魔法のキスでも解けない呪い

居候が増えて二週間ほど経った。
 夕食が済んだあとの武田家の居間には、三兄弟とその居候政宗が雁首を付き合わせていた。
 信玄は風呂で、小十郎は台所で片づけをしてくれている。
佐助は同じ学年の弟、幸村の夏休みの課題を見てやりながら、茶をすすった。
「だから、そこは大過去だから過去完了にしろっつってんだろうが!」
「大過去とか意味わかんねえんだよ!何だよ大って!過去に大も小もあるか!」
 机の向かいでの口論。
 口論している二人は、言わずもがな。
 佐助の兄の元親と、居候の政宗の高2コンビである。
 そもそもみんなで仲良く勉強会という趣旨のはずではなかったっけ、という仲裁はしない。
 そんなことをしたって口論は止まらないし、第一面倒くさい。
 うるさいことはうるさいが、まあ幸村は気にしていないみたいだし、慣れればこの二人の喧嘩を見ていることは結構面白かったので、佐助は今も暢気に茶を飲んでいるのである。
 それにしても、政宗はもうすっかり武田家に馴染んだものだなあと、佐助は間延びした感想を抱いた。
 馴染んですっかり、元親との口論(時折拳を交えての喧嘩)もおなじみのものになってしまっているほどだ。
 この二人を見て、誰が婚約関係にあると思うだろうか。
 婚約とは言っても、政宗曰く、正式の婚約者をみつけるまでのつなぎらしいが。
「つなぎ、ねえ?」
 唇にかすかに笑みを浮かべて、立ち上がり胸ぐらに手を掛け合っている二人を見た。
 英語が苦手という元親に、日常でも英語を混じらす自称発音はネイティブだという政宗が、にわか家庭教師を買って出たのが初め。
 まあ、佐助からすれば、この時点で大人しく平和な勉強会にはならないというのは、予想ではなく未来の事実であった。
 平和的にすむと思っているのは本人たちだけだが、些細なことで意固地にぶつかっているくせにどうして自覚がでないのか。
 要は二人とも、とことん互いに対しては素直じゃないのだ。
 元親は特に。
 普段の元親は、同年代にも、先輩後輩にも好かれるタイプで、実際その気性はさっぱりとしていて人なつっこい。
 気性は、佐助に比べたらとてもとても素直な質だ。
 だというのに。
 それを考えると、政宗に対する態度だけが、面白いほどに素直じゃないのだ。
 些細なことにも律儀に反応してつっかかっていく様は、佐助から言わせれば、それだけ意識しているということだろう。
 本人は無自覚だろうが。
 政宗の方は、単にひねくれているから素直になるのが難しいのだろうと、佐助は思っていた。
 元親手製のキムチチャーハンを完食したという話を、元親から聞かされたとき佐助は素直に感心したが、同時に苦笑した。
 完食はしたが、しかし政宗は言い過ぎたとか、謝罪をしたわけではないのだという。
 ただ、今度はキムチの量を減らせと、文句ともアドバイスともつかない言葉を口にしたのだそうだ。 
 また食べる気なのかと思えば、年上の義兄候補が何だか可愛く思えてしまった佐助だった。
 元親の不器用さは、武田家の面々は身にしみてよく知っている。
 その手料理の破壊力も。
 何が可愛いかって、不遜で自信家の政宗クンの、兄に対する一途さが、だ。
 水をかぶれば子豚になるだなんて、涙がこぼれるような呪いをもち、その秘密は、元親にだけは!何があっても知られたくないのだという。
 何とも泣ける話ではないか。
 出来た弟としては、やはり兄のシアワセが一番である。
 一番であるが、もし両思いなのであれば、二人とも応援してやるのが弟の役目であろう。
おれさまって、ホント出来た弟だよねえ、と頭上で勢いよく交わされる言葉の応酬を聞きながら、佐助は自画自賛した。
 さて、そろそろ止める頃合いだろう。
 口論の間は幸村も気にしないが、これが殴り合いになるとそうはいかない。
 何せ、どっちも技術だけは高い、ハイレベルな喧嘩になるのだ。
 元親と同じ体育会系の幸村が黙ってみていれるはずがなく、目を輝かせて観戦しだし、下手をすれば乱入する。
 そうなっては宿題を片づけるどころの話ではなくなるし、どうせそのツケの影響は佐助に回ってくるので、ここいらが潮時だね、と佐助はわざとらしく声を上げた。
「二人とも、この暑〜い中、これだけ熱心に喧嘩して飽きないなんて、ホント仲がいいんだねえ」
 感心したように頷きながら(実際感心はしていたので)佐助はからかうような視線を二人に向けた。
 瞬間、返ってくるのは見事にハモった『誰が!』という文句だった。
 その息の合いっぷりに、佐助は思わず喉で笑った。
 それが気に入らなかったのか、二人は忌々しそうにきっと互いの顔を睨み付けて、これまた素晴らしいシンクロっぷりで顔を背けた。
「こいつといると勉強にならねえよ」
 元親は広げていたノートと筆箱を抱えて立ち上がった。
 対する政宗のほうは、どっかりと腰を下ろして、机の上に肩肘をついて元親の背中を鼻で笑い飛ばす。
「Ha!一人でやっててもうんうん唸ってるだけで、どうせ解けねえくせによく言うぜ」
「うっせえ!」
 居間を出しな顔だけで振り返った元親は、顎を少し上向け、目を眇めて政宗を見下ろした。
「英語くらいなあ、おれが本気を出しゃどうとでもなるんだよ!」
「Ah〜?やれるもんならやってみろよ」
「やってやるさ!」
 肩を怒らして元親は廊下を踏みしめ自室がある二階へと昇っていった。
 居間には、面白くなさそうに唇を引き結んだ男が一人。
 佐助はたまらず声を上げて笑った。
「何笑ってやがる!」
「だ、だってっ…!」
 その顔はどうみても、構ってもらえなくて、拗ねている子供にしかみえなかったからだ。
「そんくらい、チカ兄の前でも素直になればいいのに」
「はあ?」
英語を見てやろうかと申し出たときは、元親を思っての親切心からだっただろうに。
 結局、次元の低い言い合いから喧嘩状態に突入。
結果なんて目に見えてるのに、学習しないというか、まだまだお子様だというか。
そのくせ、二人の時間が終わってしまったことに対して、ふてくされているだなんて。

