暗い場所だ。
 闇の隅に子供がうずくまっている。
 膝を抱えて、膝頭に顔を押しつけて、どうにか泣くことを必死でこらえている。
 声を上げて泣くことは許されない。
 それだけで自分を包むこの優しい闇すらを弾き飛ばして壊してしまうことが分かっていたから。
 子供は己の体に満ちる力をよく承知していた。
 偉大な龍神と人の女との間に生まれ落ちた混血児。
 生まれ落ちた瞬間、子供にかけられた母の言葉は、怨嗟の混じったうめき声だった。
 人との混血は時に人ならざるものの力を増幅させる。
 母の体を吹雪よりもなお冷たい風で火傷させ、また自らにもどうにもできぬその力で、己の右目をも焼け爛れさせて、子供は生まれた。
 命が尽きるまで子供をかえりみなかった母親を、子供は責めることなどできなかった。
 責めることすら知らなかった。
 ただ、母の恨みの声とぶつけられる憎しみを受けることしか、子供は知らなかったのだ。
 父親に看取られ、子供の知らぬところで、母は逝った。
 母の魂が天へと駆けていくのを離れた場所から見た子供は、自ら声を、光を、心を閉ざした。

***

 その日の仕事が終わる頃、珍しく半兵衛が下に下りてきて千翁を側に呼んだ。
「何でしょうか、半兵衛様?」
「千翁、君、あの信長様に気に入られたみたいだね」
 え、と瞬けば、半兵衛は面白そうな光を目に映して小さく笑っているようだった。
「話は聞いたよ。信長様のお世話を直々に指名されたそうじゃないか」
 はあとよく分かっていない千翁は頷き、でもと続けた。
「それは私が人の子供で、珍しかったからだと思うのですが」
 だから気に入られたとか、そういうことではないと思うと言えば、半兵衛は今度こそ声を上げて笑った。
 珍しいものを見たと言う風に、それを見守っていた他の奉公人たちの目が丸く見開かれるのを千翁は見た。
「た、確かに声をかけたのは、君が珍しかったからだろうね!彼はああ見えて、小さいものと甘いものがお好きだからっ…!」
 ひとしきり体を二つに折って笑ったあと、目じりの涙を指で拭って、半兵衛は唖然としている千翁の頭にぽんと手を置いた。
「けれど、あの方が大層気むずかしい方っていうのは本当だよ。珍しくて側に呼んだとしても、気に入らなければ手ひどく追い出されて終わりさ。君、あの方に何かもらったかい?」
「あ、はい。金平糖とあと…」
 懐からもらった包みを出そうとすると、出さなくてもいいよと手をやんわりと押さえられた。
 見上げると滅多に見ない、柔らかな笑みがそこにあった。
「君は本当に、よくやっている。信長様が甘いものをあげた者は、何人も知らない。それは、君自身の価値だ。信長様が君という人間を認めて、そして気に入ったからこその証だ」
「で、でも、私がお世話をしたのは、お仕事だからで、特別なことでは」
「やれやれ、君の素直さは美徳だが、やや謙虚は過ぎるね」
 千翁の頭をくしゃりと撫でて手を下ろした半兵衛は肩をすくめながら背を向けた。
「滅多に褒めない僕が褒めてるんだから、素直に喜んでおけばいいんだよ」
 褒められたのかと、ぼうっとしながら己の頭に手をやっていると、信長の部屋を任されていた女が側にいた。
 半兵衛様の言うとおりよと淡く微笑んで千翁を見る。
「あなたはいつもよく働いてくれているわ。さあ一緒に夕餉にしましょう。梵天はお使いに出ているのでしょう?」
 優しい言葉に、千翁はこれは何の夢かしらと胸を熱くさせながら自問した。
 別にここの人たちは千翁に対して冷たくあたるわけではなかったが、人間の子供だからだろうか、こんな風に仕事が終わったあと、親しげに声をかけられるだなんて思ってもみなかったのだ。 
 あとで女たちが言うには、梵天がいつも側に張り付いているのと、二人で仲睦まじくいるところを邪魔しては悪いと思っていたらしい。
 千翁はさっきとは別の意味で胸を熱くさせ顔を赤く染めた。

***

 外から新しくやってきた存在を認める者もいれば、そうでないものもいる。
 妬みや嫉みは何も人だけが持つ感情ではない。
 人でないこの世界の住人たちにも、嫉妬の感情はある。
 そしてそれは、いとも容易く火がつくものだ。
 その女は、この湯屋で働くようになってまだそれほど月日が経っていない者だった。
 いきなりこの湯屋にやってきて、半兵衛や秀吉、そして湯屋の持ち主である慶次に連れてこられた人の子。
 たかだか人間の子でしかないくせに、力の強い三人から気を払われ、見守られている。
 何故あんな子供ばかりが、と女は柳眉をひそめた。
 しかも、よりによって信長に気に入られたなどと。
 許せることではなかった。
 女は己の頬に手を当てた。
 かつて信長に容赦なく打ち据えられた己の顔。
 何故、たかが人間の子供なんぞが…。
 女の唇がかすかに歪んだ。

