ボーイ・ミーツ・ブラックピッグ

後悔だなんて己の辞書にはない政宗だったが、政宗は思った。
 もしかしたら自分は己の願望に負けて早まったのかもしれない、と。
 空は夏らしく白い入道雲が浮かんだ晴れ。
 元親や幸村らがいるときは、共に道場で組み手をしたりすることもあるが、この日は生憎武田三兄弟とも学校へ出かけていた。
 この辺りの地理にまだ詳しくない政宗は、暇があれば町を散策することにしていた。
 誰かいれば、案内してくれるのだが、今日は政宗一人であった。
 なので、一人で気ままに町を巡っていた。
 眩しい太陽の光がにわかに曇りだしたので、マズイなとは思ったのだ。
 夕立の足は早い。
 走ったが、あと一歩の所で武田の家まではたどり着けずに、ざあと雨粒が落ちてくる。
 適当に他人の家の軒下を借りて雨宿りしながら、政宗は忌々しそうに空を見上げた。
 当たり前だが、一々出歩くのに折りたたみ傘を持ち歩くような男ではない。
 ちょっとした雨にさえびくびくと気をつけなければならない体質を自覚するたびに、政宗はため息を吐きたくなる。
 何故ため息かといえば、どうしようもないことを政宗自身自覚していたからだ。
 実は子豚になる呪いを解くのは案外簡単なのだ。
 つまり、水をかぶれば男になる呪いがかけられる池に落ちればいい。
 元々男なのだから、それで丸く収まるはずであった。
 では何故帰国するまえに件の池に落ちてこなかったのかといえば。
 季節はずれの集中豪雨で池の水があふれ、混じり合ってしまったからだった。
 そんな水につかったら、子豚の呪い以上に怖ろしい事態になることは火を見るより明らかだった。
そして、どうして呪泉郷が伝説の修行場と呼ばれているかといえば。
 個々の池にある逸話ともう一つ理由がある。
 四年に一度しかその修行場は姿を現さないのだ。
 オリンピックイヤーにしか姿を現さないその修行場に他の年に足を運んでも、そこにあるのは乾ききった大地があるだけで、水たまりの一つもないのである。
 故に、政宗は諦めて帰国するしかなかったのだ。
 しかし、武田家に居候するというのはなかなかに困難をともなうものであることを、この数日で政宗は実感していた。
 元親との一世一代の勝負に勝利をおさめ、見事婚約者の地位を得、一つ屋根の下の同居生活に持ち込めた。
 結局告白までは至らなかったのと、元親自身に惚れてもらうために、勢いで口から出た同居生活。
そこまではよかった。
よかったのだが…。
実際生活し始めてみればこれが結構スリリングなのである。 
理由は至極簡単で。
水気なんてどこにでもあるからだ。
水をかぶったら子豚になる、なんて間抜けで格好悪い秘密を、元親にはどんなことをしても悟られないようにしなければならない。
そう、これは元親に対しての秘密だ。
他の人間ならばまあ、百歩譲って我慢もしよう。
自業自得といわれれば、実際物好きにも呪泉郷に向かったのは政宗自身だったわけだし。
しかし、何が悲しくて惚れた相手に、自分は子豚になるんですがそれでも好きになってくれますか、何て口にしたいだろうか?!
故に、元親からこの馬鹿げた呪いを隠すためには、元親の前では徹底的に水気を避けなければならないのだ。
これが案外難しい。
自分は実は運がないのではないかと政宗は思わず自問した。
ケチのつきはじめは間違いなく呪泉郷にいったときで。
子豚になる呪いを受けるわ、初恋の相手が実は男だったと知らされるわ。
いや、元親が男という点については今となってはまったくもって問題なしではあったが。
 ぼんやりと考えていた政宗を嘲笑うかのように、ぱしゃりと軽やかな音がした。
次いで、ぱさりと支えを失った衣服が重力に従って地面に落ちる音も。
落ちてきた服からどうにかもがいて、政宗は鼻の頭で服をさぐって抜け出した。
住宅地に不似合いなトラックに、道路にたまっていた水を掛けられ、あともうすこしのところでゲームオーバー。
そしてピンチな状況というのは雪だるま式に新たなピンチを引き起こすのである。

