四
千翁がこの世界に来てから一月あまりたったころ。
梵天は半兵衛の使いとして湯屋を出た。
「彼の足が一番速くて確実なんだ」
常の半兵衛の言葉からすればだいぶに素直なそれに、梵天と一緒に半兵衛の部屋に来ていた千翁は感心した。
半兵衛が素直に認める言葉を口にするということは、梵天の足は相当に早いに違いない。
半兵衛に千翁と共に部屋に呼ばれて、使いの用と聞いた梵天は唇を閉じ、思案するようにちらりと千翁を見た。
梵天の視線の意味を千翁が悟る前に、半兵衛が代わりに梵天の言葉を紡いだ。
「千翁もだいぶに仕事に慣れた。それとも、君は千翁一人に仕事を任せるのはまだ役不足だとでも言うのかい?」
「いや、んなことは思ってねえよ」
二人にそのようなことを言われて、千翁は思わず頬を上気させた。
少しでもこの人たちの役に立てたのなら嬉しい。
「おれがいなくても、仕事に関しては支障はねえ。千翁は一人でちゃんとやっていける」
な、と梵天は笑いながら太鼓判を押してくれた。
千翁は頷こうとして、僅かに顔を曇らせた。
「千翁?どうした?」
「……」
答えず眉を寄せて上目でみやる千翁を見返して、梵天はからかうように目をきらめかせた。
「なんだ、おれがいなくなったら寂しいか?」
「うん」
素直に頷いた千翁に、梵天は目を見開いた。
自分で言っておきながら、頷かれるとは思わなかったらしい。
どこか可愛らしいとも言える抜けた表情の梵天を、千翁は真面目な顔で見返した。
そうなのだ。
一人でも大丈夫だと言ってもらえて、とても嬉しい。
梵天にそう言ってもらえると、体の内側から力がわいてくるようで。
でも同時に、胸をじんわりと締め付けるものがあった。
身に馴染みすぎて逆に名を忘れていたそれ。
「梵天がいないと、寂しいよ」
寂しさという感情。
大人達の多くは元親をかえりみなかったが、元親を想ってくれる幾人かの人たちは常から忙しく、滅多に元親のいる離れには来ることができなかった。
寂しいなんて、口にしても、その人たちを困らせるだけだということが分かっていたので、口にしたことはなかった。
なのに、今は何故かするりと言葉に出せた。
口に出した後に、こんなことを言っても梵天は困るだけだと気づいて、少し慌てた。
「あ、あの…」
どうにか弁解しようと唇を開いたら、梵天は淡い笑みを唇に浮かべて千翁を見ていた。
「…おれも、寂しい」
千翁は紡ごうとした言葉を失った。
息が詰まって胸が熱い。
なのにそれは嫌なものではなかった。
梵天はしんみりした空気を振り払うように笑った。
「使いをすませたら、すぐに帰ってくる。土産とか、何か欲しくないか?」
千翁はふるふると首を横に振った。
「ううん、いらない。梵天が無事に帰ってきてくれたら、それだけで」
「ん」
本心からの言葉を伝えれば、梵天は照れたように顔を赤く染めて、けれどちゃんと頷いてくれた。
「しっかりな」
「うん!」
二人で顔を赤く染めたまま、笑い合ったところで。
「君たち、そういうことは外でやってくれないかい?」
半兵衛の声にはっとして顔をあげれば、呆れたような、同時にどこか面白がるような顔でこちらを見ている半兵衛がいて。
頭を下げて、二人で慌てて部屋から逃げ出した。
「じゃあ、私お仕事に行くね」
「ああ」
「気をつけてね!」
「千翁も」
廊下で手を振り、千翁は一人階下へとおりたのだった。
ふと廊下の窓から外を見ると、黒い鱗の美しい竜が一匹、蒼天を泳いで遠ざかっていった。
***
さて、仕事に戻った千翁は廊下の雑巾がけに精を出していた。
雑巾を固く絞ることもできるようになったし、廊下をふくのも、初めに比べればだいぶ速くなった。
ちょうど汚れた桶の水をすてようと、引き戸を開けたときのことだ。
その日は日が落ちる頃から雨が降り出していた。
引き戸の外には庭が広がっている。
水を捨てて千翁は顔を上げた。
雨が降っているのもあって、視界は常よりも悪かったが、それでも千翁にはその姿がしっかりと見えていた。
