六
黒い姿があったあたりに目を向けたまま、千翁は二度、ぱちぱちと瞬いた。
謝るな、と真正面からぶつけられた声。
脳裏に蘇ったその声が、千翁の心に響く。
頑張ってると言ってくれた。綺麗だと言ってくれた。そう思ったおれの思いを、否定するなと言った。
梵天は、千翁を好きだと、言ってくれた。
千翁に、自分を否定するなと、そう言ってくれた。
「梵天…」
楽しませてもらったと言って頭を撫でてくれた信長の手のひら。珍しく褒めてるんだから素直に喜べばいいと言った半兵衛の微笑。
誰も、千翁を蔑んではいなかった。
千翁を否定していたのは、千翁自身だった。
千翁は顔を上げた。
震える唇をきゅっと引き締めて、頬を両手でぱしんと叩く。
目元を拭って、千翁は立ち上がった。
あんな言葉には負けない。
自分を貶めるような言葉を言わないようにすると、梵天と約束した。
でなければ、千翁を認めてくれた人たちの思いを無下にすることになる。
まだ仕事が始まるまでは時間があるが、それでもいつまでもここにいるつもりはなかった。
自分がいなくなっても、湯屋を開くのに支障はないだろうが、千翁には任された仕事がある。
今日はまだ、一輪挿しに花をいけていないのだ。
半兵衛が千翁に任せてくれた仕事だ。
これを疎かにするのは嫌だった。
半兵衛の信用を裏切るのが嫌だった。
扉が開かないのなら、他に出られる場所を探せばいいのだ。
影ができるということは、どこからか陽の光が入る場所があるのだ。
千翁は首を巡らせた。
積み上げられた荷物の上から、日差しがさし込んでいるのが見えた。
窓がある。
千翁はその光の先を見据えて、ぐと口元に力を入れた。
積まれた箱と箱のずれた場所に足を置いて、ゆっくりと登っていく。
途中箱が崩れ落ちそうな気がして、心臓がどきどきと走った。
登れば、そこにあるのは、上の階にあるものと比べれば小さいが、作りは同じような窓だった。
荷物の上で体を支えながら、どうにか留め金を外して手でおせば、重い窓は上に開いた。
そこから外を眺めれば、丁度玄関の裏側だと知れた。
いつか下った、地下へと伸びる階段が見えた。
窓のすぐ下には、雨水を畑へと循環させるための管が見えた。
千翁はごくりと唾を飲んだ。
千翁は人だ。
空を飛ぶことなどできはしない。
ここから落ちたら、ひとたまりもないだろう。
千翁は一度深呼吸したあと、窓を右手で支えて、足を持ち上げ、窓枠を乗り越えた。
固定されている太い管の上に両足をのせて、そっと窓を支えていた腕を抜く。
横歩きでそろそろと管の上を千翁は進んだ。
このまま横に伝って回り込めば、脱衣所につながる露台があるはずだ。
途中足を滑らせそうになりながらも、どうにかこうにか露台に上がったときは、千翁は露台の床に座り込んで長く息を吐き出した。
緊張のためか、少し火照った体に風が心地良い。
と思っていたら、びゅうと突風が吹いて。
千翁はとっさに目を閉じた。
「な、何?」
目を眇めて、空を見ると、銀色の光がきらりと光って。
「え…」
黒い点がにじみ出、それはすぐに大きくなり、空を泳ぐ竜となった。
「梵天?!」
叫んでから、はっとした。
何故か気づけば勢いのままその名を呼んでいたが、呼んだあとにじわじわと確信が千翁の中に広がった。
あの黒い竜は梵天だ。
竜は銀色の光を纏わせたまま、のたうつようにして空を泳いでいる。
千翁は体を起こした。
欄干に走り寄って、身を乗り出すようにして叫ぶ。
「梵天!」
と、千翁の声が聞こえたのか、竜はこちらに向かってきた。
そして露台の床にその体が滑り落ちてくる。
落ちてきた風圧を腕でかばって、千翁は、落ちた竜の元へと走り寄った。
「梵天!」
近寄って、黒い鱗に輝く銀色の正体を見た千翁は、小さく悲鳴を上げた。
黒い鱗の隙間に、銀色の太い棘が突き刺さっているのだ。
それも一本じゃない。何本も、何本もだ。
その痛みを想像して、千翁は青くなった。
「ぼ、梵天っ」
竜の頭にふれようと手を伸ばせば、竜は口を大きく開いて威嚇するかのような声をこぼした。
普段梵天が眼帯をしている下にあったのは、ただれた右目。
開いた左目は千翁を映してはいなかった。
竜はただ、凶暴な獣のような目を光らせてた。
開いた口元から、何かが落ちる。
慌てて受け止めれば、それは美しい薄紅色をした平べったい石だった。
一声、竜が鳴く。
顔をあげれば、黒い鱗からずるりと、棘が抜け出るのが見えた。
からりと乾いた音をして棘は床に転がり、そして音もなく風に溶けて消えた。
あの棘は一体何だったのだろうと内心で首を傾げたとき、竜はその身をのたうった。
赤黒い血が飛び散って、千翁の顔を濡らす。