***

 突然の夕立に、元親は運が悪いなあと思いながらも実はそれほど悲観しているわけでもなかった。
 夕立の足は早い。
 だからすぐに雨はあがるだろうし、夏の熱気を一時とはいえ冷やしてくれる雨は好きだ。
 なので、元親は雨の中雨宿りをすることもなく、小走りで帰途についていた。
 ふと視界の端に掠めたものに、ん?と意識を引かれて足をとめ、そのままの状態で二歩後ろに下がる。
 もう少しで我が家というところ、なかなかに立派な門構えの家のまさにその軒下。
 くしゃりと山になっている黒い物体はたぶん服だろう。
 確かに軒下に服だけが積まれているというのはおかしな光景だったが、元親の気をひいたのはそれではない。
 黒い服の上でもぞりと動くこれまた黒い物体。
 元親は図体はデカイが、心優しき青年である。
 小さきものには無条件で甘くなる。
 つまり、小動物などの類を愛する人種であった。
「何でこんなとこに黒豚がいんだ?」
 その場にしゃがみこんで、黒い物体の正体を確認した元親は思わず疑問の声を上げた。
 黒豚は目を丸く見開き、元親と目を合わせた状態で固まっている。
 元親はそんな様子を見て、安心させるように頬を緩めて微笑んで見せた。
「大丈夫だよ。別に取って喰いやしねえから、安心しろ」
 黒豚は元親の両手の平に乗るくらいのミニサイズで、とてもとても可愛らしかった。
 なので元親は、そっと手を伸ばして、その子豚の頭を人差し指でかるく撫でてみた。
 子豚はくすぐったそうに目を閉じて頭を下げた。
「お前迷子か?」
 近所の家の軒下に黒子豚がいる理由なんてそれぐらいしかないだろうと、勝手に元親は納得した。
 きっと親の黒豚と散歩途中にでもはぐれてしまったのだろう。
 まあ、そんな光景は見たことはなかったが。
 元親は細かいことは気にしない質だった。
気に掛けたのは、雨も降っていることだし、このままにはしておけないということだった。
 子豚をひょいと抱き上げて、元親は思わず笑った。
「何だお前、眼帯つけてんのか」
「ぴー」
 連鎖で、同居人の男のことを思い出す。
 その男、政宗と元親は婚約者という間柄だったが、元親は全く持って普段は気にしないことにしていた。
 元親からすれば気にくわない野郎だし、一々癪に障る台詞と、どこから来るのか知らないがいっそ感心してしまうほどの自信からくる傲慢な態度に、口げんかは絶えない。時には二人とも腕力を生かし、稽古と称して喧嘩の延長を続けたりもするが、数日経った今では、突然始まった同居生活も奇妙な落ち着き方をみせていた。
 盛大な啖呵のきりあいから始まった政宗との関係はつまり、喧嘩友達といった具合に落ち着いたのだ。
 元親はそれほど政宗という人間のことを毛嫌いしているわけではない。
 時折無性にヤな奴だと血圧を上げることはあったが。
 同じ無差別格闘流を極める人間として、その技量は認めていたし、初対面で怒鳴り合ってしかも背負い投げまでかましているのだから、遠慮なんて言葉も元親からすれば今さらだった。
 元親と同い年だという政宗は、夏休みがあけたら元親と同じ高校に編入することになるだろうと、信玄が言っていた。
 瞬間、ご免被ると返した元親だったが、内心では、それはそれで楽しそうでもあるとは思っていた。
 ただ素直に認めるのは何故かしら癪なのだ。
 目の高さに子豚を持ち上げて、元親はしげしげと見やった。
 黒髪の政宗と同じく黒い毛。そして右目にちっちゃな眼帯。
「そういえばお前も結構目つき悪いなあ」
 つり目気味のそれを感心しながら指摘すれば、子豚は言葉が分かったのか、ぷぎ!と抗議のような声をこぼした。
「ああ悪い悪い。でもホント似てるよな」
 その呟きに、子豚がびくりと毛を逆立てて震えたことなど欠片も気にとめずに、元親はうしと一度頷いた。
「よし、これも何かの縁だ。っつうわけで、アイツから名前をもらっちまおう。政宗に似てるから、まーくんな!」
 元親命名、黒子豚のまーくんは、ぴ!と小さく鼻をならした。