***

 梵天は雲を飛び越し、風よりも速く空を飛んでいた。
 半兵衛に頼まれた用事は無事にすませ、あとは湯屋へと帰るだけだ。
 が、梵天が目指したのは湯屋ではなかった。
 寄り道をしようと思っていたからこそ、風よりも速く飛んでいるのだ。
 数刻、南のほうへと飛んで、梵天がたどり着いたのは、花園と呼ばれる一面の花畑だった。
 何度か通りかかったことのあるここは、いつでも花が満開に咲いていて、枯れることなどない場所だった。
 花園は禁域と言われている場所だった。
 例えば力の源泉であったり、強力なあやかしがいたりする場所のことをいった。
 梵天はそこが禁域であることは知らなかった。
 ただ、半兵衛から、そこには君の手に負えないあやかしがいるから、命が惜しければ近づかないことだと一度だけ忠告を受けたことがあった。
 別にそのころは花に興味の欠片もなかった梵天は、適当に頷いていたのだが。
 花は、今では梵天にとっては特別の意味を持つようになった。
 花が好きと言った千翁の横顔が瞼の裏に蘇る。
 ついで、目を丸くした幼い顔が。
 眉根を寄せた戸惑った顔。
 中でも一番好きなのは、はにかむような微笑を浮かべた顔だ。
 じんわりと胸を温かいもので満たしてくれる笑顔。
 花を髪に挿したとき、どこか照れたように笑ってくれたその笑顔が忘れられなくて。
 半兵衛の忠告を忘れたわけではなかった。
 ただ、半兵衛が使いを任せるように、足にはそれなりの自負をもっていたので、強いあやかしがいるとしても、花を手折って逃げ切る自信があったのだ。
 空から見下ろした花園は、一面に花が咲いていて。
 梵天は一応気をつけて、上空を旋回して周りを伺ったが、辺りには何の気配もなかった。
 梵天を取り巻く風がさわさわと渡る音がする。
 そこは何とものどかな、そして美しい風景で。
 梵天は気配に注意しながら、人型にもどって花園に下りたった。
 どの花がいいかと首を巡らせて、目にとまった一輪に手をのばす。
 薄紅色をした花を一輪、手折ったところで。
「っっ?!」
 突然、どんと空気を震わせた気配。
 反射で体を竜に変えて飛び立った。
「つう…」
 少し首を後ろに向ければ、鱗に刺さった何本もの銀の輝きが見えた。
 竜の鱗はかなり頑丈だ。
 その鱗を突き破って刺さっている棘のようなもの。
 後ろからさらに白銀の輝きが迫ってくる。
 花をくわえたまま梵天は痛みで額に脂汗を浮かべながら必死に飛んだ。
 花を落とすわけにはいかなかった。
 それだけを気にして、ただ猛然と空を飛んだ。

