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うぬぼれてしまいそうになる。
一緒に城に戻って来てくれたとき。
獣となっても、瞳を見つめてふわりと笑んでくれるとき。
合わせた掌が熱を帯びていたとき。
己を映す瞳の奥に熱の芯があって、ゆらりと揺れるのを見れば、息ができなくなる。
毎夜してくれている手当や、寝付いていたときの看病を、元親のほうから申し出たのだと小十郎から伝え聞いたときには、嬉しさで息が苦しくなって、頭が真っ白になった。
贈り物をしたいのだと、まっすぐに見つめて言ってくれた。
向けてくれる眼差しが、特別なもののように思えてしまう。
政宗にとっての元親のように。
政宗が元親を恋うているように。
うぬぼれることを許してくれるだろうか。
甘い幻想を慰めに、言葉をアンタに贈るから。
***
元親のクリスマスは小十郎と晩餐の用意をするところから始まった。
途中からは政宗も加わって、三人で焼き菓子作りに精をだした。
今まで知らなかったことだが、政宗は菓子作りも手慣れていた。
今までだって、元親たちが菓子をつくるのを、後ろで冷やかしてばかりだったので、元親は素直に驚いた。
味見させてもらえれば、大層美味しかったので尚更だ。
「何で今まで黙ってたんだ。からかうくらいなら手伝ってくれりゃいいのによ」
そう文句を吐けば、政宗は、そりゃアンタが作ってくれたほうが旨いからだと、しれっと言ったりしてくれたものだから、元親は思わず照れくささからそれ以上の文句は封じられてしまった。
ハーブにつけこみ、オーブンでじっくり焼いたチキン。
カボチャのスープ。
焼きたてのパンに、色々なジャム。
他にも色々、広間に据えた食卓一杯に料理を並べて、ワインで乾杯をした。
ひとしきり料理に舌鼓をうったあとは、小十郎がヴァイオリンを持ち出してきた。
いつもと変わらぬ強面の顔で、軽やかな音色を紡いでみせる執事の万能っぷりに、元親は素直に感心した。
「何でもできるんだなあ、小十郎さん」
「一通りはな」
相づちを打って、政宗が椅子から立ち上がる。
元親のもとへとやってきて、気取った風に手を差し出す。
「Shall we
dance?」
流れる調べは伸びやかで。
元親は瞬間息を止めた。
心臓が大きな音をたてて、肌の下が熱を帯びる。
息を呑んだあと、元親は思わず吹きだしてしまった。
「おれでよければ」
政宗専用にしてやると言ってしまったのだから、ここは手を取らねば野暮というものだろう。
指の長い滑らかな肌の手に、節の目立つ己の手を滑り込ませれば、きゅと力を込められ握られて、元親は唇を緩めた。
政宗の手の温みが肌を通して体の中に染みこんでくる気がした。
教えて貰ったとおりにステップを踏み、リードされるままに手を離されてくるりと回る。
一瞬離れて寂しさを感じた手は、すぐさまとらえなおされて、元親は胸が熱くなるのを感じていた。
ヴァイオリンの音色と同じリズムで心臓が走る。
息ができなくなるくらいにどきどきしていて、けれども唇は笑んでいて。
曲が終わりを告げるように静かにとぎれ、二人の足は止まった。
と思ったら、駆け出すような速さで弦が鳴る。
突然のそれに驚く元親に、政宗はにやりと悪戯っぽく目を光らせて笑った。
教えてくれと言われて披露した、村祭りのダンス。
政宗は一度できっちりと覚えたらしい。
足でステップを刻み手を打ち鳴らす。
挑発するような視線に簡単に煽られて、元親もたまらず笑った。
政宗のステップを追いかけるようにして足音を刻む。
手を高らかに打ち鳴らしてくるりと回る。
競い合うようにして踵を打ち鳴らせば、なんだか笑いがこみ上げてきて、二人で声をあげて笑った。
ひとしきり踊ったあと、火照った体を休ませるために、促されるままに広間から続くバルコニーに出た。
バルコニーにはそのまま、庭へと降りる階段が続いている。
屋根の下から出たとき、隣を歩く政宗の体が変化した。
階段に腰掛け、元親は空を見上げた。
冬の空は凍てついていて、星の輝きが美しい。
月明かりの下では、その毛並みは色濃く見えた。
いつもは黒い瞳が、月光の下で淡い金色に光って自分を見下ろしている。
向き直り政宗を見上げて、元親は吐息で笑った。
なんのてらいもなく、ああ綺麗だと思った。
