千翁は竜へと変じた梵天の頭の上にのって湯屋に帰った。
 慶次は、今帰ると半兵衛に怒られそうだから、ほとぼりが冷めたら顔をみせると二人を見送った。
 帰る頃には日は完全に暮れていて。
 見上げた星月夜は美しく、また星を反射させる夜の海も美しかった。
 まるで空の中にいるみたいだと言えば、梵天が笑ったような気がした。
 夜風を全身に浴びながら、半兵衛が頼りにするその身で、梵天は湯屋へと緩やかに飛んだ。
 湯屋についたころには、湯屋の明かりは落ちていた。
 釜の火も落ちたようだ。
 二人で六階の半兵衛の部屋へと向かった。
 まだ起きて机についていた半兵衛は、連れだって入ってきた二人を見て、かすかに眉をあげ、どこか意地悪そうに唇で笑んだ。
「馬鹿竜の後始末、ご苦労だったね、千翁」
「いえ、そんな…」
 当の梵天はどこか拗ねたようにぶすっとした顔をしたが、半兵衛の言葉に言い返しはしなかった。
「慶次君はまだ花園かい?」
「はい」
 半兵衛は少しばかり眉をひそめた。
「逃げたね。…まあいい。彼が戻ってきても騒々しいだけだからね」
 千翁は同意することも否定することもできず、曖昧に笑った。
 確かに。慶次は騒々しい男だ。
 声もよく通るし芝居がかっている。が、むしろその纏う雰囲気が、静けさとはほど遠いのだ。
「さて千翁」
 半兵衛は視線を千翁に向けて、そう切り出した。
「明日、というかもう今日になるのかな?今日の昼、陽が昇っている間、君との世界の扉が開く」
 千翁は目を見張った。
 半兵衛は何でもないことのように問うた。
「帰るかい?それとも、まだここにいるかい?」
「……」
「君はよく働いてくれているから、いたいならここにいてくれてもいいよ。どうする?」
 突然の言葉に、千翁は瞬間戸惑った。
 この世界に来た頃は、むしろ帰れなくてもいいと思っていた。
 否、帰りたくなどなかった。
 自分の居場所などないと、そう思っていた。
 けれど。
 梵天がこちらを静かに見ているのが分かった。
 千翁は一度静かに息を吐き出した。
 目を伏せる。
 人のものではない、この世界は、千翁にとっては居心地がよかった。
 千翁を閉じこめた者もいたが、千翁を助けてくれた者もいた。
 きっと、人の世界もそうなのだ。
 世界の全てが千翁を否定していたわけではなかった。
 中々会えないが、千翁の父は、千翁を疎んじていたわけではなかったし、世話役の老女は千翁を気にかけてくれていた。
 知っていたけれど、知りたくなかった。
 だから、耳をふさいで逃げた。
 その優しさが重かった。
 千翁は目を開けた。
 眼前の半兵衛をまっすぐに見る。
 唇で柔らかく笑んだ。
「帰ります」
「そう」
 半兵衛は頷いた。
「梵天に入り口までおくらせるよ。まだ時間がある。少しでも寝ておくといい」
「はい」
 頭を下げて、部屋を辞すとき、半兵衛は千翁と、背中に呼びかけた。
 振り返ると、半兵衛は椅子に腰掛けたまま笑んでいた。
「君はよく働いてくれたよ。君の活ける花は気に入っていた」
 千翁は破顔した。
 ありがとうございます、と頭を下げた。
 部屋をでると、部屋の中では言葉を発しなかった梵天が唇を開いた。
「帰るんだな」
「うん」
 じっと見つめてくる黒い瞳を見返して、千翁は頷いた。
 未練がないとは言わぬ。
 でも。
「皆様と、梵天と別れるのは寂しいけれど、ここは私のいるべき世界ではないから」
 私自身から逃げないと、そう決めた。
 だから、千翁はこの不思議な世界に別れを告げなければならなかった。
 そうか、と梵天は頷いた。
 そうして二人は部屋に戻って眠った。
 最後の夜を想い出話で過ごすには、未練が勝った。
 だから、互いに何も言わずに、ただ目を閉じて眠った。
 互いの存在を側に感じながら。