***

 千翁は次の日、いつもより早くに目を覚ました。
 昨夜ずっと雨が降っていたから、外を見るのを実は楽しみにしていたのだ。
 これくらい沢山雨が降ったら、明日には海ができているわよと、昨日夕食を共にした女が教えてくれたからだ。
 何故雨が降ったら海ができるのか、千翁には不思議でたまらなかったが、草色が一面水色に染まる様は大層綺麗だと聞いて、楽しみにしていたのだ。
 着替えてから、露台にでて下を覗けば、確かにそこには海が広がっていた。
 海とは言っても、千翁が見慣れている海とは違う。
 波がないし、色が薄緑に近い水色をしている。
「綺麗…」
 ほうと息を吐いて見つめていると、僅かに空気を振動させ、低い声で、誰かに呼ばれた気がして、千翁は振り返った。
 昨日見た、黒い着物、白い仮面。
 やはり気配は稀薄で、何だか夢の中にいるかのようと千翁は思った。
 じっと虚ろな仮面の瞳に見つめられて、彼を客だと思っている千翁は、居住まいを正して問いかけてみた。
「何か、ご用ですか?」
 この時間ではまだ皆寝ている者が大半だから、何か不都合があったのなら、千翁がひとまず話を聞き、誰かを起こしに行こうと考えたのだ。
 ふと、彼の姿が薄くなる。
 あ、と瞬けば、彼の姿は消え、代わりに向こう側に一人の女が立っているのが見えた。
 この湯屋で働く奉公人の数は多い。
 千翁は全員の顔と名前を見知っているわけではなかったが、その女の顔は確かに見覚えがあった。
 主に膳の世話を担当している女だ。
 美しい容貌。まだ早い時間だというのに、きっちりと化粧をして、唇が真っ赤に色づいている。
「千翁、ちょっと頼みたいことがあるのだけれど」
 そう言われて、千翁は何かしらと内心で首を傾げたが、素直にはいと頷いて、女の手招きに応じた。
 昨日、物を取りに行ったときに大事な簪を落としてしまったのだと女は行った。
 暗い中ではよく分からないから、陽が昇ってから探しているが見つからない。まだ部屋の女たちは皆寝ているし、どうしようかと思っていたら姿を見かけたのだ、と女は道すがら話した。
 共に向かったのは、丁度湯殿の隣にある倉庫だった。
 ここで落としたとしか考えられなくて、と女が切なげな声で言うので、よっぽど大切な簪なのだろうと思って、千翁は倉庫に入るなり、目を凝らして簪を探し始めた。
 大切なものが無くなるのは悲しい。
 できるなら見つけてあげたいと千翁は心から思った。
「あの、簪というのはどんなものですか?」
 そう問おうと振り返ったとき、千翁の目に映ったのは、さし込む陽の影に浮かび上がる口紅の赤色だった。
 弧を描いた唇がくすりと笑いながら、倉庫の扉が閉められる。
 え、と思ったときには、鈍い音を立てて扉は閉まった。
 千翁は慌てて扉に取りついて、引き戸を開けようとした。
 が、突っかけ棒がしてあるらしく、いくら力を込めても、千翁の力ではどうにもこうにもならない。
 閉じこめられた、と混乱した頭はけれどこの状況にあてはまる言葉をすぐに見つけてくれた。
 どうして、と呟いた声が扉の向こうに届いたとは思えない。
 けれど、扉の向こう側から聞こえる声はその問いの答えだった。
「あなたが悪いのよ? たかだか人間の子供のくせに、半兵衛様たちに取り入って。お情けで置いてもらっているのが分からないの?」
 興奮したような女の甲高い声。
 千翁はすがっていた扉から後ずさった。
 その拍子に足下の感覚を失い、みっともなく腰を付く。
 それは過去からの声だ。
 聞き慣れた、千翁を嘲笑する声。
「人間の子供というのは頭も悪いのね? あなたは所詮ここではよそ者でしかないくせに」
 所詮、よそ者。
 交わることなどない。
 体が細かく震えた。
 お願い、それ以上言わないで。
 私を否定しないで。
 追いかけてくる嗤い声は幻聴か。
「ちょっと優しくされたからって図にのってんじゃないわよ。少しここで反省なさいな」
 けたたましい笑い声が遠ざかっていく。
 千翁は体を丸めて短く息をついた。
 呼吸が乱れる。
 気がつけば額には薄く汗をかいていて。
 皆が優しいから忘れていた。
 ここは千翁が本来いるべき世界ではないことを。
 自分は所詮、ここでは異分子でしかないことを。
 図に乗っていると言われたことは間違っていない。
 梵天や、半兵衛、ここにいる優しい人たちに甘えていた。
 そう、所詮私は情けでここに置いてもらっているだけで、何の役にも立てない人の子で…。
 薄暗い影がゆらりと揺らめいた。
 千翁は喉をならした。
 浮かび上がった、黒い影。
 白い仮面が千翁を見ている。
「あ…」
 千翁の唇は意味のない音をこぼし、瞬いた瞬間、瞳にたまっていた滴がぽろりと、頬を伝って流れ落ちた。
 瞬間、彼の姿は唐突に消えた。

***

 彼の存在は不安定なものだった。
 ただ力と記憶で固められた陽炎のようなもの。
 けれど、千翁は彼を見た。
 千翁の存在が、彼の存在を認めてくれる。
 故に、彼はこの世界に実在するようになった。
 陽炎であったその身が実体を持つ。
『ちおう』
 千翁の名を呟いたとき、彼の体は具現化した。
 千翁を閉じこめた女が短く声を上げる。
 彼は力だ。
 荒ぶる力。
 力にかけられた鍵が軋んで緩む。
 千翁の頬を伝ったものが涙というものであることを、彼は知っているわけではなかった。
 ただ、あの透明な滴を見たとき、彼の中で枷の一部が内側からはじけ飛んだのだ。
 痛んだ心が上げる声を彼は聞いた。
 それだけで十分だった。
 彼の存在を構成する力をふるうこと。
 その理由は、それだけで十分だったのだ。