湯屋での日々が始まった。
 屋上で半兵衛に働くことを認められたあと、部屋に梵天がやってきた。
 千翁を見て、うまくいったみたいだなと小さく笑う。
 梵天はどうやら、半兵衛に呼び出されたらしい。
「君がこんなにお節介だとは思っていなかったよ、梵天」
「放っておくわけにもいかねえだろうが」
「まあそうだけどね。わざわざ秀吉に連れてこさせたのは何故だい?」
「そりゃそのほうがアンタが素直に頷きやすいだろうと思ったからだ」
「まったく可愛くない坊ちゃんだね!」
 半兵衛は梵天の額を容赦なく指でこづいた。
「拾ってきたのは君だ。君が責任をもってこの子の面倒をみるんだね」
「…分かった」
 そのとき少しばかり梵天の顔が嬉しそうにほころんだことに、半兵衛はおやと内心で少しばかり驚いたが、当の本人は無自覚のようだった。
 千翁に向き直った梵天に、千翁ははにかむように笑い返した。
「梵天のおかげ。ありがとう。これから、よろしくね?」
 梵天は一度僅かに頷いて応えた。
「千翁に格好いいとこ見せるんだぞ、梵!」
「頑張れ」
 格好いいところを見せろといったくせに、慶次に頭を乱暴にかき混ぜられ、ぐしゃぐしゃになった髪を更に秀吉の手のひらで押しつぶされた梵天であった。
 体も懐も大きすぎる二人から逃げるように部屋をでた体の小さな二人は、からくりの箱にのって階を下りていった。
 働くのは明日からで、今日はゆっくり休むように言われたからだ。
 大部屋でもいいが、よかったら梵天の部屋で一緒に休むといいと半兵衛は言った。
 迷惑じゃない?と首を傾いで見れば、梵天は首を横に振って、部屋に案内すると言ってくれたのだ。
 梵天の部屋へと向かいながら、千翁は半兵衛と梵天のやりとりを思い返していた。
 ここで働く他の人たちを千翁は知らないけれど、大人な三人と対するには、梵天の態度はとても気安いものに思えたからだ。思わず顔がほころんだ。
「ねえ、梵天。あの人達は梵天を気にかけているのね。優しいね」
 梵天は嫌そうに顔をしかめた。
「おれをからかってるだけだ」
「そうかしら?」
「ああ」
 どうも納得がいかない千翁の様子を察したのか、梵天は肩をすくめた。
「おれは厳密に言えば、半兵衛に雇われているこの湯屋の奉公人じゃない。おれの親父が慶次と知り合いで、その伝手でおれはここに預けられてるんだ」
「半兵衛様のお湯屋に、慶次様の伝手で預けられているの?」
 よく分からなくて整理するために問い返せば、何故か梵天は別のところが気になったらしい。
「様なんかつけなくてもいい。半兵衛と慶次で十分だ!」
「え、で、でも、お二人とも私よりもずっと年上だし」
「いいんだ!秀吉はいいやつだけど、半兵衛は小姑だし、慶次はちゃらんぽらんなんだから」
「ええ?!」
 理由になってそうで全くなっていない梵天の主張だったが、何故か頑として譲れないらしい。
 結局千翁は優しくしてくれた大人三人を、恐れ多くも呼び捨てで名を呼ぶハメになった。
 本人に声をかけるときはちゃんと敬称をつけようと内心では思っていたが。
 梵天の説明によると、半兵衛はこの湯屋の管理を任されている責任者であって、持ち主ではないのだという。
 この湯屋の正式な持ち主は慶次なのだ。
 なので慶次から半兵衛へと話が通されて、梵天はこの湯屋にいるのだという。
 秀吉は二人の昔からのなじみらしい。
 口うるさい半兵衛を慶次が笑って受け流して、秀吉がまとめるといった役割分担になっているらしかった。
 奉公人達が寝泊まりしているのは二階だという。
 一階が玄関と湯殿で、三階から五階までが座敷、六階が最上階という構造だ。
