一
ぴちょんぴちょんと滴がこぼれる音がした。
明るくはない視界でも、洞窟の壁に手をついて、千翁はただまっすぐに歩いた。
何故だか、歩き出してしまえば、怖さで足を止めることはなかった。
そして唐突に視界は開ける。
眩さに千翁は目を細めて、瞬きする。
「わあ……」
遠くに草原が見えた。
膝丈を越えるか越えないかほどの背丈の草が茂る丘陵。
空は薄い水色で、雲がゆったりと横たわっている。
こんな場所は初めてだった。
とりあえずあの丘の向こうまで行ってみようと、千翁は足を踏み出した。
丘陵の裾まで、拳ほどの大きさの石が一面に転がっている。
転びそうになるのを気をつけながら、千翁は珍しくはやるように丘陵を目指した。
なだらかな丘の上にのぼって、千翁はもう一度声を上げた。
眼下に広がっていたのは間違いなく町並みだったからだ。
何度か目にした国の町とは異なるが、それは確かに町だった。
朱色に統一されたその町は、傾きかけた太陽に照らされ、まるで夕日に愛されているように見えた。
千翁は丘をくだり、町へと向かった。
普段の千翁ならば、町が見えたなら逆に踵を返しただろう。
町には人がいる。
千翁は感じ取っていた。
ここは己がいた国とは違うということを。
だから駆けるように町へ向かった。
町についた時には、夕焼けが空を染め上げていた。
この町の家は全て、朱色の屋根、朱色の壁からできていた。
千翁が見知っている家とは少し違う。
町に入ってすぐに千翁は不思議に思った。
人が一人もいないのだ。
けれども道の両脇に並ぶ家からは良い匂いが漂っている。
みんな夕餉の仕度で忙しくて、家の中にこもりきりなのかしら、と千翁は首を傾げながらも歩みを進めていった。
と、千翁は町に入って初めて足を止めた。
少し先、家の前に椅子が置かれ、卓まである。
卓の上には湯気をあげる料理が並んでいて、千翁は一度だけ団子を食べた茶屋を思い出した。
千翁はごくりと唾を呑んだ。
『人』がいた。
しかも、とても大きい、そして派手な男の人だった。
頭には飾りなのだろう、羽が二本、ぴょんと飛び出していて、風車と鬼の面が斜め上の空を見ていた。
腕は丸太のように太くがっしりとしていた。
千翁は今日初めて泣きそうになった。
明後日を向いている鬼の面が怖かったのでもない。男のその体の大きさが怖かったのでもない。
一心不乱に卓の上の料理を食う、男のその食べっぷりにびっくりしたのだ。
がつがつという言葉が似合う見事な食べっぷりなのである。
腕ほどもある肉のかたまりに食らいつき、麺をすすり、汁を飲み干したところで、男は、千翁の視線に気づいたのか、ん?と椀から顔を上げた。
千翁は内心で飛び上がって、あわてて建物の影に隠れた。
「あれ?なんか犬っころがいたような気がしたんだけどなあ」
さらりと長い髪を揺らして首を傾いだあと、しかし、食事のほうが大事なのだろう、まあいっか、とあっさりと男は考えることを放り投げて、凄まじい勢いの食事を再開させた。
千翁はほっと息をついた。
そして、やはり人がいないわけではなかったのだと思った。
息を潜めて辺りをうかがうと、たしかにそこここから人の気配、ざわつきというものが感じられた。
千翁は一本中の道を今度は歩き出した。
丘陵から見下ろしたとき、町の奥に大きな屋敷があるのを見たからだ。
とりあえずそこまで行ってみようと思ったのだ。
唐突に視界が開けた。
道の突き当たりにあったのは川だった。
ふと顔をあげれば、大きな屋敷が千翁を見下ろしていた。
柳の木が等間隔に植わっている道にそって、門のようなものを目指す。
「橋だ」
千翁は小走りで橋までかけた。
この大きな屋敷は川の向こうに建っているらしい。
橋の上から下を見下ろせば、きらきらした光を反射した水面があった。
ふと、千翁は振り返った。
反対側の橋の欄干の側に、人が立っている。
その人は、千翁と同じくらいの背丈のように見えた。
そう、子供のような人だと思った。
何故、ような、と続くのかといえば、その人は全身を真っ黒な着物で包んでいたからだ。
