+ Hungry spider+
壱
「あー!待った!ちょ、そこはやめろって政宗!」
「Han?やめろと言われちゃ、よけいにやりたくなるってもんだろ」
「馬鹿野郎!んなとこに置かれちゃ、おれは身動きできねえじゃねえか!」
「だから置くんじゃねえか」
ほら、詰みだと、政宗は無骨ながらも長い指で駒を進めた。
元親は静寂な夜の森に似つかわしくない声をあげて、頭を抱えた。
「ああ。…くそっ、またおれの負けか」
こればっかりは、おれは何度やっても上達しねえなあと、元親は情けなさそうに眉をさげた。
政宗は盤上の駒を指で弾いてくつりと笑った。
「何だよ?」
「いや、アンタの場合、上達云々の問題じゃねえと思うがな」
「じゃ何の問題だってんだ」
「顔?」
「へ?」
政宗はあぐらに肘をついて、下からにやりと、からかうような笑みを浮かべて元親を見あげた。
「アンタの場合、全部顔にでるんだよ。どの駒を動かそうと思ってるか、目で追ってるしな」
「!そ、そんなことねえよ!」
「いや、ある。アンタはさりげなく確認してるだけかもしれねえが、ばればれだ」
「ばればれ…」
「腕云々じゃなくて、ポーカーフェイスを鍛えたほうがいいと思うぜ?ま、無理だろうが」
言い切られた元親は、ぶすりと拗ねた顔をした。
それを見て、また政宗が笑う。
「ほら、ばればれだ」
そっぽを向いた元親は、不機嫌な顔のまま唇を開いた。
「そりゃテメエが相手だからだ。他のヤツラの前じゃ、ここまで顔にでねえよ」
「Ah,んな可愛いこと言われたら、次も苛めたくなるな」
「苛めるってなんだよ!」
「んじゃ、優しく手心くわえてやろうか?」
「手え抜くなよ!手加減なんかしたらぶっとばすからな?!」
「分かってるよ、Honey」
元親に詰め寄られた政宗は、両手をあげて頷いた。
***
元親が今は政宗と名を改めた藤次郎と出会って、二年が過ぎた。
夜の森で政宗に助けられて以来、政宗は夜を元親と一緒に過ごしてくれるようになった。
獣の罠にかかった弥三郎、元親に、確かに危険は少ない場所だが、決して安全なわけでもないと、政宗は注意したのだ。
「夜歩きしたいなら、おれが一緒にしてやる。一人でいたいっていうなら、離れたところにいる。だからおれが迎えに行くまで、社の外には出てくれるな」
アンタが心配なんだとまっすぐに言われたとき、元親はその言葉を信じられない思いで聞いた。
勝手に社の外にでた元親をとがめることもなく、一緒にいてくれるという。心配なのだと。
「一緒にいてくれるの?」
恐る恐る、もう一度確かめるように問えば、政宗は、ああとはっきりと頷いてくれた。
以来、夜歩きをするときは、いつも政宗が側にいてくれるようになった。
政宗は色々な話をしてくれた。
木々や動物についての話。
特にその役目からか、薬草についての知識は豊富で、実物を見せて教えてくれたこともある。
社の書庫には様々な書物がある。
元親の役目は、国の平穏を祈ることだが、それにも作法というものはあったし、宮から離れているとはいえ、王族として恥じぬようにと、詩歌管弦を初めとして、様々な教養を身につけている。
学ぶことは嫌いではない元親は、政宗と出会って、より知識を学ぶことが好きになった。
森にでたことで、政宗が話してくれることで、ただの文字でしかなかった知識に、色や形が付き始めたからであった。
おかげで、今や元親は、宮に使える学者顔負けの知識を蓄えていた。
「それにしても、アンタ、本当に口が悪くなったな」
先ほどまで興じていた遊戯盤を片づけながら、政宗は元親の言葉遣いについて口にした。
まあ確かに、まだ弥三郎と呼ばれていた頃は、己のことを『おれ』だなんて言いもしなかった元親だ。
それこそ世話役たちが聞いたら眉をひそめるだろう。
「お前の口の悪さがうつったんだよ」
「出会った頃が懐かしいな?」
笑み混じりのその言葉に、元親はむっと唇をとがらせた。
「…ならば政宗殿はこのような話し方であれば満足なさるのですか?」
普段、世話役たちや宮からの使者へするような口調に改めれば。
「拗ねた顔も可愛いぜ、姫様?」
「姫っていうな」
政宗には名で呼んで欲しいのに、形式的な呼び方をされ、元親が思わず顔をしかめれば、したりと政宗は頷いた。
「そうだな。姫は姫でも、じゃじゃ馬だもんな」
「うっせえ!」
元親が手を上げて叩くそぶりをすれば、おお怖え、とおどけた様で驚く。
蜘蛛の中でも腕を讃えられる政宗のそのわざとらしい様に、毒気を抜かれて手を下ろしてしまった元親だった。
政宗とすごす時間は、何よりも愛おしいと思う。
この閉ざされた世界で、元親の名を呼んでくれる唯一の存在。
神子でも姫でもない、元親自身を呼んでくれることが。
元親自身を見つめてくれる瞳が。
嬉しいと思う。
それは元親のなかで、宝物のようにきらきらと光る、特別なもの。
政宗のおかげで、元親の世界は鮮やかさを増した。
藤次郎のころから、普段は素直とは言い難い言動の政宗だ。
出会った弥三郎のころは素直になれたが、共に時を重ねて、気兼ねしなくなった今では、逆に素直になりにくい。
それでも、元親は政宗とすごす夜の一時を特別なものと大切にしていた。
太陽の下では会えなくとも。
社の者たちに嘘を重ねても。
この時間だけはなくしたくねえなあと元親は思う。
元親は社の主である蝶で、政宗は森守の頭である蜘蛛。
元親自身は蜘蛛だとか蝶だとか気にしないが、周りの者はそうはいかない。
特に政宗たちが蝶とよぶ、元親ら貴族たちの蜘蛛に対する根強い偏見は、元親一人ではどうしようもないほど根深いものだった。
それ以上に。
政宗が、元親を気づかってくれるのは、役目だからということも知っている。
森守の頭である政宗は、社の主である元親を守るのがつとめだからだ。
何も義務感だけで側にいてくれるのだとは思っていない。
でなければ、社に連れ帰るのではなく、夜歩きに付き合ってくれたりなどしないだろう。
最近は特に、素直に礼など言えなくなってしまったが、政宗は優しい。
その優しさに、甘えることを許してくれるほどに。
月の明るい夜。皆が寝静まったころに、密やかに闇に紛れて社をでる。
政宗と過ごすことのできる夜は、月に数度ほどだ。
それは皆に知られては終わってしまう儚い秘密。
二年、秘密がばれずにいたことは、どこか奇蹟のように思えた。
疑われぬように、普段、元親はしごく大人しくすごすようにしている。
鎮守を祈る姫として。社の主の神子として、ふさわしいように。
外に行きたい、だんて。
そんな大それたことを望む気はない。
元親は己に課せられた役割を承知している。
この時間は、いつか終わりがくることも。
森守の頭は、代々当主の一族がつく。
一族の誰かであればいいのだ。
政宗は当主の嫡男だ。
あの器量だ、きっとそのうち、都へと呼び戻されて、当主の地位を継ぐのだろう。
きっとそれは遠くない未来。
元親はこれ以上など望みはしない。
だから、どうかそれまでは。
月明かりの下、側に寄り添うことを許してくれよと願った。
***
政宗たち蜘蛛にとって、王侯貴族たちを蝶と呼ぶのは純然たる皮肉で、あてつけだった。
けれど、政宗には唯一の例外がある。
森守である政宗の主。鎮守の森の姫神子。
政宗の隣に座る元親を蝶と呼ぶのは、皮肉でも何でもなく、元親が美しいからだ。
月の光を吸って輝く白銀の髪も、琥珀色の瞳も、透けるような白い肌も。
そして、何より、元親自身の心の在りようが、綺麗だと思う。
政宗の言葉に拗ねていた元親は、先ほどから何やら政宗の頭が気になるらしい。
本当に分かりやすい視線だ。
「機嫌が治ったのは嬉しいが、おれの頭なんか眺めて楽しいのか?」
「楽しいっつうか、気になっちまうっつうか」
「Han?」
そこで元親は、はあとため息をこぼした。
「お前、髪切っただろう」
「切ったな」
「何で切んだよ。せっかくの綺麗な黒髪をあっさり切っちまうなんて、もったいねえ。のばせよ、政宗」
まだ藤次郎と呼ばれていた頃、政宗は髪を背にかかるほどに伸ばしていた。
元親は首を振って、さめざめと言う。
褒めてくれるのは嬉しいが、おかしなものだと思う。
