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鎮守の森の奥深くにある社。
 街から離れたところにありながらも、この社は王の宮と深く結びついている。
 鎮守の森の主は、宮から遣わされる神子だ。
 神子は王族の中から、まだ婚姻を結んでいないものが選ばれる。
 他にもいくつかの選定基準はあるようだが、当の本人はあずかり知らぬことだ。
 神子は代々、王が交代するのと同じくして代替わりをする。
 弥三郎がこの森に遣わされたときは齢五つ。
 物心はついていたように思うが、何故自分がここに遣わされたのか、などと疑問を抱く思考まではまだ持っていなかった。
 幼かった自分は、ただ世話役の言うとおりに祈り、神子として恥じぬ教養を身につけるためにだけに学び、生きていた。それが、当たり前のことで、それ以外を知らぬからであった。
 神子として森で静かに暮らして十数年。
 国のために祈り過ごすことが不満なわけではなかった。
 けれど、蜘蛛と呼ばれる男たちと顔を合わせて、社の外にでてみたくなったのだ。
 社に訪ねてくる者は限られている。
 宮からの使いか、街からの荷運び人。
 そして、森を守る蜘蛛と呼ばれる男たち
 森を守る者がいることは知っていた。彼らを皆が、蜘蛛と呼ぶことも。
 けれどもそれ以上のことは誰も教えてはくれなかったし、一度尋ねたときは、口に上らせるのも煩わしいと眉をひそめたからだ。
 だから弥三郎は、十九になる今まで、十数年森に住まいながらも、蜘蛛と顔を合わせたことは一度もなかった。
 時折蜘蛛の使いが、報告と儀礼的な挨拶のために社に足を運んでいたが、弥三郎はその場に呼ばれたこともなければ、偶然鉢合わせることもなかったからだ。
 ただ、少し前のこと、弥三郎は一人の青年と顔を合わせることとなった。
 森守の頭が代替わりした、その挨拶だった。
 社の主である神子と、社を守る蜘蛛の頭が唯一顔を合わせる公式な機会。
 弥三郎から声をかけることは許されておらず、青年の形通りの挨拶に、弥三郎はこれまた形通りに頷くだけの会見だった。
 そこで初めて、弥三郎は蜘蛛と呼ばれる男を見た。
 社で誰も持たぬ黒い髪を持ち、眼帯で覆われた右目、そして左の眼窩にはまっている見たこともないほど美しく輝く金色の瞳で、青年は弥三郎を見た。
 自分と同じ頃か、もしかしたら年下かもしれない、若い青年だった。
 社に仕える世話役たちは、皆、弥三郎よりも年嵩で、弥三郎と同じ頃の者などはいなかったから、余計に気に掛かった。
 謙虚が少し間違えば慇懃になりそうなほどの、張りのある声音。
「姫様と社をお守り申し上げる」
 弥三郎は男だったが、代々神子のことは便宜的に姫と呼ぶしきたりになっている。
 世話役たちも弥三郎のことを姫ともよぶので、別段その呼び名が気に掛かったわけではなかった。
 けれど、自信に満ちた言葉と、口の端でかすかに笑うその笑みから、目が離せなかった。
 対面は僅かな時間で終わりを告げた。
 座を辞した後、弥三郎は世話役に尋ねた。
「私と社を守ってくれるというけれど、彼らはどこに住んでいるの?」
 世話役は苦笑して、森に住んでいるのですと教えてくれた。
「森に…」
 それまで、弥三郎の世界は、社と、社から眺める森で完結していた。
 社の外にある世界を、初めて意識した。
 社には古来より集められた書物がある。
 宮から離れたといっても、王族としての教養を弥三郎は身につけさせられている。
 知識では知っている。
 外の世界を。
 けれど、弥三郎の中にあったのは、文字で触れた知識だけだ。
 にわかに胸に芽生えた好奇心。
 社の生活に不満があったわけじゃない。
 ただ、単純に。
