。
波間に揺れる、色とりどりの花。
繋いでいた手を離して、千翁は『梵天』に向き直った。
ねえ梵天。貴方は、欠片ですらこんなにも優しい。
「守ってくれて、私を見てくれて、ありがとう」