元親は政宗の髪が綺麗だと言うが、それをいうなら、元親の髪の方がよほどに綺麗だ。
が、そんなことはおくびにも出さずに、政宗は
Ha!と短く声をあげて、きっぱりと言い切った。
「ヤだね」
「何で」
食い下がってくる元親の顔を正面から見据えて、理由をきっぱりと言ってやる。
「アンタ、おれの髪で遊ぶだろう」
簡潔に言えば、元親は目を泳がせた。
おかしな具合に口角が上がって、いかんともし難い笑みになっている。
「え、いや、まあ…」
へらりと笑ってごまかそうとしているが、それは結局肯定だ。
政宗は呆れたように目を眇めた。
「だから伸ばさねえんだよ」
「けち!」
「けちで結構」
あっさりと言い切れば、元親はまだ未練そうな顔で政宗の髪を見ている。
相手が元親であるなら、熱心に見つめられることもやぶさかではないが、正直落ち着かない。
じろりと、不機嫌を装って横目を向ければ、元親は慌てたように視線を外して、政宗に背を向けた。
上背のある元親が、背中を丸めて膝を抱えているのをみると、妙に可愛らしく見える。
上背はあるが、元親は別に華奢というわけではなかった。
舞をたしなむからか、綺麗な筋肉がついている。
けれど決して無骨という印象には結びつかないのが元親という男だった。
それはその一挙一動が洗練されているからだろう。
遊戯盤で駒を動かしているときなど、大雑把なようでいて、品があるのだ。
口調が崩れようがどうしようが、初めて出会ったときから、元親を美しいと思う気持ちは変わらない。
豊かな表情を見るようになったからか、むしろ、出会った二年前よりもずっと、綺麗になったとすら思う。
艶やかに笑うその顔も、拗ねてみせた顔も、不満そうなふくれ面ですらも。
元親が、豊かな表情をさらけ出すのが、己だけだということを知っていたから、余計かもしれない。
そう、自分だけの元親があることが、政宗に震えるほどの喜びをもたらしてくれる。
自分との時間が、元親を変えたのだと。
それは、政宗の中に存在する、暗い優越感と独占欲を満たしてくれた。
政宗に見せてくれる顔を、他の誰にも見せたくないと思う。
元親を、自分だけのものにしておきたくなる。
だから、政宗は、元親に己の髪に触れられたくないのだ。
元親に分かってはもらえるとは思わなかったが。
触れられたら、触れたくなる。
耳を掠めるその白い手に。
手首を掴んで引き寄せて、その手の甲に唇を寄せたくなる。
だから時折、政宗は線を引く。
基本、政宗は元親に甘かったが、決して折れないところは頑として譲らなかった。
些細なことだが、いくら言われても髪を伸ばさなかったり。
無防備に側に寄ってくる元親から身を離したり。
他人が聞けば、それだけかというような、馬鹿馬鹿しいとすらいわれそうなところで、線を引く。
そうやって、政宗はこの二年、己の恋情と付き合ってきたのだ。
けれど、恋情を理由に、元親から離れようと思ったことは一度もなかった。
離れたくなどなかった。
元親の側にいたかった。
だから、護衛という名目を利用したのだ。
元親は政宗を信頼してくれている。頼みにしてくれる。
一人歩きは危ないからと理由をつけて、元親を己の側に繋ぎ止めておけていることに、身勝手な喜びを抱いている自分を知っていた。
元親を守りたい、愛おしいという穏やかな想いの内側には、穏やかさとは正反対の想いがあることも。
この二年は、穏やかに過ぎていった。
穏やかで、幸せだった。
元親にこの想いを告げようと思ったことはない。
元親が政宗の主で、蝶である限り。
政宗が森守で、蜘蛛である限り。
二人の時間を壊したくなかったのだ。
蝶と蜘蛛の逢瀬は、月光と闇だけが許してくれる、儚いものだと分かっていたから。
何より、元親に、己の想いを重荷に思って欲しくなかった。
嫌われていないことは自覚している。
向けられる好意は心地よさと同時に、少しの疼きを政宗にもたらす。
政宗は視線だけで隣をうかがった。
そこにあるのは、丸まった背中だ。
吐息を吐けば、ぴくりと神経質そうにその背が震える。
政宗は手を伸ばして、その白銀の髪に触れた。
元親が、首だけで振り返って、伺うような視線を向けるのを受け止めて、政宗は唇の端で笑ってみせた。
ほっと息をついて元親は小さく笑んだ。そして体を政宗の方へと向ける。
そのまま手を差し入れて、硬質な髪を梳いてやれば、元親は照れくさそうな顔をして、でもやめろとは言わずに政宗の手を受け入れた。
元親から近づけば、政宗の方が身を引くことを分かっているからか、政宗から手を伸ばせば、元親はそれ以上距離をつめようとはしない。
ただ大人しく触れられている。
可愛いと思う。
愛しさが胸に溢れる。
だから、政宗はこの密やかな二人の時間を壊したくなかった。
このままごとのような優しい時間を全力で享受する。
それ以上を、今は望んだりしないから。
だから、と誰かに願った。
それくらい許してくれたっていいだろう?
弐
星が流れる。
森で流れる時がゆったりとした流れであっても、月日は過ぎていくだけのものでしかなくて、いつか終わりはやってくる。
三月後、社では護国を祈る一年に一度の大祭が行われる。
社の奥にある舞殿。
新月故に、空に月はなく、星明かりだけを頼りにして、元親は一人そこにいた。
笛の音も、鈴の音もない。
右手に持った扇を翻し、音もなく舞う。
普段舞うものとは異なる、それは秘伝といわれる舞。
口伝によってのみ社に伝えられてきたそれが舞われるのは、僅かに百年に一度。
神子の中でも知ることなく役目を終える者のほうが多い。
それを舞うことの意味を伝えられたとき、元親はただ、政宗のことを思った。
伝えられた舞は、誰にも見られることはない。
それはただ神のためだけに伝えられ、舞われるもの。
神に捧げる舞を踊りながら、神以外の男のことを思う。
元親は動きを止めて、静かに扇を下ろした。
唇を微かに歪めて苦笑する。
神が狭量であれば、神罰を下されそうだなと思ったのだ。
けれど、元親の身には雷が落ちることもなければ、この鼓動がとまることもなかった。
「いっそ神罰を下してでもくれりゃあよ…」
目を伏せて、元親は密やかな声で呟いた。
貴方だけを想って、貴方のためだけに、貴方の元へ逝けもしようものを。
相変わらず元親の心臓は動いていて、そして。
胸を占めているのは、あの男へ向かう情。
「神子失格だあなあ」
けれども元親は神子であって。
鎮守を祈るのがつとめであって。
元親は震える唇を噛んだ。
政宗のことを、誰よりも何よりも特別に想う。
神の御前ですらも。
この想いは恋なのだろうか。
胸を裂いて、身勝手な願いばかりがあふれ出す。
これが、恋というものなのだろうか。
これを恋というのなら。
「気づかなきゃよかった…」
恋というものが、こんなに欲深く、胸を痛めるものだなんて。
***
月が雲間から顔をだし空に輝いたのは、それから七日後のことであった。
いつも通りに社を出、いつも通りに森を二人で歩いて、倒れた木の幹に腰を下ろして休んでいたとき、ふと思い出したように政宗が言った。
「そういや、もう少ししたら社じゃ祭りをする時期じゃねえか?」
政宗の口から、大祭のことを問われると思ってもみなかった元親は、思わず反射でぎくりと体を強ばらせた。
すぐに笑顔を取り繕って、ああと頷いたが、政宗は不審には思わなかっただろうか。
「つうか、よく覚えてるな?」
「アンタ、おれのこと何だとおもってんだ?これでも森守の頭張ってんだぜ?」
政宗はそう言うが、祭りは社の中でひっそりと行われるもので、別段政宗たち蜘蛛に、何かを頼むわけでない。
政宗が祭りの日取りを覚えている理由を見つけられず元親が首を傾げれば。
政宗は、にやりと人の悪い笑みを浮かべた。
「それに、この時期になると、アンタ、失敗したら怖いからって、何度も舞の確認をするじゃねえか」
「な、んな顔してねえよ!」
情けない顔で、と付け加えられた元親は、反射で唇を開いていたのだが。
「今日だって黙ったまんまで、気がそぞろみてえだから、また例の時期が来たのかって思ったんだが、図星かHoney?」
「……」
政宗の言葉に、元親はそれ以上続ける言葉を失ってしまった。