社の外に出てみたかった。
 そして弥三郎は、ある夜、社を一人で抜け出してみることにした。
 世話役にそれとなく水を向けてみたが、反応は芳しくなく、真正面から外に出たいと言っても否定されるだけだと分かったからだ。
 月の明るい夜。
 皆が寝静まって、常から静かな社から、さらに音が消え去る頃。
 どきどきと弾む胸を押さえながら、弥三郎は社を出て、森へと足を踏み入れた。
 社に遣わされてから初めて、社の外に出た弥三郎だったが、別段、何か代わり映えがしたわけでもなかった。
 けれど、眠れる森は、静かな生の気配で満ちていた。
 木々のざわめき。
 風の声。
 滴の音。
 月の光は、太陽のそれほど暖かみがあるわけではなかったが、どこか優しく感じられた。
 書の中でだけ知っていたもの。
 花、虫、小さな獣。
 目に触れるもの全てがどうしてか新鮮で、愛おしく思えた。
 一度外に出て以来、弥三郎はたびたび夜歩きをするようになった。
 不思議と、夜の森に怖さは感じなかった。
 道が分かるわけではなかったが、いつも帰ろうと思えば社に帰れたからかもしれない。
元々夜の闇は嫌いではない。
 夜の闇は弥三郎を優しく抱いてくれる。
 自然のさざめきがしんとした空気にのって耳を撫でるのも好きだ。
 森は弥三郎を脅かすことはなかったから、それこそ場違いなほど暢気に、弥三郎は夜歩きを楽しんでいたのだ。
 このときまでは。
 いつもとは違う方角へと足を伸ばそうと思って、いつもより早く社をでたのだ。
 周りに気を取られていたからか、木の陰で、足下がより見えにくくなっていたからか。
 かしゃりとか細い音が足下から響いて、え、と思うまもなく、弥三郎は前のめりに倒れた。
 驚いて足下を振り返れば、黒く光る細い輪のようなものが、右足首を挟んでいた。
 抜こうと思っても輪から足は外れぬ。
 初めて、弥三郎は怖いと思った。
 輪をこじ開けようとしても、弥三郎の力ではびくともしない。
 ざわりと梢が鳴る。
 弥三郎はびくりと体を震わせた。
 唐突に。
 己が独りであることを自覚した。
 ここには、弥三郎を助けてくれる者は誰もいない。
 物も言わぬ木々がそこにあるだけで、身動きのとれない弥三郎を見下ろしている。
 この足を戒める物が、何のためにおかれているのかも考えられず、ただ弥三郎は身を固くした。
 怖かった。
 夜の闇が。
 人ならざるざわめきが。
 本能的な恐怖。
 独りであることの恐怖を、弥三郎は初めて知ったのだ。
 己の呼吸する音すらも耳について、息を殺した。
 だから、突如飛び出してきた影に、弥三郎は声にならぬ悲鳴を上げた。
 うずくまっている弥三郎からすれば、その影はどこまでも大きく見えた。
 闇に溶けるかのような黒い髪。
 ただ金色の目が、月の光を吸ってなお輝いている。
 社で見慣れぬその色彩。
 蜘蛛だと、反射でその名だけが脳裏に閃く。
 光を吸った金の目が、弥三郎だけを映している。
 射抜くようなその瞳に、弥三郎の張りつめていた緊張の糸がぷつりと切れた。
 見慣れぬものは恐怖しか与えない。
 慣れ親しんだ夜の闇ですら恐ろしいのだ。
 そのまっすぐな瞳が恐ろしくて、弥三郎は反射で体を丸めて俯いた。
 恐慌状態に陥っていた弥三郎は、助けが来たのだとは考えられなかった。
 冷静な思考の代わりに、何の意図もなく、いつか聞いた世話役の声が響いてくる。
「蜘蛛に近づいてはなりませぬ。我らとは違う、卑しき者ども。彼らは我らを蝶と呼ぶ。近づけば、蜘蛛に喰われてしまいましょう」
 己とは違うその金の瞳が怖い。
その視線の強さが怖い。
その瞳はこの身を切り裂き、身のうち全てをさらけ出してしまうだろう。
「助けて。お願い、食べないで…!」