「怖くないのか?」
「何でだよ?」
穏やかな声で問うた獣の声に、元親は思わず声に出して笑ってしまった。
今さらなことを聞くと、そう思ったのだ。
「お前は政宗なんだから、怖くなんかねえよ」
ずっと元親の中にある言葉を返せば、政宗はふと微笑した。
その微笑はどうしてか、切なく元親の胸を締め付けた。
何の憂いも含んでいない優しい笑顔なのに、どうしてか、胸が苦しくなる。
政宗の唇が開かれるのをみて、元親はそれを遮るようにしてさっき小十郎にもってきてもらったものを差し出した。
そのまま政宗の言葉を聞くのが、どうしてかためらわれたのだ。
「お前へのクリスマスの贈り物」
獣の瞳が細められる。
「たいしたものは作れなかったんだけど、受けとってくれるか?」
躊躇いながらも差し出せば、政宗は掌を上向けてくれた。
人のそれとはちがう、大きな掌に小さなブリキの箱を置く。
「オルゴールなんだ」
そう言って、元親は蓋を開けた。
単純なメロディが繰り返されるだけのそれ。
「この曲は、アンタがよく歌ってたやつか?」
元親は瞬いて、視線を泳がせた。
「おう」
すぐに分かってくれたことが飛び上がりそうに嬉しくて、布団にもぐりこんでしまいたいほど照れくさい気がした。
「…これなら、残るな。ちゃんとおれのリクエスト聞いてくれたんだな」
その声が、耳に甘く聞こえて、元親は体を震わせ顔を上げた。
「っ」
そして、胸をつかれて息を忘れた。
「Thank you darling, 嬉しいぜ」
どこまでも優しくて、甘い微笑がそこにあって。
与えられたものに目眩がした。
喜びで全身が満たされて、溺れてしまう。
この瞬間が幸せだった。
「それじゃあ、これはおれから」
手を取られて。
「Present for you」
掌にのせられたのは、一輪の花だった。
「あ…」
金の枝の先に咲く輝く花弁。
それは宝石で作られた小さな花だった。
掌におさまるそれを呆然とみつめて、元親は思わず政宗を見返した。
「花、嫌いなんじゃねえのか…?」
「アンタは嫌いじゃねえんだろ?」
それはそうだけれども、と元親がとまどっていると、政宗はどこか罰が悪そうに首を傾いだ。
「おれにはアンタにやれるもんがねえからな」
その言葉の意味が分からなかった元親が、唇を開こうとしたのを遮って。
「街でまた発明大会が開催されるらしい」
「え?」
いきなりの言葉に、元親はとっさに頭がついていかなかった。
「領主が主催するやつらしいから、そこそこ大きなもんだろう。…出たいか?」
「そ、りゃ」
まだよく回らない頭で、元親は反射で頷いた。
政宗は唇にはいた笑みを深くした。
限りなく優しいそれに、どうしてか胸が締め付けられる。
不安を覚える。
「なら、ここを出な」
ゆっくりと、優しい声で政宗はそう言った。
元親は言葉を失った。
「半日ありゃ、街に出られる」
「でもよ…」
焦った声で何かを言おうとしたが、政宗の声がゆっくりとけれど強く遮った。
「アンタの夢なんだろう?」
そうだ。
それは元親の夢だった。
大会にでて、多くの人に認められること。
必要とされること。
父親も死んで、一人になってしまった元親が抱いてきた夢。
ぽかりと開いた乾いた穴を満たしたい。
「ああ、おれの夢だ」
頷けば、政宗は安堵したかのように、諦めたかのように頬を緩めた。
見ることも忘れていた夢が、己の中にしっかりと存在していることを自覚した。
出たいかと問われて頷いた。
それは元親の真実だった。
だってずっと夢だった。
多くの人に認められることが。必要とされることが。
愛されることが。
「だったら、ここを出な。ここじゃ、アンタの夢は叶えてやれねえ」
目の前に政宗がいるのに、その存在を遠くに感じた。
元親は政宗を見つめ返した。
何かを探すように。
何を見つけたかったのだろう。
けれど政宗はどこまでも優しい笑みを浮かべて自分を見つめるから。
元親は、何も言えなくなる。
にわかに怖ろしさが胸を舐めた。
発明がない自分には、きっと何も残らないとそう思っていた。
何も残らなければ、自分もきっと残らない。
だから怖いと思っていた。
いや、本当は違うのだ。
心のままにただ望むことが怖い。
手を伸ばすことが怖い。
手を取ってもらえないことが分かっていて、どうして手をのばせる?
