+Beautiful butterfly+
白銀の髪が月夜に光る。
初め目にしたとき、藤次郎は我が目を疑った。
「……何で蝶がこんなとこにいやがる」
そう、藤次郎の視界に映っているのは、紛れもない蝶、森(もり)守(のかみ)である藤次郎の主にして国の鎮守を担う神子だ。
見間違いだと思いたかったが、この森にいる人間なんぞ、顔を覚えるのに不自由のない程度の数しかいないのだ。
それになにより、その特徴的な姿。
白銀に輝く髪。色素の抜けた透き通るような白い肌。
藤次郎たち、国の牙と呼ばれる男たちは持たない、それは王族や貴族だけに許された色。
藤次郎はただでさえ目つきが悪いと評される目を、さらに凶悪に細めて髪をかきまぜた。
どう足掻いても幻覚じゃない。
あんな目立つ姿で該当するのは、この森では蝶、弥三郎だけだ。
この森にいる蝶は、社の中で、国の鎮守を、この国の神に祈るのがつとめ。
社の外には出ない。
自分たちは社の外から蝶を守り、森を守るのがつとめ。
それが。
どうしてその蝶が堂々と社の外、森の中でふらふらとしているのか。
しかもこんな夜中に、だ。
頭がどうにかしているとしか思えない、軽率極まりない行為である。
苛々と髪をかきあげて、藤次郎はその背中を音もなく追った。
何故こんなことをしなければならないのかと思うが、もし蝶の身に何かあれば、森を守る一族の誇りに傷がつく。
何より、藤次郎の矜恃が許さない。
とっととつかまえて、社に連れ戻さねばなるまい。
見回りを終えて交代しようと思っていたところへの面倒ごとに、藤次郎は舌打ちして毒づいた。
「怠慢もいいとこだな。社の連中に盛大に嫌味を言ってやる。立派な虫籠があるんだ、きっちり鍵をかけとけ」
威厳ある社を虫籠呼ばわりである。
今年十七になる藤次郎は目つきも悪いが、口も大層悪かった。
そして、藤次郎の足は速い。
すぐに弥三郎に追いついた。
追いついたのだが。
「……」
藤次郎の足は、木陰で根が生えたように動かなくなってしまった。
夜の闇は藤次郎に優しい。身を、気配を、闇に隠してくれる。
月の光が木々の隙間から煌々と降ってくる。
明るいそれは満月故だと、気がついたのは後のこと。
視界にあるのは、柔らかな闇と、蝶が一匹。
藤次郎の世界はそれだけになる。
月の光を掬うかのように両手を掲げる。
眩しそうに細められる瞳。
少しだけ紅潮した頬は、元来の白さ故に紅をはいたように目立つ。
長身を翻して、風に誘われるままに舞う。
足下に咲く白い花に指先で触れ。
こぼれるように笑った。
このとき藤次郎は、白い月光を浴びて輝く蝶の姿に、弥三郎に、ただ目を奪われていた。
目だけではない。
意識も、呼吸すらも奪われて、ただ、その姿に見とれていた。
そのことに気がついたとき、藤次郎は口元を押さえて、弥三郎から逃れるように木の幹に背中を押しつけた。
喉の奥がかっと燃える。
それは屈辱だった。
今まで経験したことのない屈辱だった。
藤次郎たちの一族は国の牙と呼ばれる、元をたどれば傭兵の一族だった。
元々流れ者だった祖先が、この国に根を張る代わりに、この国を守る剣となることを、王に誓ったのが始まりだ。
王は剣を信頼し、また剣は王を守るために常に戦場の戦陣をきり、王の代わりに血を浴びてきた。
けれどいつしか、互いの間にあるのは信頼と忠義ではなく、形式と利にかわっていった。
信頼は、自分たちとは違う存在への蔑視へとかわり、王侯貴族たちは、彼らを蜘蛛と呼ぶようになった。
蜘蛛の一族は、そんな彼らをあざ笑い、蜘蛛と呼ぶことに対する皮肉を込めて、彼らを蝶と呼ぶようになったのだ。
この森を守る役目は、代々当主の一族がつくことになっている。