千翁は慌てて竜の頭を抱きしめるようにしがみついた。
「梵天、だめっ、血がでちゃうから、落ち着いて」
ふと、竜の体から力が抜けるのが気配で分かった。
竜の左目が伏せられる。
と、同時に、その体は自らが壊した欄干の外へとぐらりと傾いた。
とっさに千翁は梵天の頭の毛にしがみついた。
そのまま二人で落ちていく。
気が遠くなりかけたところで、吠える声を聞いた。
むりやり風に乗ろうとしたかのような抵抗感。
竜はどうにか空を飛んでいたが、どこか不安定だ。
千翁が目の前にあった竜の角につかまりなおしたとき、竜の体は一度上昇したあと、墜落するように高度をさげた。
思わず千翁の喉から悲鳴がこぼれた。
竜は露台の上すれすれを飛び、そのまま脱衣所へとなだれ込んだ。
そして部屋の隅にある排気口に飛び込み。
気がつけば、また意識を失った竜の体とともに、千翁はどこかの排気口から落ちていた。
悲鳴をあげた千翁は、己の腕から力が抜けるのが分かった。
掴むものを失った体が宙に放り出される。
落ちると思って目をぎゅっと閉じれば、大きな逞しい腕に抱き留められていた。
思わず息を詰めて目を開けば、見知った顔が驚いたように千翁を見下ろしていた。
「ひ、ひでよし、さま」
「どうした、千翁。梵天と一緒にいきなり上から降ってきたが」
「そうだ、梵天!」
安堵の息を吐くことも忘れ、千翁は秀吉の腕の中で身をよじった。
察した秀吉が床に下ろしてくれるのももどかしく腕から抜け出し、千翁は床にだらりと伸びている竜の元へと駆け寄った。
梵天はゆっくりと荒い息を吐いている。
「ど、どうしよう」
「これは酷いな」
顔の前に腰を落として、千翁はおろおろと狼狽えた。
「梵天、梵天!」
必死で名を呼ぶが、閉じた瞼が開くことはない。
呼吸と共に鱗の隙間からはトロトロと血が流れ出ていく。
どうしようどうしようと焦りばかりが強くなるが、千翁はふと己の胸元にいれて置いた包みを思い出した。
その包みくれたのは湯屋にくる神のなかでも力を持った信長だ。
藁にも縋る思いで包みを開いて、もらった団子を、荒く息を吐く梵天の口の中に無理矢理押し入れた。
「これ、信長様にもらったお団子なの。神様がくれたお団子だから、力を貸してくれるかもしれない」
食べてと、千翁は竜の口を上から押さえた。
ごくりと嚥下したのが動きで分かって、千翁は体を退かした。
すると、竜は一度かっと目を見開いたあと体をのたうたせ、その体を変じた。
見慣れた、梵天の姿が横たわっている。
「梵天!」
秀吉と共に上からのぞき込めば、流れ出ていたはずの血はじわりと滲む程度まで治まり、梵天自身はゆっくりと胸を上下させて眠っていた。
「…寝てる」
「そうだな」
よかった、と千翁は体から力を抜いた。
ひとまず応急手当をしておくと、秀吉が晒しを巻いてついでに羽織を掛けてくれた。
手当が終わったあとは、へたり込んでいる千翁にお茶を入れてくれた。
梵天の側に並んで座りながら、千翁は熱いお茶をゆっくりとすすった。
一息ついて、千翁は眠っている梵天の横顔をじっと見つめた。
「梵天は、竜だったのね」
「…そうか、千翁は知らなかったか」
「うん」
この不思議の世界では当たり前の事実。
みんな、人と同じ見目をしているけれど、人間なのは千翁だけだ。
千翁は膝を胸元に引き寄せた。
「私、梵天にいつも助けてもらってばっかりで、それなのに、梵天のこと、何も知らないのね」
引き寄せた膝をぎゅっと抱えて、千翁は顔を伏せた。
何故だか、胸がぎゅっと掴まれたみたいに縮んで、喉の奥が痛んだ。
どうしてこんな気持ちになるのか、分からない。
埋めようのない違いを突きつけられたようで、寂しい。
何も知らないことが寂しい。
自分は梵天にいつも助けてもらって、その存在にどれだけ力をもらったか分からないのに、自分は梵天の力になれないことが悲しい。
こうやって、梵天の目が覚めるのを見守ることしかできないのが悲しい。
梵天が与えてくれたものは、優しくて温かくて。今も千翁を守ってくれる。満たしてくれている。
梵天のためになることができればいい。
「千翁は、梵天のことを知りたいと望むか?」
「秀吉様?」
かけられた声に顔をあげれば、じっと千翁を見下ろすまっすぐな瞳があった。
千翁はその目を見つめ返して、一度頷いた。
「はい。知りたいです」
「ならば、我が知っていることでよければ、話してやろう」
それは、何故梵天がこの湯屋に来ることになったのか。その理由だった。
「梵天はここの奉公人ではない。ここの上客の一人である竜神の一人息子なのだ。梵天の親父殿と慶次は昔からの知り合いでな。我や半兵衛とも慶次を通して、この湯屋に来る前から懇意にしていたのだ。何度か梵天は親父殿に連れられて、この湯屋に来たことがあった。もちろん客としてだ。その頃の梵天は、笑わなければ怒りも、ましてや泣きもしない子供だった」