政宗の指摘は、確かに事実を言い当てていたからだ。
なにより、態度がおかしいことを見抜かれていることに、胸の内側がざわめいて、元親の思考を乱していく。
言葉を続けられない元親をどう思ったのか、政宗はばつが悪そうに苦笑した。
「確認するなら、付き合ってやるから、んな顔すんな」
どうやら言い過ぎたと思ったらしい。
政宗の声が、元親の機嫌をとるかのように優しい。
「ほら、舞ってみせてくれよ」
そう言われて、元親は瞬いた。
今回舞うことになったそれを思い出して、政宗の視線から逃れるように目線を反らす。
「悪い。今回のは、人前では舞えねえんだ」
「…Why?」
「特別なやつで…」
「…特別?」
耳を撫でる声が、にわかに強ばったように聞こえて、元親は顔をあげた。
びくりと肩を震わせる。
表情を消した、怖いほどに整った顔がそこにあった。
強い光を浮かべる金色の瞳に射ぬかれて、元親はそのまっすぐな視線に体を縛される。
その瞳を、何故か怖いと思った自分がいた。
怖いと思うのに、目を反らしたくない。
「前はそんなこと言わなかったじゃねえか」
今年が特別な年なんだと、掠れた声で弁明すれば、政宗は酷薄な笑みを唇に刻んだ。
「そりゃ大層なことだな。どうしても、人には見せられねえのか?」
「ああ」
「おれが、見たいと言ってもか?」
元親は目を見開いた。
政宗は、瞬きをすることなく、元親の視線を絡めとったまま離さない。
政宗の言葉に、ああと、頷くことに、驚くほどの力を要した。
政宗は嘲笑うかのように吐息を吐いて、肩をすくめた。
纏う空気が、どこか尖ったものになる。
見知らぬ顔。
それは、二年、共にすごして、初めて見る表情だった。
刃物のように煌めいた冷たい瞳の色が、元親の胸を刺していく。
「蜘蛛にゃ見せられねえってか」
どこか苛立ちが混じったような、皮肉気な甘い声が元親の鼓膜を震わせる。
元親は指を握りこんで唇を動かした。
「そういうんじゃ、ねえよ」
喘ぐようなそれは掠れていた。
政宗は目を細めて元親を見返すだけで、頷くことも否定もしなかった。
「蜘蛛とか、蝶とか、関係ねえ」
己の唇からこぼれたそれは、言い訳みたいだと元親は思った。
「今回のは、おれ一人で舞殿で舞うものだから、社のやつにも見せねえんだ」
「Ha!なら何のために舞うってんだ」
その答えを唇にのせるとき、元親は政宗が気づかぬ間、逡巡した。
「…神のために決まってんだろ。おれは、神子なんだからよ…」
それはまるで、自身に言い聞かせるかのようで。
「神、ね」
政宗は低い笑みをこぼして、元親から体ごと顔を背けた。
元親を突き放すかのような声音に、元親は指先から血が冷えるような感覚を味わった。
同時に、胸に甘い痛みがじわりと広がる。
まるで嫉妬してくれているみたいだと思った。
それは元親の思いこみに過ぎないことは分かっている。
けれど、それが嫉妬であればと、願ってしまう自分がいる。
元親はそのことを自覚した。
己の様子がおかしいことに、気がついてくれて嬉しかった。
自分のことを気にかけてくれている証に思えるから。
その怖いくらいにまっすぐな瞳に映るのが己であることが嬉しい。
その瞳はけれど胸に痛みをもたらす。
なのに、もっと見つめていて欲しいと願ってしまう。
痛みすら甘い。
政宗の背から視線を落として、元親は俯いた。
唇を手のひらで覆う。
こんな想いなど、知りたくなかった
嫉妬されることを喜ぶ己を。
もっとと手を伸ばしたがる欲深な己など。知りたくなかった。
***
百年に一度、鎮守の森の社で行われる祭。
それは国を守る神と再び契りを結ぶための儀式。
社の主、森の姫が代替わりする理由。
王の交代、神子の不幸ともう一つ。
神の加護を願うための、契りという名の贄の儀式。
三
今日は元親の様子がおかしい。
自分から話しだすこともないし、ぼんやりと政宗の隣を歩く様は、どこか他に気をとられているように見える。
政宗はそんな元親を横目で伺って、小さくため息を吐いた。
つまり、久しぶりに二人でいるのに、他ごとに気を取られているのが面白くないのだ。
我ながら、分かりやすいことだと苦笑する。
何か気にかかることでもあるなら、話してほしいと思うし、なにより、こっちを見ろと言いたくなる。
子供みたいな我が儘だと思うが、紛れもない政宗の本音だった。
数日前、都から政宗の元へ私的な手紙が届いた。
父親とは、森守と当主としてのやりとりはしていたが、それだけだった。
だから、父親からも母親からも、私的な手紙をもらうのは、政宗が森守となって以来初めてのものだった。
父親からの手紙には、そろそろ帰ってくるか、と書かれてあった。
森守になる前の、藤次郎と呼ばれていた頃。
政宗は国を守る牙として、国境で頻発する小さな戦に、将としてでていた。
藤次郎の名は、戦場では味方だけではなく、敵にもよく知られていた。
国を守る剣。その当主の息子として。
いやそれ以上に、その苛烈な戦ぶりにおいて。
頭から血を浴び敵を屠っていくその姿は、敵はおろか、味方の者たちからすらも畏怖の目を向けられる。
戦闘の指揮をとるのだ、自ら斬り込んでいくことはあろう。
が、そうだとしても、藤次郎のそれは明らかに無茶を地で行くものだった。
側近の小十郎に諫められることもしょっちゅうだったが、それを聞いていたならば、政宗は今ここにはいないだろう。
無茶ばかりする藤次郎を、森守に任ずるように父親に進言したのは小十郎だった。
父親は小十郎の進言を受け入れ、藤次郎を血の臭いからは遠く離れた、退屈なだけの森守へと任じたのだ。
しばらく頭を冷やしてこいと、痛烈な言葉を祝いとして、藤次郎は森守になったのだった。
政宗は、幼い頃に病で右目を失った。
そして政宗は、視界の半分とともに、母親からの情も失ったのだ。
満たされることのない愛情への餓えは澱のように藤次郎のなかに降り積もっていった。
母から情を向けられることは、もうないのだと理解しながら、どこかでそれを望んでいる。
そんな弱い自分を厭うように、藤次郎は剣に熱中し、敵味方からも恐れられるほどの腕になったのだ。
こんな平和とは名ばかりの、辛気くさい森守へ任じられて、初めは不満も抱いていた。
身に沈む餓えを、苛立ちを向けるものがない。
頭を冷やすどころか、逆に血の熱さばかり気になってどうしようもなくなる。
そう思っていたころに、藤次郎は弥三郎に、元親に出会ったのだ。
母親の手紙には、美しい手で、帰ってくるなと書かれてあった。
当主の地位は弟がつぐのだから、と。
瞬間、炎のような想いが胸を舐めたが、それもすぐに消えて、代わりに奇妙なほどに静かな諦めがそこにあった。
ずっと前から知っていた。
彼女の情が政宗に注がれることはもうないのだと。
初めは不満でしかなかった森守という役目も、今ではかけがえのないものとなった。
今では、ここに寄こしてもらえてよかったと、そう思っている。
元親に対する想いが、炎で焦がされたそこを優しく撫でてくれるから。
当主の地位も、戦場を離れた今では、別段思い入れもなくなった。
だから。
自分は森守の役目を全うする、と。
そう、返事を書いた。
何より、森守という役を、元親を守る役目を、他の誰かに渡す気は、政宗にはないのだ。
元親が神子の役目を終えるまでは、自分は元親の側で、森と社を守っていこうと思っていた。
そして、神子の役目を終えて元親がこの森を出て行くときは、手を伸ばしたいと。
元親が政宗へ向けてくれる情は、政宗の望むような情ではないかもしれない。
けれど、元親が向けてくれるそれは、温かで、ほのかに甘い。
だから、政宗は期待してしまう。
政宗が抱くような激しい熱情じゃないのだとしても、それは、愛情なのではないかと。
互いが、蜘蛛と蝶でなくなったそのときに、共に行こうと手を伸ばせば、頷いてくれるんじゃないかと。
だからそれまでは、政宗は元親の側で、元親を守っていこうと決めていた。
しかし、そうはいっても、元親の目がこちらを向いてくれないというのは寂しい。
気がそぞろな理由に思い当たった政宗は、からかうように元親に問いかけた。
「そういや、もう少ししたら社じゃ祭りをする時期じゃねえか?」
