小豚の正体は王子様
それは夏休みも終わるころ。
近所にある小さな神社で、ささやかな祭が催される日のことだった。
朝食の席で焼き鮭をほぐしながら、唐突に元親が政宗に問うた。
「なあお前さ」
「Han?」
「新しい許嫁とやらは見つかったのか?」
その瞬間、政宗はごふりと飲んでいたみそ汁でむせた。
隣からすかさず小十郎が茶を勧めてくる。
ありがたく受け取って何とか一息つきながら、政宗は目を泳がせた。
何故なら、新しい許嫁など探す気は欠片もなかったし、事実探したこともなかったからだ。
つまり、新しい『許嫁』なんぞ一生見つからないのである。
しかし、一月ほど前、初めてこの家に乗り込んできたときに確かに政宗は言った。
そのときの台詞を反芻。
『正式な許嫁を見つけるまでのつなぎ』
思い返せば顔から火が吹き出そうになるほどに拙い言い訳だ。
もっと他に言う台詞はあるだろう!とあのときの自分に膝蹴りを入れたくなるが、過去は変えられないのだから仕方ない。
許嫁にしたいのは元親だけなのだと、叫んでしまえたら話は簡単なのだが。
生憎、ここは平和な朝の食卓で。
周りに野次馬がいるなかで、愛を叫べるほど政宗はまだ人間ができてはいなかった。
なので。
「いや…」
なんとか否定だけを返し、政宗は上目がちに向かいに座る元親を伺った。
上目なのは、よりにもよって大本命の元親を『つなぎ』呼ばわりした後ろめたさがあるからだ。
元親は、鮭をほぐす手を止めて、小さく唇で笑ったようだった。
「そっか」
「ああ」
それから会話は途切れ、もそもそと朝食を食べながらも、内心で政宗はみっともなく狼狽していた。
これはさっさと新しい許嫁を見つけて、この家から出て行ってほしいという元親のサインなのだろうか、と。
一方、元親のほうは、返された短い否定の言葉を聞いて内心で安堵のため息をこぼしていた。
そうして次に、何故自分は、そんなことで安心しちゃったりなんかしてるのだ、とはっと我に返る。
己の気持ちの変化の意味が分からず、元親は我ながらどうしていいやら分からないと途方にくれていた。
目の前で漬け物を食べている政宗をちらりと上目で伺えば、何故か男の周囲の空気がきらきらと光っているように見えて。
視力まで変調をきたしているのかと思えば、思わずため息がこぼれた。
そもそも、何故この男はぽりぽりと漬け物を食べている姿ですらも絵になるのだろう?
元親の唇からため息がこぼれるのを見て取って、政宗は内心で衝撃を受けた。
ため息をこぼすほどに、自分との生活が、いや許嫁という関係が嫌なのだろうか?
というか、鮭を食べつつこぼすこの男のため息は、何故にこれほどまでに妙な色気があるのだろう?