「梵天が…?」
千翁に笑いかけてくれた梵天の今の姿からは想像もできなかった。
「千翁、梵天はいくつだと思う?」
「え?」
人と同じように歳をとるわけではないが、と秀吉は前置きして続けた。
「竜族というのは、生まれ落ちたときは確かに子供だが、その瞬間から幼くとも自我を持って生まれてくるのだ。成人するまでの時間はそれぞれで差はでるだろうが、普通は人の子と同じくらいか、少しばかり遅いぐらいで成人する。長い時を生きる我らにとっては、歳を数えるということはせぬが、少なくとも梵天は五十年はあの姿のままだ」
千翁は目を見開いた。
秀吉はわずかばかり、その目に憐憫の色を滲ませた。
「梵天にとって時は、ずっと止まったままなのだ」
千翁は思わず梵天を見た。
傷ついて静かに眠る梵天を。
「梵天の母御は人間だった。人との混血は、ときにあやかしの力を増大させる。梵天は生まれ落ちた瞬間から、父親と同じ、いやそれ以上の力を纏っておったのだ。それは梵天にとっての不幸となった。あるとき、半兵衛が親父殿に呼ばれて、梵天のもとへと出向いた。
慶次と半兵衛が梵天を連れて帰ってきたとき、梵天は見違えるほど明るくなっておった」
「……」
「半兵衛は我や慶次と違って、術を使うことに長けておる。半兵衛が何をしたのか、我は知らぬ。が、梵天を連れてきた慶次は、しばらくここで梵天を預かることになったと言った。梵天が己の力を受け入れるまで、ここで預かると。我はそうかと頷いた」
千翁は梵天の寝顔を見つめた。
秀吉の言葉を聞きながら、思い出した言葉。
梵天が、いつか千翁に話してくれた。
たしかあれは、ようやくここの生活時間になれて、寝る前に梵天と話をする余裕ができたころのことだ。
「梵天は、ここに奉公しているわけではないんだよね」
「ああ」
「ではどうしてここで働くことになったの?」
梵天は唇を閉じて、少しの間じっと宙を見つめた。
その態度に、聞いてはいけないことだったのかしらと千翁が恐れているのに気づいたのか、梵天は千翁を見て小さく唇で笑った。
「おれは半端物なんだ。大事な何かが、おれには欠けている。だから、本当の名も、忘れてしまったんだろう」
本当の名、と目を見開いた千翁に、梵天は緩く笑って、梵天は本当の名前じゃないんだと言った。
「本当の名も分からないんじゃあ、半端物としか言えない。だから、おれは、おれに欠けているものを見つけるまで、帰れない」
梵天の目は再び宙を向いた。
遠い目で静かに、でもと続ける。
「でも、何が欠けているのか、おれには分からないんだ」
遠い目をしたのはけれどその瞬間だけで。
「父上は、休養だと思ってゆっくりすればいいって言ったけど、来てみれば休養どころかこき使われるし。話が違うじゃねえかって、半兵衛に喰ってかかれば、存分にこき使って人生勉強させてやってくれって父上に頼まれたって笑うんだぞ?」
ひどくねえか?と千翁に同意を求めるように続けた梵天の顔は、全く嫌そうでも、怒っているわけでもなくて。
楽しそうに目が笑んでいたのを覚えている。
「……」
千翁は震える唇の内側を噛んだ。
胸の奥が、体が震える。
「梵天は、何故己がここにいるのか、その理由を知らないのだ」
いつか己を半端物、欠けているのだと言った梵天。
その言葉の意味を知る。
知らないわけではない。
梵天はちゃんと分かっている。
何故自分がここにいるのかを。
ただ、何が欠けているのかだけが、分からないのだ。
涙がこぼれた。
「梵天に同情しているのか?」
「いいえ、いいえ」
千翁は頭を振った。
「違います」
零れる涙を拭うこともできずに、千翁はただ梵天の顔を見つめていた。
「梵天は、ちゃんと知っているのです。自分に何かが欠けていることを。だから、ここにいるのだということを、梵天は分かっているのです。そのことが、ただ…」
千翁は足を崩して、梵天の体へと膝を進めた。
羽織の下からのぞくその手を取る。
欠けているものがあると呟いた梵天の目は、どこか遠くを見ていた。
梵天は、きっと知っているのだ。
失ったその欠片はけれど、梵天を優しく包んでくれるものではないのだと。
それでも、己の一部なのだと。
千翁は握った手を持ち上げて、そっと唇で触れた。
梵天を抱きしめる、その代わりに。
目を伏せた。
「ただ、無性に、切ないのです…」
同情しているわけではなかった。
代わりになりたいわけでもなかった。
ただ、貴方が背負っている痛みや切なさを思うと、同じように私の胸も切なく痛む。
ただそれだけ。