そう問えば、元親は驚いた顔をした。
確かに、社で祭りがあるからといって、政宗たちには直接関係などない。
けれど、森守の頭として社の行事ぐらいは心得ているし、何より。
「この時期になると、アンタ、失敗したら怖いからって、何度も舞の確認をするじゃねえか」
失敗すると大事だから、と政宗の前で何度も舞ってくれた。
だから政宗は、祭りを見ることはなくとも、元親が祭りで舞う舞を知っている。
幼い頃から舞っているというそれは、指先まで神経がいきとどいた、洗練されたものだった。
普段政宗に見せるのとは違う、神子としての凛とした顔。
空気すらもぴんと張りつめて、僅かな身じろぎすらためらわせる場を作り出す。
政宗は、社で顔を合わせた一度しか、元親の神子としての顔を知らない。
澄ました顔よりもそりゃ、綻んだ笑顔のほうがいいが、何となく物足りない気にもなった。
つまるところ、自分が知らぬ元親の顔があることが気にくわないだけの、戯れ言だったが。
だから、元親の舞は、そんな我が儘な政宗の望みを満たしてくれた。
情けない顔で、とつけたせば、そんな顔はしていないと、元親が顔を赤くして否定するのが可愛くて、ついついからかってしまう。
「今日だって黙ったまんまで、気がそぞろみてえだから、また例の時期が来たのかって思ったんだが、図星かHoney?」
また怒らせるだけかと思ったが、元親の反応は政宗の予想とは違っていた。
顔を強ばらせて黙り込んでしまう。
かすかに眉を寄せた、そんな顔をするなんて思ってもいなかった政宗は、即座に態度を改めた。
鎮守を担う神子である元親にとって、祭りは大切な行事だ。
毎年執り行っているとはいえ、大事な役目であることにはかわりない。
揶揄っていいわけがなかった。
考えが足りなかったと、内心で反省して、政宗は小さく笑って見せた。
「確認するなら、付き合ってやるから、んな顔すんな」
何度も見せてもらったから、祭りで舞うそれは、政宗もきっちりと覚えている。
確認などせずとも、元親の体が覚えているだろうが、それで元親が安心するならいくらでもつきやってやろうと思う。
それに、元親の舞を見ることは嫌いではないから。
「ほら、舞ってみせてくれよ」
宥めるように促せば、しかし返ってきたのは、どこか固い声だった。
「悪い。今回のは、人前では舞えねえんだ」
断られると思わなかった政宗は、怪訝そうに瞬いた。
何故と問えば、特別なものなのだという答えが返る。
「…特別?」
政宗は己の喉がにわかに渇いた気がした。
「前はそんなこと言わなかったじゃねえか」
元親は、今年が特別な年なんだと、掠れた声で言う。
そんなことは初めて聞いた。
「そりゃ大層なことだな。どうしても、人には見せられねえのか?」
「ああ」
頷くその声が、ざらりと胸の内側を撫でていく。
特別だから政宗には見せられないのだと言う元親に、目の奥がじわりと熱を帯びる。
暗い嫉妬が顔をだす。
「おれが、見たいと言ってもか?」
わざとらしく問えば、元親は眉を寄せて、どこか戸惑ったような、困った顔をした。
普段なら、埒もない嫉妬も、これくらいでどうにか宥めることができるのに、今日は収まるどころかむしろ苛立ちさえかきたてられる。
困った顔をしながらも、はっきりとああと頷く元親に、唇が嫌な風に歪むのが分かった。
頭に冷えた血が上る。
「蜘蛛にゃ見せられねえってか」
皮肉をこめた言葉はわざとだ。
元親が否定するのを分かっていて口にした。
「蜘蛛とか、蝶とか、関係ねえ」
ああ、アンタはそういうだろうな、と。声に出さずに元親の言葉に頷いて、政宗は目を眇めた。
続けられる元親の声が、妙に言い訳めいて聞こえてしまう。
「今回のは、おれ一人で舞殿で舞うものだから、社のやつにも見せねえんだ」
祭りだというのに、誰もいない舞殿で舞うというのか。
誰にも見せぬというのなら、それは一体誰のための舞なのだ。
「Ha!なら何のために舞うってんだ」
胸を舐める暗い炎の舌に顔をしかめて、吐き捨てるように問えば。
元親は一度唇を閉じて神のためだと、そう言った。
「おれは、神子なんだからよ…」
その言葉に、歪んだ笑みがこぼれた。
元親の言葉は神子として模範的で、それが妙に癪に障る。
そう、元親はこの国の鎮守を神に祈る神子。
神に祈り、神のために祭事をなす。
そう、政宗に見せてくれた舞も、全ては神のためであって、政宗のものではないのだ。
そのことを突きつけられて、政宗は思わず低く笑った。
元親に背を向けたのは、これ以上見たくなかったからだ。
神子である元親を見たくなかった。
そして、神相手に嫉妬する己を見て欲しくなかった。
神子である元親を守っていきたいと、そう心に決めたというのに。
理性は簡単に嫉妬という炎に焼かれ剥がれ落ち、身勝手な願いが声をあげる。
戒めなんて簡単に解けて、政宗の中にある醜いものがあふれだす。
帰ってくるなと、そう言った母の美しい手が脳裏に閃いた。
決して手に入ることのないもの。
満たされることのないもの。
元親も、そうなのかもしれない。
そう思ったら、皮膚の下がかっと焼けた気がした。
胃の腑がどろりとした熱で爛れて、じくりとした痛みが体中に広がっていく気がする。
何て欲が深いのだ。
神を相手に嫉妬している。
身動きすらとれずに、体の中で暴れ狂う感情を抑えることに気を取られていたら。
「政宗…」
鼓膜を震わせる、密やかな声。
こちらを伺う細い声。
それはまるで甘い蜜のように政宗を絡めとろうとする。
視界が赤黒く染まりそうな錯覚。
頑ななまでに背を向けていたからだろう。
元親はどこか途方に暮れたような切なさが滲んだ声で呟いた。
「なあ、こっち向いてくれよ」
肩に、そっと触れた指先。
その感触を自覚した瞬間、政宗は元親を拒絶するように体を離していた。
指先が触れただけ。
たったそれだけのことで。
体に電流が走った。
振り返ったそこにあった元親の顔。
手は肩に伸ばしたときのまま、固まってしまったように動かない。
元親は呆然と目を見開いて、そして。
眉を寄せて、唇を引き結んで、けれどどうにか笑おうと、した。
僅かに口角を持ち上げた元親の唇は震えている。
息が詰まる。
傷つけた。
けれど、どうしようもなかった。
あのまま元親の指の感触を享受していたら。
きっと、その手首を引き寄せて。
腕の中に閉じこめてしまっていただろう。
元親は神子なのだ。
抱きしめてしまったら、きっともう、留めておくことができなくなる。
神子である元親を守ることよりも、自分を見てくれる元親を求めてしまうようになる。
元親を、傷つけてしまう。
守りたいと思うこの自分が。
この腕を拒絶されたら、何をしてしまうか分からない。
嫉妬で残った視界すら焼けて、愚かに何も見えなくなってしまうかもしれぬことが怖い。
言葉をかけることも出来ず、元親を凝視することしかできぬ政宗に、元親は震える唇を開いた。
「……。悪い。折角、おれのこと、気にかけてくれたのに」
舞ってやれなくて、ごめん、と。
透明な琥珀色の瞳にまっすぐ見つめられると、胸が軋んだ。
どうして謝るんだ。
政宗の望みなんて、ただの我が儘で、身勝手な嫉妬で、元親は何も悪くないというのに。
舞えなくてごめんだなんて。
どうして政宗のことを気にするのだ。
どうして優しい。
激情で目が眩む。
喜びで息が詰まる。
「…そんなことで一々謝んな。アンタは蝶だろうが」
掠れた声でそう返せば、元親は瞳を揺らめかせた。
ああそうじゃない。
こんな言い方をすべきじゃないのは分かってる。
けれど言葉が勝手に滑り落ちていって。
政宗は歯を噛んだ。
しっとりと濡れた瞳に映ることを恐れるように背を向けることしかできない。
蝶を喰らう蜘蛛ではなくて、守る蜘蛛でいるために、そうすることしかできなかった。
四
いつか終わりがくることを知っていた。
政宗はいつか森を去る。
次代の王の御代になるまで、元親は社をでることはない。
だから、儚い夢が終わるときは、己がその背を見送ることで終わるのだと思っていた。
置いていくことと、置いていかれること。
一体そのどちらのほうが、切ないのだろう?