憂えた吐息をこぼすその様に、元親の周囲の空気がまるでほんのりと色づいているように見えて。
いよいよ自分も追いつめられてきた感があり、思わず政宗は眉を寄せた。
つい先日、熱く視線を絡ませ見つめ合ったのが嘘のようだ。
いい雰囲気のなか、またもや告白の場を幸村に邪魔をされ、元々キレる寸前だった理性の糸が見事にぶちきれた政宗は、二十分にわたって幸村と追いかけっこをするハメになった。
おかげさまで、鬱屈していた不満というかストレスは綺麗に発散されたが。
そう、あれ以来、どことなく元親の様子がおかしい。
振り返って考えてみれば、政宗には思い当たる節があった。
もしや自分は、元親が心配してくれたということに調子に乗りすぎたのかもしれない。
確かに、と胸の内で唾を飲み込んだ。
あのとき幸村の強襲がなかったら。
たぶん自分はキスしていただろうから。
二人の間にあるぎこちない空気を感じたのだろうか、場を和ませようとしてくれたのだろう、佐助が口を挟んだ。
「やっぱり気になるわけ、現許嫁のチカ兄としては?」
からかいまじりの軽口。
まあ元親のことだから、寝ぼけたこと言ってんじゃねえよ、とか、誰が現許嫁だコラ、などのツッコミで返すだろうから、またそれに乗っかるようにして軽口の応酬をすればいいはずだった。
しかし。
がちゃん。
突然鳴り響いた平和な食卓に似つかわしくない音は、元親が乱暴に食器をたたき付けるようにして置いた音だ。
政宗は唖然として元親を見上げた。
政宗だけでなく、他の面子も唖然としていた。
食器をたたき付けるようにした置いた元親は、その勢いで立ち上がった。
顔が赤いのは、怒りからなのだろう。
何故なら、その時の元親は眉をつり上げ、何かをこらえるかのように眉間に皺を刻んでいたからだ。
「…ごちそうさま。先に準備行ってる」
ふいと背を向けて、宣言通りに居間を出て行った元親を、皆目を丸くしたまま見送った。
数秒経って、政宗も力なく己の箸を机に置いた。
首を落として項垂れる。
やはりこれは、政宗の許嫁など我慢ならないというサインなのだろうか。
珍しくも弱気になってへこんでいる政宗の横から、もうごはんいいんだね〜と、図太さを復活させた佐助と幸村は、遠慮の欠片もなく残っていた政宗のおかずを取っていった。
政宗には止める気も起こらなかった。
そんな感じで、政宗と元親の許嫁コンビを除いては、一応つつがなく今日という日は幕を開けたのである。
***
「元親―、これ向こうへ運んでくれるか?それでここの仕事は最後だからよ」
「はいよ」
頼まれた余った木材を両手で軽々と抱え上げた元親は、黙々と働いていた。
三時の休憩を前にして、祭の準備はそろそろ終わりにさしかかっていた。
朝、逃げるようにして家を出てきてから、元親は政宗とは口をきいていない。
昼食のときも、手伝っていた神社の人たちの輪に入って食べていたからだ。
たまたま政宗と顔を合わせたときも、元親の方は顔を背けていたし、政宗の方もあえて声を掛けてこようとはしなかった。
何でこんなことになってんだと、元親は自問するが、答えなんて初めから出ているのだ。
朝、逃げるようにして家を出た。
そう、まさしく元親は逃げ出したのだ。
朝食の席から、政宗から。
佐助の言った『許嫁』という言葉に、みっともなく動揺した。
耳にした瞬間、かっと体の内側が火照って、思考から言葉という言葉が飛んだ。
よすぎる血の巡りと落ち着かない衝動をどうにかしたくて、結果とった行動が、手に持っていた茶碗を机にたたき付けること。
勢いで立ち上がれば、見つめてくる五対の目。
己がしでかしたことに我に返れば余計に唖然とした皆の視線が居たたまれなくて、元親はそのまま背を向けることしか出来なかったのだ。
どう考えても、過剰にすぎる反応だった。
自覚があるからこそ、元親自身、どうしていいのか分からなくなる。
己の気持ちをどう扱っていいのか分からない。
そもそも、己の気持ちがまず分からない。
分かっているのは、自分はどうやら政宗を意識しているらしいということだけ。
気がつけば、政宗のことを考えている自分がいるということだけだ。
思考を占拠される瞬間がある。
元親はそれがどうにも癪だと思う。
だって不公平じゃねえか?と意味もなく張り合う気持ちは、意固地としかいいようもないもので、我ながら大人げないとは思う。
それが嫌で、元親は準備に精を出して黙々と働いていたのだ。
何か仕事を任されているときはいい。
けれど、仕事が終わって、新しい仕事につくまでの隙間に。
滑り込んでくるのは、やはりあの男のことなのだ。
そんな自分が忌々しく、また人の思考を簡単にのっとってくれる政宗にも苛立ちがつのる。
そもそも『許嫁』という言葉にそれほどまでに意識してしまうのが、そもそもの間違いなのだ。
許嫁とは、本来ならば好きあっている二人がするものだ。
別に自分は政宗のことなんか好きじゃない。
たまにとてつもなくヤな奴だと思うときはあるが、嫌いなわけでもなかったし、好きか嫌いかどっちだと言われれば、まあ好きに入るとも思う。
でなきゃ同じ家に住むことも、自分の性格上我慢できなくなっているだろう。
が、断じて特別な『好き』ではないのだ。
それに、政宗も別に元親のことが『好き』で、許嫁になっているわけではない。
許嫁を見つけるまでは帰れないと、政宗は言った。
テメエとの婚約はそれまでのつなぎだ、と。
そう、自分は所詮『つなぎ』の許嫁なのだ。
そんなことは初めから承知のことであるはずで、むしろだからこそ、仕方なく自分は『つなぎの許嫁』に付き合ってやっているはずだったのに。
元親は舌打ちした。
どうしてここで涙腺が緩みそうになるのだ。
どうしてここで胸が刺されたように痛む。
どうして自分は、淋しいだなんて、思ってしまうのだろう?
