+ Hungry spider+





いつか終わりがくることを知っていた。
政宗はいつか森を去る。
次代の王の御代になるまで、元親は社をでることはない。
だから、儚い夢が終わるときは、己がその背を見送ることで終わるのだと思っていた。
置いていくことと、置いていかれること。
一体そのどちらのほうが、切ないのだろう?

***

『貴方は神の元へと嫁ぐのです』
 その言葉の意味は一つだった。
 この世を離れて、神の元へ身を捧ぐ。
 百年に一度、続けられてきた祭り。
 一月ほど先に控えたそれが、己の命が終わるときなのだと、少し前に元親は知った。
 元親は神子だ。
 国の鎮守を神に祈り、祭事をとりおこなうのが役目。
 幼い頃から神子として生きてきた。
 だから、それがつとめだというのなら、元親はそれに従うだけだ。
 なのに。
 それがつとめならと頷く神子としての己の他に、嫌だと声をあげる、ただの元親がここにいる。
 耐えられないと、胸が締め付けられる。
 政宗と会えなくなることが。
 政宗と離れてしまうことが。
 たまらなく辛い。
 神子である己に背を向けたくなる。
 未練が後ろ髪を引いて、がんじがらめに捕らわれる。
 会わぬほうがいいことは分かっていても、会わずにはいられない己の、何と業の深いことか。
 政宗に背を向けられたことに呼応するかのように、月でさえも雲の向こうに隠れてしまって、数日、元親は政宗と逢うことが叶わなかった。
 つれない月にため息を吐きながらも、けれどそのほうがいいのかもしれないとも思った。
 月が出ても、もう政宗は元親を迎えに来てはくれないかもしれない。
 その仮定は、元親の体を、指の先まで冷えさせた。
 月明かりの下、来ぬ人をずっと待ち続けるという己の想像に、心臓を掴まれたかのように胸が痛んだ。
 だったら、雲に覆われた空であるほうがいいのかもしれない。
 同じ、会えない状況でも、空のせいだと、胸を締め付けるものを見なくて済むから。
 煩悶を繰り返し、幾度か夜が明け。
 そして月が空に輝く夜が来る。
 夜を待つその間が、たまらなく不安だった。
 けれど、きっと来てくれると期待することもやめられなかった。
 まだ終わりが来てしまったわけではないと。
 言い聞かせるようにして、元親は月が空に昇るのを待っていた。
 迎えに行くまで社から出るなと言われたとおり、境内の奥にある大きな楠の影が、待ち合わせ場所だった。
 元親が出向けば、大概政宗のほうが先に待っててくれた。
 不安で揺れる胸を宥めながら、元親は待ち合わせ場所へと足を向けた。
 鼓動が走る。
 体が冷える。
 木の下まで足をすすめて、元親は息を止めた。
くしゃりと顔を歪ませて、思わずその場にしゃがみ込む。
 誰もいない。
 そう、思ったとき。
 微かな音が鼓膜をかすめて、思わず元親は顔をあげた。
 気配を夜の闇に混じらせて。
 金の瞳が元親を見下ろしていた。
 元親はその色を認めた瞬間、顔を綻ばせた。
 情けなく眉が下がって、唇の端が震える。
 じわりと胸を包む安堵に、声が掠れた。
「もう、来てくれねえかと思った…」
「…Why?」
「…お前の気遣いを、無下にしちまったから」
 呟くように言えば、政宗は何かを堪えるかのような苦い顔をした。
「アンタは、神子だ。そんなことで謝るな」
 この前言ったことを、もう一度政宗は繰り返した。
 けれど、前は蝶だからと言ったそれが、神子に変わっていることに元親は気がついた。
「…今度舞うやつは誰にも見せられねえんだけどよ、いつも舞うやつも、忘れちまうと困るから」
 だから。
「おれが舞うのを、見ててくれねえか?」
神へと捧ぐためではなくて、それなら、政宗のために舞えるから。
どきどきと走る心臓の上に拳を引き寄せて、元親は政宗を見つめた。
けれども、政宗は唇を引き結んだまま元親を見下ろすだけで、首をふることもしてくれない。
気力もすぐさましおれてしまって、元親は俯いた。
「嫌なら、いいんだけどよ…」
 言葉の最後が細く消えていって、元親は情けなさに唇の内側を噛んだ。
 頭上で、ふと吐息がこぼれるのが分かった。
 しゃがみ込む気配がして、元親は恐る恐る顔をあげる。
「政宗…?」
 名を呼べば、政宗は微かに苦笑した。
「嫌なわけねえよ。この間のことも、別に怒ってたわけじゃねえ」
 ただ、と言葉を一度きり、政宗は顔を伏せた。
 顔が隠れて、元親からは政宗がどんな表情をしているのか分からない。
 低い静かな声は、すこしばかり掠れているように聞こえて、元親は己の鼓動が速くなるのを感じた。
「久しぶりに会ったってのに、アンタがぼんやりしてるもんだから、ちょっと面白くなかっただけだ」
 元親は瞬いた。
 体の奥がじわりと火照る。
 政宗は顔をあげた。
 少し、目を細めて、音もなく小さく笑んで。
「sorry」
 その響きが、脳髄に甘く沁みる。
 立ち上がった政宗が手を差し出してくる。
 そこにあるのは、政宗の優しさであって、特別なものなどない。
 分かっていても、その手につかまったとき、ふれ合う手のひらの温度に、息が詰まった。
「舞って、くれるか?アンタの舞は、好きなんだ」

