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覚悟しろと宣言したとおり、城を出て行くこともなく、元親は怪我をした政宗の世話をこまごまと焼いた。
それこそベットまで食事を運んできたり、シーツを取り替えてくれたりなどだ。
小十郎も基本的には口出しせずにそれを見守ることにしたらしい。
政宗の今までの人生において、寝付いたなんていう経験は熱病にかかったときぐらいのものだったので、寝込んで人に世話をされるというのはたいそう新鮮なことだった。
そもそも甘やかされることに慣れないし、何より妙に気恥ずかしい。
なので、二日ほど寝たら、政宗はさっさと床を払った。元親はまだ心配と言いたげな顔をして、政宗は思わず苦笑した。
「Ah,これ以上寝てたら腐っちまうぜdarling」
「でもよお」
しぶる元親に、政宗は悪戯を思いついたように唇を引き上げて笑った。
元親の腕を取ってそのまま抱き寄せ、その体をダンスの要領でくるりと回してみせる。
「おわっ」
「ほら、普通に動けてるだろう?」
元親の腰に手を添えて、おどけた風にその背中を反らせてやれば。
元親は声をあげて笑った。
「たしかに十分、元気になったみてえだな」
体勢に動じることもない元親に、ああ最初にもどっちまったかと思ったが、以前と違って苛立ちは感じなかった。
元親の体が強ばらないのは、きっと自分に気を許してくれているからだろうと、今の政宗には分かったからだ。
だから物足りなさを感じる必要も、ましてや寂しく感じる必要もない。
そう己に言い聞かせて、政宗は元親の体を解放した。
「でもまだ怪我が治ったわけじゃねえんだから、無理はすんなよ」
「Ah,分かってるよ。心配してくれて、Thank you honey」
そう言えば、元親は照れたように、嬉しそうに破顔して。
「おう」
そう頷いた。
その笑顔を見れば、勝手にこちらの顔も綻んで、胸がなんだかくすぐったくなる。
愛しさがあふれてくる。
元親が庭の手入れをしているのを廊下から見ていたら、元親が側に来てこう言った。
「な、よかったら庭で午後のティータイムと洒落こまねえか?」
「An?」
「テーブルだして、いやいっそティーセットだけ持ち出してよ。芝の上でお茶すんだよ。絶対気持ちいいって!な、どうだ?」
あまりにもその様子がはしゃいだものだったので、政宗は文句を言うのも馬鹿らしくなってしまった。
どうせ秘密はばれているのだ。
ここで嫌だと突っ張るのも、それはそれでなんだか癪だ。
いいぜと頷けば、元親は顔を輝かせて、お茶の準備してくるとすっとんでいった。
政宗は思わず呆れてしまった。
ついで、笑いがこみ上げてきた。
ずっと知られたくないと思っていた秘密は、元親からしたら午後のお茶に比べたら些細なことらしい。
秋風は爽やかで気持ちが良い。
誘われるように、政宗は庭に出た。
体が熱を帯びて細胞が変化する。
視界が高くなり、風の匂いを感じ取る。
久しぶりに身をさらした太陽の光は、眩しすぎずに穏やかに政宗を照らした。
温かくて、心地良い。
「政宗え!」
声に振り返れば、片手にバスケットを持った元親が手を振っていた。
太陽の光が元親の髪に反射して、政宗は思わず目を細めた。
普段はわずかに政宗を見下ろしている元親が、政宗を見上げる。
じっと見つめるその眼差しに、どきりと胸が騒いだ。
一滴の恐怖が胸に落ちる。
元親は唇を緩めた。
「お前の鬣、金髪みてえになってる」
機嫌良く笑って、今日のおやつはチーズケーキだぞと、元親は人でない獣の腕を軽く叩いた。
刈り込まれた芝生に腰を下ろして、お茶をした。
行儀悪いけどなと、悪戯っぽく笑って、元親は手づかみでケーキを食べた。政宗もたまには面白いと、生まれて初めて、手づかみでケーキを食べた。
紅茶の入ったカップは、元親が木で作ったというお揃いの二客。政宗のは獣の手でも持ちやすい大きいもので、元親のは一回り小さいカップだ。
あまりにも日だまりが気持ちいいから眠くなったと元親は言い、二人して寝ころべば枕にされた。
「さすが、ふかふかだなー」
「おい」
「いいじゃねえか、減るもんじゃねえし」
「毛が絡まる」
「あとでちゃんとブラッシングしてやるよ。なあ、気持ちよくねえか?」
「……まあ、気持ちはいいがな」
「このまま昼寝したら最高だろうなあ」
「おい、寝るなよ」
「あー、まじ最高…」
目を閉じてうっとりと呟き、元親はそれきり黙ってしまった。