許嫁としたい人がまだ見つかっていないと聞いて、あのとき自分は確かに安堵した。
よかった、とふわりと浮き立った心があった。
ついで、佐助の言った『現許嫁』というその冠詞に、はっとした。
近いうちに、その冠詞は『元』というものに変わるのだ。
清々したと笑いこそすれ、切なくなるような場面ではないはずなのに。
頼まれた場所に運んでいた木材を置いた元親は、口元を覆ってため息を吐いた。
まだ見ぬ仮定の未来に脅えている自分が弱々しく思えて。
それを否定できぬ自分がまた、情けなくて嫌になる。
他に仕事は何かないだろうか、と歩いていると、その通り道に見慣れた黒い小さな姿を認めて、元親は驚いた。
「まーくん、お前こんなとこで何してんだ?」
「ぷぎ」
抱き上げてみれば、まーくんはあからさまに動揺した様で身じろぎした。
「ここは今日は人がうろうろしてっから、危ねえぜ」
実際屋台の準備のためか、人がせわしなく行き来しているし、軽トラックも何台も来ている。
蹴り飛ばされたり、万が一にでも車にひかれたりしたらことだ。
どうしようかと元親が辺りを見回すと、丁度佐助が元親の姿を認めて近づいてきた。
丁度よかったと、元親が唇を開く前に。
「チカ兄、今仕事中でしょ?こいつはおれさまが預かって、危なくないところへ連れて行っておくからさ」
そう言って、佐助はひょいと元親の手からまーくんを取り上げ、有無を言わさず元親の前から去っていったのだ。
半ば強引と言っていいほどの勢いでまーくんを持っていかれた元親は、目を丸くして、いや仕事は今なくって、などと反論することもできなかった。
「な、何なんだ?」
佐助の態度を不思議に思いながら、元親は瞬きをしたあと頭をかいた。
でもまあ、佐助に任せておけば安心だと納得して、とりあえず他に仕事はないかと探すことを再開した。
しかし元親らができる仕事はあらかた終わったらしく、途中で行き会った信玄に、ここはよいから先に帰っておけと言われてしまった。
なので取りあえずまーくんの様子を見に行こうと、元親は佐助を探した。
適当に顔見知りをつかまえて、佐助を見なかったかと問えば荷物置き場がわりになっている神社のほうへ言ったと聞かされ、礼を言って元親はそちらに向かった。
神社の裏手には滅多に人が来ない。
社務所のほうかなと思いながら、境内を通り抜けようとした元親は、視界の端に佐助の姿を認めて、足を止めた。
丁度、神社の社殿の裏側になっているところだ。
あんな人が来ぬ場所で何をしているのだろうと首を傾げながら、足を向けた。
社殿の壁の横から斜めに、佐助の後ろ姿が見えた。
どうして、幸村もいるようだ。
そして元親が探していた黒豚の小さな姿も。
佐助は、手にしたやかんを傾けた。
湯気が出ているから中身はお湯だ。
いやしかし問題はそんなことではなかった。
元親の視線はとある一点に釘付けにされた。
佐助を呼ぼうと半端に開いた唇からは、息すらもこぼれない。
傾けられたやかんからこぼれる湯の先にいたのは、元親がまーくんと名付けた黒豚。
そして。
湯煙の中、黒豚の姿は一瞬にして消え、代わりに、見知った男の姿が現れる。
「服だけ落ちてるから、もしかしてと思って探してみてよかったよ」
行われた尋常ならざる事態に動じることもなく、佐助はしみじみと言った。
裸体を晒した政宗は慣れた様で濡れた髪をかき上げ、隣の幸村を横目で見やって忌々しげに舌打ちした。
「ったく、テメエの粗忽さにはうんざりする」
「まあまあそう言わないでやってよ。旦那だってわざとじゃないんだから」