 梵天は奉公人ではないので、小さいながらも個室をもらっているのだと言った。
 部屋に入る前に、狭いけれどと前置きをして、梵天は千翁を部屋に招き入れた。
 狭いとはいうが、子供二人からすれば丁度良い広さなのではないかと千翁は思った。
 その服だと動きずらいだろうから、と梵天は千翁に着物をかしてくれた。
 袴に似た着物で、裾がきゅっとしまっている、だが、裾がだいぶ短くて、膝丈までしかなかった。
 足がむき出しなので、千翁は少し恥ずかしかったが、よくよくみれば梵天のものも、千翁のよりは裾が長かったがくるぶしよりはだいぶに上だ。
「…おれのだと千翁には少し、小さいか?」
「ううん。大丈夫」
 貸してもらった着物を着てみた千翁は首をふって、ほらと見せるように両手をあげてみせた。
「気にならないでしょう?」
「千翁が気にしないならいいが」
 千翁は己の格好を見下ろして、ふと笑んだ。
「お揃いね?」
 千翁は今まで、誰かとお揃いの着物を着たことなどない。
 初めての経験に、どうしてか、心が明るくなった。
 千翁のにこにことしたその笑顔に、梵天は苦笑した。
 布団を敷いて千翁を横にさせ、今日はもう寝ろ、と梵天は言った。
 素直にうんと頷いて千翁は目を閉じた。
 夢も見ずに訪れた深い眠りは時間の経過を感じさせない。
 起きた後は梵天に従って一階の広間へと向かった。
 そこにはすでに大勢の『人』が集まっていたが、皆人ではなくあやかしなのだという。
 千翁の姿を認めて、ひそひそと囁きあうもの、おもしろそうな顔をするもの、様々な表情があった。
 梵天は周りの人々に頓着せずに、皆の前にたつ半兵衛のもとへと千翁を連れて行った。
 千翁の姿を認めて、半兵衛は口の端で笑った。
「昨日はよく眠れたみたいだね」
「はい」
「よろしい。みんな、今日は新入りを紹介するよ」
 半兵衛の声に、ざわめきがぴたりと止む。
 半兵衛は千翁の肩に手を置いた。
「この子は千翁。人の子だが、しばらくここで働いてもらうことになった。仕事の面倒は梵天がみるから、皆はいつも通りに仕事をしてくれればいい。何か質問は?」
 声が上がらないことに頷いて、半兵衛は今日もしっかり働いてくれたまえと解散を促した。
 千翁に与えられた仕事は主に裏方の仕事だ。
 さすがに人の子を客の前に出すわけにはいかないということらしかった。
 湯屋が開く前は、他の小さい奉公人たちと混じって板間の雑巾がけをしたし、窓にはめ込まれた玻璃を磨いたりした。
 湯殿は板で仕切られ、個室になっているらしく、その釜や桧の湯船を洗ったりもした。
 面倒は梵天に任せると半兵衛が言ったように、いつも横には梵天がいて、仕事のやり方を教えてくれた。
 己の屋敷では、掃除の仕方をみたことはあっても、自分ではしたことのない千翁だ。
 当然、やることなすことが初めてづくしで、千翁は必死になって体を動かした。
 そんな千翁を見ても、梵天は初めちょっと驚いたように瞬いただけで、眉をひそめることもなかったし、何故できぬのだとため息を吐くこともなかった。
 丁寧に、こうやればいいと、雑巾の絞り方を見せてくれ、板間は目にそってふくのだと教えてくれた。
 初めは失敗ばかりをし、梵天にも注意されてばかりだったが、嫌ではなかった。
 元々家の雑事をしたことがなくても、山を歩き回っていた千翁なので、一つ一つの動作はゆっくりとしていてまた力もなかったが、体力はあった。
 梵天の言葉は厳しかったが、千翁を馬鹿にしているわけではないと、その声で、表情で分かったから。
 むしろ千翁のことを思っていってくれているのが分かって、より一層頑張ろうと己を奮い立たせることができた。