 喉の奥から迸った声は、弱々しく掠れていて、みっともなかった。
 目をぎゅっと閉じて、身を縮めて気配が遠ざかることだけを願う。
 独りでいることを怖いと恐れたくせに、今は早く独りになりたいと思っている。
 そんな矛盾に気づくこともなく、ただ弥三郎は幼子のように、助けてとだけ繰り返した。
 どれくらいの時間が経ったのか、弥三郎には分からない。
 金属のこすれるような音がして、ふと、足が軽くなった。
 戒めていた圧迫感が消える。
 何も考えず右足を引けば、動きを妨げるものはなかった。
 弥三郎はただ本能の命ずるままに、体を起こして足を動かした。
 駆ける。
 前だけを見て。
 金色の瞳から逃げるように。
 もつれる足で、ただ駆けて。
 息を弾ませ、弥三郎は瞬いた。
 足が止まる。
 己の呼吸の音が、乱れていた心臓の音が耳につく。
 自由になった右足に視線を落とした。
 弥三郎の力ではどうにもならなかった戒めは、そこにはない。
 怖かった。逃げたいと思った。
 けれど、どうしてかとまった足は、重しでもつけたかのように動かない。
 戒めなどもうないというのに。
 唇を閉じて、弥三郎はゆっくりと振り返った。
 柔らかい月の光がきらきらと木々の間から降っている。
 煌めいているそれは、ひとふりの刀であった。
 それを認めたとき、反射的に体が強ばったが、弥三郎は今度は顔を背けることなく見つめ続けた。
 闇に溶ける黒い髪。
 金色に光る一つ目。
 蜘蛛は、刀を手にしたまま、ただじっとそこにいた。
 弥三郎を追うこともせず、ただ、じっとこちらを見つめている。
 唐突に、その蜘蛛が誰なのか、弥三郎は気がついた。
 息を詰める。
 突然軽くなった足。
 戒めが勝手に壊れるはずなどない。
 『彼』が、壊してくれたのだ。
 一度だけ相対した青年。
 森を守る蜘蛛の頭。
 名を、藤次郎。
 そこにいたのは、ただの人だった。
 自分と同じ、ただの青年だった。
 弥三郎は強ばった足をそろりと動かした。
 藤次郎の元へ。
 近づけば、藤次郎の顔がはっきりとしてくる。
 元親よりも僅かばかり背丈の低い、本当にただの背年だ。
 距離を詰めようとする弥三郎に、藤次郎は驚いたように目を見開いた。
 戸惑うように瞬いて弥三郎を見る。
 まだ少し怖いと思う気持ちは残っていたが、さきほどの恐慌めいた恐れではなかった。
 弥三郎は脈打つ己の心臓の上に拳を置いて、何とか唇を開いた。
 助けてくれた礼を言わなければ。
 そして。
 謝らなければいけなかった。
「あの、助けてくれて、ありがとうございます」
 目を見て礼を言うことはできたが、弥三郎はこらえきれずに目を伏せてしまった。
「それと、あの、助けていただいたのに失礼なことを言って、ごめんなさい、藤次郎殿」
 我ながら、卑怯だとは思ったが、己で酷いことをしたという自覚がある故に、弥三郎は藤次郎の目を見て謝ることができなかった。
 軽蔑されたかもしれない、と胸を震わせた弥三郎だったが、返されたのは、どこか子供じみたとすらいえる、問いともいえない問いだった。
「名前…」
「え?」
 言われた言葉の意味が分からず、思わず顔をあげれば、藤次郎は子供のような目で弥三郎を見た。
「おれの名を、知ってるのか?」
 きょとんと弥三郎は瞬いた。
 何故そんなことを問われるのか分からないながらも、答えを返す。
「挨拶をしに、社へ来てくださったではありませんか」
 そう、答えを返して、弥三郎は驚きで目を見開いた。
 藤次郎の顔が、くしゃりと歪む。
 それはどこか泣き顔のようにも見えた。
 けれど、藤次郎は笑ったのだ。
 唇を弧に引き上げて、微かに、笑ったのだ。
 心臓を掴まれたかと思った。
 体の内側がざわめく。