***

 政宗に似てるからまーくん。

 何て安直で、何て心臓に悪く、かつ何て質の悪いネーミングセンスだろうか!!
 元親に抱えられて武田家に帰宅した子豚政宗は内心で拳を握りしめていた。
 黒豚になって、取りあえず己が纏っていた衣服の山から脱出した政宗の視界にうつったのは、子豚に変身時に遭遇したくない順位永久第一位の元親の顔だった。
 目の高さを合わせるようにしてしゃがみこみ見つめてくる目に、政宗の小さな体はびしりと硬直した。
 小さな小さな心臓は、どっくどっくと早鐘を打っている。
 大丈夫だ、黒豚=政宗だなんてことはこの状態からバレやしないと言い聞かせても、やはり心臓にはよろしくない。
 しかも、己を見つめる元親の唇からこぼれたのは、感心したような、どこか面白がるような響き。
「ホントよく似てるよな」
 もちろん比較対象は、人間の政宗。
 政宗はこのとき全身の毛が逆立つという貴重な経験をした。
 しかし、それ以上理論の飛躍は展開されなかったらしく、まるで政宗みたいな黒豚、と元親は認識したらしい。
 ほっとしたのもつかの間、政宗は元親から黒豚時の名前を新たに頂戴した。
 それが、まーくん、である。
 安直すぎるにもほどがあるし、だいたいこちとら十七の男子で、それがいくら呪いで今は黒豚になっているとはいえ何故『まーくん』なんぞと呼ばれなくてはならないのかと憤りながらも、何だか可愛らしいあだ名みたいでちょっと照れてしまって居心地が悪いやら、でも正直実は嬉しかったりもした自分もいて、とりあえず政宗は複雑だった。
 というか、お前、そのガタイで、それこそ野郎を簡単に池に沈められる技量の持ち主なのに、まーくんだなんて、可愛すぎやしねえか、と内心で悶えながら、結構可愛い物好きなんじゃないか、という元親の新たな一面を垣間見て、政宗は嬉しくなった。
 好きな人のことを知るのは喜びだ。
 自分が黒豚ではなく、人間の『政宗』であったなら、絶対に見せないであろう一面だとも思えば、それはそれで複雑だったが。
 しかし、そんなちょっとした幸せ気分も、元親の機嫌のよい次の一言でぶっ飛んだ。
「よし、じゃ一緒に風呂に入ろうな〜」
 元親と一緒に風呂。
 …風呂?!
 政宗は目をくわっと見開いて、ついであわあわと身じろいだ。
 一瞬思わず素直にラッキーと思ってしまったが、いやいやいやそりゃマズイだろ!と我に返る。
 何故なら、政宗は今、黒豚のまーくんだったが、一緒に風呂なんぞに入ってお湯をかけられてしまえば、人間の政宗になってしまうので。
 一難去ってまた一難。
 元親が可愛いからと言って大人しく腕に収まっている場合ではなかったのだ。
 早くここから脱出して、元親に見つかる前に人間に戻らなければならない。
 この腕から抜け出るのはまあ実際、もったいないとは思うのだが!
 一緒に風呂というお誘いは、そりゃもう嬉しいお誘いなのだけれども!
 元親に惚れている身としては、飛びつきたいばかりにオイシイ機会ではあるのだが!
 思い切って振り切らなければならないことがこれほど苦痛だとは思わなかった。
 何せ元親は濡れた服が不快だったのか、脱衣所に入るなり、思わず賞賛したくなるほどの潔さで、上着を脱ぎ捨て、見事に鍛えあげた上半身を晒したからだ。
 鍛え上げられながらも、その肌はきめ細かで、真夏だというのにため息をこぼしたくなるほどに白かった。