本気で寝てしまったわけではないだろうが、政宗は騙されることにした。
意識せず、尻尾がぱたりと揺れた。
政宗も目を閉じてみた。
草を揺らす風の音がする。
腹の上に、元親の体の重み。
確かに、このまま眠ってしまってもいいほどに心地よいと、認めてしまったので。
***
一度庭で一緒に昼寝して以来、政宗はよく元親と並んで庭にでるようになった。
庭をぷらぷら散歩したり、元親が仕事をするのを後ろからからかったり、お茶をしたりするようになった。
太陽の下、時折笑うようになった。
鋭い牙が見えても、元親はそれを恐ろしいとは思わなかった。
その毛並みは手触りがいいし、寝心地も最高だ。
いつもは目線が下に向くから、たまに見上げるのも新鮮で楽しい。
獣になると政宗は鼻が効くらしく、野いちごなんかを簡単に見つけてくれたりする。
陽の光に反射して、瞳の虹彩が時折金色に光って綺麗だと思う。
何より政宗はその腕で、脚で、元親を助けてくれた
だから、その姿が人とは異なるものとなっても怖くなどない。
むしろ、その姿を見せてくれるようになったことが嬉しいなんて。
言葉にはしないが、元親はそう思っていた。
過去を話してくれたのは、獣の姿を見せてくれるようになったのは、元親を受け入れてくれたように思えたから。
この不思議な城についても色々と教えてくれた。
「そういえばずっと聞きたかったんだけどよ、よくこの城で二人で生活できてたな?どう考えたって、手え足りねえだろ?」
そう問えば、政宗はああと軽く頷いた。
それかと答えて、政宗は悪戯っぽく目を光らせてにやっと笑った。腕を持ち上げて、政宗は指をぱちりとならした。その瞬間、食堂のロウソクが一斉に灯って、元親は目を丸くしたものだ。
「飼い殺すための労力は惜しまない質らしくてな。屋敷の中はこの通りだ。ま、とはいっても庭の植物まではこの力は及ばないらしいから、逆に小十郎は退屈しなくていいみたいだぜ」
政宗はそう言って、目を柔らかく細めて笑った。
小十郎を思って浮かべた笑みを見て、こちらの胸も温かくなると同時に、何故かちくりとした痛みが走った。
元親はそんな己の反応に戸惑った。
本当ならば、政宗が大事を取って寝ているとき、政宗の看病をするのは小十郎の役目だった。
それを、政宗が怪我をしたのは自分のせいだからと強引にかわってもらったのだ。
早く怪我がよくなるようにと、小十郎にアドバイスしてもらいながら料理もしたし、怪我の消毒やベットメイキングまで、つきっきりで世話を焼いた。
鬱陶しがられやしないかなと、ちらりと考えたが、何くれと構いたがる元親を、政宗は苦笑はしたが好きにさせてくれた。
元親は政宗のために何かしたかったのだ。
形にして、政宗に受け取って欲しかった。
認めて欲しかった。
今まで元親の中にはなかった想い。
元親の中には、『政宗』という男の名がしっかりと刻まれているのだ。
それを明確に自覚したのは、屋敷を飛び出した自分を政宗が助けてくれたときで。
名前を呟いた元親を振り向かずに、去っていこうとした背中に、目を奪われた。言葉を奪われた。
城に帰ってから、政宗は元親が勝手に死ぬのを、放っておけなかったと、言ってくれた。
元親を、惜しんでくれた。
そう知ったとき、言いようもないほどに胸の奥が熱く火照って、意味もなく泣きたくなった。
心の一部を奪われた。
そのときからずっと、元親の胸には熱の芯がひっそりと燃えているのだ。
元親は政宗のことが気に掛かって仕方がなくなった。
はっきりいって、こんなことは今までなかった。どう考えても異常事態だ。
気がつけば、政宗のことを考えている自分がいる。
側にいたい。
近づきたいと思っている自分がいる。
その気持ちが何なのか、どこから来るのか元親には分からない。
分からないけど、気持ちは自分のなかに明確に存在するのだ。
そして、どこまで近づいて許されるのかも、元親には分からないのだった。
分からないことだらけだと元親は思う。
元親が知っているのは、政宗が元親に示してくれたものだけだ。
政宗の怪我を見ると、胸が甘く疼いた。
胸が痛むのに、その痛みはどこか甘い。
聞きたいことは一つだけ。
秘密を知られたくなかっただろうに、助けてくれたのはどうしてだ?
まるで政宗に必要とされているかのように錯覚してしまう。
胸に開いた小さな乾いた穴が、温かい何かで埋められる。
元親がずっと欲しいと願っていたもの。
求めていたもの。
夢。
なあ、どうすれば手にはいるのだろう?