***

 舞ってる間、たまらなく幸せだったといえば、政宗はどんな顔をするだろう。
 驚くか、不思議そうな顔をするだろうなと、元親は思った。
 舞っている間は、政宗のことだけを考えていた。
 政宗のことだけを想っていられた。
 それが泣いてしまいたいほどに、幸福なのだと。
 溢れる想いとともに、こぼしてしまいそうになる。
 お前のことが好きなんだと。
 わき出でる泉のように溢れてくる感情に身を浸して、溺れてしまいそうだ。
 息が苦しくなる。
 けれど、それすらも嫌ではなくて。
 元親はゆっくりと瞬いた。
 言葉の代わりに、瞳が湿って、ほのかに熱を持っている気がした。
 木の根本に腰を下ろして並んで座る。
 言葉はなく、ただ隣にある気配だけを感じていた。
 元親をの手を掴んでくれた右手は、政宗の膝の上にあって、近くに並んで座っていても、その手が触れあうことはない。
 元親の舞を、好きだと言ってくれたその声が。
 耳から離れず何度も木霊のように脳裏に響く。
 その残響すら甘やかで、元親の心を締め付ける。
 政宗はいつだって元親に優しい。
 優しいから、その優しさに縋ってしまいたくなる自分がいる。
 神子の自分を、そ知らぬ顔でおいやって、ただの元親として望みたくなってしまう。
 触れて欲しいと。
 ずっと、側にいて欲しいと。
 いつか別れが来るときは、静かに笑って、政宗が去っていくのを見送れると思っていた。
それがどうだ。
別れが形を成して目に見えるようになった途端。
 嫌だと、心が子供みたいな声をあげる。
 そんな自分は、知らなかった。
 神子であった元親は、何かを欲しがって駄々をこねるだなんてしたことはなかったから。
 神子として必要な物は全て与えられてきた。
 神子としての元親を、皆愛してくれた。
 それだけで、十分だったはずなのに。
 欲が深くなっていく。
 往生際が悪いことだと、自分でも思う。
みっともない様だとも。
 政宗へ向かう想いが溢れてどうしようもなくなる。
 手放す気なんて、さらさらないくせに、別れを受け入れられると思っていた自分はきっと、別れというものを知ってはいなかったのだ。
 神子と、ただの元親としての自分の狭間で身動きが取れない。
 ただの元親であることを、振り切ることができない。
 元親は隣に座る政宗の横顔を盗み見た。
 その右目は眼帯で覆われていて、瞳は見えない。
 見えなくて、よかったと元親は思う。
 きっとその金色に飲み込まれて、言ってはならぬことを言ってしまう。
 元親は泣き笑いのような顔で、瞬間笑んだ。
 