 夕立の中を濡れながら帰ってきたからか、肌自体がしっとりと湿っているようだ。
 濡れた髪をなでつける様を見上げながら、政宗は目頭が熱くなるのが分かった。
 ああ、今すぐここから立ち去らなければいけないだなんて!
 っていうか人の気も置かれた状況も知らないでよくもまあこれだけ見事にストリップをしてくれているものである。襲われたいのかテメエは。いやまあとはいっても所詮子豚だから襲えねえけどな!
 色々身勝手な文句が政宗の小さな胸の内を吹き荒れたが、それは不可抗力だろう。
 何でこんな理不尽な我慢を強いられなければならないのかとやけくそ気味に内心で吐き捨てながら、政宗は僅かに空いた扉の隙間に体を押し込み、愛しの元親に背を向けた。
「あ、おい、まーくん!」
 ああ許せmy honey!四年後には一緒に風呂に入れる体になってるからそれまでは我慢してくれ!と、元親が聞けば、何馬鹿なこと言ってやがんだテメエと拳が飛んできそうなことを真剣に考えながら、政宗は涙を流しながら元親を振り切って台所へと駆け込んだ。
 台所には、すっかり武田家に馴染んだ小十郎が漬け物を漬けているところだった。
 子豚姿の政宗の姿を見て、心得たようにポットから小さなヤカンに湯を入れ、政宗の上に湯を掛ける。
 瞬間、低い視界が慣れた高いものへと代わり、政宗は息をついた。
 次いで、先ほどばっちりと網膜に焼き付いた元親の艶姿を思い出して、思わず口元を手で押さえる。
 いかん鼻血が出そうだと考えた故の反射的行動だった。
 そして、まるで生殺しもいいところだと思った瞬間、押さえきれない衝動がこみ上げ、思わず政宗は叫んでいた。
 小十郎の胸ぐらを掴み、まなじりをつり上げての主張。
「っつうかあんまりじゃねえか?!」
 政宗の心の底からの絶叫の意味は、全くもって分からなかっただろうが、せっぱ詰まった叫びに、何か感じる所はあったのだろう。小十郎は糠くさい手を上げて、落ち着いてください政宗様と宥めるように言った。
「あんなオイシイもの見せられて、落ち着いていられるか!」
 眼福どころの騒ぎではない。
 逃げ去るしか許されなかった不満をぶちまけていると。
「…政宗」
 まーくんと呼んでいた優しく柔らかい声とは180度かけ離れた低い声が政宗を呼んだ。
 ぎくりと体を強ばらせて、政宗は首だけで台所の入り口を振り返った。
 いきなり逃げ出したまーくんを探しに来たのだろう、元親は裸の肩にタオルを掛けた状態で、呆れた顔をしてこちらを見ていた。
「…お前、いくら暑いからってな、服ぐらい着ろよ」
 子豚は服なんぞ着ない。
 お湯を掛けてもらって人間にもどったときは、当然のことながら、服なんぞ着ていないのである。
 つまり、元親から見れば、今の己の状態は。
 全裸。
 マッパで小十郎につかみかかりながら絶叫していたという図。
 元親の目は冷ややかに政宗を見つめ、まるで蔑むような哀れむような視線で政宗の姿を一瞥したあと、興味を失ったのか、子豚のまーくんを探しにいったのか、台所を後にした。
「……」
「政宗様、下着はタンスの二段目に入っておりますので」
「……」
 政宗は静かに小十郎の胸ぐらを離し、そのまま両手の平で顔を覆った。
「Oh,my…。あんまりだぜ…」
 心底泣きたいと思った瞬間だった。