「Hey,元親」
「…あ?」
「何ぼうっとしてんだ、ついたぜ?」
呆れた顔で政宗がこちらをみているのに気付いて、元親は慌てたように頷いた。
そこはこの城の中でも一際豪華で大きな扉の前だ。
「アンタが見てみたいって言ったんだろうが」
城は自由に歩き回っていたが、その中に一部屋、常に鍵がかけられているところがあったのだ。
以前は別段興味もなかったし、わざわざ尋ねることもしなかったが、この城に馴染んだ今では俄然、気になっていた。政宗に言ってみたら、見てみるかと言われて、連れだってやってきたというわけだ。
「わ、悪い!」
自分から言い出したことなのにぼんやり物思いにふけっていた元親が慌てて謝れば、政宗は肩をすくめて、深く追求はせず大きな鍵穴に鍵をさし込んだ。
政宗の後に続いて中に入る。
「政宗、アレやってくれよ!」
うきうきと急かせば、政宗はやれやれと首を振ってぱちりと指を鳴らした。
一拍の間のあと、一斉に明かりが灯される。
「すっげえ…!」
照らされた部屋の中を見渡して、元親は思わずそうこぼした。
中央にはシャンデリア。城にあるどの部屋よりも広いだろう。天井には美しい装飾画。壁には鮮やかなタイル。
「ここ、何なんだ?」
「広間だな。舞踏会やら、夜会やらの催しをするための部屋だ。一番の金のかけどころとも言うな」
「なるほど、だからこんなに派手でピカピカしてんだな」
そう揶揄するように笑いながらも、元親の目は手の込んだ装飾に釘付けだった。
細工物全般が好きな元親からすれば、この部屋全体が宝石箱みたいなものだった。
きょろきょろと部屋を見回る元親を、政宗は諦めたように、どこか面白がるように見ていた。
しばらくはそうやって大人しく元親をほうっておいてくれたのだが、元親が柱の装飾を触って細工の細かさに唸っていると、政宗は元親の隣にやってきた。
柱に夢中になっていたとはいえ、元親は政宗の気配にすぐに気付いた。
元々気配には聡かったが、このごろ、特に政宗の気配に対しては敏感になっていることを元親は自覚していた。
どしたと顔を向ければ、政宗は唇を弧に描いた。
この顔は、元親を揶揄するときに見せる顔だ。
前はただ嫌味な笑みとしか思わなかったが、最近は嫌味だがうっかり仕方ないと思ってしまうような子供みたいな楽しげな笑みだと思うようになった。
「ここは舞踏会や夜会で使う部屋なんだよ」
その説明はさっきも聞いた。
「? 装飾にこれだけ気合い入れてんだからそうだろうよ」
「Ah,だから、そうやって柱を鑑賞するための部屋じゃねえって言ってんのさ」
きらりと瞳を輝かせて。
政宗は元親の手を引いた。
「Shall
we dance?」
歌うように楽しげな声が空気を震わせ。
「ちょっ、おれが踊れるわけねえだろ?!」
「No
problem!手とり足とり教えてやるよ」
ぐらついた体は政宗に支えられ、そのままくるりとターンさせられる。
いつの間にか政宗の手は元親の腰に添えられていて、流れるようにステップをリードされていた。
甘い声がワン、ツー、スリーとリズムを刻む。
くるりくるりと視界が回る。
しばらくはステップを追うのに必死になっていたが、慣れてきたころに元親はふとあることに気がついた。
元親は顔をあげて政宗を見返した。
「おい、ちょっと待て」
「An?」
「これ、女のステップじゃねえのか?」
政宗はわずかに首を傾いで悪びれずに笑った。
「よく気づいたなHoney?」
「気づかないわけねえだろ!」
「踊りには違いねえだろうが?」
「ばっか、女のステップが踊れてもこれじゃあ、誰も誘えねえだろうが」
元親が笑みを混じらせ、文句とも言えない文句を吐けば。
「誘わなきゃいい」
政宗は、さも当たり前のようにそう言った。
からかうような言い方と明るい声。
いつもの軽口。いつもの揶揄。
そう思っても、政宗の言葉に、心臓は勝手にどきりと大きな音を刻む。
政宗の唇は柔らかな弧を描いている。
すぐそこにある黒い瞳が、じっとこちらを見つめている。
瞬きもできない。
にわかに、繋いだ手と、寄せた体の存在を意識した。
そう、二人はワルツを踊っているのだ。
体を寄せて。手を繋いで。
どくどくと心臓が早鐘を打つ。
掌がかっと熱を持った気がして、元親は己の変化を悟られるんじゃないかと気が気じゃなかった。
気付かれたらどうなってしまうのかなんてことまで考えはまわらない。
だから気付かれたくないというより、気付かれるということそのものに戸惑いを覚えていたのだ。
どうしてか、視線をそらして逃げ出したいような気持ちになった。
けれど同時に、ずっとその瞳を見つめていたい気もする。
黒い瞳の奥が、じわりと熱を帯びているように見えて。
いつの間にか、ステップを踏む足は止まっていた。
繋いでいた手が離れていく。
「あ…」
吐息と共に零れた声はふわりと宙に溶けて消える。