本当は好きなくせにどこまでも素直じゃない男だ。
 
***

 油断のならない出来すぎな元親の弟。
 それが政宗の中での佐助の評価だった。
 普段はどこまでも飄々としていながら、実に冷静で現実的。
 豪快な信玄と、これまたその豪快さ、不器用さを受け継いでいる兄と弟を上手くまとめる武田家のお母さん的役割をはたしつつ、その実一番喰えない質の悪い男が、武田家次男の佐助だった。
 今も幸村の勉強を見てやっていたかと思えば、きっちり政宗と元親の口論を野次馬として見学していたらしく、胸ぐらをつかみあってにらみ合ったところで仲裁が入った。
 仲裁というか、質の悪いそれは、政宗にとっては揶揄に近い。
 その揶揄に動揺し、これまたその場の勢いとノリで、元親とは喧嘩状態に突入。
 こんなはずではなかったのに、と政宗は机に肩肘をついて眉を寄せた。
 英語が苦手だという元親に、じゃあ教えてやるよと申し出たのは純粋な善意だった。
 別に怒らせるつもりも喧嘩する気もなかったのだ。
 それがどうしてこんなことになっているのか?
 言い過ぎた、悪かった。大過去というのは時制の一致のときにおきるもので、そういう時は過去完了にしなければならないのだ、ときっちり説明すればいいのだということは分かってはいたが、実行に移せるかというと、それはまた別の話だった。
 実行できていれば、居間で苛々とあぐらをかいていないのである。
 その様子を、くっくと喉で笑いながら見ていた佐助は、あ〜あ、と大きく息をついて顔を上げた。
 政宗を見る目は面白そうに、親しみの持てる気安さをふくんで、佐助は唇を開いた。
「政宗ってさー」
「An?」
「チカ兄のこと、よっぽど好きなんだねえ」
「なっっ?!」
 心底感心したような、けれど声はからかうような色を残したままでいきなり図星をさされて、政宗は動揺した。
 とっさのことに唇は固まって何の言葉もつむがず、代わりに体の熱は反射で上昇し、耳が熱くなるのが分かったがどうしようもない。
「毎回ホント飽きもせずに、すんごい楽しそうにじゃれ合ってるもんね」
「じゃれてねえよ」
「そうでござるぞ佐助。兄上と政宗殿の手合わせはいつもまことに素晴らしいものでござる!」
 問題が一段落ついたのか、幸村までもが顔を上げて会話に割り込んできた。
 その目はきらきらと尊敬で輝いている。
 不毛な意地の張り合いからの喧嘩を、素晴らしい手合わせだとは、逆にこっちがばつが悪くなってしまいそうなほどの褒めっぷりだ。
「それがしももっと精進せねば!」
「じゃあその前にあと一問解いちゃってね、旦那」
 めらめらと燃えている幸村を軽くあしらって、佐助は次はこれと、教科書の問題を指で示した。
 ちなみに幸村が解いているのは化学の問題だった。
 むうと唸って、幸村は眉根を寄せる。
 何となくそのまま幸村が言葉を奪っていったおかげで、なし崩しに話は終わるかと思いきや。
「チカ兄のこと、好きなんでしょ?」
 ちろりと寄越される視線に、政宗は盛大に顔をしかめる。
 この人を見透かすような目が質が悪いというのだ。
 政宗は舌打ちをした。
 目を反らして、自棄のように言い放つ。
「…好きじゃなきゃ、このおれから婚約を申し込んだりするかよ」
「つなぎって言ってたくせに」
 ごまかすために言い放った理屈をきっちり覚えているあたりが、嫌味だ。
 それを軽い調子で唇に乗せるあたりも。
ぎろりと、政宗は横目で佐助を睨んだ。
「テメエ、意地が悪いぜ」
 佐助は飄々とありがとさんと礼を返した。
「そんな意地の悪いおれからのアドバイス。好きなら好きって素直に言った方がいいよ。チカ兄鈍感だから」
「言えたら苦労しねえんだよ」
「だろうねえ。あともう一個。もしかしてチカ兄、本当に昔政宗が遊びに来たこと覚えてなかったりするの?」
「…」
 目を反らしておきたかった事実をずばりと示されて、思わず政宗は口ごもった。
「政宗殿は昔この家に来たことがあるのでござるか?」
「…十年前にな」
「旦那が覚えてないのも無理ないと思うよ。おれたち小学校にあがったばっかの頃だったし。政宗だって一泊していっただけだったもんね?」
「ああ」
「ちゃんと聞いてみたらいいのに」
 さらりと続けられた佐助の言葉に、政宗は目を細めた。
「何をだよ?」
「昔会ったことあるってことをさ」
「言ってどうする」
 佐助は不可解そうに眉を寄せた。
「どうするも何も、チカ兄が覚えてないってのがあるから、素直になれないんじゃないの、アンタ」
「……」
「許嫁に会いに来たってこの部屋へ乗り込んできたのは、チカ兄も覚えてくれてると思ったから来たんでしょ?」
 佐助の記憶力と洞察力には恐れ入る。
 正しすぎて煩わしささえ覚えるほどだ。
 いつの間にかその場は神妙な空気に支配され、幸村までもが佐助の言葉に聞き入って政宗を伺っている。
 政宗は一度目を伏せて息を吐いた。
 おい、と幸村に顔を向ける。
「おれが十年前にこの家に来たこと、何か思い出したりしたか?」
 幸村は困ったように眉を寄せて、ちらりと隣の佐助を伺った。
 そして、申し訳なさそうに素直な答えを口にした。
「すまぬでござる。それがし、さっきから考えているのでござるが、思い出せませぬ」
「ああ、別にいい」
 その返答を政宗は予想していた。
 軽く佐助に肩をすくめて見せる。
 苦笑がふと唇に浮かんだ。
「言っておれとのことを思い出してくれりゃ、言いもするがな」
「何」
「言っても思い出してもらえなかったら、淋しいじゃねえか」
 元親に対しては絶対に唇に乗せられない、素直な、それは政宗の本心だった。
 既に一度、初対面だろうと言われてしまっているのだ。
 もう一度十年前のことについて問うてみる、なんてこと、簡単にできやしない。
 佐助の唇もふと緩んだ。
「そりゃ、確かに。淋しいね」
 言葉が途切れて、幸村がまたシャーペンを動かす音が耳に入る。
 ぼんやりとそのシャーペンが動く様を眺めていたら。
 どたどたどたと、廊下を走る音が聞こえ。
「政宗え!」
 話題のもう一人の当事者が、先ほどとは打ってかわった勝ち誇った笑顔で、廊下に仁王立ちになっていた。
「見ろ!この頁全部終わらせてやったぜ!」
「へえ?で、大過去の意味は分かったのか?」
あたぼうよ、と元親は胸を張る。
「時制の一致で、過去のさらにまた過去になるから、過去完了にするんだろ?」
「That,s right」
「おれが本気をだせばこんなもんよ!」
 ひとしきり得意そうに高笑いして、元親は居間に漂っていた静かな雰囲気に気づいたようだ。
「あれ?どうかしたのか?」
 戸惑ったような声に政宗は苦笑した。
「何でもねえよ」
 佐助も目を伏せて静かに唇で笑った。
 そしてさっきの会話などなかったかのように軽い声をかける。
「おつかれチカ兄。お茶飲む?」
「おう」
「旦那はどんな具合?」
「も、もうしばし待ってくれ佐助」
「あとカッコ一つだけじゃねえか。がんばれよ幸村!」
「無論でござる!」
 政宗の隣に腰を下ろした元親は上機嫌だ。
 本音を言えば、十年前のことを元親に問いたいと思う気持ちはあった。
 本当に欠片も覚えていないのか。
 一緒に遊んだことも、交わした約束も。
 わずかな欠片さえも、お前の中には残らなかったのか、と。
 けれど、決して聞けやしないことも、政宗は分かっていた。
 そこまで強くねえよ、と内心で自嘲する。
 幸村の申し訳なさそうな顔が、元親のものとすり替わる。
 覚えてない。やっぱり思い出せないと。
 悪い、だなんて。
謝る姿は見たくない。