 湯屋が開いてからは、備品の補充をしたり、膳を運ぶのを手伝ったり、細々とした片づけをしたりした。
 交代で休憩をとるのだが、毎日違う種類の茶菓子がでた。
 美味しいと目を見張れば、半兵衛のはからいだという。
 こだわりをもつ半兵衛の目にかなった菓子を、奉公人全員分、毎日用意してくれているらしい。
 優しいねと千翁が言うと、口うるさいし、皮肉屋で、優しさが分かりにくいんだけどなと、梵天も菓子を頬張りながら頷いた。
 半兵衛自身は菓子を食べる時は、わざわざ地下の秀吉のところに足を運んで、秀吉と一緒に茶の時間を楽しんでいるらしい。
 慶次がいるときは三人でお茶をしているとか。
 慶次は神出鬼没な男で、いつも何の前触れも脈絡もなく二人の前に現れては、今日も頑張ってんな!と二人の頭を乱暴に撫でていく。
 撫でるだけでは終わらず、千翁を抱き上げてそのまま高々と投げられたことすらある。
 細いとはいえ上背は同い年の子供達よりもある自分を、まるでお手玉のように軽々と空中に放り投げられたときは、さすがの千翁も思わず悲鳴を上げた。
 慌てて梵天が慶次の体をばしばしと叩いて抗議してくれて開放されたときには、半泣きになっていた千翁だった。
 たまたま通りがかった秀吉が、慶次をたしなめ、すぴすぴと鼻をならす千翁を撫で、慰めてくれた。
 慶次は悪い人間ではないのだが、とてつもなく豪快なところがあって、構い方もまた豪快なのであった。
 いつもにこにこして、湯屋をふらふらとしている慶次だったが、しばらくすると、慶次の姿は湯屋から消えた。
 いつものことらしい。
 半兵衛は食料が食いつぶされなくていいと言ったが、慶次がいなくなったその日は、何だか少し不機嫌だった。
 一日が過ぎるのはあっという間だ。
 火が落ちる前に奉公人は残り湯を使うことを許される。
 湯を使えると知ったときの千翁の嬉しそうな顔を見て、梵天は、半兵衛は綺麗好きで、あやかしの中には湯を好まぬものもいるのだが、ここで働いている限りは問答無用で湯に放り込まれるのだと笑った。
 湯を使ったあとは梵天の部屋で二人並んで眠った。
 千翁はいつも夢も見ずに眠った。
湯屋での生活時間は少しずれている。
 湯屋が開くのが陽が沈んだ夕方からなので、明け方近くに釜の火が落とされるまでが働く時間だった。
 そこから昼頃までが就寝時間。
 昼を数刻すぎたあたりから湯屋を開くための雑事をする。
 初めは慣れずに眠かったが、それにも慣れた。
 そんな毎日がしばらく続いた。
 ある日、仕事にだいぶに慣れてきたころのことだ。
 太陽は中天をまわって、少し西に輝いていた。
 千翁は湯屋に飾るための花を摘みに、梵天と外にでていた。
 千翁が活けたものを半兵衛の机に持っていったら、半兵衛が気に入ってくれたらしく、廊下の要所や机に飾る一輪挿しの花を活ける仕事を任せてくれたのだ。
 湯屋の裏手にある畑には季節様々の花が咲く。
 しゃがみ込んで花を摘んでいると、かすかにいい香りが鼻孔をくすぐって、千翁は白い可憐な花に顔を近づけた。
「千翁は花が好きなんだな」
 隣にしゃがみこんだ梵天の手には、薄紫の花が摘まれていた。
 千翁は花から顔をあげて頷いた。
「強いものは好き」
「強い?」
 梵天は不思議そうな顔をした。
 千翁はうんと頷いた。
「野山の花は、一人で咲くから。誰の手を借りなくても、一人で綺麗な花を咲かせるから」
 だから、好きだと、もう一度千翁は手の中にある花を見つめた。
 手の中にある花は、手入れされているけれども、でも花は好きだ。
「千翁」
 こっち向けと言われて、千翁は梵天のほうへと顔を向けた。
「…梵天?」
 花を一輪、もった梵天の右手が千翁の頭に伸びて。