「あ…」
梵天と出逢う前。
湯屋の朱塗りの橋の上で出逢った人。
全身を覆う漆黒の着物。顔を隠す白い仮面。
会うのは二度目。
湯屋に客として来る他の『神様』と違って、気配すらも感じない。
まるで幽霊のようだと千翁は思った。
けれど、幽霊と違って、千翁は少しも怖いとは思わなかった。
「あの」
千翁は彼に声をかけた。
彼は傘もさしていない。
雨に濡れて、黒い着物は闇にとけたかのように見えた。
そんなところにいたら風邪をひいてしまう。
客が使うという橋で出逢い、また店の中の庭にいるという状況から、千翁は彼を湯屋の客だと思ったのだ。
まあ客でなくても雨のなか打たれているのを見たら、千翁は声をかけただろうが。
「そこだと、濡れてしまいます。ここ、開けておきますから」
空になった桶を持って笑いかけると、彼は体を震わせた。
やっぱり雨に濡れて寒いのだわと千翁は思った。
「ここでお待ちになってください。何か拭くものを持ってきます」
千翁、と聞き慣れた女の声が呼んでるのに答えてから、千翁は彼にぺこりと頭を下げ、幾分足を速めながら水場に桶を置きにいった。
そして一度梵天の部屋へと戻り手ぬぐいを片手に戻ってきたが、その時には黒い姿はどこにもなかった。
千翁は首を傾げたが、仕事に呼ばれたので、手ぬぐいは懐に入れてその場を離れた。
呼ばれた先で与えられた仕事は、五階の客間に膳を運ぶことだった。
湯屋の客間は上にいけばいくほど、格が高くなっていく。
五階の客間は一番の上客が使う部屋だ。
膳を運ぶだけとはいえ、大役だと千翁は身を引き締めた。
膳を運ぶ列の最後について、千翁は静かに足をすすめた。
客間の前の廊下に並んで膝をつき、頭を下げて顔を隠す。
客の前には出たことはないが、こうやって膳を運んだことは何度かある。
客は基本、廊下で頭を下げてる控えてる者など気にしないから、元親が人であることについて何か言われたこともなかった。
ふすまが開き、部屋の中で侍っている女達が、順に膳を持ち上げ、部屋の奥、上座に座る客の前へと並べていく。
その間、運んできた千翁たちは、ふすまが再び閉まるまで頭を下げたまま待っているのだ。
いつもならさほど時もかからずふすまが閉められるのだが、ふすまが閉められようとしたとき、待てと、低い声がかかったのだ。
何か、と部屋を仕切る女が問う。
「そこの小さいの、こちらへ来い」
え、と千翁は頭を下げたまま固まった。
どう考えても、小さいというのは己を指している言葉としか思えなかったからだ。
千翁と女の呼ばう声にしたがって、頭を垂れたまま膝で這うようにして部屋にあがった。
女の隣で平伏すれば。
「近う寄れ」
千翁はびくりと肩を震わせて、どうしたらいいのかと隣に控えている女を上目で伺った。
女は小さく頷いて、千翁の耳元に唇を寄せた。
「あの方は上客の信長様。くれぐれも粗相のないよう気をつけなさい」
こくりと頷いて、千翁は体を起こした。
そのまま立ち上がって、信長の座る上座の手前まで行き、膝をついて頭を下げる。
腹に響く独特の抑揚のついた声で、信長は千翁に問うた。
「そなた、人の子よな。人の子が、何故こんなところにおる?」
「はい。迷子になって、知らぬ間にここに迷いこみまして、ここに置いてもらっているのです」
「ふうむ。さぞや半兵衛にこきつかわれて働かされておるのであろう」
千翁はびっくりして思わず顔をあげてしまった。
「いいえ!そんなことはありません!」
信長はとがめることもなく、面白そうに片眉を上げた。
慌てて千翁はもう一度頭を下げて、けれどはっきりと唇を動かした。
誤解されたくはなかった。
自分は半兵衛には感謝していて、優しくしてもらっているのだと。
「ここで働くのは楽しいのです。半兵衛様は、私が人であることなど関係なく、よくしてくださってます」
聞きようによっては口ごたえしていると思われるかもしれない。けれど、千翁は迷わなかった。口ごもることもせずに、ただ必死に言葉を紡いでいた。