***
 
「これで終わりか?」
「ああ」
 この日元親は政宗と共に、買い出しに来ていた。
 盆をひかえ、供え物やら何やらの買い出し担当をじゃんけんで決めたのが朝のこと。
 買い出しの主導権は元親が握っているので、政宗は荷物持ちだ。
 互いにスーパーの袋を両手にぶら下げて、じゃあ帰るかと帰途につく。
 昼食を食べてからでてきたので、居間は丁度おやつの時間だった。
 太陽が傾きかけた今が一番暑い時間だ。
 上はノースリーブ一枚の元親だったが、それでも暑いものは暑い。
 元親は隣を歩く政宗を横目で見た。
 政宗のほうは黒い半袖のシャツ。
 見ているだけで暑苦しいと思うのは、全身が黒で固められているからだろう。
 元親ほど正直な顔はしていなかったが、それでも熱さに辟易はしているらしい。
「なあ」
「An?」
「ちょっと休憩しねえ?」
 もう少しすれば公園がある。
 自販機もあるから、冷えた飲み物にはありつけるはずだと、そう提案すれば、政宗はそうだなと頷いて、唇を引き上げて続けた。
「おごこりか?」
「馬鹿言うな。自腹だっつんだよ!」
「分かってるよ。怒鳴るな、暑苦しい」
「テメエが怒鳴らせてんだろうが!」
 ぎゃーこら言い合うのにも体力はいるのだが、それでも反応してしまうことには、我ながら不思議に思っている元親なのだ。
 そのまま公園へと向かい、入り口の自販機で元親はサイダーを買った。
 政宗はレモン味のスポーツドリンクを買ったようだ。
 この暑さからか、公園にはあまり人はいない。
 最近の子供はクーラーのきいた部屋でゲームをしているのだろう。
 実際この暑さを考えれば、仕方ないとは思うが、暑かろうが寒かろうが道場で稽古に励み、たまの休みには友人や兄弟で走り回っていた元親からすれば、ちょっともったいない気がしなくもない。
 丁度日陰になっているベンチにどかりと腰をおろして、一気にサイダーを煽れば、体の内側が瞬間的に冷やされたような感覚になる。
「ぷはっっうめえ!」
「おっさんかよ」
「思わず言っちまうじゃねえか」
「まあそれも分かるけどな」
 元親はサイダーの缶を隣に向けた。
 向けられた政宗は怪訝そうな顔をする。
「何だよ?」
「サイダー一口やるから、そっちもくれ」
「…」
 二人違う味のものを飲んでいるのであれば、味見だってしたくなる、元親からすれば自然な取引だったのだが、政宗は瞬間ものすごく変な顔をした。
 苛立ちと戸惑いと遠慮がごちゃまぜになって、そこにちょっとの嬉しさを落としたような、つまり変な顔だ。
 政宗はしかし文句を言うわけでもなく、だまってスポーツドリンクのペットボトルを差し出してくれた。
 喜々としてぐびっと一口喉に流し込む。
 ソーダと違ってレモンの風味がついたそれは、口に優しく、けれどソーダほど甘みは残らない。
「あんがとよ」
 そう言ってペットボトルを返すが、政宗は元親の差し出したソーダは口にしていないようだ。
 飲まねえのと問いかければ、政宗は元親から視線を反らして、とてもとても嫌そうな顔をした。
 その顔に、もしやと元親はぴんときた。
「…炭酸飲めねえんだよ」
 顔を歪めながら、政宗は吐き捨てるように言ったが、どことなく恥ずかしそうに見えたのは、まあきっと陽炎が見せる幻だったのかもしれない。
 何故なら、そのあと炭酸に対する文句が延々と続いたからだ。
「だいたい炭酸なんてどこに飲む価値があるんだよ。しゅわしゅわしてるだけで喉が痛くなるし、後味は甘すぎて口に残る。歯が溶けそうだ」
「溶けるかよ」
 それでも炭酸が飲めなくて文句を言う政宗の様はどことなくおかしくて、元親は笑いながら、取り返したソーダを見せつけるように煽って見せた。
 政宗の悔しげな顔を見て、思わず声を出して笑えば、政宗は打ってかわって妙に冷静な様で、上機嫌にソーダを飲む元親の後頭部を遠慮の欠片もなく張り飛ばしてくれた。
「っ!何、しやがる!」
 気管に入った元親は涙目で抗議するが、政宗はしれっと、自業自得だと言い切ってくれた。
「大人げねえぞテメエ」
「アンタに言われたくないね」
 確かに、少しばかり調子にのったことは否めないので、元親は息を整えるだけにとどめて、それ以上文句は言わないことにした。
 黙ってソーダで涼を取っていると、時折気休めのように生ぬるい風が空気を動かした。
 蝉の大合唱のおかげで、耳からも暑さがすり込まれるような気になるが、不快ではない。
 日焼けに対して肌は弱かったが、元親自身は太陽の光も蝉の鳴き声もうるさい夏が好きなのだ。
 この蝉の声も、盆が過ぎれば違った趣に変わる。
 そう考えて、元親はベンチに背中を預けてそのまま頭を後ろに反らした。
 木陰の隙間から青い空と白い雲の断片が見える。
 何とはなしに呟いた。
ああ。
「母さんが死んでもう十年になるんだなあ」
 その声には悲しみも嘆きもなく、ただどこか諦め混じりの懐かしさがあった。
 呟いてから、政宗が黙ってこちらを見ていることに気づいて、元親は頭を起こした。
「お前には言ってなかったよな?」
「…ああ」
 僅かに挟まれた間に気づかずに、元親はだよなと頷いた。
「ウチのお袋、十年前に逝っちまったんだ。十年にもなるのかと考えたら、長いなあと思っちまってよ」
「そうか」
 政宗は短く言って、そのまま黙った。
 訪れたその沈黙は苦ではなく、元親は内心で小さく笑ってしまった。
 嫌味な言葉も小馬鹿にしたような笑みもない。
 政宗は元親と同じように、ベンチに背を預けて視線を前に向けていた。
 暑い中、小学生だろう、少年が四人、公園へと入ってきて、サッカーボールを蹴り始める。
 何とはなしにその様を眺めながら、この空気は楽だなと、元親は素直に認めた。
 適度な距離感。
「おれさあ、母さんが死んだときも、死んでからもずっと、泣けなかったんだよなあ」
「へえ?」
 どこか懐かしく、気が緩む。
 だから唇もゆるんで、とりとめもないことを紡いでいるのだろう。
「今から考えりゃ、何を一人で気勢を張ってたんだって思うけど、あの頃はおれがしっかりしなきゃいけないんだって、佐助や幸村たちを守っていかなきゃいけないんだって、毎日張りつめてたんだ。泣いたって心配かけるだけだから、どうにでもして笑っとかなきゃいけねえって思ってたのさ」
 元親は小さく笑った。
 我ながら肩肘張って頑張ってたガキだなあと思ったのだ。
「そしたら、笑うなって、手ひどく説教されたんだよ。どんくらい経った頃にだとか、その説教してくれた相手がだれだったのかも覚えてねえんだけどよ」
 その強い言葉だけは胸に刻まれて残っている。
 何故なら、その声はどこまでも純粋に、元親のことを案じていたからだ。案じて、だからこそ憤っていたのが分かったからだ。
 元親は目を伏せた。
 守ってやると、怒鳴るようにして紡がれた言葉。
「びっくりしてさ、でもよ、なんか肩の力がぬけて、馬鹿みたいに大泣きしちまったんだよなあ」
 よくよく考えてみれば、いつも低次元な言い争いをしている相手に、大泣きしたという過去を話してしまっているわけだが、政宗はそのことについて余計な揶揄などで口を挟まなかった。
ただ黙ったまま、静かに元親の横顔を見ていた。
根が悪い奴ではない男だということを、元親は認めていたし、信用してもいた。だからこそ、何も言われないのをいいことに、口を閉じもせず話し続けているのだろう。
「あの日、初めて、おれは母さんが死んでから泣けたんだ。泣いて泣いて、泣きながら、世界にはおれだけじゃないってことが分かったんだ。おれにはまだ親父もいるし、弟たちだっている。おれの腕だけで守れるほど世界は小さくないし、守る必要だってないんだ。一人で立ってる必要なんかなくて、一緒に手え取り合って、泣いて笑って立ち上がりゃいいんだって。それからだな、いい意味で周りに甘えられるようになったのは」
元親は照れを紛らわせるように笑ってみせた。
「まあ、感謝してて、その人のことを思い出せねえっていってんじゃ、世話ねえんだけどよ」
 実際、らしくない話をしていると自分でも思ったのだ。
「その出会いは」
「ん?」
 顔を横に向ければ、政宗は顔を伏せていて、どんな表情をしているのか元親には分からなかった。
 唇が微かに震えているように見えて、元親はどうしたのだろうかと疑問に思った。
「その出会いは、アンタにとって無駄じゃなかったんだな」
「当たり前だろうが!」
 元親は頬を緩めて声を強めた。
「でなきゃ強くなりたいとも思わなかったし、道場を継ごうとも思わなかったぜおれは」
「そうか…」
 顔を上げた政宗は微笑した。
 その微笑が何故か、何故か元親には泣き笑いにみえて。
 瞬間元親はどうしていいのか分からなくなった。
 まずどきりとした。
 でも政宗のそんな表情を見たのが初めてだったのだから、驚いた故のどきりだろうと思った。
 次いで体を流れる血液の熱さを意識した。
 でもそれは今が真夏で、しかも日差しが一番きつい時刻だからだと思った。
 落ち着かないのは、柄でもない昔話をしたからだ。
 そう断じて、元親は政宗の視線から逃れるように顔を前へ向けた。
 どことなく先ほどに比べて暗くなった空。
 四人の子供たちが遊んでいる。
 ふと、何かが頭の端でちかりと点滅したような錯覚を覚えた。
 けれど何にひっかかりを覚えているのかも分からずに、元親はただ困惑し、ついで政宗の声に意識を引き戻された。
「元親」
「んー?」
 照れくさい気持ちもまだあったが、顔をもう一度横に向けると、切実さを含んだ真剣な顔がそこにあった。
 らしくもなく、政宗は落ち着かないように瞬きをし、唇を開けてはまた閉じた。
「何だよ?」
「…十年前、お」
 政宗の声をかき消すように、空からごろごろといううねり声が聞こた。
 言葉を遮られた政宗が、ぎくりと顔を強ばらせたが、元親の意識は空に向いた。
続いてどこかでぴかりと閃光が瞬く。
 元親はその光につられるようにして顔を上向けた。
 暗くなったと思っていたら、これは夕立だなと内心で納得し、周りの空も見渡してみる。
 東の方は夏晴れのまま。
「あ〜こりゃ降るな」
 発達した積乱雲の影を見ながら、しかしこれなら降ってもすぐにやむだろうとあたりをつけて、さっさと家に帰らなければと顔を戻せば。
「あ?」
 そこに居るべきはずの政宗の姿がなかった。
「政宗?」
それはもう見事に、まるで初めからその存在などなかったかのような消えっぷりだった。
思わず元親は、忍者かアイツは、と呆れ混じりに呟いてしまったほどだ。
 ベンチの上に置かれたスポーツ飲料のペットボトルだけが、政宗が先ほどまでそこにいたことを示してくれていた。
「どこ行ったんだよ?…さては雷が怖くて先に帰ったな?」
 政宗が聞けばどこの小学生だと怒鳴ったかもしれないが、今いない人間に反論する資格なんぞなかった。
 とりあえず自分も帰らなければと腰を浮かして、元親は盛大に舌打ちした。
 あんにゃろうと、内心で毒づいた元親の顔には凶相が浮かんでいる。
「荷物、全部置いていきやがった…!」