だから元親は己から何かを望むことをしなくなった。
唯一望んだのは、発明大会で認められることだけだ。
「アンタの夢なんだろ?」
言い含めるように、もう一度政宗が言った。
元親は今度は頷くこともできずに、ただ一心に政宗を見つめることしかできなかった。
「だから、行け」
「……」
「…怪我ももうよくなった」
「…腕もか?」
元親の声はまるで縋るかのように掠れていた。
「Ya」
その頷きに、元親は体から力が抜けていくのを感じた。
静かに諦めが広がっていく。
それは元親にとっては馴染んだものだ。
穏やかなそれは元親から言葉を奪い、力を奪い、体の温みを緩やかに奪っていった。
元親が城にいるための理由。
それはもうないのだと。
「アンタがいなくても、大丈夫だ」
政宗の声はどこまでも静かで。
元親はただ瞬いた。
瞳が濡れでもすればよかったが、何の潤みもない。
諦めることになれた体は従順だ。
胸の奥がにぶく痛んだ気がしたが、所詮鮮やかなそれではない。
心に開いた小さな穴が乾いた音を立てた。
元親は唇をわずかに弧に描いて笑った。
「…おれがいなくても?」
「ああ」
頷く声が掠れていればよかった。
その表情に苦さの欠片でもあればよかった。
そうであればきっと、自分は諦めずにすんだ。
その手をみっともなく握りしめることを。
笑顔で手放されてしまったら、元親には何もできることがない。
泣くことも。
だから、元親も笑った。
掌に乗せられた美しい花を握りしめれば、冷たさで肌が痛んだ。
「アンタの腕なら、心配しなくても大丈夫だ。きっと選ばれて、今にひっぱりだこの発明家になるさ」
「そういってもらえると、ちょっとは自信がもてるな」
「明日の朝一番に発ちな。そしたら昼には間に合う」
「ああ」
頷けば、冷えた心から何かが欠けていく気がした。
いっそこの美しい夜が明けなければいいと元親は願った。
願うことしか、できなかった。
明けぬ夜がないことなど承知の上で。
ただ、願うことしかできなかった。
***
翌朝、元親は城をでた。
荷台に改良した自動薪割機を乗せて、木々の隙間からこぼれる薄明かりの中、馬の歩を進めた。
城を出るとき、政宗は小十郎とともに元親を見送ってくれた。
笑顔で。
門を出たとき、獣の咆吼が聞こえた。
まるで元親の背を押すように。あるいは、後ろ髪をひくように。
振り返りそうになって、でも結局元親は振り返らなかった。
どれくらい馬に揺られたか、時間の流れが掴めない。
ふと、木漏れ日の下、いくつかの影が横切るのをみた気がした。
それは馬にのった人影だった。
瞬時に元親はおかしいと思った。
何故ならここは人が立ち入ることのない魔の森だからだ。
盗賊すらもこの森には近づかない。
何故そんなところに人が来るのか。
道を行けば、忘れられた城がある。
そこにいるのは、呪われた王子。
胸騒ぎがして、元親は眉根を寄せた。
数秒、逡巡して。
元親は馬から飛び降りた。
くくりつけていた荷台を離す。
そして、もう一度馬に飛び乗り、腹を蹴った。
大切な発明品を置き去りにしていくことにも迷わなかった。
今来た道を一心に駆け戻っていく。
感じた焦燥が間違いであればいい。
考えすぎだ、馬鹿だと笑われればそれが一番だ。
けれど、そうじゃない可能性が頭から離れない。
政宗が教えてくれた話。
王子であること。
弟がいること。
母親のこと。
呪いをかけられて、魔の森で暮らすようになったこと。
所詮貴族でもない元親には、王宮の事情なんて分からない。
分からないから、ただ駆けた。
元親は今まで己から去っていくものを追いかけたことはない。
けれど、今はもう、諦めたふりをして見送ることなんてできない。
何もしないで、あがかないで、掌からすり抜けていくことを物わかりよく見送るなんてできない。
認められたかった。
誰かに必要とされたかった。
誰かに?