肺が締め付けられたような気がして、胸が詰まる。
この感情は何だ。
この痛みは何だ。
にわかに体をつきぬけていった言葉があった。
ああ、淋しいと。
政宗の手が離れていく。触れていた手が。
それを元親は寂しいと思った。
寂しさを自覚したと同時に、名も分からぬ感情が胸を熱くして、元親は瞬いた。
止まっていた時間が動き出す。
元親は唇をかすかに引き上げて頷いてみせた。
「…いいぜ?こいつはお前と踊る専用にしてやるよ」
うまく笑えていたと思う。
「だいたいこんな堅苦しいワルツなんざ、貴族の夜会でもなけりゃ披露する機会はねえしな」
不自然にからりとした声でそう言えば、政宗はそりゃ光栄だと唇に刻んだ笑みを深くしたから。
熱をたたえているようにみえた黒い瞳はもう、いつものそれに戻っていて、元親は無意識にほうと息をついていた。
そのため息は安堵からなのか、それとも落胆からなのか、元親には分からなかった。
「庶民の踊りってのはどういうのなんだ?」
「ん?」
「アンタらだって祭りでもありゃ踊るんだろ?ワルツじゃなけりゃどんな風に踊るんだ?」
何でもない政宗の問いだったが、瞬間元親は言葉に詰まった。
春の花祭り。夏の夜祭り。秋の収穫祭。
祭りには踊りがつきもので、特に夏の夜祭りは夜空の下、火を囲んで踊るのだ。
元親も、何度か村のみんなと踊ったことがある。
母親が生きていたころに。
父親と二人になってからは、丘の上で、遠くの音楽を聴きながら一人で踊っていた。
元親はふと笑った。
「そうだなあ」
さっきとは違う、激しいテンポで元親は足を踏みならして見せ、手を叩いた。
「こんな感じか」
「ほう?」
「何なら歌つきで踊ってやろうか?」
感心したように目を見開いたその反応に気をよくしてそう言ってみれば。
「Ah,熊のうなり声を伴奏に踊るってのも斬新で面白いかもしれねえなあ」
「うっせえよ!」
唇を尖らせて不満を表せば。
くつりと喉を震わせ笑いながら、政宗は是非に頼むとそう言った。
「歌つきで踊ってみせてくれよ、darling」
望むところだと、元親は返事代わりに足を踏みならしてやった。
[
夜と朝、元親は政宗の部屋にやってきて、政宗が腕と脇腹に負った傷を消毒し包帯をかえた。
包帯を巻く手は、みかけによらずに繊細で、優しかった。
そっと気づかい、注意しながら手当してくれているから、痛みなんぞ感じるはずがないのに、元親はいつも大丈夫か政宗に問うた。
「痛くねえか?」
「Ah,痛いどころか、くすぐってえよ」
「だったら傷口が開かねえ程度で笑ってろ」
元親は笑いながらそんな事を言ったが、手つきは優しいままだった。
以前とは違う、元親が政宗に向ける空気。
元親の中に自分という存在があることが分かる。実感できる。
そのことがくすぐったくて、嬉しい。
同時に、切なさを政宗は感じた。
その切なさの根にあるのは、政宗が元親に抱く罪悪感なのだと思う。
政宗は、元親を傷つけたいと思っていて、そのために彼を引き留めたのだ。
自分でも見て見ぬふりをしてきた鬱屈をはらすために、元親を傷つけようとして、ひどいことを言った。
傷つけられれば、誰だって痛い。
そのことを、政宗も知っていた。知っていたけれど、その痛みの感覚が麻痺していた。
今ではそんな己のことも受け入れている。
政宗は上着を脱いだ。腕の包帯を取れば、狼につけられた赤い爪痕が現れる。
そう、傷ついたら、痛むのだ。
「あ!こら、何勝手に包帯とってんだよ!」
おしかりの声が飛んできて、政宗は肩をすくめて唇を緩めた。
夜。寝る前に元親は、包帯をかえるために政宗の部屋を訪れる。
振り返れば、元親が眉を寄せて立っていた。
「Ah,丁度アンタが来る頃だろうと思ってな」
タイミングはぴったりだろう?と言えば、元親はそうだけどよと、それでも釈然としないと言いたげに唇を尖らせる。
その様が、まるで拗ねているようにみえて、勝手に頬が緩んでしまう。
可愛いだなんて、素面で思っているあたりが我ながら手の施しようがない有様ではある。
「ったくよう。ま、取りあえず座れや」
促されて長椅子に腰を下ろせば、元親は椅子の前に膝をついて、政宗の胴に巻かれた包帯を取った。
「…こっちはだいぶよくなってきてるな」
安堵したように目を細めて、元親は傷口に薬を塗った新しい布をあてた。
ぴくりと肌が震えれば、気づかうように視線が上げられる。それを見下ろして、政宗は唇を少し引き上げて、安心させるように笑う。
それは元親が城に戻ってきてから、毎日繰り返される時間だった。
静かな沈黙が部屋を包む。
傷の手当てをしているとき、元親はあまり言葉を発しない。
政宗も、何か話かけるわけでもなく手当されるにまかせている。
本当は、元親に謝りたいと思っていた。
今まで自分が元親にしてきたことを。
けれど、どうやって許しを請えばいいのか、政宗にはそれすらも分からないのだ。