***
『貴方は神の元へと嫁ぐのです』
その言葉の意味は一つだった。
この世を離れて、神の元へ身を捧ぐ。
百年に一度、続けられてきた祭り。
一月ほど先に控えたそれが、己の命が終わるときなのだと、少し前に元親は知った。
元親は神子だ。
国の鎮守を神に祈り、祭事をとりおこなうのが役目。
幼い頃から神子として生きてきた。
だから、それがつとめだというのなら、元親はそれに従うだけだ。
なのに。
それがつとめならと頷く神子としての己の他に、嫌だと声をあげる、ただの元親がここにいる。
耐えられないと、胸が締め付けられる。
政宗と会えなくなることが。
政宗と離れてしまうことが。
たまらなく辛い。
神子である己に背を向けたくなる。
未練が後ろ髪を引いて、がんじがらめに捕らわれる。
会わぬほうがいいことは分かっていても、会わずにはいられない己の、何と業の深いことか。
政宗に背を向けられたことに呼応するかのように、月でさえも雲の向こうに隠れてしまって、数日、元親は政宗と逢うことが叶わなかった。
つれない月にため息を吐きながらも、けれどそのほうがいいのかもしれないとも思った。
月が出ても、もう政宗は元親を迎えに来てはくれないかもしれない。
その仮定は、元親の体を、指の先まで冷えさせた。
月明かりの下、来ぬ人をずっと待ち続けるという己の想像に、心臓を掴まれたかのように胸が痛んだ。
だったら、雲に覆われた空であるほうがいいのかもしれない。
同じ、会えない状況でも、空のせいだと、胸を締め付けるものを見なくて済むから。
煩悶を繰り返し、幾度か夜が明け。
そして月が空に輝く夜が来る。
夜を待つその間が、たまらなく不安だった。
けれど、きっと来てくれると期待することもやめられなかった。
まだ終わりが来てしまったわけではないと。
言い聞かせるようにして、元親は月が空に昇るのを待っていた。
迎えに行くまで社から出るなと言われたとおり、境内の奥にある大きな楠の影が、待ち合わせ場所だった。
元親が出向けば、大概政宗のほうが先に待っててくれた。
不安で揺れる胸を宥めながら、元親は待ち合わせ場所へと足を向けた。
鼓動が走る。
体が冷える。
木の下まで足をすすめて、元親は息を止めた。
くしゃりと顔を歪ませて、思わずその場にしゃがみ込む。
誰もいない。
そう、思ったとき。
微かな音が鼓膜をかすめて、思わず元親は顔をあげた。
気配を夜の闇に混じらせて。
金の瞳が元親を見下ろしていた。
元親はその色を認めた瞬間、顔を綻ばせた。
情けなく眉が下がって、唇の端が震える。
じわりと胸を包む安堵に、声が掠れた。
「もう、来てくれねえかと思った…」
「…Why?」
「…お前の気遣いを、無下にしちまったから」
呟くように言えば、政宗は何かを堪えるかのような苦い顔をした。
「アンタは、神子だ。そんなことで謝るな」
この前言ったことを、もう一度政宗は繰り返した。
けれど、前は蝶だからと言ったそれが、神子に変わっていることに元親は気がついた。
「…今度舞うやつは誰にも見せられねえんだけどよ、いつも舞うやつも、忘れちまうと困るから」
だから。
「おれが舞うのを、見ててくれねえか?」
神へと捧ぐためではなくて、それなら、政宗のために舞えるから。
どきどきと走る心臓の上に拳を引き寄せて、元親は政宗を見つめた。
けれども、政宗は唇を引き結んだまま元親を見下ろすだけで、首をふることもしてくれない。
気力もすぐさましおれてしまって、元親は俯いた。
「嫌なら、いいんだけどよ…」
言葉の最後が細く消えていって、元親は情けなさに唇の内側を噛んだ。
頭上で、ふと吐息がこぼれるのが分かった。
しゃがみ込む気配がして、元親は恐る恐る顔をあげる。
「政宗…?」
名を呼べば、政宗は微かに苦笑した。
「嫌なわけねえよ。この間のことも、別に怒ってたわけじゃねえ」
ただ、と言葉を一度きり、政宗は顔を伏せた。
顔が隠れて、元親からは政宗がどんな表情をしているのか分からない。
低い静かな声は、すこしばかり掠れているように聞こえて、元親は己の鼓動が速くなるのを感じた。
「久しぶりに会ったってのに、アンタがぼんやりしてるもんだから、ちょっと面白くなかっただけだ」
元親は瞬いた。
体の奥がじわりと火照る。
政宗は顔をあげた。
少し、目を細めて、音もなく小さく笑んで。
「sorry」
その響きが、脳髄に甘く沁みる。
立ち上がった政宗が手を差し出してくる。
そこにあるのは、政宗の優しさであって、特別なものなどない。
分かっていても、その手につかまったとき、ふれ合う手のひらの温度に、息が詰まった。
「舞って、くれるか?アンタの舞は、好きなんだ」
***
舞ってる間、たまらなく幸せだったといえば、政宗はどんな顔をするだろう。
驚くか、不思議そうな顔をするだろうなと、元親は思った。
舞っている間は、政宗のことだけを考えていた。
政宗のことだけを想っていられた。
それが泣いてしまいたいほどに、幸福なのだと。
溢れる想いとともに、こぼしてしまいそうになる。
お前のことが好きなんだと。
わき出でる泉のように溢れてくる感情に身を浸して、溺れてしまいそうだ。
息が苦しくなる。
けれど、それすらも嫌ではなくて。
元親はゆっくりと瞬いた。
言葉の代わりに、瞳が湿って、ほのかに熱を持っている気がした。
木の根本に腰を下ろして並んで座る。
言葉はなく、ただ隣にある気配だけを感じていた。
元親をの手を掴んでくれた右手は、政宗の膝の上にあって、近くに並んで座っていても、その手が触れあうことはない。
元親の舞を、好きだと言ってくれたその声が。
耳から離れず何度も木霊のように脳裏に響く。
その残響すら甘やかで、元親の心を締め付ける。
政宗はいつだって元親に優しい。
優しいから、その優しさに縋ってしまいたくなる自分がいる。
神子の自分を、そ知らぬ顔でおいやって、ただの元親として望みたくなってしまう。
触れて欲しいと。
ずっと、側にいて欲しいと。
いつか別れが来るときは、静かに笑って、政宗が去っていくのを見送れると思っていた。
それがどうだ。
別れが形を成して目に見えるようになった途端。
嫌だと、心が子供みたいな声をあげる。
そんな自分は、知らなかった。
神子であった元親は、何かを欲しがって駄々をこねるだなんてしたことはなかったから。
神子として必要な物は全て与えられてきた。
神子としての元親を、皆愛してくれた。
それだけで、十分だったはずなのに。
欲が深くなっていく。
往生際が悪いことだと、自分でも思う。
みっともない様だとも。
政宗へ向かう想いが溢れてどうしようもなくなる。
手放す気なんて、さらさらないくせに、別れを受け入れられると思っていた自分はきっと、別れというものを知ってはいなかったのだ。
神子と、ただの元親としての自分の狭間で身動きが取れない。
ただの元親であることを、振り切ることができない。
元親は隣に座る政宗の横顔を盗み見た。
その右目は眼帯で覆われていて、瞳は見えない。
見えなくて、よかったと元親は思う。
きっとその金色に飲み込まれて、言ってはならぬことを言ってしまう。
元親は泣き笑いのような顔で、瞬間笑んだ。
側にいて。
どうか、離れないで。
お前のことが、好きなんだ。
声にならぬ想いを胸の内で呟いて、元親は目を閉じた。
その肩にそっと、体を預ける。
肩口に頭をのせて、元親は唇を薄く開いた。
声がこぼれないように、ただ静かに呼吸する。
「…眠いのか?」
気づかうようにひそめられた声が近い。
答えを返さず、目を閉じていれば。
少し身じろいだ体に、喉の奥が痛んだ。
離されてしまうのかと脅えたとき。
背中に触れた腕、頭を包んだ手の感触に、息が止まった。
頭を抱かれて、髪に口づけられている。
そのことを自覚したとき、元親は伏せた瞼の下で、眼球が熱く疼いた気がした。
元親が近づけば、政宗はそのぶん、身を引いた。