「申し訳ないでござる、政宗殿」
「わざとだったらぶっ飛ばすだけじゃすまさねえよ」
眉間に皺を刻んで政宗は文句をこぼし、幸村が申し訳なさそうに差し出した服を乱暴にひったくる。
「……政宗」
元親は思わずその男の名を唇に乗せた。
その声はそれほど大きなものでもなかったが、三人の耳には届いたらしい。
ぎょっとして政宗が顔を上げる。
あっちゃあやばいと、佐助は額に手を置いた。
幸村はわたわたと慌てている。
そして居たたまれないほどの沈黙がその場を支配した。
その数秒の沈黙のうちで、元親は冷静に、この事態を飲み込んでいた。
何が原因か分からないが、元親がまーくんと名付けた黒子豚が、政宗本人であるということ。
そのことを、佐助も幸村も了承していたということ。
湯をかければ人にもどるという図は、他で見たこともある。
小十郎がそうだ。
そこから考えられる類推。
おそらく、政宗も水をかぶると子豚になるのだろう。
故に、小十郎もこの事実を知っているはずだということ。
初めて政宗と顔を合わせたその日、元親は政宗を池に投げ飛ばしている。
そこには父、信玄もいた。
つまり。
「…おれだけが知らなかったのか」
「い、いやあのチカ兄」
低い温度のない声に、珍しく佐助が焦ったような声を出した。
「おれだけ、知らなかったんだな」
拳を握ったのは、みっともなく手が震えたから。
目を合わせた政宗のその瞳は焦ったように揺れていて。
己の唇からこぼれたその言葉が、掛け値なしの真実であることを知る。
元親の唇からは無自覚に笑い声がこぼれていた。
乾ききった、砕けた声だった。
浮かんだ笑みは、自嘲だ。
元親はそのことを自覚して笑った。
「よっぽど信用がねえらしい」
「ちがっ」
しかし政宗の言葉は、元親と視線が合うと不自然に途中で途切れた。
元親は政宗に背を向けた。
101回目のプロポーズ
それは夜の廊下を照らすかすかな光の中で交わした約束だった。
元親はおずおずと聞いた。
「ねえ、何か怒ってるの…?」
「怒ってない!怒ってなんか…」
反射で飛び出た否定の声は途中から小さくなり、政宗は小さな拳を握った。
「…おれが、怒ってるのは、元親にじゃない」
「…じゃあ、誰に怒ってるの?」
「そんなの分かるか!」
強い声に元親はびくりと体を震わせた。
政宗は唇をへの字に引き結んで、そんな元親を見ていた。
そして、意を決したように唇を開いて、もう一度言った。
「笑うな!」
「…」
「嬉しくもないのに、楽しくもないくせに!何で無理して笑うんだよ!」
「……」
「無理して笑ったって、そんなのは笑顔じゃないんだ。嬉しかったり、楽しかったりするから、勝手に笑顔になるんだよ。泣きそうな顔してるくせに、無理して笑ってる姿見たって、おれが笑顔になれねえんだよ!」
「……でも、私には」
「そうだよ、お前にゃ弟が二人もいるし、あんな立派な親父さんだっているじゃねえか。おれだって、小十郎だっているんだ。お前の周りには、こんなにもお前のことを大事に思ってる人間がいるんだよ」
「…」
「お前が弟たちを守らなきゃいけないからって笑うんだったら、じゃあお前はおれが守ってやる」
元親は目を丸くした。
「…まさむね」
「おれが守ってやる!」
だから、笑うな!と政宗は自分が泣きそうな顔をして元親の頭をぎゅっと抱いた。
政宗の胸に顔を押し当てられて、元親は歯を噛んだ。
喉の奥からせり上がってくる熱い固まり。
抱いてくれている自分と変わらぬ小さな腕は力強く。
元親は堰が切れたように涙をこぼした。