それに何より、元親の頭を見下ろしながら思うことは、自覚しても尚どうすることもできない身勝手な己の欲だった。
元親に側にいて欲しいという我が儘な願い。
この今が壊れて欲しくないと思うからこそ、結局自分は謝ることができないのだろう。
今抱いている気持ちでさえ。
散々振りまわしておいて。
今さら、恋しいだなんて。
どの口が言える。
ほろ苦い笑みが無意識に唇に浮かんだ。
だから、政宗は元親に触れることができなくなったのだ。
揶揄うためだけに元親に触れることが、できなくなった。
本当は触れたいと思っている。
もっと近づきたいと思っている。
もっと、もっと。頬に触れて、体を抱き寄せたい。その瞳に自分を映して欲しい。
自分だけを。
「ん、こっちはできたぜ。次、腕な」
政宗が長椅子の上で体をずらせば、元親が隣に座った。
塞がってきている脇腹の傷とは違って、腕の傷は痛々しい赤色をしている。
「……」
治りがよくないそれを見つめたが、元親は何か政宗に問うわけでもなく手当をした。
時折元親の指が素肌に触れると、温かいものが胸の奥からあふれてきた。
満たされているなと思う。
自分は今、どこまでもやさしいもので満たされている。
だからたまらなく切ないとも思う。
仕事をよくするその手が、それとは違う繊細さで動くのを目にするたび、その腕を掴んで口づけたくなる。
舐めればその肌は途方もなく甘く感じるのだろう。
ああ、だってこんなにも愛しいのだから。
少し前。
城の中には唯一、常に鍵がかけられている部屋があって、政宗は元親にそこは何かと問われた。
そこは舞踏会が開かれるような広間だ。
人の集まりなどないこの城にもっとも不要な部屋だった。
華美なその部屋は、政宗が捨ててきたものの象徴のようにみえて、政宗はその部屋を閉ざし続けてきたのだ。
元親に部屋を見たいと言われて、政宗の胸は疼いた。
けれど、我を忘れるような苛立ちは浮かんでこなかった。
部屋を見せてやれば、元親は案の定細かな細工に感嘆の声をあげたが、綺麗と目を奪われるというよりは、どこまでも技術者として細工の細かさに感心しているようだった。
その姿はおもちゃに熱中する子供のようで、呆れると同時に、すとんと体から重みがとれた。
無意識に気負っていた自分を自覚して、政宗は苦笑した。
しばらく政宗は大人しく元親を見守っていたのだが、みごとに放ったらかしにされれば、面白くない。
せめて自分が側にいることくらいは、思い出してもらいたいものだ。
そんなことを思って、元親の手を取った。
ダンスを教えるのを口実にして、掌を合わせ体を寄せれば、血の熱さを実感した。
にわかに、天井からつるされたシャンデリアの明かりが、一際明るく燃え上がった気がした。
ロウの焦げる音、油の匂い、炎の熱を感じた気がして。
自分がこの男を求めているのだということを思い知らされた気がした。
それまでは触れることを躊躇い恐れてすらいたくせに、ダンスをして以来、欲を押さえ込むのが難しくなってしまった。
触れたい。
その頤に手をかけて、その顔を上向かせ、その口唇に口づけたい。舌を絡めて、吐息を奪って。
その体を抱いてしまいたい。
戯れに元親を押し倒したとき、何の感慨もなく自分はこの男を抱けるだろうと、ただ快楽だけに目を向けて下世話なことを思った。
抱きたいというわけではないが、抱けるだろう、と。
あのときの自分に言ってやりたい。
そんな余裕がもてるのも今だけだと。
余裕なんて欠片もない。
明確にこの美しい男を抱きたいと、自分は思っているのだ。政宗はそのことを自覚している。
白い肌に、自分が刻んだ印を残したい。
脳髄をどろどろに溶かす甘い熱が政宗を飲み込もうとする。
「これでよし、と」
呟いた元親の声で我に返る。
瞬けば、元親が顔を上げてこちらを見た。
元親の瞳がすぐそこにあって、その瞳に映っているのは自分だけだ。
元親の唇が緩む。
眉を下げて首を傾ぎ、名前を呼ぶ。
「腕は、もうちょっとかかりそうだな」
政宗は頷く代わりに、分かっていると肩をすくめた。
「寝る前に何か飲むか?」
いやと首を振れば、そうかと頷いて、元親は立ち上がった。
「んじゃ、また明日な」
かすかな微笑を落として、元親が部屋を出て行くのを見ていた。
「おやすみ、政宗」
「Good night honey」
扉が閉まって、政宗は吐息をこぼした。
上着を羽織ることもせず、己の腕に視線をやる。
真っ白な包帯を見て、政宗は反対側の腕を持ち上げた。
何の躊躇いもなく、包帯の上から傷口を思い切りひっかいた。
瞬間、鮮やかな痛みが神経を伝い、政宗は顔を伏せた。
元親に対して引け目を感じている自分は、その瞬間が来ることを何より恐れているのだ。
元親が自分に背を向けるその瞬間を。
傷の看病をすることは、そのまま元親が自分の側にとどまってくれている理由であった。