元親から触れることを、政宗は避けた。
それが分かっているから、元親は自分から手を伸ばすことはしないでおこうと気をつけていた。
避けられるのは悲しいから。
けれどときおり、政宗の方から、元親に触れてくれるときがあった。
大概政宗が触れるのは元親の髪で。
優しく髪をすく手の感触が好きだった。
体が震える。
眠っていないことがばれてしまう。
けれど、元親が眠っていないことが分かれば、政宗は体を離してしまうだろう。
だから元親は必死に体が震えそうになるのを押さえ込んで、頑なに目を伏せ続けた。
元親の狸寝入りに気づいているのか、気づいていないのか、元親には分からない。
いや、きっと気づいているだろう。
政宗は森守で蜘蛛の頭なのだから。
元親の下手なごまかしに、気づかぬはずはない。
ならば、気づかぬふりをしてくれているのか。
気づかぬふりをして、元親の頭を抱き、髪をすいて、肩を抱いてくれているのだろうか。
肩を包む手の感触に、泣きたくなった。
あまりにも幸せで。
あまりにも切なくて。
泣きたかった。
嗚咽をこぼして泣いてしまいたかった。
このまま時が止まればいいと思う。
ならいっそ、時を止めてしまおうか。
いつか時が終わるというなら、泣きたくなるほどに幸せな今、終わりにして欲しい。
じわりと甘い陶酔感が思考を塗りつぶしていく。
目の奥が燃えている。
胸が苦しいのか、そうでないのかすら分からない。
今が幸せなら、この命を絶って、この刹那を永遠にしてしまおうか。
低い己の声が脳裏に響いたとき。
森がざわめいた。
瞬時に、政宗の気がするどく張りつめる。
体を強く抱き寄せられて、元親は目を見開いた。
目を丸くしている元親を、政宗はしっと小さな声で制した。
「誰か来る。アンタはここでじっとしてろ」
冷水をあびせかけられたかのように、元親は肩をびくりと震わせて、ただ頷いた。
政宗の体が離れていく。
元親は木の幹に体を寄せて、じっと息を殺した。
政宗と夜を過ごしているとき、誰かと行き会ったことは一度もなかった。
それは政宗が場所を選んでくれているからだと知っていた。
どこか場違いな軽い声が響いた。
「あれ、頭じゃないですか」
どうやら蜘蛛の一族らしい。
「見回りはいいが、こんなところで何してる?」
「いやそれが、まだ慣れねえもんで、ちょっと奥まで来すぎちまったみたいで」
政宗が呆れたようなため息を吐くのが聞こえた。
「…迷子か、テメエ」
「お恥ずかしい」
恐縮したあと、男は感心したように続けた。
「しかし、頭がよく夜の見回りをなさっているのは聞いていましたが、こんなところまで見て回ってるだなんて、流石ですね」
別に探るようなものでもない、素直に感心してるとわかる声だったが、元親の心臓は凍り付いた。
「ああ。まあ何もないとは思うが、一応な。おれが森守やってるときに何かあって、一族の名に傷をつけるのは許せねえからな」
道はあっちだ。もう迷うなよと政宗が言えば、へいと頷いて、微かな足音が遠ざかっていく。
頭が一瞬で冷える。
分かっていたはずだったのに、目を背けていた事実。
政宗は森と社を守る森守。
森と社を守るのが、政宗のつとめなのだ。
政宗は、立派につとめを果たしている。
森と社と、そして神子である元親を守ってくれている。
ならば、神子である元親も、己に課せられた役目を投げ出すわけにはいかない。
それが、元親のつとめだから。
男が去ったのを見届けたあと、政宗は元親のもとへと戻ってきた。
膝を着いて、悪いと謝る。
「最近ここに来た新入りでな。迷ったらしい」
「らしいな」
「寝てたとこを驚かせて、悪かった」
いや、と元親は笑ってみせた。
「おかげで目がさめた」
政宗は微かに首を傾いで、困ったように笑んだ。
「気にしてねえよ。お前のせいじゃねえだろ」
それに、と唇を緩やかな弧に描いて。
「起こしてくれて、よかった」
それは嘘ではなかった。
愚かで身勝手な夢から起こしてくれて、感謝している。
気を狂わせそうな熱は、今はもう引いていて、穏やかだ。
「夢見がわるかったんだ」
そう言えば、政宗は不意に表情を改めて、どんな、と元親に問うた。
そのまっすぐな瞳をみると、さざ波のように心はざわめいたが、それくらいは許されてもいいだろうと思う。
「テメエに負ける夢」
「Han?」
指先で駒を摘む仕草をすれば、政宗は気が抜けたように眉を上げた。
思わず声に出して笑う。
「後味の悪さは一級品な夢だった」
***
鎮守を祈る森の神子。
つとめと言われれば、否とは言えぬ。
結局自分は、神子でしかあれないので。
ならば私は最後まで、貴方が慈しんでくれた蝶であろうと思う。
五
終わりが来るなんて思いもしなかった。
この森は、政宗が駆けていた戦場に比べれば、退屈なほどに平和で、静かに時が流れていたから。
ともにすごした年月が、あまりにも穏やかに流れていったので。
己さえ、間違わなければ、ずっと側にいられるのだと、そう疑いもしなかったのだ。
***
最近元親は、時折、ふと遠くを見つめるようなことが増えた。
その顔は確かに笑んでいるのに、何故かこちらの胸が疼くこともあった。
それはほんの些細な変化で、元親にそのことを問うても、祭りの準備で少し疲れているからと返されてしまえば、政宗はそうかと頷くしかなかった。
何より、自分がそう信じたかっただけなのかも知れないと、後から政宗は思った。
数日先に祭りをひかえた夜のこと。
「何、言ってんだ…?」
政宗は元親に告げられた言葉の意味が分からず、ただ呆然と問い返すことしかできなかった。
元親は唇に淡い微笑を浮かべたまま、もう一度、先ほど政宗に告げた言葉を繰り返した。
「もう、お前とは会えなくなる。ずるずると引き延ばしちまって、ずっと言えずにいたが、今日で最後だ」
何故笑みを浮かべながらそんなことを言うことができる。
そんな静かな笑みを見たいわけじゃなかった。
そんな柔らかい声を聞きたいわけじゃなかった。
言葉の意味を理解しても、政宗は指一本動かすことができずに、ただ元親を見つめ返すことしかできなかった。
突然突きつけられた別れに納得などできるはずがない。
「今度、祭りがあるだろう?」
「知ってる」
今年は特別な舞を舞うのだと言っていたそれを、忘れるわけがない。
その日のことを考えるだけで、じわりと胸が、嫉妬の残り火で痛むのに。
「一年に一度の大祭だ」
「形式的な祭りだろ」
遮るように返した政宗の言葉に、元親は怒るわけでもなく頷いた。
「ああ、形式だな。形式的な神事の中でも特別な、神契りの儀式ってのがあるんだ。神契りは百年に一度だけ行われる。今年の祭りが、それなのさ」
元親は一層穏やかに笑ってみせた。
「形式さ。形式的に、おれは神の元へ嫁ぐ」
嫁ぐという言葉に、思考がとまった。
「この世を離れて」
その一言に、堪えていた何かがぷつりと音をたてて切れた。
喉の奥が、かっと燃える。
目の前が真っ赤に染まって、気がつけば声を荒げていた。
「それじゃまるで贄じゃねえか!」
それは悲鳴じみていて、政宗自身、その言葉のもつ響きにぞくりと背筋を震わせる。
けれど、贄という言葉にも、元親は動揺しなかった。
ただ、僅かに瞳を揺らしただけだった。
ああ、と何でもないことのように頷く。
「まあ、運が悪かったんだなあ」
「運が悪いで済む話じゃねえだろう?!」
暢気とすらいえる口調に、苛立ちを押さえきれずに怒鳴り返せば。
まっすぐな琥珀色の瞳が、真正面から政宗を映した。
「運が悪いですむ話さ。この国は、そうやって守られてきたんだ」
「神なんざいねえじゃねえか!」
「いるさ」
「ああいるかもしれねえな!だがいたとしても、この世にはいねえ!」
「そうだな。想像の産物を神とよび、祈ることでおれたちの国は長らえてきたんだよ。皆がそう信じれば、それは真実になるんだ」
それはどこまでも、国の鎮守を祈る神子としての言葉だった。