「……で、あるか」
頭を上げよと言われて、千翁は恐る恐る顔を上げた。
信長は盃を手にし、千翁に向けた。
酌をしろと言われているのは分かったが、信長の隣に控えて瓶子を手にしている美しい女性が気になった。
困惑気味に目を向けると、女性は艶やかな笑みを浮かべて瓶子を膳の上に置き、注いで差し上げてと頷いた。
千翁は軽く頭を下げ、瓶子を手に取り、膝で信長の隣に寄った。
差し出された盃に、ゆっくりと金色の酒を注いだ。
一息に酒を飲んだ信長は、盃を置いて、懐に手を入れた。
手をだせと言われ、慌てて千翁は瓶子を置き手をだせば、手のひらに星粒のような金平糖が三つ、のせられていた。
「あ、あのっ」
「子供という生き物は、甘いものが好きであろう。食べてみよ。甘いぞ」
そう言われてしまっては食べないわけにもいかず、千翁は確認を取るように後ろを振り返った。ふすまの前に控えていた女が頷いたので、千翁は頂きますと頭をさげ、金平糖を一粒、口に運んだ。
素朴な甘さが舌の上からじんわりと口の中に広がって、おいしいと、思わず千翁は破顔した。
「うむ」
残り二粒もありがたく食べ、ありがとうございますと礼を言えば、信長は鷹揚に頷いたあと、控えていた女に顔を向けた。
「膳の世話はこの子供にさせる。下がってよい」
「…はい」
女はちらりと千翁を見た後、けれど何も言わずに頭を下げて退室した。
千翁はその後、信長のために酒を注いだり、膳のものを小皿に取り分けたりして細々としたお世話をした。
信長はあまり喋らず、ただ黙々と酒を飲み、食事を平らげた。横に侍る女性は微笑しながら見守っていた。
食後の茶を飲んだところで、信長は千翁を側に呼んだ。
「これをやろう」
これまた懐から出されたつつみを押しつけられ、千翁は慌てた。
固辞しようとした千翁に構わずつつみを持たせ、信長は初めて唇で僅かに笑んだ。
「よい、今日は楽しませてもらった」
ついで頭を一度撫でられて、遠い昔に誰かにしてもらったようなそれに、千翁は頬を赤く染めた。
信長はふと宙に視線をやって、しばらく騒がしくなるなと呟いた。
え、と顔を上げたが、信長はそれ以上言葉を続けることはなく、代わりに立ち上がりながら、側に侍っていた女性に、帰るぞ、お濃、とそう言った。
「はい、上総介様」
包みを取りあえず懐に入れて、千翁は小走りに駆け、信長に先んじてふすまを開けた。
廊下に座していた女が頭を下げる。
「何かお気に触ることでもございましたでしょうか」
「いや、急用じゃ。半兵衛にはまた日を改めて来ると申しておけ」
「承りました」
颯爽とマントを翻して去っていく信長の背を、頭をさげて見送ったあと。
千翁は懐に押し込んだ包みを出した。
何かしらと包みをあけると、そこにあったのは手のひらで包むくらいの大きさの、大きな団子だった。
千翁は頬を緩めて、団子を包み直して懐に大切にしまった。
梵天が帰って来たら、一緒に食べようと思ったのだ。
***
彼はいつからかそこに在った。
けれど彼はただそこに在っただけで、存在することにそれ以外の意味など無かった。
風と同じようにただたゆたうだけ。
誰も彼を見ない。
誰も彼を気にかけない。
彼はそのことを寂しいと思ったことはなかった。
その感情は当たり前のことであって、特別名を付けるものではないと思っていたからだ。
けれど。
陽が落ちるまでの夕焼けと薄闇が溶け合うころ。
彼を見てくれた者がいた。
惹かれるようにその存在をたどった。
二度目の奇蹟は雨の夜。
その人は確かに彼を見た。
彼の存在を認識し、声をかけてくれた。
優しい声は雨などよりもよほど身によく染みわたった。
『ちおう』
声なき声で彼はその人の名を唇にのせる。
宝玉のように大切に。
それは彼に初めて許された扉だった。
『ちおう』
そして彼は初めて、いつも外から眺めているだけだった立派な屋敷の中へと足を踏み入れた。
いつも彼を拒絶する雷にも似た膜はなく、ただ一度、宥めるかのように風が頬を撫でた。