 

愛の試練


 その日は珍しく、元親をのぞいた武田家の面々が皆外出していた。
 信玄は町内会の都合で朝から出かけていたし、幸村は朝から部活に飛び出していった。
 佐助は友人と出かけるからと言っていた。
 従って、丁度昼時の今現在、この家にいるのは元親と居候二人の計三人だけなのである。
 小腹も減ってきたし、と元親は道場へと顔を出した。
 稽古がないならと政宗と小十郎は道場で汗を流していたのだ。
 元親に気づいた政宗がペットボトルに入った水を手に取りながら、どうしたと尋ねてきた。
 それだけで止めておけばいいのに、この男は一言多いのだ。
 にやりと唇を引き上げた人の神経を逆撫でする笑みを浮かべて言う。
「朝の続きでもしにきたのか?」
 この日は既に朝一番から、卵焼きに砂糖を入れるのは邪道か否かということについて激論をかわし、ついでに拳までかわしていた。
 ちなみに、勝負はついてはいなかった。
 元親は顔を盛大にしかめて息を吐いた。
「するかよ。こんな暑いのによ。そうじゃなくて、もうそろそろ昼時だろ」
「そういやそうか?」
 水を流し込みながら政宗は側に控える小十郎に目で問うた。
 汗をふいていた小十郎は、はいと短く肯定した。
「今日は佐助もいねえからよ、おれが昼適当に作ろうと思うけど、お前も喰うか?」
 別に低次元な言い争いをしに来たわけでも、佐助が言うところのじゃれあいをしに来たわけでもないのだ。
 そう尋ねれば、政宗はペットボトルを持つ手を下ろして目を丸くした。
「アンタの手料理…?」
「んだよ、文句あんのか?嫌なら別に…」
「先走るんじゃねえよ。嫌だなんて言ってねえだろうが。もちろん喰うぜ!」
 元親に台詞を皆まで言わせず、政宗は勢い込んで言った。
 素直なその反応に元親は思わず小さく笑った。
 そう言ってもらえたらやはり悪い気はしないし、嬉しくもある。
「じゃ、適当に居間にこいや」
 そう言い置いて道場を後にする。
 台所で冷蔵庫を開け、さて何を作ろうかなあなどと機嫌良く材料を物色し、元親はキムチチャーハンにしようと決めた。
 そもそもそれほどレパートリーが豊富なわけでもなかったが、料理をすることは嫌いではない。
 ただどうしてか、なかなか家族に振る舞う機会がないのが残念な所だ。
 佐助ほど料理は上手ではないが、だからこそたまの機会に作ったものに意見を求めたりしたいのだが、そう上手くことは運ばなかった。
「よし、一丁アイツを唸らせてやるぜ!」
 元親は気合いを入れて包丁を握った。