顔かと思ったのは、白い仮面なのだと千翁は知った。
仮面を不思議に思いはしたが、怖ろしくはなかった。
この町では、仮面をかぶることは普通なのかもしれないと思ったからだ。
橋の上に佇む黒ずくめのその人は、一歩も動かず、ただそこに在った。
仮面に彫られた目の空洞が千翁を見ている。
異質な風景。
そう思い直しても、やはり千翁は怖くはなかった。
むしろ、ふと笑んですらいた。
国では千翁も異質だったからだ。
ねえと声をかけようとしたとき。
「おいお前!」
突如かけられた若い声に、千翁はびっくりして肩を跳ねさせた。
恐る恐る声がしたほうへと顔を向ける。
丁度門のほうから、橋を踏みしめてこちらへと歩いてきたのは、千翁より少しだけ背の低い隻眼の少年だった。
***
千翁の姿を認めた少年は、訝しげに眉を寄せて千翁を見た。
視線が上から下まで動いて、もう一度顔まで上がってくる。
千翁は内心びくびくしたが、代わりに体はかちんと凍ってしまったように動かない。
少年が千翁を見ているのと同じように、千翁の視界にも少年が映っていた。
短いながらも無理矢理結い上げた黒い毛先が跳ねるように揺れる。
色を忘れてきたと言われた千翁の髪とは違う、鴉の羽のような黒。
女のようと言われた千翁の白い肌とは違う、健康的な肌の色。
背だけが高くてひょろりと細い千翁とは違う、幼いながらもしっかりとした体つき。
何もかもが違うと思う中で、同じだと思ったのは、少年の右目にかかる眼帯だった。
同じようで、けれども違うもの。
千翁が隠しているのは左目で、右目を眼帯で覆った少年とは、まるで鏡のようだと千翁は思った。
露わになっている左目はどこか鋭く切り込んでくるようで、目を合わせられた瞬間、千翁は体を強ばらせた。
「お前、人か」
千翁は瞬いた。
そんな質問をするということは、人にしか見えないこの少年は、人ではないのだろうか。
迷い子かと小さく息を吐いて、少年は空を見上げた。
そろそろ夕日が遠い山の彼方に落ちようとしている。
だいぶに暗くなってきた。
少年は舌打ちした。
橋の両脇に据えられた石灯籠に灯がともる。
少年は突然千翁の手を掴んだかと思えば、そのまま橋を引き返す。
はっと気がつけば、反対側に佇んでいたはずの黒い仮面の姿は、影も形もなかった。
あの人はなんだったのだろうと内心で首を傾げれば、苛立ったように、おいと千翁を呼ぶ声がした。
橋のたもとで少年は千翁の手を離した。
焦ったような声で言う。
「灯がついた。時間がない。元来た道を走れ!帰れなくなるぞ!」
「え?」
「いいから走れ!」
あまりの剣幕に、千翁は少年に背を向け、まろぶように走り出した。
この町に来て千翁を心から脅えさせたのは、千翁を怒鳴りつけた少年の声だった。
千翁は言われたとおり、元きた道を走った。
一本中の道から大きな通りへと戻ったときは、千翁は内心で短く悲鳴をあげていた。
来る途中には閉じられていた家の戸が開け放たれ、良い匂いが流れてくる。
戸を開けているのは人の形をした影だった。
道のあちらこちらから、ぬうといきなり丸い影が浮かび上がる。
千翁など欠片も気にせぬ影たちは、通りを往来する。
千翁は走りながら唇を噛んだ。
やはりここは千翁の国ではなかった。
まったく別の世界だった。
怖いというよりもただ混乱して、涙がでそうになった。
少年に走れと言われたから、ただその言葉に従うために走っていたようなものだ。
混乱しながらも、千翁はこの影たちがこの町の住人なんだと理解した。
異質なのは千翁のほうなのだ。
いつでも千翁は異質だった。
だから走らなければならないのだと、千翁はまるでせき立てられるように走って走って。
そして丘陵を駆け下りたところで、小さく悲鳴を上げて足を止めた。
足首を濡らす水の冷たさ。
丘陵を下りたそこにあったのは、石の道ではなかった。
千翁は後ずさって、地面の上にへたりこんだ。
果てのない海がそこにひろがっているように見えた。
背にした日が完全に沈む。