側にいて。
どうか、離れないで。
お前のことが、好きなんだ。

 声にならぬ想いを胸の内で呟いて、元親は目を閉じた。
 その肩にそっと、体を預ける。
 肩口に頭をのせて、元親は唇を薄く開いた。
 声がこぼれないように、ただ静かに呼吸する。
「…眠いのか?」
 気づかうようにひそめられた声が近い。
 答えを返さず、目を閉じていれば。
 少し身じろいだ体に、喉の奥が痛んだ。
 離されてしまうのかと脅えたとき。
 背中に触れた腕、頭を包んだ手の感触に、息が止まった。
 頭を抱かれて、髪に口づけられている。
 そのことを自覚したとき、元親は伏せた瞼の下で、眼球が熱く疼いた気がした。
 元親が近づけば、政宗はそのぶん、身を引いた。
 元親から触れることを、政宗は避けた。
 それが分かっているから、元親は自分から手を伸ばすことはしないでおこうと気をつけていた。
 避けられるのは悲しいから。
 けれどときおり、政宗の方から、元親に触れてくれるときがあった。
 大概政宗が触れるのは元親の髪で。
 優しく髪をすく手の感触が好きだった。
 体が震える。
眠っていないことがばれてしまう。
 けれど、元親が眠っていないことが分かれば、政宗は体を離してしまうだろう。
 だから元親は必死に体が震えそうになるのを押さえ込んで、頑なに目を伏せ続けた。
 元親の狸寝入りに気づいているのか、気づいていないのか、元親には分からない。
 いや、きっと気づいているだろう。
 政宗は森守で蜘蛛の頭なのだから。
 元親の下手なごまかしに、気づかぬはずはない。
 ならば、気づかぬふりをしてくれているのか。
 気づかぬふりをして、元親の頭を抱き、髪をすいて、肩を抱いてくれているのだろうか。
 肩を包む手の感触に、泣きたくなった。
 あまりにも幸せで。
 あまりにも切なくて。
 泣きたかった。
 嗚咽をこぼして泣いてしまいたかった。
 このまま時が止まればいいと思う。
 ならいっそ、時を止めてしまおうか。
 いつか時が終わるというなら、泣きたくなるほどに幸せな今、終わりにして欲しい。
 じわりと甘い陶酔感が思考を塗りつぶしていく。
 目の奥が燃えている。
 胸が苦しいのか、そうでないのかすら分からない。
 今が幸せなら、この命を絶って、この刹那を永遠にしてしまおうか。
 低い己の声が脳裏に響いたとき。
 森がざわめいた。
 瞬時に、政宗の気がするどく張りつめる。
 体を強く抱き寄せられて、元親は目を見開いた。
 目を丸くしている元親を、政宗はしっと小さな声で制した。
「誰か来る。アンタはここでじっとしてろ」
 冷水をあびせかけられたかのように、元親は肩をびくりと震わせて、ただ頷いた。
 政宗の体が離れていく。
 元親は木の幹に体を寄せて、じっと息を殺した。
 政宗と夜を過ごしているとき、誰かと行き会ったことは一度もなかった。
 それは政宗が場所を選んでくれているからだと知っていた。
 どこか場違いな軽い声が響いた。
「あれ、頭じゃないですか」
 どうやら蜘蛛の一族らしい。
「見回りはいいが、こんなところで何してる?」
「いやそれが、まだ慣れねえもんで、ちょっと奥まで来すぎちまったみたいで」
 政宗が呆れたようなため息を吐くのが聞こえた。
「…迷子か、テメエ」
「お恥ずかしい」
 恐縮したあと、男は感心したように続けた。
「しかし、頭がよく夜の見回りをなさっているのは聞いていましたが、こんなところまで見て回ってるだなんて、流石ですね」
 別に探るようなものでもない、素直に感心してるとわかる声だったが、元親の心臓は凍り付いた。
「ああ。まあ何もないとは思うが、一応な。おれが森守やってるときに何かあって、一族の名に傷をつけるのは許せねえからな」
 道はあっちだ。もう迷うなよと政宗が言えば、へいと頷いて、微かな足音が遠ざかっていく。
 頭が一瞬で冷える。
 分かっていたはずだったのに、目を背けていた事実。
 政宗は森と社を守る森守。
 森と社を守るのが、政宗のつとめなのだ。
 政宗は、立派につとめを果たしている。
 森と社と、そして神子である元親を守ってくれている。
 ならば、神子である元親も、己に課せられた役目を投げ出すわけにはいかない。
 それが、元親のつとめだから。
 男が去ったのを見届けたあと、政宗は元親のもとへと戻ってきた。
 膝を着いて、悪いと謝る。
「最近ここに来た新入りでな。迷ったらしい」
「らしいな」
「寝てたとこを驚かせて、悪かった」
 いや、と元親は笑ってみせた。
「おかげで目がさめた」
 政宗は微かに首を傾いで、困ったように笑んだ。
「気にしてねえよ。お前のせいじゃねえだろ」
 それに、と唇を緩やかな弧に描いて。
「起こしてくれて、よかった」
 それは嘘ではなかった。
 愚かで身勝手な夢から起こしてくれて、感謝している。
 気を狂わせそうな熱は、今はもう引いていて、穏やかだ。
「夢見がわるかったんだ」
 そう言えば、政宗は不意に表情を改めて、どんな、と元親に問うた。
 そのまっすぐな瞳をみると、さざ波のように心はざわめいたが、それくらいは許されてもいいだろうと思う。
「テメエに負ける夢」
「Han?」
 指先で駒を摘む仕草をすれば、政宗は気が抜けたように眉を上げた。
 思わず声に出して笑う。
「後味の悪さは一級品な夢だった」