***

 間一髪だった。
 雨に濡れた黒豚は、武田家の玄関でぶるぶると体を震わせて水気を飛ばした。
 いや、正確に言えば、間一髪、元親の前で黒子豚になるという最悪の事態は免れたが、それ以外は間に合わなかった。
 つまり、雨に降られる前に家に帰るということがだ。
 これからは外出するときは折りたたみ傘が必須だなと、政宗は二度夕立に降られて諦めた。
 そうこうしているうちに、荷物を抱えて元親が走り込んできた。
 元々子豚と元親では足のリーチに差がありすぎる。
 荷物が濡れるのを最小限に抑えるためか、全力疾走してきたらしい元親はぜえはあと息を荒げていた。
「あんの野郎、何のために二人で買い出しに出たと思ってやがんだ…!」
 そこでようやく、そういえば荷物も置きっぱなしで逃げ出してきたのだということに思いたった政宗だった。
 悪いことをしたと思いながらも、仕方なかったんだと内心で弁明。
 息を整える元親を見上げていると、元親は下からの視線に気づいたようだ。
「ってあれ、まーくんじゃねえか!」
「ぴ」
 元親の上気した頬が綻ぶ。
「ったくよー、あれから心配したんだぜ?風呂が嫌いなら、無理に入れたりしねえからよ」
「ぷぎ」
 荷物を横に置いて、元親はわざわざ政宗と視線を合わせるようにその場にしゃがみこんだ。
 頭をわしわしと撫でる手のひらが温かくて、政宗の小さな胸はじーんとした。
「お前も濡れてるから、まずその体ふかなきゃな!暖かい牛乳も入れてやるからな〜」
 左腕で政宗を抱えあげた元親は、右手で扉を開けてから、右腕一本で重い荷物を持ち上げた。
 その逞しい腕に、思わずため息をついてうっとりとしてしまった政宗だ。
 胸がきゅんとときめいてしまう。
 台所に買い物袋を置きにいった元親は、廊下でばったりと佐助に出くわした。
 政宗の呪いを承知している佐助は、瞬間目を見開いて政宗を見た。
 政宗は、ぷひと鳴いた。
「チカ兄、何それ?」
「前に言ったことあるだろ?迷子の子豚を拾ったんだけど、いなくなっちまったって。それがこいつ、まーくんだ!」
「まーくん?」
「そ。眼帯してるとことか、目つき悪いとことかが政宗に似てるだろ?」
 喜々として元親は政宗を紹介してくれる。
「確かにねえ」
 佐助は、奇妙に口元を歪めて頷いた。
 吹き出すのをこらえているのだろう。
 目が笑ってこちらを見ていたが、文句もつけられず政宗は眉を寄せるだけにとどめた。
「そうだ、おれ着替えてくるからよ、こいつ用に牛乳あっためてやっといてくれねえか?」
「はいよ」
「よし、頼んだぜ〜」
 そうして政宗は元親の部屋へと連れて行かれた。
 数分後。
 元親の腕に抱かれて台所に下りてきた政宗は、佐助が用意してくれた温かい牛乳にありついていた。
 そして、その温かさと丸い味に、目の奥がじわりと滲んだ。
 横で政宗が牛乳にありついているのをにこにこと眺めていた元親が、あれ、と焦った声を出す。
「どうしたんだ、まーくん?!」
「…ぷぎ」
 どうやら子豚という生き物は人と比べて涙腺が弱いらしい。
 目の幅サイズで涙を流しながら、政宗は牛乳を飲んだ。
 温かい飲み物と元親の優しさに触れて、気が緩んだのだろう。
思い返したのが、雨がふる直前のこと。
 十年前のことを、元親は覚えていてくれたのだ。
 相手が政宗だったということは忘れていても、出会ったその記憶は抱いてくれていた。
 しかも、その出会いを大事なものだったと、そう言ってくれた。
 とても嬉しかった。
 その相手はおれなのだと。
 十年前に遊びに来ていたおれとの思い出なんだと。
 そう、告白しようと思ったのに…!
 鳴り響いた雷。
 暗くなった空。
 結局自分はまた、貴重なタイミングを逃したのだ。
 そう、佐助が言うところの、『素直になる』タイミングをだ。
 せっかくの機会だったのに。
 どちらも意地を張らず、素直に向き合っていた。
 いい雰囲気だったのだ。
 それが。
 夕立ごときに邪魔をされ、あげく自分は逃げ帰るしかなかったという事実に、悔しさとむなしさで涙がでる。
 器から顔を上げた政宗を、慌てた様子で元親は抱き上げた。
 目元を親指で拭いながら、元親は何とか政宗を宥めようとしてくれたのだろう。
「ほらほら泣くな」
 元親は政宗の頭をよしよしと撫で。
そのまま、鼻にキスをくれた。
「あ…」
 これは見守っていた佐助の唇からこぼれた声。
 政宗の涙は一度ぴたりととまった。
 驚きで。
「な?」
 小首を傾げる元親と視線を合わせて、政宗は瞬いた。
 瞬いた瞬間、また一気に涙があふれ出た。
「ぷぎ〜〜!」
 先ほどとは違う意味で、すごい勢いの涙の量だ。
「お、おい!」
 元親は驚いておろおろとしている。
 けれど政宗の涙は止まらない。
 元親に、今、自分は、キスをされた。
 キスをされたのだ。
 好きな人からのファーストキスである。
 それが。
 よりにもよって、自分が子豚の時に!
 そりゃ嬉しい。
 嬉しいけれど!
 鼻をすすらずにはいられない。
思い出されるのは先ほどの数分間。
 初めて元親の部屋へ入ったこと。
 優しく体をふいてもらったこと。
 またもや、元親の生着替えを拝んでしまったこと。
 元親の全開の笑顔。
子豚のまーくんでいるときは元親は優しいし、よく笑いかけてくれる。
元親の部屋、元親のベットの上に座らされていたときは、子豚の生活もそう案外悪いもんでもないなと、確かに不純な気持ちをちらっと抱いたりもしたけれども!