元親の涙が止まるまで頭を抱えてくれていた腕は、元親が落ち着いてのを見て離れていったけれど、その手は元親の肩に触れていた。
元親は赤くなった唇を開いた。
「私をずっと守ってくれてた母さんはいなくなっちゃった。守ってもらってばっかりで、ありがとうも言えなかった」
唇が震え、元親はその大きな瞳から涙をこぼした。
「おれは死なねえよ。勝手にお前のまえからいなくなったりしない」
「本当に?」
政宗は一度頷いた。
「だから」
「だから…?」
顔を赤くして、けれどとても真面目な顔をして、政宗は言った。
「ずっと、おれと一緒にいてくれよ。側で、ずっとお前を守るから」
誰にも負けないように、強くなって守るからと、そう言った。
元親は瞬きも忘れて、政宗を見返した。
「約束する!」
元親の肩を掴む力は強く、元親は力がぬけたように唇から吐息をこぼした。
ふわりと笑む。
「じゃあ、私も…。私も、貴方を守れるぐらいに強くなる」
約束すると元親は笑った。
「貴方が笑ってくれるように、私も貴方を守れるぐらいに強くなる」
***
最悪のタイミングだった。
衝撃から立ち直った政宗はとりあえず服だけ急いで身につけて、去った元親の背中を追いかけた。
珍しく佐助が心配そうに眉を寄せ、幸村は狼狽していたが、そんなことは政宗の意識の外にあった。
今政宗の意識を占めているのは、去り際に浮かべた元親の笑みだ。
あんな顔をさせたいわけじゃなかった。
例によって例の如く、準備の途中でバケツの水を蹴倒した幸村によって水災を被った政宗は、佐助の協力もあってすみやかに人にもどれるはずだった。
元親に、己の秘密を見られたということを認識した瞬間、つにバレてしまったと、政宗は内心で冷や汗をかいた。
混乱して、ここをどう切り抜ければいいのかと言い訳を考えながらも、この状況ではごまかしようがないという無情な現実しかない。
気味悪がられるか、もう近寄るなと言われたらどうしようとか。馬鹿にされて冷笑されたらおれはショックで死ぬかもしれないと、飛躍した妄想に発狂しそうになった政宗だったが、実際目の前にあったのは、唇を歪めてかすかに笑う元親の笑みだった。
信用がねえらしい、と。
そうこぼす声は掠れていた。
瞬間、政宗は己がどれだけ馬鹿な男であったかを認識した。
違うと否定しようとした言葉は、合わせられた瞳にあっさりと行き場をなくしてしまった。
ひどいことを言わせた。
瞼に浮かぶのは、遠い昔に見た笑顔。
ぼやけて霞んでしまっても、泣きそうな顔で無理矢理作られた、ガラスのようだと思ったことは覚えてる。
その時に感じた切なさと共に。
笑い声をこぼしながら、元親は笑った。
眉を寄せて。
唇をわずかに歪めるようにして。
嬉しくも楽しくもないだろう場面で、笑った。
最悪だ。
もちろん最悪なのは自分自身だ。
あんな顔で笑まれるのならば、まだ冷めた目で馬鹿にされるほうがましだった。
何が守る、だ。
自分が守っていたのは結局、自身の矜恃だけで、一番守りたかったものは守れなかった。
気味悪がったり馬鹿にしたり。
そんなことを元親がするはずないということを、一番に分かっているはずではなかったか。
小十郎がパンダになったときも、おれにできるがあるなら言ってくれと、真剣な目で鼻をすすりながらそう言った。
それでも言わなかったのは、結局自分自身の小さなプライドを守りたいがためだけのことだった。
元親を求めて政宗は走る。
元親を見つけたあと、何をどう言おうとか、そんなことは考える余裕もなかった。