藤次郎が弥三郎の姿を目にしたのは、今が初めてではなかった。
この森守の役についたとき、挨拶のため、顔を合わせたことがある。
そのときは別段、何の感慨も浮かばなかった。
見目だけは整った人形だ、と。
一言も発せず、世話役たちの言うまま頷くだけの弥三郎の姿に、呆れ混じりにそう思っただけだ。
だというのに。
目を奪われて。動きを奪われて。意識を奪われた。
言葉にし難い屈辱だった。
人形と軽んじていた相手に、その存在だけで屈させられたのだ。
体を貫いた敗北感は、今まで誰にも味わったことのないものだった。
何が悔しいかといえば、弥三郎は何もしていないのだ。
藤次郎の存在にさえ気がついていない。
ただ、藤次郎だけが、一方的に意識を絡めとられ、屈せられている。
そのことが、目の奥を真っ赤に燃やすほどに悔しい。
なのに。
胸を屈辱の炎で舐められたというのに。
藤次郎は眉間を寄せて歯を噛んだ。
弥三郎の姿から目を離せないのだ。
人形だと思っていた。
主だなんて、思ったことなど一度もない。
役割だから、藤次郎は森を、社を守護しているに過ぎなかった。
花を見つめる横顔。
唇を豊かな弧に描いて笑う、年相応ともいえるそんな顔があるなんて、思ったことがなかった。
風にその髪をふかせ、静かに舞うその姿はけれどどこまでも生の輝きに満ちていて。
人形だなんて言ったのはどの口だ。
表情もなく澄まして座っていたときよりもよほどに、綺麗だと。
そう、思っている自分を、藤次郎は受け入れた。
そして、藤次郎はその日、弥三郎を無理矢理社に連れ戻すことはせず、ただ影のように側について、弥三郎が自ら社へ戻るまで、側で見守っていた。
以来藤次郎は、夜、弥三郎を見かけたときは、何も言わず側について護衛をするようになった。
社のほうが全く騒いでいなかったので、弥三郎が外に出ていることに気づいていないのだろう。
今までも、他のものたちから蝶を見たなんてことは聞いたことがなかったから、弥三郎が外歩きなんぞをしだしたのも最近のことだと、藤次郎は考えていた。
そう考えたとき、藤次郎はなんとも言えない、複雑な顔をした。
何度か弥三郎と行き会って、藤次郎はその周期に当たりをつけられるようになった。
弥三郎が夜歩きをしているのは、いつも、月の明るい夜のことなのだ。
社からそう離れているわけでもないあたりを、心の底から楽しそうに散歩している。
草花に触れ、空を眺め、静かに舞う。
そんな姿を見ているうちに、憐憫を抱いたのだと藤次郎は思う。
弥三郎は、藤次郎とさほど年が離れていないが、森での暮らしは藤次郎よりはるかに長い。
幼い頃から、神子としてこの森に住んでいるのだ。
社から出ず、祈るためだけの生活。
外へ興味を持ったとしても不思議ではない。
不用心だし、軽率だとは思うが、初めのように、蔑むような気にはなれなくなっていた。
代わりに、月の明るい夜には、自ら社の側の森を見回るようになった。
一族の中でもその腕の強さを讃えられる藤次郎だ。
弥三郎に気づかれたことは一度もない。
二人の夜はいつも静かに過ぎていく。
弥三郎は、よく笑ったが、声を発しはしなかった。
まるで、声をあげれば、外に出ることが叶わなくなることを知っているかのように。
だから藤次郎は、弥三郎がどんな声をしているのか知らない。
知っているのは、名と、役目と、相反する二つの顔だけ。
燃えるような屈辱はいつしか消えて、代わりに胸に起こったのは、憐憫と憧憬。
激情とはほど遠いところから始まったそれは、けれど確かに一つの恋であった。
***
この日も、藤次郎は夜の闇に紛れ込んで、足音を立てることもなく夜の森を進んでいた。
毎晩日が暮れた後、月の明るさを確かめるのが日課になっている己は、我ながら呆れを通り越して笑えてくるなと思う。