やはりこの待遇はあんまりじゃねえか?!

自分が人間の政宗であったなら、絶対に得ることができない数々の幸福。
子豚だからこそ与えられるそれを自覚はしているが、やはり釈然としないというか寂しいというか。
せめてファーストキスくらい、人間のときに交わしたかった、と。
思い描いている理想と、ちぐはぐに与えられる喜ばしくけれどずれた現実に、政宗は男泣きに泣いた。
「ああ、ほら泣くなよ〜。…って、佐助?」
 すぴすぴと鼻を鳴らして泣く政宗と、よしよしとそんな子豚を腕に抱きながら宥める元親。
 そして、それを横で眺める佐助。
 元親はふと前にいる佐助を見やった。
「んー?」
「何でお前まで泣いてんの?」
 佐助は口元を手のひらで覆って頭を振った。
「気にしないで。まーくんと同じく、男泣きだから」
 その声には過分に同情の色が濃く。
「??」
 訳が分からないと首を傾げる元親の腕の中で、ますます涙がこぼれた政宗だった。

天が邪魔をする

 もしかしなくても自分は運が悪いんじゃないか、いや悪いに違いないと、最近の政宗は己の身に降りかかる事象に関して、幾分被害妄想的に考えていた。
 しかし実際、事柄を並べていけば、聞いた人間の半数以上は、君は運が悪いと同意し、肩を叩いてくれただろう。
 佐助に至っては、政宗と同じく男泣きまでしてくれた。
「…おれ、基本的にはチカ兄の見方だけどさ、まーくんの見方でもあるからね」
 頑張ってよ、とあの男は、政宗が子豚のまーくんとして元親に抱きかかえられているときに頭を撫でながらそう言った。
 訳が分からない元親はきょとんとしていた。
 政宗に降りかかっているここ最近の不運。
 その皮切りは、中国に飛び立ったことからある。
 伝説と名高い呪泉郷という修行場に旅立ったことが全ての始まりだ。
 その池に落ちたことが不運の始まりだと思っていたが、実はもっと前にさかのぼれるのではないか。
 そもそも何故自分は、あんなとんでもない修行場なんぞに行こうと思ったのだ?
 ぶつぶつとこぼしていたのを聞き止めたのだろう、そのある意味根本的な問いには、政宗の忠実な付き人である小十郎が答えてくれた。
 バケツで雑巾の水を固く絞りながら冷静な一言。
「お父上のお手紙からですな」
 修行と称して世界を飛び回っていた政宗だが、定期的に実家へ連絡はつけていた。
 父親も忙しい人間だから、電話ではなく手紙という古風な手段でだ。
 長期滞在しているときに、父親からの返信が届くこともたびたびあった。
 そう、たぶんそれは、次はどこへ修行に行こうかと考え始めていた時期だった。
 もうすぐ記念すべき十七の誕生日も近いから、日本から近いところがいいと漠然と考えていた時に届いた返信。
 腐っても元々は無差別格闘流を収めた男である父には、格闘家などの人脈も広い。
 だからこそ、政宗は幼いながらも世界に飛び出し、修行の旅を続けて来れたというところもあった。
 父親からの手紙の最後に追伸として記されていた修行場の情報。
 父曰く、『中国の呪泉郷という修行場は、とにかくすごいらしい。あまりのすごさに伝説になっていると聞いた。言ってその伝説のほどを見てきたらどうだ?』
 父は結構な旅行好きで、今でこそ伊達グループのトップの椅子に大人しく座っているが、若い頃は今の政宗のように修行と称して世界を気ままに旅していたらしい。
 もうすぐ日本に帰ることになるし、そこなら父親への土産話にもなるか、と珍しく郷愁じみた殊勝な気持ちが後押しして、政宗は最後の修行場をその呪泉郷に決めたのだ。
 政宗は廊下を踏みしめるその足を止めて、右手で思わず雑巾を握りしめた。
 眉間には皺が刻まれ、ぎりぎりと歯を噛むのと連動して、雑巾を握る手にもぎりぎりと力がこもる。
 政宗と小十郎は、この日は廊下の掃除当番だったのだ。
 武田家では掃除は当番制だ。
 本日はお日柄もよく、いささか気温は高すぎるきらいがあったが、掃除日和。
 政宗ら居候コンビがあてがわれたのは、廊下の雑巾がけだった。
 ちなみに元親と幸村の武田長男三男コンビは、道場の掃除に精をだしているし、次男の佐助は、我が城である台所だ。
 掃除当番はその時々によりくじで決めているが、佐助が台所以外をあてがわれることはない。以前幸村が台所を掃除して以来、佐助は他の人間に台所をいじらせることを譲らなくなったのだと聞いたが、何とはなしに想像がついた政宗だった。
「I know.そうだよ、元はあのクソ親父の手紙が発端なんだよなあ…」
 そこで目を見開いて、政宗はこみ上げてきた刹那的な熱い衝動を、手っ取り早く右手に持っていた雑巾にぶつけることにした。
「あんの親父!また分かっててあそこのとんでもない伝説を黙ってたんじゃねえだろうな?!」
「それは…」
 ありませんでしょう、と本来ならば続いたであろう否定の言葉はしかし、小十郎の口からは続かなかった。
 代わりに何とも言えない沈黙があった。
 武田の第一子が長男であることを知っていて、長女だと思っていた政宗の誤解を解かなかった父親である。政宗が思わず全責任を父親に押しつけて絶叫したくなるのも、まあある意味仕方ない部分もあった。
 それでも、言いがかりだというレベルの政宗の絶叫ではある。
 早い話が。
「Shit!やってられっか!」
 ストレスをためていたのである。
 ここのところ政宗はことごとくツキに見放されているのだった。
 十年前のことを元親が覚えていてくれていると知ったときから、政宗はその思い出の相手は自分なのだと、そう告白しようと努力していた。
 だというのに。
 いざ意を決して告白しようとするたびに。
 水気の危機にさらされるのである。
 突然の夕立。
 それだけでなく、ホースで水をかけられそうになったり、冷えた麦茶をぶっかけられそうになったり。
 人災的な原因の八割は、武田家の三男である。
 今日も朝からすでに、打ち水を掛けられて一度子豚になってしまった政宗だ
 珍しく感情的に吠えて、政宗は雑巾を廊下にたたき付けた。
「政宗様、落ち着いてください」
「Shut up!」
「雑巾がけは大事なお役目ですぞ!」
「…Ah,違うだろ」
 見当違いな返答に、思わず気勢は衰える。
 これが政宗を落ち着かせるためにわざと言ったのだとすれば、それはそれで頼れる男だと思うのだが、生憎こと家事に関しての小十郎の言葉は全て本気だった。
 つまり、今も小十郎の意識の大半を占めているのは廊下の雑巾がけという事項なのだ。
 政宗の気炎の意味も分かっていないのではないだろうかと思えば、一人で煮立っているのも何だかむなしく思えてくる。
「な〜に、絶叫してやがんだ、テメエは」
 背後から呆れた声を掛けられて、政宗は振り返った。
 そこには、ある意味政宗のストレスの最大の原因になっている元親がいた。
 掃除が一段落ついたのだろうか。
 政宗は眉根を寄せた半眼で元親を睨め付けた。
 佐助などが見たなら、君子危うきに近づかずとばかりに放っておくような、見事な凶悪面だった。
「うっせえよ」
 その低い声色に、元親の眉がぴくりと反応を示す。
 廊下にたたき付けた雑巾をそのままに、ふいと元親から目線を外した。
 このまま顔を合わせていると、十中八九よろしくない事態になるという自覚からだった。
 今の自分が、言わなくていいこと限定で、普段より三割り増しで口は滑らかに動くことが分かっていたからだ。
 別に政宗は元親と喧嘩をしたいわけではない。
 むしろ冷静に話し合いたい。
 ついでに言えば、感動的な告白から甘い雰囲気にまで持ち込みたい。
だというのに。
「雑巾がけで駄々こねてるとか、ガキかてめえは?」
「んなことで叫ぶかよ!」
「んじゃ何だっつんだよ?」
 政宗の眉間の皺はますますと深くなる。
 元親は半眼で政宗を見返している。
 その呆れが含んだ視線に、政宗の普段より更に弱くなった理性の糸は、音を立てて引き絞られていく。
「ほら、何を吠えてたのか言ってみろや」
「っっ……」
 政宗はぎりぎりと歯を食いしばった。
 その様はまるで檻に入れられた猛獣のようだったが、脅えてくれるような元親ではない。
 別に喧嘩をしたいわけではないのに。
 手を軽くふって聞き流せるような己でもない。
 それを知っているだろうに、何故こいつはいつもいつも律儀につっかかってくるのか!
「言えねえんじゃ、ホントに駄々こねてるだけってことだろうが」
 分かっていない。
 この男は欠片も政宗の置かれている切羽詰まった状況を分かってくれない。
 言えるものなら…。
 そう、言えるものならば、自分はとっくの昔に近所に響くほどの大声で叫んでいる。