***

 鎮守を祈る森の神子。
 つとめと言われれば、否とは言えぬ。
 結局自分は、神子でしかあれないので。

ならば私は最後まで、貴方が慈しんでくれた蝶であろうと思う。





 終わりが来るなんて思いもしなかった。
 この森は、政宗が駆けていた戦場に比べれば、退屈なほどに平和で、静かに時が流れていたから。
 ともにすごした年月が、あまりにも穏やかに流れていったので。
 己さえ、間違わなければ、ずっと側にいられるのだと、そう疑いもしなかったのだ。

***

 最近元親は、時折、ふと遠くを見つめるようなことが増えた。
 その顔は確かに笑んでいるのに、何故かこちらの胸が疼くこともあった。
 それはほんの些細な変化で、元親にそのことを問うても、祭りの準備で少し疲れているからと返されてしまえば、政宗はそうかと頷くしかなかった。
 何より、自分がそう信じたかっただけなのかも知れないと、後から政宗は思った。
 数日先に祭りをひかえた夜のこと。
「何、言ってんだ…?」
 政宗は元親に告げられた言葉の意味が分からず、ただ呆然と問い返すことしかできなかった。
 元親は唇に淡い微笑を浮かべたまま、もう一度、先ほど政宗に告げた言葉を繰り返した。
「もう、お前とは会えなくなる。ずるずると引き延ばしちまって、ずっと言えずにいたが、今日で最後だ」
 何故笑みを浮かべながらそんなことを言うことができる。
 そんな静かな笑みを見たいわけじゃなかった。
 そんな柔らかい声を聞きたいわけじゃなかった。
 言葉の意味を理解しても、政宗は指一本動かすことができずに、ただ元親を見つめ返すことしかできなかった。
 突然突きつけられた別れに納得などできるはずがない。
「今度、祭りがあるだろう?」
「知ってる」
 今年は特別な舞を舞うのだと言っていたそれを、忘れるわけがない。
 その日のことを考えるだけで、じわりと胸が、嫉妬の残り火で痛むのに。
「一年に一度の大祭だ」
「形式的な祭りだろ」
 遮るように返した政宗の言葉に、元親は怒るわけでもなく頷いた。
「ああ、形式だな。形式的な神事の中でも特別な、神契りの儀式ってのがあるんだ。神契りは百年に一度だけ行われる。今年の祭りが、それなのさ」
 元親は一層穏やかに笑ってみせた。
「形式さ。形式的に、おれは神の元へ嫁ぐ」
 嫁ぐという言葉に、思考がとまった。
「この世を離れて」
 その一言に、堪えていた何かがぷつりと音をたてて切れた。
 喉の奥が、かっと燃える。
 目の前が真っ赤に染まって、気がつけば声を荒げていた。
「それじゃまるで贄じゃねえか!」
 それは悲鳴じみていて、政宗自身、その言葉のもつ響きにぞくりと背筋を震わせる。
 けれど、贄という言葉にも、元親は動揺しなかった。
 ただ、僅かに瞳を揺らしただけだった。
 ああ、と何でもないことのように頷く。
「まあ、運が悪かったんだなあ」
「運が悪いで済む話じゃねえだろう?!」
 暢気とすらいえる口調に、苛立ちを押さえきれずに怒鳴り返せば。
 まっすぐな琥珀色の瞳が、真正面から政宗を映した。
「運が悪いですむ話さ。この国は、そうやって守られてきたんだ」
「神なんざいねえじゃねえか!」
「いるさ」
「ああいるかもしれねえな!だがいたとしても、この世にはいねえ!」
「そうだな。想像の産物を神とよび、祈ることでおれたちの国は長らえてきたんだよ。皆がそう信じれば、それは真実になるんだ」