ただ、突き動かされるがままに走った。
突き詰めれば、政宗が元親に望むのはたった一つのことなのだ。
そりゃ自分のことを好きになってくれれば、言うことはないのだけれど。
それ以上に望むこと。
ねえ、笑って。
喜びで、楽しさで。
幸せだからと笑ってほしい。
その笑顔で、自分も幸せに笑えるから。
そして願わくば、その笑顔の側にこの身があらんことを。
***
近年希にみるほどに、自分はショックを受けていた。
そのことを自覚して、元親は唇を歪めて笑うしかなかった。
そう、自分はショックを受けて、かつ近年希にみるほどにしょげかえっているのだ。
自分だけのけ者にされていた。
自分だけが知らなかった。
政宗の秘密を、自分だけが知らされなかった。
どこもかしこも痛いし、ついでに言えば目の奥やら喉やらは泣き出しそうに熱い。
けれど代わりにこぼれるのは涙の滴ではなくて、乾いた笑いだった。
何で自分は笑っているのだろう。
泣くのは確かにみっともない気がするし、あの男に泣かされたとあっちゃ癪だけれども、だったらここは怒るというのが適切だ。
隠し事とはいい度胸じゃねえかとか。
よくも今まで騙してやがったな、とそれこそ、初っぱな政宗にぶつけられた文句をそのまま返してもいい。
「何で…」
口元を手で覆い隠して、元親は目を強く閉じた。
どうして自分は今、こんなにも傷ついているのだろう?
何が許嫁だ。
他の誰よりも政宗に信用されていない。
本当につなぎだけの存在でしかないんじゃないか。
確かに下らない喧嘩は毎日のようにしている。
素直になれずに憎まれ口ばかり叩いてる。
けれど、それなりに自分たちはうまくやっていけてると。
そう思っていたのは自分だけなのだろうか。
笑うなと、いつか耳にした声が聞こえた気がした。
ああそうだった。
楽しくもないのに、嬉しくもないのに笑う必要なんてないんだ。
自分は今笑いたいんじゃなくて。
「くそったれ」
滲んだ罵声を吐き捨てて。
瞬けば、熱い滴がぽろりと目じりからこぼれ。
そう、自分は今、胸が締め付けられるほどに切なくて、ついでに言えば淋しくて。
泣きたいときには泣けばいいのだ。
「あいつなんか、もう、しらねえ」
政宗と知らずに子豚に接していた自分を、政宗自身がどう見ていたのだろうと、知るものか。
馬鹿にしてようが笑っていようが、知るものか。
もう金輪際、子豚に情けはかけねえと、出来もしない誓いを立てて、元親は目元をごしごしと擦った。
家に帰ったら、感動系動物映画でも見よう、そして思いっきり泣きわめいてやると心に決めた。
泣いてわめいて、散々罵倒すれば、大丈夫。
いつもの自分に戻れるはず。
そのときには、政宗にも聞くことができるに違いない。
どうして黙っていたのか、と。
息を吸う。
そうだ、別に政宗は嫌味な男ではあったが、人が誤解しているのを見て愉しむような男ではない。
真面目に元親の話を聞いてくれたときもあるし、何だかんだといって英語も教えてくれる。
元親の料理だって、結局残さず全部食べてくれた。
それなりにうまくやってこれたと思っているのは、気のせいなんかじゃない。
きっとそう。
熱い涙をこぼしたら、少しだけ冷静になれた。
元親は、政宗という男のことを信じていたし、それに。
それに…。
手をそっと離して元親は己の指で己の唇をたどった。
少しばかり湿っぽく熱い。
唇が触れそうなほどの距離で見つめられたあの時。
心臓が跳ねた。
瞬きすらも許されないと思った。
本当は、そのままキスされるのかと思ったのだ。