 このふざけた呪いをどうにかしてくれ。
真綿で首を絞めるようにじりじりと理性を摩耗させられるのは限界だ、と。

 しかし言えない。
それだけは言えないのだ。
己が抱えた秘密を知られるのが嫌なのだと、勝手に逃げ回っているのを棚にあげていることは、頭の隅で自覚していたけれど、どうしようもなかった。
それほどに、追いつめられていたのだともいえる。
このとき政宗に残された路は二つあった。
真正面から立ち向かうこと。
つまり、ここでぶち切れて、すべてをぶちまけてしまうこと。
 もう一つは。
「……」
 政宗は噛みしめた歯の隙間から、ゆっくりと呼気を吐き出して。
 そのまま、ふいと元親に背を向けた。
「…って、おい!政宗!」
 結局、テメエは逃げることしか選べやしないのかと。
 内心で自嘲し吐き捨て、政宗はその場を後にした。

***

 ふいと向けられた背中に、元親は思わず戸惑った。
ここは逃げる場面じゃないだろう。
 そう、普通なら、いつもの自分たちなら、馬鹿みたいな低次元の意地の張り合いにもつれ込む場面のはずだ。
 それが、対戦者は一人でさっさとリングを下りていきやがった。
 残された自分一人が、馬鹿みたいに思えて。
 置いていかれたような寂しさを一瞬でも感じてしまった自分を、元親は首をふることで忘れようとした。
 喧嘩しなかったからという理由で寂しがるなどおかしい話だ。
 首をふって、元親は隣で雑巾を持ったままの小十郎に話を向けた。
「なあ小十郎さん」
「はい」
「アイツ、何を苛々してやがんだ?」
 そう、最近の政宗は変なのだ。
 今みたいに、ふいと戦線離脱するかと思えば、時折こちらがたじろぐほどに真剣な目で見てきたりする。
 狂おしいとも言える、切なげな目に当てられれば、身動きが取れなくなり、それはけれど、どうしてか突然逃げるようにして政宗が去ったことにより呪縛が解ける、そんな有様。
 おかしいのは政宗であって、あくまで自分はそれに戸惑っているだけだと。
 元親は己が体を固まらせている理由にこじつけている。
「ご心配ありがとうございます」
「いや、うん」
 そう、元親は心配しているのだ。
 ただそれは同居人に対する最低限の心配で、それ以上でもそれ以下でもないのだということを、何故か念を押したい気分になる。
 政宗もおかしいが、自分の状態も大概だということについては、元親は都合よく見て見ぬふりをしていた。
 小十郎は少し唇を緩めて苦笑した。
 政宗が去っていったほうを視線で追って。
「まあ、何と言いますか」
「おう」
「思春期なのです」
「…はあ」
 そりゃまあ、十七才なんて思春期真っ盛りな年頃だろうが。
 答えになっているのかなっていないのか、分からない返答に、元親は思わず気の抜けたうなずきを返すことしかできなかった。
 放って置いてくださって結構ですよ、と小十郎はあっさりと言ったが、このまま放って置くのも何とはなしに落ち着かないと、結局元親は政宗の後を追った。
 ぐるりと屋敷を囲うようにつけられている縁側を歩いていけば、道場との渡り廊下、その手すりに背中を預けて、ぼんやりと空に視線をやっている政宗を見つけた。
 その姿を視界に収めてふと、元親は今さらながら、この男の容姿が酷く整っていることに気がついた。
 本当に今さらな話だったが、そのどこか憂いを秘めた横顔に、一瞬意識を攫われる。
 その事実を認めたとき、元親は今自分がどうしてここにいるのか分からなくなった。

 何故自分は政宗を追いかけてきたのだろう?

「…わざわざ駄々っこを宥めに来てくれたのかい?」
 横目で寄越された視線はどこか冷ややかで、そのねっとりとした嫌味に、元親は思わず眉を跳ね上げた。
気が立っているのだろうかと思いながらも、思わずむっとしてしまって。
様子を尋ねようとしていた唇は、開けば別の言葉をつむぎ出す。
「分かってんなら手間アかけさすんじゃねえよ、クソガキ」
素直になれないのはお互い様だ。
「掃除は終わったのかよ?」
「後は小十郎がやるだろ」
「テメエってやつはあてがわれたものをテメエでこなそうっていう責任感もないのか」
「たかだか廊下の雑巾がけぐらいで一々目くじらたてんな。鬱陶しい」
 さらりと返された言葉は、いつにもまして毒気が強く。
 元親は反射で拳を握った。
素直に尋ねることも出来ない自分も自分だが、この男の態度も悪い。
 そう質の悪い開き直り方をしながらも、やっぱり何だか様子がおかしいと思ったのは確かなので。
 開けば反射でこぼれるであろう罵声を押さえ込み、元親は一度息を吸った。
 拳から力を逃がす。
 二秒数えて唇を開いた。
「…お前、どうかしたのか?」
「……」
 反対に、政宗はぴたりとその唇を閉じた。
 嫌味な笑みを刻み弧を描いていた唇から一切の表情が消える。
「最近、何か変じゃねえ?」
「どこが?」
 短く返された声はまるで歌うように軽やかで、この場の空気には不似合いだ。
けれど、元親は言葉に詰まった。
 どこが変なのか具体的に言え、と言われば困ってしまう。
 元親は瞬いて、唇の内側を軽く噛んだ。
 こんなのは違うだろ、とそう思う。
 何となく居心地が悪い。
 ただ二人、意地を張って素直になれないだけなんていう、馬鹿馬鹿しくもけれど分かりやすい。
 それが自分たちの常だったはずなのに、今ここにいる政宗は元親が知らぬ顔をしている。
 だからか、と唐突にこの居心地の悪い空気の理由を得て、元親は妙に納得した。
 この半月で元親の生活に無理矢理飛び込んできて、馴染んでしまった政宗という男。
 人を喰ったかのような嫌味な言葉、そのトーン。
 閃く瞳。
 拗ねたような口元。
 反射で跳ね上がった眉、分かりやすい意地を燃やした目。
 嬉しそうに頬を緩めた表情。
 声を上げて笑う、その空気。
 ああ、と元親は内心で吐息をこぼした。

 冷えていると思っていたその黒い瞳が、押し殺した熱情を秘めているということに、元親は気づいた。
 けれど、その唇は元親を拒絶するかのように何の色も刻まず。
 夏だというのに、霧雨のように政宗を包む凍てついた気配は元親の肌を刺した。
 
