序
そこは深い山の中。
千翁はぐすぐすと鼻をすすりあげながら山の中を歩いていた。
屋敷の庭から続く緑の中に入ってしまえば、誰も千翁を傷つけない。
山に半ば埋もれるようにして作られた別邸は、人を、力を恐れる千翁に対する父親の愛情の証であったが、分かっていても千翁はその屋敷においても真に安らぐことはできなかった。
責める声、嘲笑う声が木霊しているように感じる。
人が怖い。
何のために自分は存在しているのか分からない。
皆の期待にこたえられない自分が悪いのだとは分かっている。
千翁の一族は、遡れば海賊とも呼ばれる、ならず者だった。
それがこの国を拠点として地になじみ、そのまま海賊は領主となった。
荒れる世の中。
国を守る己の父や叔父たちを思う。
血を見ることを恐れる己は、この荒ぶる国を治める男の跡継ぎとしてどこか欠けているのではないか。
山の中にいる生き物はだれも千翁を責めない。
木々のざわめき。木漏れ日。
その中であって初めて、千翁は安らぐことができた。
だからこの日も、千翁は己を優しく受け入れてくれる山へと入ったのだ。
千翁が恐れる人が、神のおわす山として恐れる山へと。
人が恐れるにはわけがある。
その山には人とも動物とも思えぬ生き物がいるという。
その山に入り、幾人も行方が分からぬ者がいるという。
その山から竜が飛びいだすのを見た者がいるという。
いつしか人は山を恐れ、山に近づかなくなったのだ。
あれ、と千翁は瞬いて足を止めた。
別邸に移ってから、何度も何度も山へと入った千翁は、姫若子とよばれ馬鹿にされてはいたが、山歩きには猟師と同じほどに慣れている。
目の前に現れたのは、一つの洞窟。
十二という年齢からすれば高い千翁の背丈より、わずかばかり大きいそれは、初めてみるものだった。
こんなところに洞窟などあっただろうかと首を傾げて、千翁はぱっくりと暗い口を開いたそこに近づいた。
風が鳴っていた。
ということは、向こう側に出口があるのだ。
千翁はごくりと唾を呑んだ。
意を決したように、洞窟の壁に手をついて、その暗がりに足を踏み出す。
臆病者よと嗤われても、少年らしい好奇心を持ち合わせていないわけではない。
確かに、見知らぬものへの恐怖はあった。
もしかしたら、帰って来れなくなるかもしれないとも思ったが、すぐにそれでも構わないと千翁は思い直した。
役立たずの姫若子など、いなくなってもだれも困らない。
まるで誘うような風が通る音を聞きながら、千翁はゆっくりと足をすすめていった。
その日、一人の子供が山の中に消えた。