 言葉もなく、ただ見つめ返すことしかできぬ弥三郎に、藤次郎は言った。
「弥三郎って、呼んでも、いいか」
「え?」
「姫でも、神子でもねえ、弥三郎って、アンタを名で呼んでもいいか…?」
 その唇が、掠れた低い声が、己の名をかたどっている。
 そのことに、鼓動が早鐘を打つ。
 体が火照る。
 弥三郎という名を呼ばれること。
 それは特別なことだということに、弥三郎は気づいたのだ。
 社に遣わされてから、弥三郎のことを皆、姫や神子と呼ぶ。
 幼い頃は弥三郎と呼んでくれた世話役も、年を経てからは名を呼ばぬようになった。
 だから、今、弥三郎の名を呼ぶ者はいないのだ。
 己の名を呼ぶ者がいない。
 そのことの寂しさすら気づいていなかった。
 それを今突きつけられた。
 藤次郎に、己の名を紡がれて、胸がしくりと痛んでそして。
 言葉にし難いほどの喜びが、痛んだそこから広がっていった。
 名を呼んでくれる人がいる。
 それは、神子でも姫でもない、弥三郎自身を望んでくれているように思えた。
 喉の奥が詰まって、言葉にならない。
 ただ目を見開いて見つめ返すことのできない弥三郎に、藤次郎は苦い顔で唇を開いた。
「悪い。この森の主に対して許されることじゃなかったな。気に触ったなら謝る」
「え…?」
 思ってもいなかった謝罪を受けて、弥三郎は逆に驚いた。
 何故藤次郎がそんなことを言うのか分からず、弥三郎は混乱した。
 藤次郎が身を引く。
 離れていってしまう。
 弥三郎は思わず藤次郎の腕に手を伸ばしていた。
「どうしてっ…?」
 悲痛な弥三郎の声に、藤次郎は驚いたようだった。
 そして、苦笑を唇に薄くはき。
「泣いてるから」
 長い指で、弥三郎の頬に触れた。
 言われてようやく、弥三郎は己が涙を流していることに気がついた。
 かっと顔が火照る。
 恥ずかしさで逃げ出したいと思ったが、慌てて弁解した。
「あの、これは藤次郎殿の言葉が嫌だったとかいうわけじゃ、なくて…」
 頬を撫でて涙を拭ってくれる感触に、体が震える。
 前に立つと、弥三郎のほうが少し背が高いから、俯いても下からのぞき込まれてしまえば、弥三郎がどんな顔をしているのか、簡単に見られてしまう。
 消えてしまった弥三郎の言葉の先を促すように、藤次郎は首を傾いで、弥三郎の目をのぞき込んでくる。
 瞬いた拍子に零れた滴を、藤次郎の指先が掬う。
 その感触に、唇が震えて、言葉がすべり落ちた。
「…嬉しかったんだ」
 嬉しかった。
 姫でも神子でもない、弥三郎自身を呼んでくれたことが。
 そのことが、涙がでるほどに、胸がふるえるほどに、嬉しいのだと、弥三郎は気づいたのだ。
 胸の奥、心のどこかがとろりと溶けて満たされる気がした。
 藤次郎の指が頬から離れる。
 それを追うように弥三郎は顔をあげた。
 藤次郎の視線と弥三郎のそれが絡む。
 弥三郎は唇を弧に描いて、精一杯笑んだ。
「名で、呼んでください、藤次郎殿」
「藤次郎」
「え?」
「アンタに殿、なんてつけられる立場じゃねえだろうが。だから、藤次郎でいい」
「……藤次郎?」
 言われるままに、名を紡げば、藤次郎は目を細めて柔らかく笑んだ。
 嬉しそうに。
 内側からわき上がってる言葉にならぬ想いに、胸が一杯になって、弥三郎は掠れた声で己の望みを告げた。
「…もう一度、呼んで」
 金色の瞳が、弥三郎を映している。
 そこに映る柔らかい色を認めて、どうしてかまた涙がこぼれそうになる。
「弥三郎」
 柔らかい瞳が。
 低いその声が。
 弥三郎の中に刻まれていく。
 藤次郎という一つの名とともに。
 弥三郎は涙をこぼしながら、破顔した。
「助けてくれて、ありがとう、藤次郎」
それは、名も知らぬ小さな想いが芽生えた瞬間だった。