月日が経てば、傷は塞がっていく。
だから政宗は、毎夜元親が部屋をでたあとに、腕の傷を抉った。
不自然なそれを、元親が気付いているのかいないのかは分からない。
元親は何も言わない。
だから政宗も何も言えない。
唇が歪んだ。
我ながら滑稽だと思った。
けれど。
滑稽でもかまわない。
エゴだ我が儘だ身勝手だと詰られてもいい。
側にいて欲しいと、ただそう思っていた。
***
政宗の部屋をでて、元親はあてがわれた自室に戻った。
寝間着に着替えることもせず、元親はぽふりと寝台に俯せに倒れ込んだ。
シーツにもぐりこむわけでもなく目を閉じる。
朝と夜、元親は政宗の包帯をかえる。
小十郎から無理矢理もぎ取った仕事。
政宗の体に刻まれた傷を思い出す。
そうするといつも胸がぎゅうと痛みを覚えて、そして同時に言葉にしがたいとろりとした甘さを感じた。
元親を助けて、政宗が負った傷。
早く治るようにと祈りながら、治らなければいいなんて、ひどいことを考える自分がいた。
そのことを自覚したとき、元親は今まで立っていた場所が、本当は地面ではなかったのだと知らされたかのような衝撃を受けた。
生々しい感情が己の中にも息づいていることを知る。
元親自身にも御することのできないものが、己のなかに存在している。
その傷が治らなければいい。
それは政宗が元親をかえりみてくれた証だから。
そして、自分が側にいられる理由だから。
毎夜、傷の具合を見るたび、心が揺れた。
順調に塞がっていく腹の傷に安堵し、塞がらない腕の傷に安堵する。
政宗の負った腕の傷は、腹のものよりも治りが遅い。
どうしてかはよく分からないが、きっと腕は動かしたりしているから、傷口が開きやすいのかもしれなかった。
自分はどこかおかしくなってしまったと元親は目をきつく閉じた。
痛々しい腕の爪痕を見ると、胸が疼いて目の奥が熱を帯びる。
そして、その傷口に、口づけたくなる。
その肌に、触れたくなる。
熱いため息を吐いて、元親は寝返りをうった。
美しい細工で埋められた広間でワルツを踊ったときに気付いたこと。
政宗は、自分に触れなくなった。
考えてみれば、それが普通だ。
何かにつけ元親に触れてきた以前のほうがおかしいのだ。
政宗が政宗に手を伸ばしてきた理由は別に、愛情ではなかった。
それを理解していて、元親は伸ばされる手が嫌ではなかった。
手を伸ばす理由が情ではないのなら、手を伸ばさなくなる理由は何なのだろうか。
ダンスのために掌を合わせたとき、元親は政宗の肌が己のそれに触れるのが随分と久しぶりなことに気がついたのだ。
同時に気付いたのは、胸をつきぬけた寂しさだった。
物足りないと思った。
理由は分からない。
ただ、己以外の体温を欲した自分がいたのだ。
寄せた体躯。
すぐ側にある黒い瞳は以前と違って、熱を帯びて自分を映している。
どくどくと心臓が早鐘を打って、掌が熱を帯びた。
繋がっていなかった体と心が繋がっていく。
枕を引き寄せて、顔を埋めるようにしてぎゅっと抱く。
その瞳を見つめていると頭の芯がぼうっとする。
傷を見るとなんだか泣きたくなる。
素肌に触れた瞬間、心臓が跳ねる。
元親はぐと言葉を飲んだ。
衝動にまかせて叫びたくなるが、何を叫びたいのかが分からないから。
もどかしさが喉をふさいで、元親は身動きがとれなくなる。
ただ、求められたいなと思うのだ。
政宗に。
自分を求めて欲しいと、そんなことを望んでいる自分がいる。
腕を持ち上げる。
いつか政宗の手の痕があった肌を見つめた。
今では痕があったことも綺麗に忘れた肌だ。
けれど元親は覚えている。
掴まれた腕に込められた力の強さを。
それはそのまま、政宗の感情の強さだった。
無理矢理城に引き留めたときのように、がんじがらめに縛り付けて欲しいと思う。
以前、政宗に戯れに押し倒されたとき、元親は何も感じなかった。
今なら、今なら自分の体と心はどんな反応を示すだろう。
怖くないのかと問うた政宗の言葉のように、甘美な恐れを抱くだろうか。
怖いくらいに熱い黒い瞳に見つめられたい。
「政宗…」
まるで宝物のように名を呟いて目を伏せる。
いっそ何も考えられないくらいに奪い去って欲しい。
\
季節は巡って、冬になった。
普段は政宗に何か言うこともない小十郎が、唯一政宗に断りをいれずに祝っていたのがクリスマスだ。
関心のない政宗を叱るわけでもなく、ただ普段よりも手の込んだ料理をだし、部屋のすみに小さな樅の木を飾った。
この城に来た当初はそんなことをしても意味ないだろうと、文句を言いもしたが、そのうち政宗も何も言わなくなった。
文句を言おうとも小十郎がやめることはなかったし、逆を言えば小十郎が我を押し通すのはそのときだけだったからだ。
なので、時の流れが曖昧だったなかで、クリスマスの時期だけはその季節を思い出すことができた。