違う。
元親は顔を歪めた。
まるで泣き出す寸前のように顔をゆがめて、吐息で笑った。
誰かに、じゃない。
政宗に認められたいんだ。
必要とされたいんだ。
誰のそばでもない。
政宗の側にいたいんだと。
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貴方が与えてくれたものが、とても温かかったので。
***
元親が城から出て行くのを見送るとき、自分が笑みを浮かべていることが我ながらおかしいと政宗は思った。
手放したくないと思っているのも本心で。
でも、夢を叶えて欲しいと願っているのも本心で。
元親の幸せを祈るため、ただ心からの笑みを浮かべられた自分が、我ながら自分とは思えなくて笑えた。
門を抜けていく背中を、部屋にあるバルコニーから見送った。
迸った獣の咆吼は、祝福なのか、それとも別れなのか、政宗自身にも分からなかった。
元親が去ってどれくらい経っただろう?
柔らかな日差しはけれどすぐに雲に隠れてしまって、まるで夜が来るかのように薄暗い。
政宗はずっと、自室から続くバルコニーにいた。
ずっと、元親が去っていった方を眺めていた。
これでよかったのだと思いながらも、寂しさを感じる心がある。
元親がくれた贈り物。
小さなブリキの蓋を開ければ、流れ出す簡単な、けれどどこか懐かしさを覚えるメロディ。
飽きることなく政宗はその音の連なりを聞いていて。
そのうち、元親がしていたように、口ずさんでみた。
なんだか胸がじわりと温かくなった気がして、政宗は微笑んだ。
小十郎から発明大会が開催されるという話を聞いたとき、政宗の中には、それを元親に伝えるという選択肢なんて存在すらしなかった。
さも当然のように秘密にして、元親を己の元へととどめようとした。
どこまでも自分本位な考え方。
愛しいから、側に留め置いておきたい。
愛しいから。
愛が免罪符になるなんてことはない。
ただ己の欲を、愛という名で誤魔化して突き通すというのなら、それは政宗の母親が政宗に呪いをかけた行為と何も変わらない。
政宗は愛しげに己の腕に触れた。
元親には傷はよくなったと言ったが、まだそこは鈍い痛みを持っている。
何度も傷を抉ったから、きっと痕になって残るだろう。
それは元親がこの城にいた証になる。
このオルゴールとともに。
元親が政宗のために残してくれたものがあるなら、政宗はそれでいいと思った。
十分ではないけれど、満足だと思えた。
政宗はオルゴールの蓋を閉めた。
一瞬、静寂が辺りを包み込み。
「っ」
政宗は体を捻った。
空気を切り裂いて矢が通り抜けていく。
と同時に、背後から男が斬りかかってくるのを、これまた床を転がることで避けた。
顔を隠してはいるが、質の良い生地と手にした剣から、男が王宮に属する人間であることが政宗には分かった。
政宗は唇を釣り上げて笑った。
「Ha!何だ、今さらおれを殺しにきたのか?」
男は答えない。
つまり自分を殺すことについては確定事項なのだなと政宗は判断した。
どうせ、弟が皇太子として正式に認められたか、そうか王の体調が悪くなったかしたのだろう。
数年も捨て置いていた呪われた王子を暗殺する理由をそう推測する。
もしくは、と政宗は小さく唇の端で笑った。
今まで忘れていた政宗の存在をふと思い出して、ただたんに後腐れ無いよう整理しようとしたのかもしれない。
「…それだけのような気もするな」
思わず笑い声がこぼれた。