そしてそれは正しいのだろう。
正しすぎて、怒りしかわいてこない。
胃の腑の底が燃えて、手指の先が痺れる。
元親の肩を掴んで揺さぶって、そんな話は嘘だと言わせたい。
何故笑ってそんなことを言えるのかと詰りたい。
体を引き裂きそうな痛みが脳天を突き抜けて、政宗はかすかに身を震わせた。
真っ赤に燃える視界の中で、元親の瞳が政宗を見つめている。
さっきまで静かだったそれが、微かに揺れる。
その色に滲む想いが何なのか、政宗には分からない。
赤く色づいた唇が薄く開いて、元親は吐息をこぼした。
「いつか、食べられちまうなら、おれはお前に喰われてえ。顔も知らない神なんかじゃなくて」
「っ!」
吐息混じりのその声は熱く湿っていて、政宗の体の内側を撫でていく。
まるで愛撫のような声音に、胸が震える。
狂おしいような光が、その瞳の中心にあって、その色にがんじがらめに囚われる。
絡み合った視線に惹かれるまま、その体を抱いてしまいたい。
ふれ合うほどに近くにある顔はただ美しい。
「蜘蛛は蝶を喰うんだろ?」
それは森に住まう虫たちの話。
そして、元親と政宗の話。
熱い吐息が肌に触れる。
触れたそこから、溶けてしまいたいと思う。
「だったら、おれも、お前に喰われてえなあ」
どこかうわ言のようなそれは熱く甘く、そしてどうしてか泣きたいほどに切なかった。
その告白は、元親の願いのように聞こえた。
数日後に行われる祭り。
政宗が見ることは叶わない、神だけに捧げる舞を舞って、そして元親は神の元へと逝くのだろう。
政宗のもとから飛び去って。
二度と手の届かぬ所へと。
目眩がする。
泣いてわめきたいほどの激情が荒れ狂っているのに、喉の奥、目の奥は何故か乾いていて、涙のひとしずくもでてきやしない。
「…連れて逃げろとは、願ってくれねえのか」
こぼれた声は、子供のように頼りなげで掠れていた、
それは政宗が抱いた願いだった。
怖い。死ぬのは嫌だと言ってくれれば。
連れて逃げろと言ってくれれば、地の果てまでも逃げてみせようものを。
元親は瞬いた。
その瞳がしっとりと濡れる。
宝石のように煌めいて政宗だけを映している。
元親は唇をわななかせて、でも微かに笑んだ。
「言わねえよ」
その声に。
元親はもう決めてしまったことを知る。
神子であり続けることを。
政宗は指を握り込んだ。
爪が皮膚に食い込んで、その痛みに、体を燃やす熱が静かに引いていく。
逃げようと言ったところで、元親は首を縦には振らないのだろう。
分かってしまう自分がたまらなく嫌だ。
「喰えなんざ言う前に、他に言うことはねえのか?」
分かっていながらも、諦めきれずに問いかけた。
一言でもいい。
その瞳に滲む想いが、政宗が抱くものと同じなら。
言葉にしてくれたのなら。
何もかもを振り切って、連れ去っていこうと思ったのに。
「…言えねえよ」
元親は目を伏せて、そう言った。
まるで泣いているかのように見えた。
それは政宗の願望がみせる幻か。
結局、震えるその体を抱きしめることも、その手首を掴んで連れ去ることもできずに。
政宗は冷えた指を銀の髪に伸ばした。
けれど硬質なその銀糸に触れる前に手は静かに落ちて。
月だけが変わらず二人を照らしていた。
六
好きだなんて言えるわけがなかった。
***
月のない朔の日。
身を清めて、身につけるのは純白の袴。
元々色素の薄い元親が身につければ、それはどこか浮世離れした印象が強まる。
仕上げに唇に紅をはいて。
元親は一人、舞殿へと足をすすめた。
周りには誰もいない。
闇夜に、かがり火だけが燃えている。
手にした鈴の音だけが響く。
それは神を呼ぶ音。
一人、元親は舞を捧ぐ。
舞い終わったそのとき、ぱたりと腕を下ろして、元親はまるでつきものが落ちたかのように、心が静まりかえっていることを自覚した。
終わってしまった。
夢のように儚い時がもうすぐ終わる。
舞殿を後にして、元親は輿にのり、森の最奥へと揺られていった。
普段だれも寄りつかぬそこには、ぱっくりと口を開いた洞窟がある。
元親は輿からおりた。
促された先にある祭壇の前に正座する。
そして、音もなく、社からの先導者はそこを去った。
元親は一人だった。
やがて、社の者たちと入れ替わるようにして、一つの黒い影が姿を見せる。
元親は驚かなかった。
誰かが来ることを元親は承知していた。
神子を神のいる世へ送る者が必要だ。
覆面で顔を覆い隠した男が、元親を神の御許へと送ってくれるのだろう。
闇にとけ込むその姿。
夜に愛されたものたち。
蜘蛛の一族。
蝶は蜘蛛に喰らわれる。
恐怖を覚えることはなかった。
心は凪いでいて、ただ元親は待っていた。
夢が終わるその瞬間を。
七
心にぽっかりと開いた穴を抱えていた。
そこは新月のように真暗で、ときおり乾いた風が吹いた。
いつしかそこには色が付き始める。
月の色を吸って輝く柔らかい銀色。
もう一度そこから色が抜け落ちることに耐えられそうにない。
***
祭りの日は月のない朔日だった。
ここのところ、何故元親の様子がおかしかったのか、今の政宗は承知していた。
この日元親は神へと嫁ぐ。
政宗の手の届かぬところへ、飛び去ろうとしている。
政宗の身を包む黒衣は、蜘蛛の戦装束だ。
腰には使い込んだ刀。
政宗が一人屋敷を出ようとしたところに、立ちふさがった影。
「なりませぬ」
それは政宗の右腕の小十郎だった。
政宗は、何故小十郎がここにいるのか、などとは問わなかった。
ただ一言。
「どけ、小十郎」
まっすぐに目を合わせて短く言った。
しかし、小十郎のほうもそれで頷くのならば、主の前に立ちふさがったりなどしないだろう。
「どきませぬ。ここを退けば、あなたはもう二度と、ここには戻らぬおつもりでしょう」
「分かってんなら、聞くんじゃねえよ」
「あなたは当主となられる御方です!」
この男にしては珍しい、感情を露わにした声が夜の空気を裂いた。
政宗は薄く笑った。
「Ha!当主になるってんなら、こんなとこに追いやられてねえよ」
「政宗様!」
悲鳴のような非難の声に、政宗は眉を下げて苦笑した。
元親は選んだ。
政宗も、選んだ。
だから政宗は、行かなければいけなかった。
「いいんだよ、小十郎。むしろ今は感謝してんだぜ。追いやってくれたのがこの森で」
本心を告げれば、小十郎は顔を歪めた。
「…一族を捨てるとおっしゃるのですか」
「捨てるわけじゃねえよ。けどおれは、アイツを手放すことができねえだけだ」
「あなたさまが夜、蝶と会っていらっしゃったことは知っております」
「……」
「知っていてなお、何も申さなかったのは、あなたの目が、この現世をみてくれるようになったからです。血の舞う戦場でも、暗い闇でもなく。だから私は、何も申すことはしませんでした」
滲むようなその言葉に、政宗は僅かに目を見開いた。
二年、儚い夢のような時が壊れることはなかったとはいえ、この男には気づかれているだろうとは思っていた。
けれど、認めてくれていたとまでは思っていなかった。
「あの方の境遇には同情いたします」
その言葉に、小十郎も、今日の儀式を知っていたことを知る。
政宗は唇でかすかに笑んだ。
森守の頭でありながら、元親に告げられるまで儀式の本当の意味を知らなかった政宗だったが、政宗と元親のことを知る小十郎なら、それを政宗に告げなかったことも頷ける。
大方、告げれば政宗がどういう行動にでるかなどとは分かっていたからだろう。
そして実際、小十郎の判断は正しい。
「嫌なんだよ」
「……」
政宗は眉を下げて首を傾いだ。
「手の届くところにいるのに、何が悲しくて惚れた相手を、いもしねえ神なんて胡散臭い相手に譲ってやらなきゃならねえんだ」
終わりが来るだなんて思いもしなかった。
元親が森を去るときには、共に行こうと手を伸ばすつもりだった。
だからそれまでは、蝶を守る蜘蛛として、側にいるだけでいようと。