現に、側近である小十郎にも問われたところだった。
「最近夜に見回ることが多くなったようでございますが、如何なさったのですか?」
「何だ、おれが真面目に仕事をこなすのが不服か?」
からかい混じりにそう言えば、小十郎は不服ではございませんと、律儀に否定してから、けれど変わらぬ強面の真顔できっぱりこう言った。
「不服ではありませんが、不可解です。あなたさまから真面目になんぞという言葉を聞くと余計に」
側近のその言葉から、藤次郎が普段どれだけこの役目に大事をおいていなかったかが分かろうものである。
「真面目に精を出してんだ。素直に喜んどけよ」
暗に詮索するなと低く笑って手を振れば、小十郎は僅かに眉をぴくりと動かしたが、結局はお気をつけてと頭を下げただけだった。
小十郎は藤次郎の剣の師でもある。
森守とは言っても、この森には藤次郎の脅威になるものはいないことは、小十郎も承知している。
大型の獣もいないここは、藤次郎たちからすれば気が抜けるほどに平和で、退屈な場所なのだ。
だから、当主の息子である政宗が一人で出歩いたとしても、小十郎はさして強くは諫めてこない。
まあ、藤次郎が蝶のもとへ行っていると知っていたなら、きっと違うのだろうが。
初めて弥三郎を夜の森で見たときから、三月ほどが過ぎていた。
この頃には、藤次郎は己が弥三郎に対して抱く憧憬に気づいていた。
それはどこまでも穏やかで愛おしい気持ちだった。
その存在を、ただ守りたいと思った。
皆が寝静まった夜のつかの間の時間。
ひっそりと抜け出して、ただ森を歩くだけの、たったそれだけの時間が、弥三郎にとってどれだけ大切なものなのか、その笑顔をみれば分かる。
もしかしたら同情なのかもしれない。
藤次郎ならば、そんな生活は耐えられない。
己とはどこまでも違う故の憧れなのかもしれない。
けれど、藤次郎はその笑顔がどこまでも尊いものに感じられた。
そんな僅かな時間を、幸せそうな顔で大切にする弥三郎が、愛しく思えた。
理由は探せばきっといくらでも見つかるだろう。
けれどあえて己の気持ちがどこから来るのか、考えたことはなかった。
弥三郎の大切な時間を守る。
それだけで十分だと思った。
それだけで、十分だと思えたからだ。
仲間たちから、苛烈だと畏怖の目を向けられる藤次郎だったが、弥三郎に対して抱くこの気持ちは、どこまでも優しくて穏やかなものだ。
藤次郎自身、こんな気持ちを持つことができるのかと驚いたほどに。
いくら武勲をたてようと母に忌み嫌われつづけたこの身。
行き場のない苛立ちを消化するには、刀をふるうことでしかできず、藤次郎の腕はますます冴えをましていった。
腕がとぎすまされればされるほど、血を浴びれば浴びるほど、仲間からも恐れられるようになった。
国を守る牙として剣を振るうことが一族の役目。
一族であろうとすればするほど、藤次郎は独りになっていったのだ。
冷えて凝ったこの心が抱けた、暖かい想い。
それは藤次郎にとって大切なものとなった。
昼に比べれば静かな森だが、それでも特有の気配が満ちている。
夜目を鍛えている藤次郎たちからすれば、月の明るい夜など、何の障害もないのと同じだ。
弥三郎も、ある程度は夜目が利くようだった。
夜の森を楽しげに歩いているところをみると、ある程度は見えているのだろうと思う。
とはいえ、時折木の根につまづいたりしているのを知っている。
初めてそれをみたときは、思わず助けにいくかいくまいかで、珍しく決断を迷った藤次郎だった。
が、藤次郎が逡巡している間に、弥三郎は泣きも叫きもせずに、体を起こしてそのまま何もなかったかのようにまた歩き出していた。