 それはどこまでも、国の鎮守を祈る神子としての言葉だった。
 そしてそれは正しいのだろう。
 正しすぎて、怒りしかわいてこない。
 胃の腑の底が燃えて、手指の先が痺れる。
 元親の肩を掴んで揺さぶって、そんな話は嘘だと言わせたい。
 何故笑ってそんなことを言えるのかと詰りたい。
 体を引き裂きそうな痛みが脳天を突き抜けて、政宗はかすかに身を震わせた。
 真っ赤に燃える視界の中で、元親の瞳が政宗を見つめている。
 さっきまで静かだったそれが、微かに揺れる。
 その色に滲む想いが何なのか、政宗には分からない。
 赤く色づいた唇が薄く開いて、元親は吐息をこぼした。
「いつか、食べられちまうなら、おれはお前に喰われてえ。顔も知らない神なんかじゃなくて」
「っ!」
 吐息混じりのその声は熱く湿っていて、政宗の体の内側を撫でていく。
 まるで愛撫のような声音に、胸が震える。
 狂おしいような光が、その瞳の中心にあって、その色にがんじがらめに囚われる。
 絡み合った視線に惹かれるまま、その体を抱いてしまいたい。
 ふれ合うほどに近くにある顔はただ美しい。
「蜘蛛は蝶を喰うんだろ?」
 それは森に住まう虫たちの話。
 そして、元親と政宗の話。
 熱い吐息が肌に触れる。
 触れたそこから、溶けてしまいたいと思う。
「だったら、おれも、お前に喰われてえなあ」
 どこかうわ言のようなそれは熱く甘く、そしてどうしてか泣きたいほどに切なかった。
 その告白は、元親の願いのように聞こえた。
 数日後に行われる祭り。
 政宗が見ることは叶わない、神だけに捧げる舞を舞って、そして元親は神の元へと逝くのだろう。
 政宗のもとから飛び去って。
 二度と手の届かぬ所へと。
 目眩がする。
 泣いてわめきたいほどの激情が荒れ狂っているのに、喉の奥、目の奥は何故か乾いていて、涙のひとしずくもでてきやしない。
「…連れて逃げろとは、願ってくれねえのか」
 こぼれた声は、子供のように頼りなげで掠れていた、
 それは政宗が抱いた願いだった。
 怖い。死ぬのは嫌だと言ってくれれば。
 連れて逃げろと言ってくれれば、地の果てまでも逃げてみせようものを。
 元親は瞬いた。
 その瞳がしっとりと濡れる。
 宝石のように煌めいて政宗だけを映している。
 元親は唇をわななかせて、でも微かに笑んだ。
「言わねえよ」
 その声に。
 元親はもう決めてしまったことを知る。
 神子であり続けることを。
 政宗は指を握り込んだ。
 爪が皮膚に食い込んで、その痛みに、体を燃やす熱が静かに引いていく。
 逃げようと言ったところで、元親は首を縦には振らないのだろう。
 分かってしまう自分がたまらなく嫌だ。
「喰えなんざ言う前に、他に言うことはねえのか?」
 分かっていながらも、諦めきれずに問いかけた。
 一言でもいい。
 その瞳に滲む想いが、政宗が抱くものと同じなら。
 言葉にしてくれたのなら。
 何もかもを振り切って、連れ去っていこうと思ったのに。
「…言えねえよ」
 元親は目を伏せて、そう言った。
 まるで泣いているかのように見えた。
 それは政宗の願望がみせる幻か。
 結局、震えるその体を抱きしめることも、その手首を掴んで連れ去ることもできずに。
 政宗は冷えた指を銀の髪に伸ばした。
 けれど硬質なその銀糸に触れる前に手は静かに落ちて。
 月だけが変わらず二人を照らしていた。