***

 小十郎が台所へ顔を出したのは、水を一杯もらおうと思ったからであった。
 時間が間に合えば、元親の準備を手伝おうとも思っていたが、汗を流して着替える時間を考えれば、あまり己が手をだす暇はないだろうなと思いながら、元親の背中に声をかけようとした。
 そこで、小十郎は唇を閉じた。
 代わりに瞬きをする。
 何とも言えない香りがしたからだ。
 調味料を取ろうとしたのか、横を向いた元親が小十郎に気づいたらしく振り返った。
「お、小十郎さん。何か用かい?昼飯はもうちょっとでできるぜ!」
 唇に笑みを浮かべた元親に尋ねられ、小十郎ははっと我に返った。
 小十郎にしては珍しく言いよどんで頷く。
「あ、いや、その。水を一杯いただけますか」
 元親は、気軽にああと頷いた。
「…時に元親様」
「んー?」
ガラスのコップに水を注いでくれている元親に、小十郎はフライパンの中身を遠目で見ながら問うてみた。
「今日の昼食は…」
「キムチチャーハンだぜー!」
「…」
 小十郎が瞬きもせずにそのフライパンを凝視しながら絶句していることを元親は気づかなかったようだ。
 水をこちらに持ってきてくれようとしたのだろう、元親が振り返って足を踏み出したその時である。
「っと…」
「?!」
 床が濡れていたのだろうか、足を取られてバランスを崩す元親。
 似たような光景を最近見た気がするのは気のせいではあるまい。
 果たして、その既視感と同じ道を小十郎もたどった。
ぱしゃりと顔にぶちまけられた水。
小十郎は悟ったかのように目を閉じて、その冷たい感触を受け入れた。
あの三男にしてこの長男あり。
さすが兄弟、血が繋がっていると実感。
「わるっ…?!」
 おそらく、悪いと謝ろうとしたのであろう、元親の言葉は途中で不自然に途切れ、息を呑む音が聞こえた。
 小十郎は瞬いて、次いで頭をぶるりとふった。
 毛先から水滴を飛ばすためだ。
 元親はこれでもかというほどに目を見開いて、あわあわと唇をぱくぱくさせた。
 その反応も、これまた三男の幸村と酷似していて、やはり兄弟だなともう一度小十郎は深く頷いた。
「な、な、な、なんなんだこれ!!」
 見事パンダになった小十郎は手慣れたようにさっと木製のプラカードを示した。
『落ち着いてください元親様』
「や、やっぱり小十郎さんなのか?!」
小十郎は混乱しているであろう元親を落ち着かせるため、なおさらゆっくりと短い首で頷いた。
そこへ、元親の絶叫を聞きつけたのだろう、どうした元親ア?!と政宗が台所へと飛び込んできた。
その反応の早さと真剣そのものの主の表情に、小十郎の胸はすこしばかり感慨で熱くなった。
政宗の父親でもある小十郎の元々の主から、初めて政宗の思い人について聞かされたときには驚いたものだが、これほどまでに一途に想っているのかと知れば、主がそんな人に出会えたことを喜びたい。
何せずっと見守ってきた可愛い教え子でもあるのだ。
パンダになっている小十郎をみて、政宗は目を見開いて、次の瞬間、目を泳がせた。
そんな政宗の焦りに満ちた心中など察しようもない元親は、政宗に詰め寄った。
「ま、政宗!!小十郎さんは何で、パ、パ、パンダなんかになっちまったんだ?!」
「Hey,落ち着けよ元親」
 そう言いながらも、同じく呪いをかけられている政宗は冷や汗をかいている。
恋しい相手にはどうあっても呪いのことは秘密にしたい政宗だ。
そのことを十分心得ている小十郎は、さっと新たなプラカードを元親の眼前に示した。
『これには深い訳がありまして』
「訳?」
『私には実は水を掛けられればパンダにかわってしまうという呪いがかけられているのです』
「本当か?!呪いだなんて、そんな…!」
 プラカードの文章を読んだ元親は、目を見開いて驚いたあと、痛ましそうに眉を寄せた。
『政宗様は私の呪いを解いてくださろうと手を尽くしてくださっているのですが、未だ解けず…。それで家に帰ることもなさらず、まだ私を救う道を探してくださっているのです』
半分本当、半分は口から出任せの、しかし熱のこもった説明文に、元親はそうか、と眉を下げた。
そんな二人をはらはらと見守っていた政宗にくるりと向き直り、元親は鼻をすすった。
心なしか元親の目が赤い。
政宗はその反応に戸惑ったように体を引いた。
「政宗」
 そんな引き気味の政宗の手を元親はがっしとつかんで、唇をへにゃりと緩めた。
「お前って、実はイイヤツじゃねえか…!」
素直に小十郎の説明を信じた元親は、付き人思いの主に感動したようだ。
目を潤ませて、その手で政宗の肩をばんばんと叩く。
「おれに協力できることがあれば言ってくれ!水をかぶったらパンダになるだなんて、そりゃ酷い話だもんなあ!」
「…Thanks」
同じく水をかぶったら子豚になる呪いを抱えている政宗は、その言葉に頬を引きつらせてかろうじて笑って見せた。
「それでどうやったら人間に戻れるんだ?」
「ああ、湯をかけりゃ元に戻る」
『なのでついでに汗を流してまいります』
そうプラカードに掲げて、小十郎は台所を辞した。
元親の中で、政宗の印象はよくなったようだ。
政宗の恋路のために小十郎が出来るのは、これくらいである。
あとは、政宗の頑張りを応援するのが、長年政宗の守り役を務めてきた小十郎の役目だった。
政宗の肩を毛の生えた丸い手でぽんと叩いて。
『頑張ってください政宗様』
 政宗にしか見えぬようにプラカードを示して見せた。
「An?」
『政宗様の愛が試されるときでございます!』
「はあ?」
 訳が分からないと言ったように眉をひそめる政宗を残して、小十郎は台所を後にした。
元親の政宗に対する心証はいい。
あとは、昼食に出されたあのキムチチャーハンを政宗がどう攻略するかで、その心証がさらにのびるかどうかが決まるであろう。
古今東西、己が作った手料理を褒められて嬉しくない者はいないだろうから。
小十郎は内心で拳を握って、エールを送った。
ここが最大の山場で踏ん張りどころですぞ政宗様!
遠目でちらりと目にしたキムチチャーハンを思い出す。
あのキムチチャーハンの壁は限りなく高いであろうことが分かっていた故のエールであった。