 髪に花を飾られる。
「千翁の髪は綺麗な銀色だから、淡い色でもよく映える。綺麗だ」
 少し顔を赤らめつつ、でも臆面もなくそんなことを言い切られて、千翁は瞬間言葉を返すことができず、ついで顔を火照らせた。
「ぼ、梵天、私は…」
 こんな形だけど女の子じゃないよと言おうとして、ふと千翁は言葉を止めた。
 瞬いて、千翁を見ている梵天をまじまじと見返す。
 そういえば。
「梵天は、私のことを女の子と間違えなかったね?」
 梵天はきょとんとした。
「男をどうして女と間違えるんだ?」
「は、初めてあったときも?」
「おれは初めて会ったときから今まで、千翁を女の子と思ったことはないぞ」
「で、でも!慶次も初めは私のこと女の子と思ったのに」
「慶次は大雑把なヤツだからな」
 思わず身を乗り出した千翁に、梵天は驚いたように少し身を引いたが、答えは変わらなかった。
「でも、男だと分かってるなら」
 もじもじとしながら千翁はうつむいた。
 髪に飾ってくれた花。
「何で、綺麗だなんて…」
 梵天は少しの間黙ったあと、少し照れたようにわざとらしいぶっきらぼうな声をだした。
「そりゃ、一生懸命あやかしたちに混じって働いてるし。雑用なんてしたことないみたいなのに、嫌がらないだろ。それに、千翁の笑顔は花みたいで、綺麗だって思ったから」
 与えられる温かい言葉に、千翁は逆に狼狽えた。
 置いてもらっているのはこちらのほうなのだから、働くのなんて当たり前で。むしろ梵天には仕事がすぐに覚えられなくて迷惑をかけてばかりいるのに。
「でもそれくらいするのは当然で、ちっとも役に立ててないのに…」
 過ぎる賛辞に気が付けば千翁は眉を寄せて必死に否定の言葉を紡いでいた。
 与えられる優しさに報いたいと頑張ってはいるけれども、何も返せていない。
 涙がにじみそうになったとき。
「千翁」
 ぴしりとした声に、千翁は肩をびくりと震わせて、恐る恐る梵天を見た。
「そんな言い方、するな」
「え?」
 梵天は怖いぐらいにまっすぐな目で千翁を見た。
 千翁の体が縛される。
 鼓動がどきどきと走る。
 梵天は千翁にいつもまっすぐな言葉をくれる。
 千翁の目を真っ正面から見据えて。
 その視線に千翁は居竦むが、けれどもそれは言葉にし難い優しさも含んでいて、千翁はどうしていいか分からなくなる。
「でも、って否定から入るの、やめろ。おれは千翁が頑張ってるのを隣で見てた。千翁はよくやってる。千翁が好きな花みたいに、強くて綺麗だ。おれがそう思ったから、そう言った。千翁が綺麗と思ったのも本当だ。おれが、そう思ったから、そう言った。それを否定するな」
「…ごめん、なさい」
そんなこと、言われたことがなくて、無性に恥ずかしさがこみ上げてきた。
「だから!謝るなよ!」
 梵天は焦れたように声を荒げた。
 千翁はうんと微かに頷いた。
 梵天が口をつぐむ。
「言わない、ようにする」
 滲んだ涙を手の甲でこすって、千翁はもう一度頷いた。
「梵天にそう言ってもらえて、嬉しい」
「……」
「私を認めてくれて、ありがとう、梵天」
「…ん」
 梵天は微かに頷いただけでそっぽを向いてしまったが、千翁の胸は何だか温かくなった。
 そろそろ戻ろうと言えば、梵天は黙ったまま千翁の手を取って湯屋へと歩き出した。
 よくよく見れば、何だか梵天の耳が赤い。
 千翁は何だかおかしくなって小さく笑った。
 それをどう取ったのだろうか。
「おれは、千翁が千翁だから好きなんだからな!」
 手を繋がれたまま、まるで噛みつくがごとくの勢いでそう言われ。
 千翁も思わず顔を真っ赤に染めた。
 それでも何故か、繋いだ手は離れなかったのであるが。