ほっとするとどうじに、妙に気が抜けたことを覚えている。
社の外にでたことのない、いわば箱入りだと決めつけていたからだ。
痛くなかったわけはないだろう。
それでも弥三郎は、己で立ち上がることを知っている。
ほっとして、気が抜けて、そして胸にじわりと温かいものが広がった。
人形なんかじゃない。
藤次郎は、弥三郎が痛みを知っているということを、そしてそれに負けぬ強さを持っていることを知って、嬉しかったのだ。
弥三郎が社を出てくる時間はだいたいいつも決まっている。
けれど、この日はいつもと少し違っていた。
月は煌々と森を照らしているのに、弥三郎が社からでてこない。
今日は夜歩きはせずに、寝ているのかと思った。
が。
胸騒ぎがした。
己の杞憂ならばいい。
けれど、もし、いつもより早く、森へとでて、何かあったのだとすれば。
何もないならいい。
それこそ自分が馬鹿だったと笑えばいいだけの話だ。
確かにこの森は、藤次郎たちが警戒するような大型の獣はいない。
が、それでも獣はいる。
いつかのように、つまづいて、今度こそ動けなくなっているのではないか。
藤次郎は身を翻した。
いつもより早く社をでたのだとしても、さほど遠くへは行っていないだろう。
不思議なことに、森のどこにいても、弥三郎は社がどこにあるのかは分かっているらしかった。
闇に紛れて森を駆ける。
狭い森とはいっても、庭とは比べものにならない。
とりあえず、普段よく弥三郎が足を向けるあたりを見て回ったが、姿がない。
苛々と舌打ちして、いつもは足を向けぬほうへと駆けていく。
不安が影を作って藤次郎の姿を追いかけてくる。
鼓動の音がやけにうるさく聞こえる。
一族の者がみれば驚くほどに、藤次郎の気は乱れていた。
それは森の木々がざわめくほどに。
若くして一族きっての腕を誇る当主の息子。
その名声は輝いて。
その強さで、気性の誇り高さで、畏敬と畏怖の目を向けられる姿は、そこにはなかった。
弥三郎の白銀の髪は、よく目立つ。
月の光に照らされて、美しく輝くからだ。
そして、見慣れた美しい瞬きが視界で閃いたとき、藤次郎は内心で息を詰めていた。
よかった、無事だとまずその存在を見つけたことに安堵し、次に様子がどこかおかしいことに気づく。
弥三郎はうずくまって動こうとしない。
その足下を認めて、藤次郎の背を冷たいものが這った。
それは、藤次郎たちが獣をつかまえるために使う、罠の一つ。
足をとらえて動けなくするだけの単純なそれだが、どっと嫌な汗が噴き出した。
足が傷つくほどのものではなかったが、それでも、動けなくはなる。
いってみれば、ただそれだけのことなのに、心臓をつかまれたかのような痛みがあった。
弥三郎の夜歩きを見守るようになってから、彼の前に姿を見せようと思ったことはない。
弥三郎を特別に思っていることを自覚していたが、弥三郎に己の存在を認めてもらいたいなどと思ったことはなかった。
弥三郎は蝶で、己は蜘蛛だ。
何も望みなどはしなかった。
浴びることを厭わなくなった血。
母親の忌避の目。
弟の畏怖の目。
藤次郎の中にある暗いどろりとした熱情。
同じ心の中にあって、弥三郎への想いは、月の光のように淡く美しく、優しいものだったからだ。
ただ、弥三郎には笑っていて欲しい。
闇夜の中にいる間だけでも。
何事もなければ、姿を現そうなどとは思わぬが、今は黙ってみていることはできなかった。
このまま弥三郎が動けずにいれば、やがて夜が明け、弥三郎が夜歩きをしていることが社の者に気づかれてしまう。
そうすればもう、弥三郎はあの社をでることは叶わなくなるだろう。
いや、なにより、今捕らわれているままを放っておくことなどできなかった。