***

 湯屋をでるとき、半兵衛や秀吉、そして幾人かの奉公人が千翁を見送ってくれた。
 千翁はとても嬉しくて、瞳を潤ませながら手を振った。
 黒竜の頭に乗り、しばらく空を行くと。
「まあ」
 視界の先。その下に咲き乱れている、花園にも負けぬ風景。
 竜はゆるりと体を旋回させて、静かに野原に降り立った。
 千翁が綺麗ねと言うと、人の姿に戻った梵天は、慶次に教えてもらったとどこか不機嫌そうに返した。
 千翁は、梵天の声音を訝しく思ったが、どう聞いたらよいか分からずに黙った。
 もうすぐ、千翁は己の世界に帰るのだ。
 梵天との別れは間近だった。
 どうして梵天の機嫌がよくないのか分からないが、千翁は最後の時間を梵天とすごせるのは嬉しかったのだ。
 なので、千翁は少し首を傾いだあとは、梵天の言葉を待った。
 けれど、梵天はそれきり口を開かず、一人で野原の奥へと歩き出した。
 慌てて千翁も追いかける。
 梵天の足は速いというわけではなかったから、千翁はすぐに追いついた。
 梵天は振り返らない。
 千翁は、そっとその手に、手を伸ばした。
 梵天は振り返らない。
 けれど、伸ばした手は、ちゃんと掴まれた。
 千翁は梵天の横顔を見た。
 不思議なほどに精悍な顔で前を見据えて歩いている。
 千翁はふと思った。
 梵天は、怒っているわけではないのだ。不機嫌なわけでもない。
 千翁はそれ以上梵天のその態度について考えることを止めた。
 繋いだ手にすこし力を込めてみた。
 握りかえしてくれた力の強さが答えだと思った。
 少し歩いた先にあったのは、丘だった。
 花が咲いているなだらかな丘陵。
 斜面をゆっくりと登った。
 てっぺんについた。
 そこから見えたのもまた、花の咲いた野原。
 二人はそこに並んで腰を下ろした。
 手を繋いだまま。
 花園も美しい場所だったが、ここも十分美しい。
 綺麗ね、と千翁が言えば、梵天は、ん、と頷きだけを返した。
 言葉もなく、ただ二人手を繋いで、同じ景色を見ていた。
 時折、風が吹いて、髪をゆらした。
 白い雲がたなびいていた。
 鳥の声が遠くで聞こえた。
 どれくらいそうしていただろう。
「千翁」
「何、梵天?」
「あの日、千翁がこの世界に迷い込んでくれてよかった」
 梵天は前を向いたまま続けた。
 千翁はその横顔を見つめた。
「勝手なことを言っているとは分かってるが、それでも、あの日、千翁がここに迷い込んでくれて、あの橋まで来てくれて、出会えて、よかった…」
 想いが溢れて言葉にならない。
 千翁は梵天のその端正な横顔を見つめた。
 寂しい。違う、それだけではなくて。
 ああ、ただ。
この手の温度が。
この声が。
この横顔が。
梵天が。
愛おしいのだと、千翁は思った。
「私も、私も、梵天、私も、あのとき、梵天が、橋にいてくれてよかった。私を探しに来てくれて、よかった。梵天に出会えて、よかったよ」
 梵天はゆるりと首をめぐらせ千翁を見た。
 くすぐったそうに唇に柔らかな微笑を浮かべて、梵天は笑んだ。
「…帰ろう、千翁」
 繋いだ指先が離れていく。
 千翁が帰る場所はこの世界ではない。
 千翁は、うんと頷いた。
 そこから千翁の世界への入り口までは、それほど遠く離れているわけではなかった。
 いつか来たときと同じ、なだらかな丘陵があって、その裾から河原が続いている。
 その先に、どこにでもあるような洞窟が見えた。
 丘陵の上に立って、あそこが扉だと梵天は言った。
 ここが境目なのねと千翁は思った。
 ここが、梵天と千翁の境なのだ。
 千翁は隣に立つ梵天に向き直った。
「ありがとう、梵天」
 さよならの代わりに、そう告げれば、梵天も、ありがとう千翁と、こう言った。
 千翁、と梵天が呼ぶ。
「千翁のおかげで、おれはおれの欠片をみつけることができた。千翁のおかげで、本当の名をみつけた」
 梵天の黒い瞳が、きらきらと輝いているようで、千翁は眩しげに目を細めた。
「おれの本当の名前は、政宗という。伊達藤次郎政宗」
「政宗…」
 梵天から与えられた名を唇にのせて、千翁は思わずふふと声をこぼして笑った。
「何だか、お殿様みたい」
 政宗、と確認するように名を呼べば、梵天は袂から薄紅色の花一輪、取り出して、千翁へと差し出した。
 千翁が受け取ろうと手を伸ばしたとき。
 そのまま花ごと、抱きしめられた。
 その瞬間、息が止まる。
 その一瞬、世界は、千翁の世界は静止したのだ。
 そして、耳元で紡がれる梵天の声だけが千翁の全てになった。
「会いにいく」
 千翁は手にした花をぎゅっと握った。
「おれは、いつか、千翁に会いにいく」
 千翁は目を伏せた。
 優しい風がふわりと頬を撫でた気がした。
 千翁はゆっくりと腕を持ち上げ、梵天の背中を抱き返した。
 温かい体だと思った。
「うん、待ってる。梵天が、政宗が来るのを、待っているよ…」
 ぎゅうと、最後にもう一度強く抱きしめられて。
 振り帰らずに行きな、と。
唇とともに耳朶に触れた別れの言葉。
 そして、千翁の体は解放された。
 千翁は、梵天に背を向けた。
 顔は、見なかった。
 千翁は一人丘陵を下っていった。
 足下の草の感触が、河原のそれにとって変わる。
 梵天が見送ってくれていることを知っていたが、千翁は振り返らなかった。
 大丈夫。
 千翁は手の中にある薄紅色の花を見た。
 それは花園でしか咲けなかった、あの花ではない。力強く咲く野の花。
 千翁も、花園でしか咲けない花ではない。
私は前を向いていける。
顔を上げていていいのだと、教えてくれた人たちが居るから。
この記憶があるかぎり、自分は歩いていける。
 洞窟の中は暗かったが、千翁は壁に手をつきながら足を止めることなく歩き続けた。
先に光が見えた。
 洞窟を抜ける。
 馴染んだ山の空気が千翁を包んだ。
 千翁は目を伏せ、一度ゆっくりと呼吸した。
 目を開ける。
 手にしていた花は、千翁の世界でも美しく。
 じわりとにじんだ想いを口にする代わりに。
待っているよ、と。
声に出さず、千翁はただそっと花に口づけた。


『私』を見つけてくれてありがとう。