***

 何故かパンダとなった小十郎に激励された政宗は、その意図が分からず首をひねった。
 何を頑張れというのだろうか。
 しかもその後に続けられた文句が文句だ。
 愛が試されるとはどういうことか?
「もうちょっとで昼飯できるからよ、大人しく居間で待ってろ」
 確かに、台所でこのまま突っ立っているのも芸がないので、政宗は大人しく居間にもどることにした。
 まあ腰を下ろしながらもそわそわ落ち着かなかった政宗ではあったが。
 何せ今日の昼食は元親の手料理なのである。
 元親の手料理。
 その響きに思わず意識がどこぞへとトリップしかけるが、ここで意識を飛ばしてしまってはもったいないと、必死で政宗は逸る心を宥めた。
 道場で伺いを立てられたときは、あまりの嬉しいサプライズにがっついて返答してしまったが、元親は不審に思わなかっただろうか。
 今さらなことを気にしながら待つことしばし。
 両手に皿を乗せた元親が居間に現れた。
「出来たぜ〜!」
 その言葉に、思わず背筋を伸ばして、正座してしまった政宗である。
「おらよ!」
 どんと机に乗せられたのは…。
「………リゾット、か?」
 二回瞬きをして沈黙し皿を見つめたあと、過分に自信のない声で政宗は問うた。
 たぶん違うだろうと思ってはいたが、その予想に違わず、元親は何言ってやがると、顔をしかめた。
「キムチチャーハンだろうがよ。どっからみても」
「いや、無茶言ってんじゃねえよ!どっからどうみてもリゾットだろ!」
 思わず政宗がそう叫べば、向かい側に腰を下ろした元親はむっとしたようだった。
「リゾットにキムチ入れる馬鹿がどこにいるんだよ!」
「こんなにデロデロしたチャーハンもねえだろうが!」
「デロデロっていうな!こんなのちょいとご飯が軟らかくなっちまっただけで」
「Han?ちょっと?!ちょっとかこれが?!」
 ちょっと柔らかくなっただけでこれほど水分はではないだろう。
「見た目なんざ喰っちまえば関係なくなるだろうが!」
 大事なのは味だ!と主張するが、政宗は眉間に皺を刻み込みながら、そのリゾット(元親曰くのキムチチャーハン)をレンゲですくい、眼の高さに持ち上げて不気味そうに眺めた。
「味が大事っていう意見には賛同するが、味もデロデロなんじゃねえのか?つうか絶対チャーハンの味しねえだろうが」
 あまりのインパクトに、政宗は、一番重要な大前提を見落とした。
 つまり、これは、元親の手料理であるという大前提をだ。
「…だったら」
 向かいからおどろおどろしい不穏な空気が漂っていることに政宗は気づくのが遅れた。
「An?」
 顔を上げた瞬間、政宗は仰け反りうめき声をもらす。
ものすごいスピードで眉間にレンゲを投げつけられたからだ。
「何しやがる?!」
額を抑えて、思わず怒鳴れば、元親は皿を持って立ち上がり、まなじりを上げて政宗を見下ろした。
「だったら喰うな!」
「誰が喰うか!」
 元々己が素直な性格ではないということは自覚している。
 自覚しているが、その自覚が理性と共に政宗の意識の表層に浮かび上がってくるのは、大概コトが終わってしまったあとだ。
「………Damn it!」
 怒って出て行ってしまった元親を見送って五秒経ったあと、政宗は眉間を抑えて舌打ちした。
正座していた足を投げ出して、だらりと体を弛緩させる。
 眉間を撫でていた手でそのままがしがしと髪をかき混ぜる。
「…やっちまった」
 いやでもだからってあの至近距離でレンゲを投げつけるのはやりすぎではないのかとか、あれをチャーハンと認めることは度し難いだとか、総合すると言い過ぎたわけでもなく正当な文句でありおれは悪くないという結論に達しているわけだが。
 それでも、やはり、居心地の悪さと罪悪感はぬぐえなくて、政宗は唇を引き結んだ。
 畳の上に後ろ手をついて、顎を上向け天井を見た。
 やはりキムチチャーハンだと認めることはできないけれども、けれどあれは紛れもなく元親の手料理ではあったのだ。
 食べると頷いたとき、元親は楽しそうにそうかと言った。
 その他愛ない笑顔が瞼の裏に浮かび上がって、政宗の良心をちくちくと刺激する。
 別に政宗とて、元親の料理をコケにしたいわけじゃない。
 ただ、結果として容赦のない本心が売り言葉に買い言葉の勢いで口から飛び出てしまったわけで。
「Ah〜〜,no help for it」
 仕方ない。
 元親が一生懸命作ってくれた手料理であることは変わらない。
 勢いに任せて言わなくていいことまで言ったのも事実。
 がばりを体を起こして、政宗は落としたレンゲをもう一度手にした。
 ふと、台所をでるときに見た小十郎の激励が思い出された。
 政宗は苦笑した。
 頑張ってくださいとは、あのチャーハンのことだったのだろう。
「確かに、こりゃ愛の試練だな」
 レンゲを持った両手を合わせて、いただきますと一言宣言。
 そして政宗は、果敢に溶解しかけたキムチチャーハンに挑んだ。
 レンゲを口につっこんだ時に広がったのは、妙に生臭さが強調されたキムチの味。
「やっぱりチャーハンじゃねえよ」
 顔をしかめて文句を言いながら、一口食べるたびに呻きながらも、最後まで食べきった自分は我ながら立派だと政宗は思った。
そう、まさしくこれは愛の試練。
愛のなせる技なのだと己に言い聞かせて、政宗は男らしくレンゲを手放さず最後まで戦った。
畳に伸びてダウンしている政宗を後から見た小十郎は、立派でございますと讃えてくれた。
政宗はふっと唇に苦み走った笑みを浮かべて一言言った。
「Love makes me strong」
「名言ですな政宗様」
 そう、愛は男を強くするのだ。