「あいつは役目を放りなげることなんざしねえからな。次の神子が来て、あいつがお役ご免になったらかっさらうつもりで、珍しく大人しく待ってたってのによ。指くわえて見てられるわけねえだろ?ここで諦められたら、このおれが、二年も片思いなんぞしてるかよ。なあ、そうだろう?」
政宗はいっそ穏やかに笑ってさえいた。
「それだけのことなんだよ、小十郎。それだけのことなんだ」
小さい頃から側にいた。
政宗の剣の師であり右腕である男。
「親父には親子の縁をきってくれるように書状をだした。一族の名に、傷をつけるようなことはしねえよ」
小十郎は深く瞠目した。
政宗の決意が変わらないことなど、はなから分かっていただろう。
分かっていても、黙っていることはできなかったのだろう。
小十郎は手に持っていた刀を抜いた。
政宗は苦笑した。
「テメエは頑固だからな」
己も、腰にはいた刀を抜いて。
「手加減なんぞしてくれんなよ?」
月明かりもない暗闇で、二匹の蜘蛛がぶつかった。
七
政宗とすごした最後の夜を思い出す。
心は決めても、伝えることは中々出来ずに、ずるずると引き延ばしてしまったけれど。
大切な相手だからこそ、ちゃんと言葉にして伝えようと思った。
政宗を置いて去ることを。
政宗が大切に守ってくれた神子として。
心は決まっていたはずなのに。
贄になることを伝えたそのとき、声を荒げて激昂した政宗に、未練が、顔をだした。
政宗が元親に対して、そこまであからさまに感情をむき出しにしてくれたことはなかった。
それが嬉しくてたまらなくて。
沈めたはずの欲が形を作る。
最後だということに甘えて、元親は望みを口にした。
ずっと言いたかったこと。
ずっと、お前だけのものになりたかった。
***
黒い影が音もなく近づいてきて、祭壇に座る元親を見下ろした。
闇にとけ込む黒の装束。
その隙間から、金色の瞳が元親を映している。
月のない星月夜。
その明かりは、月のそれほど強くないが、目の前にある蜘蛛の姿を見るには十分だった。
顔を覆う布の向こうから男が問う。
「何か言い残すことは?」
布を通してくぐもったその声。
元親は紅のはいた唇を震わせた。
ああ、泣き出してしまいそうだ。
凪いでいた心が、にわかにざわめく。
言葉にならない想いが溢れて、こぼれおちてしまいそうになる。
未練があった。欲もあった。
けれど、それ以上に。
満足だった。
胸を締め付ける痛みすら幸せで。
その声は、最後に聞きたいと思っていた声。
その瞳は、最後に見たいと思っていた瞳。
政宗はいつでも、元親の望みを叶えてくれた。
今、このときも。
幸せだと、元親は声に出さずに呟いた。
おれの命を喰らうのが、神でも見知らぬ誰でもなくて、お前であることが。
だから。
元親は男を見上げて、唇を弧に描き、鮮やかに笑ってみせた。
「ない」
最後の瞬間まで、その瞳を見ていようと思った。
男の手が、顔を覆う覆面に伸びる。
はぎ取った布の下に隠されていたのは、元親が望んだ男の顔だった。
表情を消したその顔は、恐ろしいほどに整って見えた。
いっそ甘やかな笑みさえ浮かべて、元親はその瞬間を待った。
政宗が手にした刀で、この身が貫かれる瞬間を。
けれど。
その手から、鋼の輝きが抜け落ちる。
膝を着いて。
元親は一度瞬いた。
体をきつく束縛する腕の強さと、その体の熱に、目じりから滴がこぼれ落ちた。
元親の体を抱きしめながら、政宗は元親の肩に顔を伏せた。
「神なんざいねえよ。この洞窟の奥には何もない。分かってたんだろう?」
元親はふと吐息をこぼした。
「…ああ、知ってたよ」
口伝される儀式のことは知らずとも、この洞窟のことは知っていた。
一度入ったことがあるからだ。
政宗に出会う前、一人で屋敷を抜け出すようになった頃に。
神代へ続くとされる洞窟だが、その先には何もなかった。
「だからって、嫌だなんて言うわけにはいかねえよ。それが、おれのつとめなんだってことも、知ってんだからよ」
「…アンタは、そういうやつだよな」
政宗の腕がいっそう強く体を抱いた。
背骨が軋みそうなほどの力だったが、元親は身じろぎひとつせず、政宗に身を任せた。
「だから、おれも、アンタをとめやしなかった」
「…ああ」
元親は目を伏せた。
声を荒げても、政宗は元親をとめなかった。
いつだって政宗は優しい。
元親の意志を尊重してくれた。
「だからって、アンタを他のヤツにかっさらわれるのを黙ってみてるとでも思ったか」
「……」
「蝶を供物に捧げるのは蜘蛛だってことを、アンタは知っていたんだろう?神に嫁ぐといっても、結局アンタら蝶が忌み嫌う蜘蛛に喰われてるだけだってことを」
政宗の言うとおり、神子を神のもとへ送る役目を担うのが蜘蛛だということを、元親は知っていた。
少し考えれば分かる話だ。
社の者が神子に手をかけることはない。
それを成せるものがいるのならば、社と森を守る蜘蛛以外にはありえない。
そのことに気づいたとき、初めて元親は、己が蝶であることに感謝した。政宗が蜘蛛であることにも。
「蝶を喰らうのが蜘蛛だと知ったときから、この命を狩られるなら、お前がいいと思ってた。だったらおれは、幸せなまま逝けるって」
「逝かすかよ」
「……」
体にまわる政宗の腕が緩む。
そのことに少しの寂しさを覚える。
政宗が元親の肩口から顔をあげる。
元親の目をまっすぐに見つめる政宗の瞳が、すぐ側にあった。
視線が絡まる。
狂おしく燃える熱情を閉じ込めて煌めくその色から逃れたくなくて、瞬きすらしたくない。
「アンタは頑固で、真面目だからな。駆け落ちに誘っても、素直に頷いちゃくれねえだろ?だから、待ってやったんだ」
政宗の手が、元親の頬に添えられる。
熱い手だった。
元親が望んだ、政宗の体温だった。
もういいだろう、と政宗が問う。
「蜘蛛が社に報告すりゃ、神契りの儀式は終わる。それだけのことで、終わるんだ。だから、もういいだろう?アンタは役目を全うしたんだ」
だから、と低い掠れた、耳に甘い声が、元親の鼓膜を震わせた。
「いい加減、素直に言えよ」
ぞくりと体をわななかせながら、元親はすぐ側にある政宗の瞳を見返した。
まるで子供のように問い返す。
「なにを?」
政宗の指が、元親の頬を撫で、目じりに触れる。
口づけの距離で、政宗は密やかに囁いた。
「おれに言いたいことがあるだろう?」
それは問いかけの形をとってはいたが、命のように聞こえた。
元親は薄く開いた唇から、吐息をこぼした。
政宗の言うとおり、元親は政宗に言いたい言葉を抱えている。
ずっとずっと、言いたかったこと。
心の底に沈めたはずの想いが、鮮やかな色に染まっていく。
元親は喉の奥で喘いだ。
「アンタのことなんざお見通しなんだよ」
頬にあてられた手で、逃げることは許さないとばかりに強く輝く瞳が元親を射抜く。
「言えよ。アンタが望むもんをくれてやる」
元親はくしゃりと相貌を崩した。
いつだって元親の望むことを叶えてくれた政宗は、元親が望むものをくれるという。
言ってもいいのだろうか。
望んでもいいのだろうか。
求めてもいいのだろうか。
ただの元親として。
「好きだ…」
政宗、と熱さで掠れる声で名を紡いだ。
ずっと言いたくて、言えなかった言葉。
「お前をくれよ。おれを、さらっていってくれ」
触れた手が、かすかに震えるのが分かって、元親は破顔した。
「お前のことが、好きなんだ…」
政宗は目を細めて、柔らかく笑んだ。
燃えるような悦びがその瞳に閃くのが見えた気がした。
「…おれも、ずっと、アンタが欲しかった。アンタは蝶で、おれは蜘蛛だ」
低い、熱に浮かされたような掠れた声が脳髄を溶かす。
だから、おれに喰われちまいな、と。政宗は元親の唇を指でなぞって囁いた。
目を伏せれば、唇に熱。
肩を掴まれ背中をかき抱かれて、息を奪うかのように攫われる。
そして、元親は政宗の背に己の腕をまわした。
終