だから、今年は冬に入ったときには、すぐにクリスマスがくるなと政宗は思い出した。
元親がいるなら、いつもよりは派手に祝ってもいいかもしれないと思い、それを小十郎に言ってみれば、小十郎は真顔でとてもよい考えですと頷いた。
この調子なら、当日は素晴らしい料理がこれでもかというほどに用意されるだろう。
政宗は思わず小さく笑った。
どうせなら、サプライズパーティといきたかったが、そういうわけにもいかない。
元親にクリスマスパーティの話をすれば、顔を輝かせたので、ここ数日は三人で準備に精を出していた。
昨日には元親と一緒に森へ行き、樅の木をとりにいった。
今日は掃除した広間に樅の木に据え付け、小十郎と三人で飾り付けにいそしんだ。
男三人が騒ぎながら樅の木に飾り付けをしている様は考えてみれば恥ずかしい図だったが、その恥ずかしささえ楽しい気がするから不思議だ。
一応樅の木の飾り付けは終わったが、もうすこし何か飾ってもいいんじゃないかと思って、政宗は屋敷の中を歩いて回っていた。
その途中、ふと窓から外へと視線をやったとき元親の姿が目に入った。
今日の庭の手入れは終わったはずだ。
散歩ならば政宗を誘うだろう。
政宗は窓から離れて足を早めた。
外へ向かう。
獣となれば毛皮があるからか、あまり寒さは感じない。
丁度納屋の隣で、元親はうずくまってなにやらやっていた。
「元親」
声をかければ振り返る。
驚いたように目を丸くして。
「おう、政宗。どしたい?」
元親の口から吐き出される白い息をみて、政宗は呆れた。
「そりゃこっちの台詞だぜ。こんなとこで何やってんだ。寒いだろうが」
「んー、ちょっとな」
そういう元親の前には、何やらよく分からないものがあった。
ぎらりと光る斧に一瞬驚く。
「…What’s this?」
「お、よく聞いてくれたぜ!!こりゃ、おれが手塩にかけて作り上げた発明品、自動薪割機だ!」
「…自動で薪を割ってくれるのか?」
「おうよ。よく分かったな」
「Ah,そりゃそれだけそのまんまな名前つけてたらな」
「小十郎さんは分かりやすくていいって褒めてくれたぜ?」
「そりゃアンタのネーミングセンスの潔さに感銘を受けたんだろうな」
「名前だけじゃなくて、ちゃんと使い勝手もいいって言ってくれてるっつうの!」
「まあ確かに、勝手に薪を割ってくれりゃ楽でいいだろうが…」
そこまで言って政宗は唇を閉ざした。
元親と、元親が作ったという自動巻割機を見る。
そこにあるのは元親の発明品だった。
瞬間、息が詰まる。
政宗は、自分が元親の発明を目にするのが、これが初めてだということに気がついたのだ。
胸がひやりと冷えた気がした。
「政宗?」
急に表情を消した政宗を元親は不思議そうに見上げている。
「……」
元親が発明をすることは知っていた。
知っていたけれど、それだけだ。
瞬間、己に尽くしてくれる小十郎への妬みが胸を舐めて、政宗は顔を歪めた。
「…小十郎は、それ使ってんのか?」
「? ああ。馬車の荷が何か聞かれて説明したら、すごい興味もってくれてな。どうせなら使ってもらったほうがコイツだって嬉しいだろうからよ」
「……」
政宗は言葉を失った。
馬車の荷、その言葉が指すもの。
元親がここへやってきたとき、元親は馬をともなっていた。
元親は発明大会にでるための道行きで迷い、この城にやってきたのだ。
荷台にあったのは、大会に出品するための発明だろう。
己のエゴで身勝手に潰したもの。
夢だと言っていた、元親の声を思い出す。
元親が夢だと言ったその声を聞いたとき、政宗が感じたのは、どうしようもない不快感だった。
だから、嘘をついた。
制御できない身勝手な苛立ちを覚えて。
傷つけてやりたいと、そう思ったのだ。
冷えた胸がじくりと痛んだ。
政宗は元親のことを愛しいと思っている。
触れたいと、そう思っている。
けれど。
触れる資格なんぞありはしないではないか。
「もうちょい便利にできねえかなって、今改良してるとこなんだよ。どうせなら、クリスマスに間に合えばいいなって思ってよう」
元親は照れたようにはにかんだ。
「ま、日頃の礼にな」
「…随分と小十郎には優しいじゃねえの。礼なら、使用人じゃなくて屋敷の主人にすべきじゃねえのか」
ねっとりとした甘い声が、己の意志に反して唇をついてでた。
その甘さが含むものは、嫉妬以外のなにものでもなかった。
そのことを自覚して、政宗はとっさに顔を伏せた。
目の奥が熱を帯びていっそ痛みすら覚える。
いや、痛みを感じているのはもっと体の深い部分で、そしてその痛みは、まったくもってお門違いのものであった。
自分には、元親に何かを望む資格などない。
ないことを承知で、嫉妬する気持ちも、元親を求める気持ちも止めることはできないのだった。
「… じゃ か」
己の気持ちに息苦しささえ覚えていた政宗の耳に、元親の声が触れた。