 こんな顔は知らない。
 
 何故自分は今、胸が痛いだなんて思ってしまうのだろうか?
 元親は政宗から視線を反らした。
 無自覚に眉が寄せられる。
「…なあ、おれに怒ってるのか?」
 政宗は驚いたように目を見開いた。
 それだけの変化で、二人の間に横たわっていた冷えた空気が変化する。
「アンタ、何言ってんだ?」
 暗い炎を閉じこめたような瞳は戸惑ったように揺れ。一切の表情を消していた唇が緩む。
「Hey元親、お前こそ、どうしたんだよ?」
 その声が本気で心配しているのが分かって、元親ははっとした。
 確かに、自分でも何を言っているのだと思ったからだ。
 伺う視線に当てられて元親は瞬間戸惑ったように視線を彷徨わせたが、すぐに、ぎろりと政宗を真っ向から睨み付けた。
「っつうか、そりゃおれの台詞だろうが!」
「An?」
 ごまかすように声を上げれば、今度は実際、徐々に怒りがこみ上げてきた元親だ。
「お前こそ最近なんか様子が妙だから、どうしたんだよってわざわざ心配して聞きにきてやってるっつうのに!一人で勝手に煮詰まりやがって。何一丁前に浸ってやがんだよ。何が気に入らないのかしらねえけどなあ、おれに何か意見があるならはっきり言えや!人に心配させといて八つ当たりみたいな絡み方してんじゃねえぞコラア!」
 顔を上気させながら一気にまくし立てれば、政宗は口をぽかんと開けて唖然とした。
 次いで、二度瞬きをして眉を寄せた。
 反射的な怒りがその瞳をかすめ。
 けれど怒りはすぐさま霧散し。
政宗は戸惑ったように眉を寄せた。
「…心配、したのか」
 そしてどこか泣きそうな色をたたえた瞳で、政宗はかすかに笑った。
 元親は唇をへの字に曲げた。
「うるせえ。心配したら悪いか!」
 そんな表情をされると、こっちまで胸がじわりと痛むだとか、よそよそしく背を向けられるとたまらなく寂しい気持ちになるだとか。
 どうして、だなんて。そんなのはこっちが聞きたい。
 ただ調子が狂う、乱される、気になってしまう。
 それだけだ。
 元親は口元に力を込めて顔を伏せた。
「おれを心配して追っかけてきたのか?」
「…」
「わざわざ理由を聞くために?」
「……」
 政宗の手が頬に触れた。
 瞬間、己の体が射すくめられたかのように震えるのが分かった。
 何だこれは、と元親は自問した。
 何故いきなり自分の心臓はフルマラソンでもしたかのように駆けているのだ。
 何故体中の血が音を立てて流れているのを自覚できる。
 何故息を止めている?
 このままじゃあ酸欠で倒れてしまうじゃねえか!
 元親はどうにか唇をかすかに開いて呼吸した。
 よかった、まだ呼吸の仕方は忘れていない。
 けれどこれは異常事態だ。
 何が異常か分からない辺りが、一番の問題だ。
 異常なのは元親の頬に手を延べた政宗か、それとも身動きもとれない自分自身か。
 元親は己がかつてないほどに混乱していることにも気づかなかった。
 のぞき込むようにして合わせられる目。
 その近い距離に、動悸は更に加速する。
 元親の制御を離れた体は役立たずなガラクタになったかのよう。
 思考もいつの間にか強制終了させられている。
 気が遠のくのは気のせいか。
 目眩がするのも気のせいか。
何も考えられなくなる。
 囁くような吐息が空気を震わせるのを感じた。
「なあ、何とか言えよ、元親」
 合わさった黒い瞳を見つめながら、まるでどこかに吸い込まれていくようだと思った。

***

 これで道場の掃除終了だ、と幸村は雑巾をバケツの中につけて、ふうと額を拭った。
 先ほどトイレにたった兄の元親はまだ戻ってこない。
 トイレにしては長すぎる時間が経つから、佐助と話しているか、もしくはまた突然、政宗と手合わせをしているのかもしれなかった。
 低レベルな会話など聞かず、その高度な技量に目を奪われている幸村ならではのとらえ方だった。
 そう、あの二人はよく手合わせをしている。
 思い返せば、結構な頻度だ。
 いつだったか、四人で宿題をやっているときも、途中から年上二人は口での言い合いを皮切りにして、あわや互いに手が出るか、というところまでいった。
 手合わせが何故未遂になったかというと、佐助が間に入ったからだ。
 そのあと、元親は怒ったように今を出て行き、政宗だけがその場に残った。
 そこでなされた会話。

『政宗って、よっぽどチカ兄が好きなんだね』

『でなきゃおれが自分から婚約してえなんて言い出すかよ』

 その会話に、とっさに思考が止まった幸村のことを二人は知らないだろう。
 そう、そういえば己の敬愛する兄と政宗は、『許嫁』なのである。
 普段そんなことは欠片も意識したことなかったので、突如として思考の全面に出てきた『許嫁』という言葉に幸村は戸惑った。
 そもそも、許嫁というものがどういうものなのか、幸村はいまいちよく分からない。

 互いに好きあっている二人が、結婚を約束すること。

 許嫁とはそういう意味のものだと漠然とらえているが、すぐ側にある『許嫁』の二人とはどうも違う気がするのだ。
 佐助は政宗が元親を好きだと言う。
 政宗も、あれはたぶん、元親を好きということを認めているのだろう。
 片一方の意志は確認できた。
 許嫁のそのもう片方。

では元親のほうはどうなのだろう?