日が暮れ始めるころに祭は始まる。
いらぬものは後ろへ隠し、屋台が準備にせいをだす。
役目を終えた軽トラックが、急いたように曲がってくることに、元親は気づかなかった。
「元親!」
間延びした時間。
目を見開いて瞬間強ばった体を横から突き飛ばしたのは、己よりは小柄な、しかし鍛え上げられた肉体。
そのまま二人もつれるようにして砂利道の脇に転がった。
盛大に砂利で擦ってできた擦り傷で、逆に元親は冷静になれた。
がばりと体を起こす。
隣に同じように砂利道に転がっているのは。
「…政宗」
政宗は動かない。
トラックの運転手が慌てたように運転席から飛び出してくる。
「おい!政宗!」
見開いた視界に映る光景が信じられなかった。
開いた喉から掠れた声がこぼれる。
騒ぎを聞きつけた野次馬が周りに集まってくるが、その喧噪の一片も元親の耳には入らなかった。
目の奥でちかちかと白い光が瞬いている。
「あ…」
フラッシュバックする記憶。
遡る十年前。
母さんが死んだ日。
交通事故だった。
動かなくなった体。
今まで元親を守ってくれていた腕が冷たくなった。
元親はその腕に、何も返すことができなかった。
ありがとうも、何も、間に合わなかった。
「ああ…」
笑う。笑う。笑って、笑って。
「笑うな!」
怒鳴るのは、己とそうは変わらぬ幼い声。
「守ってやる!」
そう、あの約束は嘘じゃなかった。
守ってもらった。
『政宗』に、守ってもらった。
元親は瞬いた。
「まさむね」
間延びした僅かな時間。
元親は顎に力を入れた。
まなじりがつり上がる。
倒れた体に手を伸ばして、その肩を叩いた。
「政宗!!」
「っ、けほっ…」
元親の手のひらの下にある体がぴくりと動いた。
体を丸めるようにして咳き込んで、政宗は横目で元親を見た。
「聞こえてるっから、そんなに、怒鳴るな。アンタの罵声は、心臓に悪い」
「〜〜〜〜っっっ!こんの馬鹿野郎!」
勝手な言いぐさに、元親は思わず怒鳴った。
何が心臓に悪いだ。
それはこっちの台詞だというのだ。
ゆっくりと体を起こした政宗は別に、骨折やらひどい怪我はないようだった。
タフでまことに結構なことだ。
それをとっさに確認してから、こんどは遠慮なくその胸ぐらを掴み上げた。
「何勝手なことしてくれてやがんだ!」
「助けてもらっといて勝手なこと呼ばわりかよ」
政宗は不快そうに眉をよせ、ついで、驚いたかのように目を丸くした。
「うるせえ!」
「…おい」
政宗の胸ぐらを掴む手は勝手にぶるぶると震えていたし、政宗を睨む目からは勝手にぽろぽろと滴がこぼれ落ちる。
全てこの野郎のせいだ。
昔から途方もないほどにカッコツケで、律儀なこの男の。
ぼろぼろと涙をこぼしながら、元親は大口を開けて怒鳴った。
「テメエは!死なねえって、そう言ったじゃねえか!」
人の平和な生活に、いきなり乗り込んできた男。
元親が忘れていようがいまいが、その図々しさで、強引さで、勝手に内側へと根を下ろしていくのだ。
「勝手にいなくなったりしねえって…」
世の中のことなんて、さしてわかっちゃいない子供だったとしても、その約束はどこまでも真面目で、温かかったから。
自分は、微笑むことができたのだ。
「ずっとおれと一緒にいるって、そう、約束してくれたじゃねえか…」
政宗は目を丸くしたまま瞬いた。
その声はどこか気が抜けたかのように細く。
「…アンタ、思い出したのか」
「っっ!」
たまらなくなって、元親は政宗の胸に額を押しつけた。
笑わなくていいと政宗が頭を抱きしめてくれたあのときのように。