政宗は素早く体を起こした。
にやっと唇を弧に描いて、バルコニーの手すりに手を掛け、そのまま屋根へと飛び移る。
政宗は四つ足で器用に屋根を駆けた。
そして、屋敷のどこかにいる忠実な従者に分かるように吠える。
後ろから矢が飛んできて、政宗は身を伏せた。
命の危険が迫っているこんな状況で、何故か笑えて仕方がなかった。
「Ah,どうせならもう少し早くに決めてくれりゃよかったのに」
もう少し早く、そう、元親がこの城に来る前に、彼らが政宗の命を狩りに来てくれたなら。
大人しく自分は死んでやったと思う。
あの人が願う通りに。
けれど、もう死ねない。
傾斜のある屋根を駆けるため負荷がかかったのか、腕が痛んで政宗は呼気を吐いた。
灰色の空からぽつりと、雨が降ってくる。
脳裏によぎる元親の顔。
会えてよかったと言ってくれた。
政宗を惜しんでくれた。
襲われて、雨までふられている状況だというのに頬が緩む。
かえりみられたかった。
愛されたかった。
そして、愛したかった。
ずっと願っていて、いつのまにか願うことをも忘れたふりをしていたものたち。
それを、元親が叶えてくれた。
元親は政宗を見てくれた。振り返ってその瞳に映してくれた。
政宗が抱いているのとは同じものではなかっただろうが、元親は政宗に愛情をくれた。
政宗も、元親を愛することができた。
誰かを恋うことは胸を切なくさせ、そして優しい熱で満たしてくれた。
それだけで十分だろう?
それだけで、これから生きていく十分な理由になるだろう?
だから。
自分はこれからも生きていこうと思う。
呪われた身でも。この森から出る日が来なくとも。
元親がくれたものを抱いて、生きていこうと思う。
自分を惜しんでくれる人がいることを知ったから。
広間から続くバルコニーに小十郎が飛び出してきて、政宗の名を呼んだ。
政宗は顔を上げてそしてバルコニーに向かって駆けた。屋根からバルコニーへと飛び移れば、政宗と入れ替わるようにして小十郎が追ってきた刺客と相対した。
そこへ。
「政宗!」
耳にするはずのない声が横合いからして、政宗は反射で振り返った。
バルコニーから伸びる階段の手前で馬から飛び降り、階段を駆け上ってくる姿。
見間違うはずのないそれに、瞬間、体が震えて政宗は喘いだ。
思考が現状を理解するために動き始める僅かな隙間。
理屈とか、理性とか、そんなものが働くより先に心で思ったこと。
胸が震える。
泣きたいほどに。
ただ、嬉しい。
呆けた顔をさらして、次いで政宗は眉をつり上げた。
獣の声で吠えるように言う。
「何でアンタがここにいる?!」
「森でこっちに向かう人を見かけて、それで…」
「そんなことが理由になるか!」
そう言い放てば。
「立派な理由だろうが!!」
同じくらいの語気の強さで返された言葉。
階段を登り切った元親は、そのまま政宗の元へと駆けてきた。
「心配したんだ!何もなけりゃ、おれが馬鹿だってだけの笑い話になるだけだろ?!おれがそれでいいって言ってんだ!おれの勝手だ!文句あっか!!」
「なっ」
続けざまに言い切られて、政宗は言葉を返すタイミングも、さらにいえば返す言葉すらも見つけられなかった。
背後でとさりと軽い音がして、振り返れば刺客は床に倒れていた。小十郎が軽く頷いてみせるのに、肩の力を抜いたところで。
「政宗!」
後ろから飛び出してきた元親。
己の名を呼んだ声の強さと焦燥の色に、元親の行動の意味を悟る。
政宗は腕を伸ばした。
思い切り。