そんなことを思った幸村は、明くる日に、直接元親に尋ねてみたのだ。
ここで本人に突撃できるあたりが、幸村の幸村たる由縁である。
もちろん、政宗も佐助もいない、兄弟水入らずの時にではあったが。
幸村の質問は直球だった。
「兄上は将来、政宗殿と結婚するのでござるか?」
「なっ?!」
 元親は目をこれでもかというほどに見開いて、珍しく狼狽した様子を見せた。
「許嫁であるならば、結婚するのでござろう?」
「…な、何だよいきなり?」
「結婚したら兄上はこの家を出て行ってしまうのでござるか?」
つまり、幸村が気になったのはその一点なのだった。
 たたみ掛けるようにして問えば、元親は瞬きしたあと、肩から力を抜いて笑った。
「出ていかねえよ」
 その一言に、幸村はほっと息をついた。
 その様をみて、元親は唇をゆるめて、幸村の顔をのぞき込んだ。
「おれが出て行くの嫌なのか?」
「嫌でござる!」
 握り拳で反射的に口から飛び出した本心。
 幸村は、この兄をとてもとても敬愛していた。
 大好きだ。
 なので、たとえ『許嫁』であろうが結するのであろうが、今一緒にいるこの時間がなくなるのは嫌だった。
 元親は幸村のとても力強い返答に、瞬間びっくりしたようだった。
 しばしの沈黙。
 その沈黙のあと、元親はそうかそうかと頷いた。
「…ほんと、お前は可愛いな幸村!」
 ぎゅっと、頭を抱き込まれて、さすがの幸村も気恥ずかしくなった。
「あ、あああ兄上?!」
 ぎゅうぎゅうと抱きしめて、頭にほおずりまでしてくれる。
「あーこんな可愛い弟に恵まれて、おれは幸せもんだぜ!」
 容赦なく締めあげる腕は、結構苦しかったが、それでもどこか甘い幸せがあったので、幸村は気恥ずかしさに顔を赤く染めながらも、兄の愛情表現をありがたく受け止めていた。
 そこへかけられた底冷えのする声。
「…お前ら、何やってんだ?」
「お、政宗、佐助」
 少し緩められた腕の中で、首を横に向ければ、視界の端には兄の許嫁と、同い年の兄がいた。
 佐助は、麗しい兄弟愛だねえ、とにこにこと笑っていたが、もう一人。
 政宗は、こめかみを痙攣させ、唇を引きつった弧に描いていた。
「何って、可愛い弟を可愛がってんだよ」
「見りゃ分かる」
「じゃあ聞くな」
 どこかでぷつりという音が聞こえた気がしたが、気のせいだろう。
「高2にもなって、何が可愛いがってるだ!気色悪いんだよ!」
 その言葉には幸村も思わずむっとしたが、それ以上に気に触ったらしいのが元親だった。
 横で佐助が、羨ましいの間違いでしょと茶々を入れたが、すぐさまshut up!と政宗に怒鳴られていた。
「可愛い弟に愛情を表して何が悪いんだよ!弟を可愛がるのなんか兄の特権だろ?!」
「それを言うなら弟をイビルのは兄の特権っていうんだよ!」
「誰がイビルか!人聞きの悪いこと言うんじゃねえ!」
 そこからまた言い争いが始まり、佐助と幸村の存在など忘れたかのように高度な手合わせが始まったのだ。
 隣に避難した佐助が、幸村に言った。
「弟にまで嫉妬しちゃって、可愛いねホント」
「?政宗殿が、でござるか?」
「そ。おれらの未来のオニイチャン候補」
 その未来の義兄候補は、元親の蹴りを見事に交わしていた。
 見事な身のキレだった。
 政宗は元親と試合って、勝った男なのだ。
 幸村は政宗のことを素直に認めていたし、尊敬もしていた。
しかし、政宗には重大な秘密があった。
 その秘密のことを思い返して、幸村はバケツを持った。
それが、水をかぶったら子豚になるという呪いだ。
 ちっちゃな手のひらサイズの黒子豚に、ぷぎーと怒鳴られたときは、そりゃあもう驚いたものだ。
 今日も朝からその呪いっぷりを目の当たりにした幸村だ。
 ちょど日差しがきつくなる昼前のこと。
 幸村は敬愛する父、信玄とともに、玄関に打ち水をしていた。
 初めは静かにひしゃくで水をまいていたのだが、信玄と幸村の組み合わせではそれも初めだけの話だった。
「ゆきむらああああ!」
「うおおおおおお館さまあああああ!!」
 近所ではお馴染みの声の掛け合いから、ヒートアップ。
 路に撒く水の勢いも増し。
「政宗様!」
 丁度買い物から帰ってきた居候コンビに、信玄がまいた水がばしゃりと命中。
 気がついた小十郎が政宗をとっさにかばって、子豚の代わりに現れたパンダ。
 佐助から聞いてはいたが、初めて見た小十郎パンダである。
 驚いた幸村の手元が少し狂い。
「あ」
 小十郎にかばわれ、政宗自身も避けたその先に。
 まことにドンぴしゃ。
 視界に映っていた政宗の姿が消え、つられるようにして目線を下げたところに。
 体を震わせて水気を飛ばした黒子豚。
 下から見つめてくる視線は厳しい。
 そこへ、がらりと後ろの扉がひらき、元親がひょこりと顔を覗かせた。
 玄関先にずーんと佇むパンダを見て。
「あれ、小十郎さん?あ〜打ち水かけられちまったか」
 状況を瞬時に理解した元親は苦笑した。
 小十郎はすばやく子豚の政宗の前にたち、地面に落ちた政宗の服ともども、横にも大きな自身の体で隠した。
「政宗は?」
『買い忘れを思い出しまして、買いにもどってくださっているのです』
「そっか」
 元親は軽く頷いた。
 小十郎の足下で固まっている子豚には気づかずに、元親はにかっと笑った。
「ちょっと待っててくれな。佐助にお湯わかしてもらうから」
『お手数おかけします』
「気にすんなって」
 家の中へと戻った元親を見送って、子豚はその小さい体から大きな息をこぼしていた。
 政宗は、元親にだけはこの呪いについて知られたくないらしい。
 兄のことが好きなのだとすれば、頑なまでに秘密を隠そうとする姿にも納得がいく。
 そう、政宗は元親のことが好きなのだろう。
 バケツを持って道場から出ると、丁度母屋へと続く渡り廊下のところに、丁度幸村の頭にのぼっていた二人がいた。
 顔をうつむけている元親と政宗の背中が見える。
 少し前から幸村の頭にたびたび上るようになった問い。
 政宗は元親のことが好き。
 ならば元親は?
 普段政宗と言い合いをしている元親は、まなじりをつりあげながらも、どことなく楽しそうに見えた。
 それに、婚約だなんてこと、本当に嫌ならば元親は黙って甘んじているはずもない。
 婚約破棄をかけて勝負しろ!と声をあげているはずである。
 それが、普段は意識してねえし、という元親の言葉通りであるとしても、許嫁の関係を受けて入れているのは事実だ。
 それはきっと、政宗を受けて入れているということなのだろう。
 二人が両思いならば、嬉しいことだと幸村は思った。
 『許嫁』というのはそういう関係のことなのだ。
 重要なのは、元親がこの家にいて、幸村たちと一緒にいてくれるかどうかということ。
 向かい合っている二人は、常と違って静かだった。
 何か大事な話をしているのかもしれなかった。
なので、幸村はなるべく気を取られないようにそうっと、そうっとその横を通り過ぎようとしたのだ。
自分は今、水が入ったバケツを持っている。
ここで政宗に水をかけるわけにはいかない。
慣れない注意をしようとしたのが、逆に裏目にでた。
 変に強ばった腕と連携したかのように、ぎくしゃくとした足。
 一瞬手と足をどう動かしていいのかよく分からなくなって、手から力が抜け、バケツが落ちるのがスローモーションで見えた。
運動神経は化け物じみてずば抜けているくせに、普段の生活では、有り得ないような粗相をするのが、幸村という人間だった。
周りの人間は、そういうところが抜けてて、逆に親しみが持てると言ってくれるが、そうは言ってくれないであろう男が目の前に一人いた。
政宗は、辛くもバケツの強襲を避けたようだった。
よかった、と息をついたのもつかの間、ぎろりと向けられた視線の険しさに、幸村は息を飲み込んだ。
炯々と光る目。
政宗の体から立ち上ってきているのはたぶん、殺気とかいうやつではなかろうか。
ぷつり、という何かがキレる音が聞こえたのは、今度は気のせいではないだろう。
「てんめえ、この幸村アアアアアア!!」
「ご、誤解でござる政宗殿!」
「Shit!黙れ!」
「それがし悪気はなかったのでござる!」
「そう思うなら逃げんじゃねえ!」
 後ろからものすごい圧力がかかる。
 さすが兄に勝った男だ。
 持ち前の脚力を生かして廊下を全力疾走しながら、幸村は思った。
 つかまったら終わりだ、と。
 実際その想像は正しかった。

***

 政宗と幸村が廊下を踏みならしながら走り去った後も、元親はその場を動けずにいた。
 ばくばくと心臓が飛び跳ねているのが分かる。
 掃除がおわった幸村がバケツの水を捨てようとしたのだろう、横を通ったときに、うっかり手を滑らせたのだ。
 幸村らしいといえばらしい失敗に、バケツの水を掛けられそうになった政宗は、さっきまで不機嫌だったせいもあるのか、ぶちきれたようだった。
 腹の底からの怒声を上げて、政宗は幸村を追いかけていった。
 一人取り残された元親は、まだ制御の効かぬ己の体で、どうにか瞬きをした。
 そうしてようやく体の呪縛はとけたが、まだ思考の方は起動しきれていない。
 目を反らすことなど許さないとばかりに、顔をのぞき込まれた。
 熱さを秘めた黒い瞳が、すぐそこにあった。
 もう少しで唇が触れてしまいそうなほどの至近距離で視線を絡め合って、心臓が跳ねた。
 手で口元を覆えば、その手がかすかに震えているのが分かって、元親はせわしなく瞬いた。
 触れている己の頬はどんどん熱くなっていく。
「何だこれ…」
 こぼれた呟きは掠れていて。
無自覚が騒ぎ出す。
このじわりと胸を締め付ける甘い疼きは何だ?