闇夜をまとい、藤次郎は木陰から飛び出して、弥三郎の側へと走り寄った。
もう大丈夫だ、心配はいらない、と。
そう、声をかける前に。
鼓膜を震わせた声。
「助けて。お願い、食べないで…!」
悲鳴のような、掠れた声。
それが、藤次郎が初めて耳にすることのできた弥三郎の声であった。
藤次郎はそのとき、己の体が凍りついたと思った。
凍えてしまいそうに冷えた指は、感覚すら感じられない気がした。
体だけじゃない、心までも冷たく凍り付いてしまいそうだ。
かけようと思っていた言葉が、喉の奥に張り付いて、息が出来なくなる。
冷たい黒いもやが、胸の奥から噴き出してきて、心臓を舐めていく。
思考を侵食していく低い声。
所詮、蝶たちは、自分たちを蜘蛛と蔑んでいるのだ。
蝶たちは獣を食べぬ。蜘蛛は獣を食べる。
その慣習の違いを揶揄うために、蜘蛛が蝶を食べると、質の悪い笑い話として言う者がいることを藤次郎は知っていた。
弥三郎も、大方社の誰かに聞いたのだろう。
噂を真に受けて蜘蛛を恐れるなら。
弥三郎が藤次郎を恐れるのなら。
いっそ、その身を喰ろうてやろうか。
その頤に手をかけ、赤い唇に噛みついて。
白い肌に唇を寄せ、骨の髄まで食い尽くしてやろうか。
覚えのある激情が体の芯を燃やしてやっと、藤次郎は己が抱く、弥三郎への想いが何であるのか、気がついた。
それは紛れもなく、恋情だった。
どこまでも身勝手な。
穏やかで優しいだけのものだなんて、よくもいえたものだ。
一皮めくれば、こんなにも熱いものが渦巻いている。
美しくも何ともない、どろどろとした欲と嫉妬が渦巻いているじゃないか。
その事実は藤次郎の抱いていた淡い幻想にも似た想いを打ち砕いていった。
こぼれ落ちそうなほどの愛しさと、胸を焦がす身勝手な憤りの狭間で、藤次郎は体を震わせた。
大丈夫だからと優しく抱いてやりたいと思う。
同時に。
乱暴に抱きつぶしてしまいたいとも思う。
指先が痙攣して、藤次郎は干上がった喉で細く呼吸をした。
燃えるように熱い眼球を瞼で一度覆い隠して。
瞬いた視界に映ったのは、身を縮めて震えている弥三郎だった。
息を殺すようにして、時折、たすけて、とか細い声がこぼれる。
ただただ脅えるその姿に、胸を焦がす黒い炎が消えていく。
代わりに、虚しさが藤次郎の胸を撫でた。
滲んで痛む。
弥三郎は、何故ここに藤次郎がいるのかすら知らぬのだ。
そして、森を守る蜘蛛、と蝶たちがよぶ藤次郎たち一族のことも、よく知らないのだろう。
激情のままに、その躯を喰らって、それでどうなるというのだ。
弥三郎を傷つけてそして、そのあとに、何が残るというのだろう。
藤次郎は声もなく自嘲した。
何も残りやしない。
藤次郎は腰の刀を抜いた。
弥三郎は体を丸めて震えている。
弥三郎は、こちらを見ようとしない。
藤次郎は柄を両手で持って、弥三郎を戒める罠を断ち切った。
足が軽くなったのが分かったのだろう、弥三郎は跳ねるように体を起こして、逃げるようにその場から駆けていく。
藤次郎に背を向けたまま、振り返らずに。
藤次郎は刀を鞘におさめることもせずに、ただ弥三郎の背中を見ていた。
走れているから、足のほうも傷ついていたわけではないのだろう。
それが分かって、安堵した。
弥三郎が傷ついていないと分かって、安堵した。
だから、藤次郎から逃げるように去っていったとしても、別にいい。
そう、思った。
影の中で、弥三郎の足が止まるのが見えた。
息が止まる。
それは期待か未練か
藤次郎にも分からぬそれが、藤次郎の体を束縛する。
ゆっくりと、けれど振り向いた弥三郎の姿を認めたその刹那が。
藤次郎にとっては永遠のように感じられた。
月明かりの下で、蝶と蜘蛛の視線が交わる。
瞬きもせずに。