人であるときよりも長さがある獣の腕は、元親の体躯に届き、政宗はそのまま元親の腕を思い切り引いて、そして己の体を反転させた。
抱き込んだ己のものではない体温に、そんな場合ではないことは百も承知で、体の奥が熱くなった。
空気を裂く音。ついで、鈍い音とともに体に走る鮮やかな痛み。
背後で小十郎の声が聞こえた。
耳元で、焦ったように名を呼ぶ元親の声も聞こえた。
もがく体を、逃すまいと体に走る痛みを無視して抱きしめる。
痛みなんか気にならない。
体を満たすのは満足感と、元親への恋情だった。
吐息がこぼれた。
ああ、こんな気持ちをきっと、愛しているというのだろう。
***
政宗の後ろ、更に言えば小十郎のさらに向こう側で、弓を構えている男の姿を見た。
その矢が向かう先など一つだ。
躊躇いなんてなかった。
政宗の名を叫んで飛び出した。
その矢から、政宗を隠すために。
けれど。
腕がちぎれるかと思うような力で後ろから引き寄せられ。
元親が目を見開いたときには、大きな獣の腕の中にいた。
とすりと鈍い音がした。元親を抱く体が一度震えるのを感じて、元親は息を詰め、ついで叫んだ。
「政宗!」
その声は震えていた。その声は脅えていた。
自分を包む腕から抜け出そうと身じろげば、さらに強く抱きしめられた。
体を貫いていった歓喜と恐怖に、元親は瞬間混乱した。
強く抱いてくれていたはずの腕から力が抜ける。
元親は声にならない叫びをあげた。
獣の体躯がずるりと崩れ落ちる。
脇腹に深々と突き刺さった矢。
「政宗っ!」
政宗様と叫ぶ小十郎の声は、今まで聞いたことのないもので、元親の心臓はさらに冷たくなった。
しゃがみこんで政宗の状態を確認したあと、小十郎は元親にここで待ってろと言い置いて、屋敷の中へと駆け込んでいく。
同じくしゃがみこんだ元親は、政宗の頭を膝の上に抱えた。
震える声で他に言葉を知らぬ子供のように政宗の名を呼べば、目を閉じていた政宗が吐息をこぼした。
開かれた瞳が自分を映していることに、元親は己の瞳が濡れるのを感じた。
「なあ、何で戻ってきちまったんだ」
まだそんなことを問うてくる政宗に、元親は眉根を寄せた。
「うるせえ!だからおれの勝手だって言ってるだろ?!」
理屈などどうでもいいのだとばかりに喚けば、政宗はくつりと喉を震わせて笑った。
「…確かに。街に行こうが、ここへ戻ってこようが、アンタの勝手だな」
政宗の腕が緩慢に持ち上がって、元親の頬に触れた。
雨に濡れているせいで、本当は温かいはずの手が冷たく感じた。
雨粒に混じるように、元親の目じりからこぼれた滴を、政宗は指先で拭った。
「本当はな、アンタを行かせたくなんかなかった。ずっと、おれの側に置いておきたいと思ってた」
政宗は眩しいものでも見るかのように目を細めた。
「醜いおれでも、側にいろって、そう言いたかった」
「テメエは、醜くなんかねえよ」
喉に絡んだ声はみっともない。
だから元親はせめて笑おうとした。
「その爪で、牙で、おれを助けてくれたじゃねえか。毛並みだって気持ちいし。おれは案外いいと思うんだ」
わざと茶化すようにそう言えば。
政宗は大きく胸を上下させて吐息で笑った。
「アンタ、俺の毛皮を枕にしてくれてたからな」
そして、政宗は頬に添えた手で元親の髪に触れた。
優しくそっと髪を撫でて。
「こんな呪いかけるくらいなら、いっそ殺してくれりゃいい。ずっとそう思ってたのさ」
それは政宗の真実なのだろう。
それが分かって、元親は唇を歪めてただ瞬いた。
