二
梵天が屋敷の中へと消えるのを見届けてから、千翁は静かに立ち上がった。
もとから気配を殺すこと、足音を殺すことには慣れている。
梵天に教えてもらったように、木の陰をつたって、下へとのびる階段を下りていった。
階段は急で、千翁は怖ろしかったが、それでもゆっくりと一段一段階段を下りた。
たどりついたそこは閉じた扉からも、もうもうと湯気がのぼっている。
恐る恐る扉を開けて、息を潜めて足をすすめれば。
「っっ!」
千翁は内心で息を呑んだ。
一番初めにこの町で見かけた人より、さらに大きい人がいたからだ。
部屋の最奥に設えられた大きな炉。
赤々と燃える炉の前を、黒い石をもってうろうろとしている黒い小さなあやかし。
それらを、熱さなど感じぬといったふうに黙々と見守る大きな背中。
向けられた背を見ているだけで、体が居竦む。
千翁は男、それも体の大きな男が怖ろしいものに思えて仕方ないのだ。
海を渡る男は体つきが逞しい。声も大きく、また口調も荒い。
千翁を蔑むものの象徴、千翁を否定するもの。
千翁はひきつれたように喉をかすかに鳴らした。
ふと、大きな背中が動く。
太い首がゆるりとこちらをむく。
千翁は肩を跳ねさせて息を呑んだ。
千翁を見下ろした瞳が、ぱちくりと瞬く。
凛々しい眉と弾き結ばれた唇とが相まって、それだけで怒っているようにも深く思案しているようにもみえる顔が、瞬きするとどこか気が抜けるかのような奇妙な人をほっとさせる親しみをうむ。
「…人の子、か?」
梵天が千翁を見て口にしたのと同じ事を、また男も言った。
声をかけられたことで千翁は決意を固めた。
自分はここで秀吉という男にあわなければならないのだ。
いつもの千翁なら、ここで声をかけるなどという決意はできなかったに違いない。
梵天の優しさに報いたいということと、ここは己の国ではないということが、千翁を勇気づけた。
「あ、あのっ」
「うむ」
決意が若干千翁の声を裏返ったものにさせたが、男は気にしたふうもなく、先を促すように千翁を見下ろした。
指をぎゅっと握りこんで、けれど、下から男と目をあわせたまま、千翁は震える唇を動かした。
「秀吉というお人にお会いしたいのですが」
「うむ」
そこで一度会話は途切れた。
男は一度頷いた。
「…秀吉とは我の名だ」
「え?貴方が、秀吉?」
「うむ」
千翁は瞬間ぽかんとしたが、無遠慮に見つめたいたことを恥じて、ごめんなさいと謝った。
「いや。して、我に何の用だ、人の子よ」
「あ、あの、ここで働かせていただけないでしょうか」
秀吉は、少し驚いたように目を丸くした。
「そなたがか?」
「はい。ここで働かせてください」
「ふむ…」
思案するように秀吉が千翁を見下ろしている間、千翁はどきどきと緊張しながら待っていた。
ここで断られたらどうしよう。でも何度でも言えと梵天は言っていたから、どうにか働かせてもらえるように頼まなければ、と考えていたら。
「そなたの用件は承知した。ついてくるがよい」
案外簡単に話は通ってしまった。
黒いあやかしたちに、しばしまかせると声をかけたあと、秀吉は千翁にその大きな手を差し出した。
差し出された手の意味が分からなくて、千翁は、え?と瞬いた。
意味を尋ねるように秀吉を見上げれば。
「ここは広い。はぐれるといけない」
千翁は頷いて、恐る恐る秀吉の手を取った。
千翁の手とは比べられもしないほどに大きな手。
国のどの男達と比べても負けないほどに大きな手だ。
けれど、握りかえしてくれるその手は優しくて温かい。
千翁は何だか胸の奥がじんとした。
この人は怖くない。
体が大きくても、怒っているような顔をしていても、優しい人だ。
千翁は初めて、この世界へ来てよかったと心から思った。
梵天と秀吉。
優しい人に、二人も会えた。
体の大きさに差がある二人だ。
普通に歩けば千翁など置いていかれるだろうに、秀吉はそれも考えて歩いてくれているのだろう、千翁の足が駆けることはなかった。
しばらく派手な装飾画が描かれた廊下を歩いたあと、カラクリ仕掛けの箱にのって階上へと向かった。
どういう仕掛けなのかと千翁は大層興味がひかれたが、さすがに優しい人だと認識を改めた秀吉にも直接尋ねるまではできなかった。
秀吉は千翁に詳しいいきさつを尋ねようとはしなかった。
沈黙はけれど、繋いだ手の温もりが故に苦痛ではなく、千翁はむしろ落ち着いてこの湯屋の中を見ることができた。
最上階だと言われたそこは確かに、他の階とは違い、静寂に包まれていた。
こっちだと手を引かれて歩くことしばし。
ひときわ細かい装飾の施された扉を秀吉は叩いた。
「半兵衛、我だ」
秀吉が扉を押したわけでもないのに扉が開く。