好きだなんて言えるわけがなかった。

***

 月のない朔の日。
 身を清めて、身につけるのは純白の袴。
 元々色素の薄い元親が身につければ、それはどこか浮世離れした印象が強まる。
 仕上げに唇に紅をはいて。
 元親は一人、舞殿へと足をすすめた。
 周りには誰もいない。
 闇夜に、かがり火だけが燃えている。
 手にした鈴の音だけが響く。
 それは神を呼ぶ音。
 一人、元親は舞を捧ぐ。
 舞い終わったそのとき、ぱたりと腕を下ろして、元親はまるでつきものが落ちたかのように、心が静まりかえっていることを自覚した。
 終わってしまった。
 夢のように儚い時がもうすぐ終わる。
 舞殿を後にして、元親は輿にのり、森の最奥へと揺られていった。
 普段だれも寄りつかぬそこには、ぱっくりと口を開いた洞窟がある。
 元親は輿からおりた。
 促された先にある祭壇の前に正座する。
 そして、音もなく、社からの先導者はそこを去った。
 元親は一人だった。
 やがて、社の者たちと入れ替わるようにして、一つの黒い影が姿を見せる。
 元親は驚かなかった。
 誰かが来ることを元親は承知していた。
 神子を神のいる世へ送る者が必要だ。
 覆面で顔を覆い隠した男が、元親を神の御許へと送ってくれるのだろう。
 闇にとけ込むその姿。
 夜に愛されたものたち。
 蜘蛛の一族。
 蝶は蜘蛛に喰らわれる。
 恐怖を覚えることはなかった。
 心は凪いでいて、ただ元親は待っていた。
 夢が終わるその瞬間を。






 心にぽっかりと開いた穴を抱えていた。
 そこは新月のように真暗で、ときおり乾いた風が吹いた。
 いつしかそこには色が付き始める。
 月の色を吸って輝く柔らかい銀色。
 もう一度そこから色が抜け落ちることに耐えられそうにない。

***

 祭りの日は月のない朔日だった。
 ここのところ、何故元親の様子がおかしかったのか、今の政宗は承知していた。
 この日元親は神へと嫁ぐ。
 政宗の手の届かぬところへ、飛び去ろうとしている。
 政宗の身を包む黒衣は、蜘蛛の戦装束だ。
 腰には使い込んだ刀。
 政宗が一人屋敷を出ようとしたところに、立ちふさがった影。
「なりませぬ」
 それは政宗の右腕の小十郎だった。
 政宗は、何故小十郎がここにいるのか、などとは問わなかった。
 ただ一言。
「どけ、小十郎」
 まっすぐに目を合わせて短く言った。
 しかし、小十郎のほうもそれで頷くのならば、主の前に立ちふさがったりなどしないだろう。
「どきませぬ。ここを退けば、あなたはもう二度と、ここには戻らぬおつもりでしょう」
「分かってんなら、聞くんじゃねえよ」
「あなたは当主となられる御方です!」
 この男にしては珍しい、感情を露わにした声が夜の空気を裂いた。
 政宗は薄く笑った。
「Ha!当主になるってんなら、こんなとこに追いやられてねえよ」
「政宗様!」
 悲鳴のような非難の声に、政宗は眉を下げて苦笑した。
 元親は選んだ。
 政宗も、選んだ。
 だから政宗は、行かなければいけなかった。
「いいんだよ、小十郎。むしろ今は感謝してんだぜ。追いやってくれたのがこの森で」
 本心を告げれば、小十郎は顔を歪めた。
「…一族を捨てるとおっしゃるのですか」
「捨てるわけじゃねえよ。けどおれは、アイツを手放すことができねえだけだ」
「あなたさまが夜、蝶と会っていらっしゃったことは知っております」
「……」
「知っていてなお、何も申さなかったのは、あなたの目が、この現世をみてくれるようになったからです。血の舞う戦場でも、暗い闇でもなく。だから私は、何も申すことはしませんでした」
 滲むようなその言葉に、政宗は僅かに目を見開いた。
 二年、儚い夢のような時が壊れることはなかったとはいえ、この男には気づかれているだろうとは思っていた。
 けれど、認めてくれていたとまでは思っていなかった。
「あの方の境遇には同情いたします」
 その言葉に、小十郎も、今日の儀式を知っていたことを知る。
 政宗は唇でかすかに笑んだ。
 森守の頭でありながら、元親に告げられるまで儀式の本当の意味を知らなかった政宗だったが、政宗と元親のことを知る小十郎なら、それを政宗に告げなかったことも頷ける。
 大方、告げれば政宗がどういう行動にでるかなどとは分かっていたからだろう。
 そして実際、小十郎の判断は正しい。
「嫌なんだよ」
「……」
 政宗は眉を下げて首を傾いだ。
「手の届くところにいるのに、何が悲しくて惚れた相手を、いもしねえ神なんて胡散臭い相手に譲ってやらなきゃならねえんだ」
 終わりが来るだなんて思いもしなかった。
 元親が森を去るときには、共に行こうと手を伸ばすつもりだった。
 だからそれまでは、蝶を守る蜘蛛として、側にいるだけでいようと。
「あいつは役目を放りなげることなんざしねえからな。次の神子が来て、あいつがお役ご免になったらかっさらうつもりで、珍しく大人しく待ってたってのによ。指くわえて見てられるわけねえだろ?ここで諦められたら、このおれが、二年も片思いなんぞしてるかよ。なあ、そうだろう?」
 政宗はいっそ穏やかに笑ってさえいた。
「それだけのことなんだよ、小十郎。それだけのことなんだ」
 小さい頃から側にいた。
 政宗の剣の師であり右腕である男。
「親父には親子の縁をきってくれるように書状をだした。一族の名に、傷をつけるようなことはしねえよ」
 小十郎は深く瞠目した。
 政宗の決意が変わらないことなど、はなから分かっていただろう。
 分かっていても、黙っていることはできなかったのだろう。
 小十郎は手に持っていた刀を抜いた。
 政宗は苦笑した。
「テメエは頑固だからな」
己も、腰にはいた刀を抜いて。
「手加減なんぞしてくれんなよ?」
 月明かりもない暗闇で、二匹の蜘蛛がぶつかった。