政宗の声はどこまでも穏やかで、元親は政宗のもう片方の手を握ることしかできない。
「でも、アンタの枕になるのも、悪いもんじゃなかったな」
「政宗…」
ぎゅと、元親の手が握りかえされる。
「あのとき、嘘をついて悪かった」
まっすぐに向けられた視線と言葉に、元親は震える唇で笑ってみせた。
「もう、気にしてねえよ」
そう言えば、政宗は呆れたように眉を下げて、柔らかく苦笑した。
「そこは怒ってていいんだよ」
笑って、そして政宗は大きく咳き込んだ。
握っていた手、そして髪に触れていた手から力が抜けて、元親を映していた瞳がゆらりと揺れる。
まるで元親を探すかのように。
元親は頬にそうた政宗の手を両手で掴んで、己の頬を押し当てた。
自分の存在を伝えるように。
政宗の瞳がもう一度元親を映す。
「アンタの幸せを祈りたいって、そう思ったのさ」
「おれの…?」
「Ya. でも、ダメだな。やっぱ離したく、ねえ。物わかりのいいふりなんざ、ご免だ。おれのエゴでも、我が儘でも何ででも、おれのもんにしてえんだよ…」
熱に浮かされたような掠れた声が空気を震わせ、元親は甘美な甘さにぞくりと肌を震わせた。
元親の頬を覆う大きな手が、後ろ頭にまわり、そして引き寄せられる。
視界一杯に政宗の顔が映って、すぐそこに、自分を映す黒い瞳があった。
吐息が肌に触れる。
「I love you アンタを、愛してる」
だから、と。
政宗は柔らかい微笑を刻んで目を閉じた。
その瞬間吐息で告げられた言葉。
「側にいろよ」
そして、元親を引き寄せていた手から力が抜けた。
だらりと元親の頬をすべって落ちる。
膝の上に抱いた体躯が重くなる。
「まさむね…」
元親は目を見開いたまま、呆然と呟いた。
「なあ、待ってくれよ」
なあ、頼むよ、待ってくれ。
だってまだ伝えてないんだ。
おれもお前のことが好きだって。
ずっと側にいたかったんだって。
本当は、出て行きたくなかった。
お前の側にいたかった。
誰に認められるでもなく、おれはお前に必要とされたいんだ。
誰でもいいんじゃない。
お前がいい。
腹のそこからこみ上げてくる熱いもの。
それは喉をふさいで、唇からは意味のない喘ぎしかでてこない。
胸が引き絞られて、息ができなくなる。
がむしゃらに手を伸ばす。往生際悪く追いかける。みっともなくすがりつく。
今まで元親が簡単に諦めてきたもの。
諦めたふりをしてきたもの。
なくしたくない握りしめていたい。
胸の中できらきら光る、けれどときに痛みをもたらしもするもの。
自分とは違う、異形の体を優しく抱きしめたいと思う。
そして自分を抱きしめて欲しい。
優しく腕で包み込んで。
そして、息も出来ないくらいに強く抱いて欲しい。
政宗の体躯に抱きしめられたとき、どこか切ない幸福感を感じた。
ああ、そのとき感じた気持ちを言葉にすると何になるんだろう?
泣きたいような切なさと喜びを、どう言葉にすればいい?
ねえそれはきっと。
「なあ、起きろよ、政宗」
膝からずりおちた体躯をのぞき込んで、元親はその頬を両手で包み込んだ。
触れた頬はまだ温かい。
「返事聞いてから寝ろよ」
答えはない。
元親は瞬いた。
目から熱い滴がとめどなくこぼれ落ちていく。
「起きろよ!おれにも言わせろってんだ。なあ…」
頬にかかる鬣をはらって、元親は顔を近づけた。
唇が触れあうその刹那に見つけた言葉。
「おれも、愛してる…」
I love you, my Beast.