「あれは、テメエだったんだな」
遠い霞がかった記憶。
殻に閉じこもって周りも見れなかった自分を、引き上げてくれた人。
世界にいるのは一人じゃないことを教えてくれた。
「ああ…。あの日、おれはアンタを守るって約束した。
一緒にいるってな。おれは約束は守る男だぜ」
「だったら!」
顔を上げて元親は噛みついた。
「こんな無茶するんじゃねえよ!」
世界から音が消え、また自分は一人になったかのような恐怖。
また間に合わないのか。
感謝の言葉をつげる間も与えられないのか。
ほんの数秒の間に感じたものを、きっとこの男は分かるまい。
「おれが無茶しなきゃ、アンタが死んでたかもしれねえじゃねえかよ」
思い出したかのように、政宗は眉を寄せた。
細めた視線で元親を射抜く。
「ふらふらしてトラックにも気づかねえ。…いいか、分かってんのか?」
政宗の胸元を掴んでいた手を、逆に掴み返されて、元親はびくりとした。
「おれが死んでも約束は守れねえがな、アンタが死んでも、約束は守れねえんだぜ?」
「……」
元親の存在を確かめるかのように、政宗は掴んだその手に力を込めた。
「ずっと一緒にいるって約束、守れねえだろうが。
You see?」
のぞき込むようにして合わせられた瞳。
まっすぐに見つめてくるその瞳の強さ。
元親はぎゅっと唇を引き結んだ。
政宗の胸元を掴んでいた手から力は抜け。
元親は顎を引いてうつむいた。
「…元親」
かけられる声は少しばかり揺れていた。
政宗の腕がぎこちなく背中にまわされる。
ここで素直に身を任せられたらよかったが、元親の耳には政宗の声のほかに聞こえてくるものがあった。
政宗が無事だと分かって気が抜けたからか、耳に入ってきたのは、今置かれてる現実の喧噪。
つまり、周りの野次馬の皆様方の興味津々なざわめきである。
それに気づいたとき、元親は己の体が芯から熱を帯びるのを自覚した。
公衆の面前で、自分たちが晒している状況を把握。
のち、元親が取った反射的行動は。
優しく背を抱いてくれている男に頭突きを見舞うことであった。
折角形を成そうとしていた政宗への感情は、どこかへと吹き飛ばされてしまい、今はもうそれがどんな名前なのかも分からない。
いや、本当は分かっていたが、あえて元親は考えないようにした。
結局どこまでも素直になれない。
元親の頭突きをまともにくらった政宗は、思わず手を離して額を抑えた。
「Shit…てんめえっっ!何げに今のが一番ダメージでけえ」
「うるせえ!」
もっともな反論だが元親は怒声で退けた。
立ち上がって、まだ腰を下ろしたままの政宗をみおろす。
真っ赤に染まった顔で一言。
「心配料だ。とっとけ!」
おお!と周りから感心したような声があがる。
政宗は元親を下から睨め付け、ついで、ふと頬を緩めて苦笑した。
くっと喉で笑う。
「アンタほんと、可愛くねえな」
「可愛いなんて言われてたまるか!」
「つれねえこと言うなよ、my honey.おれはアンタの許嫁だぜ?ずっと添い遂げようって約束、思い出してくれたんだろ?」
「思い出したし、たしかに、おれはテメエの許嫁だけどなあ!場所を考えろ、場所を!」
自分から墓穴を掘っているということまでは、煮立った頭で判断できなかった元親だ。
わざとらしく、周りに聞こえるように言葉を発した政宗の意図に、見事引っかかったということに気がついたのは、もうしばらく後になってから。
近所の出入りの植木屋職人のおじさんに、結婚式には呼んでくれやと肩を叩かれたときだった。