千翁はまあと小さく声を上げた。
「秀吉かい?どうしたんだい?」
「うむ」
促されるようにして入った部屋は、薄い紫色を基調とした落ち着いた部屋だった。
見知らぬものがいろいろある。
奥に据えられた机についていたのは、千翁と同じような色のない髪。
振り返った半兵衛は、千翁の姿を認めて、不可解そうに眉をあげた。
「人の子かい?」
「ああ。ここで働きたいそうだ」
背中をそっと押されて、一度千翁は秀吉を見上げ、そしてこくりと頷き、半兵衛に向かって丁寧に頭をさげた。
「私をここで働かせてください」
「…ふーん」
半兵衛の気のない声が降ってくる。
「確かに今日は門が開いていたみたいだからね。迷い子か」
「お願いします、働かせてください」
「それは誰の入れ知恵だい?」
笑みさえ含んだその問いかけに、千翁は思わず肩を震わせてしまった。
「ただの迷い子なら、こんな所に秀吉につれられて来るもんか。誰か君を案内したやつがいるだろう」
「あ、あの…」
千翁は言葉を続けることができず身を縮めた。
半兵衛の言葉はまさしくその通りだった。
が、ここで梵天の名前を告げることはためらわれたのだ。
梵天に咎が及ぶようなことだけは嫌だった。
答えられずに口をつぐんでいると、さして興味はないのか、まあ言わなくても予測はつくけどねと半兵衛はあっさりと千翁から答えを得ることを放棄した。
「半兵衛」
「分かってるよ秀吉。別にあの小生意気な坊ちゃん竜に一々嫌味を言いに行くほど、僕も暇じゃない。それに、もう入り口も閉じてしまったんなら仕方ないだろうしね」
と、そこへぱっと陽がさし込んできた。
「置いてやればいいじゃねえか、半兵衛!」
それは別に、いきなり陽が昇ったわけでもなく、ただ一人の男が部屋に現れただけだったのだが、まるで部屋に朝日が差し込んだかのようだった。
にこにことした笑みを浮かべた男の長い栗毛が、一瞬、太陽の光を纏ったかのように見えただけなのだ。
慶次、と秀吉は欠片も顔色をかえずに男の名を呼び、半兵衛はとてもとても不愉快そうに顔を歪めて慶次君とその名を呼んだ。
千翁がこの世界に来て、初めて目にした人だった。
どうやらここの関係者らしい。
慶次は驚いていた千翁の体をひょいと抱き上げて肩に乗せた。
近くなった目の高さに思わず瞬きをして、千翁は慶次を見た。
慶次は千翁を見てにかりと笑った。
長い髪が楽しげに跳ねる。
「こんな可愛い子を放っておけねえだろ!」
お嬢ちゃん名前は、と問われて、千翁です、と肩に乗せられた状況に困惑しながら名を告げる。
すると、慶次は大きな目をさらに大きくして、男の子か!と声をあげた。
千翁は顔をうつむけて小さく頷いた。
女の着物を着て部屋で過ごす千翁は、男のくせに部屋にとじこもってばかりで、臆病な女のようだと人に言われた。争いを厭うと、軟弱者と眉をひそめられた。
柔な体。白い肌。皆の求める『男』とはかけ離れた姿の自分を千翁は自覚していた。
だから、慶次が驚くのも無理はなかった。
姫若子と嘲笑う声が脳裏に木霊した。
呆れられるのだろうかと思ったがしかし、慶次はむしろ感心したかのような大声で、いやあ可愛い男の子もいたもんだねえと言った。
千翁はこれまたびっくりした。
そんなことを言われたのは生まれて初めてだ。
「…慶次君、いい加減その子を下ろしてやったらどうだい。驚いているじゃないか」
確かにびっくりして固まっていたので半兵衛の言葉は助かった。実は結構な高さが少し怖かったのだ。
慶次は、悪い悪い、怖がらせちまったかなと軽く笑って、千翁を床に下ろしてくれた。
半兵衛はこれみよがしなため息をついた。
「まったく。君がいつもそんな調子だから、僕が苦労するんだよ!」
「そっかあ?」
「無自覚なのかい君は?!」
ひとしきり半兵衛が慶次に文句をまくしたてたが、慶次はにこにこと笑いながら聞き流していた。
いつものことなのかしらと千翁は思った。
半兵衛が言葉を止めたところで。
「な、置いてやろうぜ!」
「……」
半兵衛は肩を落として、ちらりと千翁を見た。
仕方ないねと呟いて、千翁のほうへと向き直る。
「君は働かせてくれと言ったね?働く気があるなら、扉があくまでここにいればいい。あいにくと慈善事業をやってるわけじゃないから、働かないものを置いておく義理はないんだ」
千翁は頷いた。
「一生懸命働きます。ここに置いてください」
半兵衛は鼻をならした。
「言っておくけど、人の子だからといって仕事を減らしたりはしないよ」
「はい」
頷くと、慶次がよかったな!と笑った。
秀吉がぽんと頭を叩いてくれた。
千翁は何だか胸が温かくなった。
三人に向かって頭をさげる。
「よろしくお願いします」