海の向こうから、明かりがゆらゆらと揺れて近づいてくる。
千翁は顔を上げて、その不思議な明かりを見ていた。
その明かりが岸に近づいてくるのをみて、千翁は明かりの正体が一艘の船であることを知った。
千翁は逃げるように明かりの届かぬ場所に身を引いた。
唐突に音がして、船から何人ものナニカがぞろぞろと降りてくる。
背が高いものも低いものもいた。
共通項は、皆複雑な紋が描かれた仮面をかぶっているということと、頭に神官のかぶる冠をかぶっていることだった。
千翁は己の唇を両手で押さえつけた。
何故か、声をだしてはいけない気がしたのだ。
本能的に、あれらは人ではないのだと千翁は感づいていた。
己の国とは違うあの町なら、自分を受け入れてくれるかもしれないと思った。
けれど、あそこは、人以外のものたちの町だった。
自分は結局『人』でしかないことを、千翁は知っている。
斬れば赤い血がでる。
人ならざるものたちが使えるという力など、千翁は何一つもっちゃいなかった。
色を忘れた髪と肌。一族の誰も持たぬ血が凝ったような左目を、人は不吉じゃ、鬼の愛し子じゃと言った。
けれども、それだけだ。千翁は鬼としての力など何も持たぬ、簡単に殺せる人の子供でしかなかった。
この世界もきっと、鬼ではなく人である自分は受け入れてくれない。
だからあの少年はあんなに怖い声で怒ったのだと千翁は思った。
千翁は懸命に涙をこらえようとした。
けれども目じりからは勝手にぽろぽろと滴があふれてくる。
千翁は体を丸めて、膝頭に瞼を押しつけた。
ここでも、私はいらない子なの?
だったらいっそこのまま消えてしまいたい。
ぎゅっと腕で己の体をかき抱いたとき。
「おい、大丈夫か?」
頭上から、自分に向けて降ってくる声。
千翁はびくりと肩を震わせた。
その仕草を、脅えているとでも思ったのだろうか。
「落ち着け。おれはお前を害したりしない」
ふわりと、隣に誰かの気配。
体に回された己のものではない腕に、緩く抱きしめられているのだと知る。
「大丈夫だ」
そう言って、ぎこちなく、けれど優しく宥めるように背を撫でる手に、千翁はほうと息をこぼした。
身じろぎすれば、ふいと腕が離れて、千翁は顔を上げた。
橋で千翁を脅えさせた少年がそこにいた。
涙に濡れた顔に、瞬間眉を寄せた少年は、指で丁寧に千翁の目元を拭った。
「さっきは、怒鳴って悪かった。走れば、ぎりぎり間に合うかと思ったんだが、やはり間に合わなかったみたいだな」
「……」
千翁は涙もひっこんだ目を丸くして、少年を見つめた。
ではあれは、千翁という存在をこの世界から追い出そうとして言ったわけではないのだろうか。
少年は懐を探ったかと思えば、ひょいと千翁のぽかんと開いていた口に、懐から取り出したあめ玉を入れた。
反射的に口を閉じれば、じわりと広がる甘い味。
「あ、ありがとう」
礼を言えば、少年は堅い表情をわずかに緩めて、微笑した。
「さて、そなたに説明しなければいけないことがある」
少年は千翁の正面にあぐらをかいて座った。
「ここはそなたのいた世界とは違う。そなたのいた世界は、そなたら『人』が属する世界だ。ここは違う。ここは人ならざるものの世界なんだ」
千翁は唇を閉じて黙り込んだ。
考えていたとおりであったが、慌てたように少年は付け足した。
「だが、たまにそなたのように人が迷い込むこともあると聞く。今はもう、道は閉じてしまったが、また道が繋がる時がくる。だから心配するな。ちゃんと帰れるようになる」
少年は千翁の顔をのぞき込んでそう言った。
「…うん」
千翁は曖昧な微笑みを浮かべて頷いた。
正直言えば、帰れても帰れなくても、どっちでもよかった。
ただ、千翁を心配してくれた少年の気持ちが嬉しかった。
とても、とても嬉しかった。
「いつ扉が開くかはおれにも分からん。おれと会った場所を覚えてるか?」
朱塗りの欄干の橋。
その後ろにそびえ立つひときわ大きな屋敷を思い返して、千翁は頷いた。