 政宗とすごした最後の夜を思い出す。
 心は決めても、伝えることは中々出来ずに、ずるずると引き延ばしてしまったけれど。
 大切な相手だからこそ、ちゃんと言葉にして伝えようと思った。
 政宗を置いて去ることを。
 政宗が大切に守ってくれた神子として。
 心は決まっていたはずなのに。
 贄になることを伝えたそのとき、声を荒げて激昂した政宗に、未練が、顔をだした。
 政宗が元親に対して、そこまであからさまに感情をむき出しにしてくれたことはなかった。
 それが嬉しくてたまらなくて。
 沈めたはずの欲が形を作る。
 最後だということに甘えて、元親は望みを口にした。
 ずっと言いたかったこと。
 ずっと、お前だけのものになりたかった。

***

 黒い影が音もなく近づいてきて、祭壇に座る元親を見下ろした。
 闇にとけ込む黒の装束。
 その隙間から、金色の瞳が元親を映している。
 月のない星月夜。
 その明かりは、月のそれほど強くないが、目の前にある蜘蛛の姿を見るには十分だった。
 顔を覆う布の向こうから男が問う。
「何か言い残すことは?」
 布を通してくぐもったその声。
 元親は紅のはいた唇を震わせた。
 ああ、泣き出してしまいそうだ。
 凪いでいた心が、にわかにざわめく。
 言葉にならない想いが溢れて、こぼれおちてしまいそうになる。
 未練があった。欲もあった。
 けれど、それ以上に。
 満足だった。
 胸を締め付ける痛みすら幸せで。
 その声は、最後に聞きたいと思っていた声。
 その瞳は、最後に見たいと思っていた瞳。
 政宗はいつでも、元親の望みを叶えてくれた。
今、このときも。
幸せだと、元親は声に出さずに呟いた。
おれの命を喰らうのが、神でも見知らぬ誰でもなくて、お前であることが。
だから。
元親は男を見上げて、唇を弧に描き、鮮やかに笑ってみせた。
「ない」
 最後の瞬間まで、その瞳を見ていようと思った。
 男の手が、顔を覆う覆面に伸びる。
 はぎ取った布の下に隠されていたのは、元親が望んだ男の顔だった。
 表情を消したその顔は、恐ろしいほどに整って見えた。
 いっそ甘やかな笑みさえ浮かべて、元親はその瞬間を待った。
 政宗が手にした刀で、この身が貫かれる瞬間を。
 けれど。
 その手から、鋼の輝きが抜け落ちる。
 膝を着いて。
 元親は一度瞬いた。
 体をきつく束縛する腕の強さと、その体の熱に、目じりから滴がこぼれ落ちた。
 元親の体を抱きしめながら、政宗は元親の肩に顔を伏せた。
「神なんざいねえよ。この洞窟の奥には何もない。分かってたんだろう?」
 元親はふと吐息をこぼした。
「…ああ、知ってたよ」
 口伝される儀式のことは知らずとも、この洞窟のことは知っていた。
 一度入ったことがあるからだ。
 政宗に出会う前、一人で屋敷を抜け出すようになった頃に。
 神代へ続くとされる洞窟だが、その先には何もなかった。
「だからって、嫌だなんて言うわけにはいかねえよ。それが、おれのつとめなんだってことも、知ってんだからよ」
「…アンタは、そういうやつだよな」
 政宗の腕がいっそう強く体を抱いた。
 背骨が軋みそうなほどの力だったが、元親は身じろぎひとつせず、政宗に身を任せた。
「だから、おれも、アンタをとめやしなかった」
「…ああ」
 元親は目を伏せた。
 声を荒げても、政宗は元親をとめなかった。
 いつだって政宗は優しい。
 元親の意志を尊重してくれた。
「だからって、アンタを他のヤツにかっさらわれるのを黙ってみてるとでも思ったか」