***

「……何故だ」
 己の部屋でレンゲを口に入れた瞬間、元親は眉根を寄せて固まったあと、どうにかチャーハンを飲み下した。
 その一口でレンゲを皿の上に置き、じっと己が作ったチャーハン(政宗曰くリゾット)を見た。
「ちょっと感心しちまうくらいにマジイ」
 そう、政宗が言ったとおり、このキムチチャーハンは確かにマズイ代物だった。
 歯ごたえもデロデロなら、味もまさしくデロデロだった。
自分で食べて初めて、元親はその厳粛なる事実を受け入れるしかなかった。
こりゃ確かに文句を言われても仕方ない。
そう、理性は納得したのだが。
元親は唇をへの字に曲げた。
政宗のあの容赦のない文句を思い出すと、感情のほうはあっさりと理性を上回るのだ。
 確かにマズイさ。でももうちょっと言い方ってもんがあるんじゃないのか。
アイツは自分から、元親が素直に謝ろうとする機会と気持ちをぶち壊してくれたのだ。
「…まあレンゲを投げつけたのはやりすぎたけどよ」
 元親のコントロールは完璧だった。
 それはもう気持ちいいほど見事に、政宗の眉間にヒットしたのだ。
 レンゲを投げつけたことに関してはまあ、謝っておこうかと。
 へこんでしぼんだ気持ちで、元親はもそもそと残りのチャーハンを片づけた。
 捨てるわけにはいかない。テメエのケツくらいはテメエでふくというのが元親のポリシーだ。
 途中でお茶を挟みながら何とか完食し、元親は一階に下りていった。
 流し台の前に立って、あれと気づく。
 空になった皿が置いてあったからだ。
 踵を返して居間を遠目で伺えば、政宗は畳の上に寝ころんでいて、人に戻った小十郎はまさしく食事中であった。
 つまり、この空になった皿は政宗のものだということで。
 元親は眉を寄せた。
 散々に罵ってくれたくせに。
 残さず食べてくれたのかと。
 そう思うと、少しばかり顔が熱くなるのが分かった。
「だったら、最初から大人しく喰えよ…」
 本人に言えば、調子に乗るなとこれまた容赦のない罵声を浴びせられそうな台詞を呟いて、元親は顎を引いて顔を伏せた。
どうしよう。
思わず、嬉しいと思ってしまったじゃないか。
「あ〜」
 居心地悪そうに声をもらしたのは、さてこれからどうやって謝ろうかと思ったからで。
 ごめんの一言が気恥ずかしく難しい。
 政宗に対してだけは、素直になれない自分を自覚していたので。