「あそこは八百万の神たちが訪れる湯屋なんだ。おれはあそこで世話になってる。そなたさえよければ、あそこに来ないか?心配しなくても、そなた一人くらい世話してくれる」
「でも…」
一度言葉を切って迷うように瞬くと、少年は元親が言葉を紡ぐのを待ってくれた。
「でも?」
千翁は一度目を伏せた。
少年の言葉は嬉しかった。
だからこそ余計に、胸が痛んだ。
ここは人ならざるモノ達の世界。
人である自分を連れて行ったら、少年の迷惑になるのではないか。
千翁は少年の迷惑にはなりたくなかった。
優しくしてくれたのに、迷惑をかけて、疎まれるようになることだけは嫌だったのだ。
続けようとする言葉は声にならず、ひゅうとかすれたような音だけが喉を擦って唇からこぼれた。
少年はどうしたと目で問うように、千翁をのぞき込んだ。
その深い闇色の目。
千翁は泣き出しそうになるのを懸命にこらえて、唇を開いた。
唇を震えさせて、その目をまっすぐに見返して。
「ほんとうに、一緒に行っても、いいの?私みたいなのが一緒に行って、貴方の、め、迷惑に、なったり、しない?」
どうにかこうにか言葉にすれば、少年はぱちくりと瞬いた。
どこか驚いたようにも見える。
少年は小さく息を吐いて肩から力を抜いた。
少年は呆れたわけではなかった。
その千翁とそれほど大きさの変わらぬ手が、千翁の目元をそっと拭う。
拍子にぽろりと涙がひとしずくこぼれて、少年の指を濡らした。
そのままその手は千翁の髪を優しく撫でた。
「何で迷惑だなんて思うんだ?」
ふわりと唇で微笑むその笑顔に、千翁は息を吐いた。
柔らかい優しいもので抱きしめられたかのような暖かさと安堵感があった。
「よし、なら一緒に行こう」
立てるか、とさしだされた手を取れば、ぎゅっと握りかえされた。
少年に手を引かれながら道をたどった。
月夜の明かりを頼りに歩くそこはどうやら、裏道らしかった。
おかげで誰にも会うことなく、細い橋のたもとまでたどり着くことができた。
少年と出会った大きな橋ではない。
裏口だろうかと千翁は思った。
「あの橋はお客専用なんだ」
少年に手をひかれるままその細い黒い橋を渡って、木戸をくぐれば庭にでた。
木の陰にしゃがみこんで、少年は手を離した。
少年は指先で地面に何やら図を描いた。
どうやら屋敷の図らしい。
「いいか?この外の階段を使って地下へ行け。そこで釜たきの秀吉という男に会え。会ったら、ここで働きたいって言うんだぞ。そうしたらきっと上にいる半兵衛のところへつれていってくれるから、そこでもまた働きたいって言うんだ。半兵衛は、まあ口うるさいが悪いヤツじゃない。素直にうんとは言わないだろうが、そなたが心から働きたいと言えば居場所をつくってくれる。だから、道が繋がるまでの我慢だと思って…」
ううん、と少年の言葉を遮って、千翁は首を横に振った。
千翁は小さいが、はっきりと笑みを浮かべた。
「お世話になるんだから、働くのは当たり前だもの」
「…そうか」
少年も頬を緩めて千翁を見返した。
ふと顔を上げて、少年は屋敷のほうを見た。
なにやら人影がいくつも動いている。
廊下をどたどたと走るような音もする。
少年をみると、千翁を安心させるように頷いてくれた。
「本来ここには人はいないはずだから、そなたの気配に気づいたものたちが騒いでいるんだ」
思わず顔を曇らせた千翁に、驚いているだけだから気にするなと笑みを返して、少年は足で地面に描いた図を消した。
「おれは騒ぎを押さえておくから、その間に行きな」
千翁は立ち上がった少年の服の裾を思わずつかまえた。
「あの、貴方の名前は?」
少年はびっくりしたように目を丸くして千翁を見下ろした。
その様子に、千翁は慌てて口を開いた。
人に名を尋ねるときはまず自分から名乗るのが礼儀だ。
「私は千翁、千翁丸。貴方の名は?」
少年はわずかの間、唇を閉じた。
「…おれは、梵天」
梵天と、唇の中で名を紡いで、千翁は服を掴んでいた手を離した。
胸に灯った温かい光。
下から梵天を見上げて、感謝の思いをこめて千翁は微笑んだ。
「ありがとう、梵天」