「……」
「蝶を供物に捧げるのは蜘蛛だってことを、アンタは知っていたんだろう?神に嫁ぐといっても、結局アンタら蝶が忌み嫌う蜘蛛に喰われてるだけだってことを」
 政宗の言うとおり、神子を神のもとへ送る役目を担うのが蜘蛛だということを、元親は知っていた。
 少し考えれば分かる話だ。
 社の者が神子に手をかけることはない。
 それを成せるものがいるのならば、社と森を守る蜘蛛以外にはありえない。
 そのことに気づいたとき、初めて元親は、己が蝶であることに感謝した。政宗が蜘蛛であることにも。
「蝶を喰らうのが蜘蛛だと知ったときから、この命を狩られるなら、お前がいいと思ってた。だったらおれは、幸せなまま逝けるって」
「逝かすかよ」
「……」
 体にまわる政宗の腕が緩む。
 そのことに少しの寂しさを覚える。
 政宗が元親の肩口から顔をあげる。
 元親の目をまっすぐに見つめる政宗の瞳が、すぐ側にあった。
 視線が絡まる。
 狂おしく燃える熱情を閉じ込めて煌めくその色から逃れたくなくて、瞬きすらしたくない。
「アンタは頑固で、真面目だからな。駆け落ちに誘っても、素直に頷いちゃくれねえだろ?だから、待ってやったんだ」
 政宗の手が、元親の頬に添えられる。
 熱い手だった。
 元親が望んだ、政宗の体温だった。
 もういいだろう、と政宗が問う。
「蜘蛛が社に報告すりゃ、神契りの儀式は終わる。それだけのことで、終わるんだ。だから、もういいだろう?アンタは役目を全うしたんだ」
 だから、と低い掠れた、耳に甘い声が、元親の鼓膜を震わせた。
「いい加減、素直に言えよ」
 ぞくりと体をわななかせながら、元親はすぐ側にある政宗の瞳を見返した。
 まるで子供のように問い返す。
「なにを?」
 政宗の指が、元親の頬を撫で、目じりに触れる。
 口づけの距離で、政宗は密やかに囁いた。
「おれに言いたいことがあるだろう?」
 それは問いかけの形をとってはいたが、命のように聞こえた。
 元親は薄く開いた唇から、吐息をこぼした。
 政宗の言うとおり、元親は政宗に言いたい言葉を抱えている。
 ずっとずっと、言いたかったこと。
 心の底に沈めたはずの想いが、鮮やかな色に染まっていく。
 元親は喉の奥で喘いだ。
「アンタのことなんざお見通しなんだよ」
 頬にあてられた手で、逃げることは許さないとばかりに強く輝く瞳が元親を射抜く。
「言えよ。アンタが望むもんをくれてやる」
 元親はくしゃりと相貌を崩した。
 いつだって元親の望むことを叶えてくれた政宗は、元親が望むものをくれるという。
 言ってもいいのだろうか。
望んでもいいのだろうか。
求めてもいいのだろうか。
ただの元親として。
「好きだ…」
 政宗、と熱さで掠れる声で名を紡いだ。
 ずっと言いたくて、言えなかった言葉。
「お前をくれよ。おれを、さらっていってくれ」
 触れた手が、かすかに震えるのが分かって、元親は破顔した。
「お前のことが、好きなんだ…」
 政宗は目を細めて、柔らかく笑んだ。
 燃えるような悦びがその瞳に閃くのが見えた気がした。
「…おれも、ずっと、アンタが欲しかった。アンタは蝶で、おれは蜘蛛だ」
低い、熱に浮かされたような掠れた声が脳髄を溶かす。
 だから、おれに喰われちまいな、と。政宗は元親の唇を指でなぞって囁いた。
 目を伏せれば、唇に熱。
 肩を掴まれ背中をかき抱かれて、息を奪うかのように攫われる。
 そして、元親は政宗の背に己の腕をまわした。