それはどこか乾いていて、とても脆い何を含んでいたように思えたが、政宗にも元親が何を口にしたのかは分からなかった。
顔を上げた政宗が見たのは、元親の背中だった。
手にしていた道具を置く音がやけに耳についた。
振り返って元親は笑った。
いつも政宗に見せてくれる微笑。
「外でいじくってたら、体が冷えちまった。茶でももらいにいこうぜ」
それ以上何か言葉を紡ぐこともできずに、政宗は元親の隣に並んだ。
すぐ側にある体温が、やけに遠く感じられて。
淋しいと。
そう思った己の心に、どうしようもねえと政宗は自嘲した。
結局、己のことばかりだと。
***
この城で過ごすようになってからも、暇を見つけて元親は発明をしてきたが、一番の発明はやはり、自動薪割機だ。
もともと大会に出品しようと思っていたから、自信はあった。
しかし、実際に使って貰って喜んで貰えたときは、言いようもない充実感と幸福感を得た。
確かに便利だな、と小十郎は感心したように頷き、以来城の薪割りは元親の発明品の仕事になったのだ。
今でも十分役に立っているこの発明品だが、だからといって改良の余地はまだまだあると思う。
なので、ここ何日か、元親は自動巻割機のバージョンアップにむけて、思索を重ねていた。
もうすぐクリスマスだから、どうせならクリスマスに合わせてお披露目できればと思ったのだ。
小十郎が喜んでくれるのを想像すれば、ネジを締める手も軽やかになり、そして。
「……」
元親はため息を吐いた。
手を止める。
政宗のことを考えると、手は止まった。
もうすぐクリスマスがやってくる。
パーティでもするかと政宗に言われたときは、舞い上がってしまった元親だった。
集まってクリスマスを祝うなんて、いつ以来だろうか?
舞い上がって、そして元親は途方にくれているのである。
本当は、政宗にもクリスマスに贈り物をしたい。
けれど、きっと政宗は受け取ってはくれないだろう。
そう思うと、気分はふさいだ。
それこそしおれた花のようになった。
いつか花を持っていったときのことが思い出された。
いらないと言った温度のない声。
握りつぶされた花。
凍てついた瞳。
元親は思わず胸を押さえた。
鈍い痛みが繰り返される。
また、自分の想いを振り払われるのが怖い。
もう一度なんて、勇気はもてない。
それに。
「…おれにゃ、発明しかねえ」
呟いた声は自嘲を含んでいた。
政宗は元親が発明をしていることは知っている。
けれど、発明を見てくれたことはない。
興味がないのなら、仕方のないことだし、普通の人間はそうだろう。ましてやあの男は貴族、いや王子なのだ。
だから、政宗が元親の発明に興味を抱かないことには納得しているし、寂しいと思うわけではない。
寂しいのは、発明と花以外のプレゼントを他におもいつけない自分だ。
唇を歪めたとき。
「元親」
元親は息をつめた。
目を丸くして振り返れば、黒い瞳と焦げ茶色の毛並みが美しい獣がいた。
心が騒いで、勝手に唇が笑みを刻む。
どうしたと問えば、政宗は呆れたかのように器用に眉を上げた。
「そりゃこっちの台詞だぜ。こんなとこで何やってんだ。寒いだろうが」
そう言われればまあ寒い。
何せもう冬だ。
中でできる作業は中でするが、自動巻割機は動かすのも一苦労なので、仕方ない。
そして元親はあることに気がついた。
政宗の目が、元親の前にある自動巻割機を映す。
「…What’s this?」
政宗が元親の発明を見に来てくれたのは、初めてなのだ。
「お、よく聞いてくれたぜ!!こりゃ、おれが手塩にかけて作り上げた発明品、自動薪割機だ!」
そう紹介すれば、すこし考えたあと政宗は名前だけで用途を察してくれた。
よく分かったなと笑えば、政宗はますます呆れたかのように首を傾いだ。
「Ah,そりゃそれだけそのまんまな名前つけてたらな」
「小十郎さんは分かりやすくていいって褒めてくれたぜ?」
「そりゃアンタのネーミングセンスの潔さに感銘を受けたんだろうな」
「名前だけじゃなくて、ちゃんと使い勝手もいいって言ってくれてるっつうの!」
「まあ確かに、勝手に薪を割ってくれりゃ楽でいいだろうが…」
そこで政宗の言葉がふいに途切れる。
それまでうきうきと話していた元親は、その様子にとまどった。
「政宗?」
その顔からは表情が抜けて落ちている。
まとう空気が冷たく感じるのは、ここが屋外だからだろうか。
「…小十郎は、それ使ってんのか?」
けれどすぐさま政宗は唇を緩めて、柔らかい声でそう問うた。
「? ああ。馬車の荷が何か聞かれて説明したら、すごい興味もってくれてな。どうせなら使ってもらったほうがコイツだって嬉しいだろうからよ」
政宗の纏う空気が冷えたなんて感じたのは、気のせいだったかと内心で息をついて、元親は問われた質問に答えた。
ふと、勝手に元親の唇が綻んだ。
「もうちょい便利にできねえかなって、今改良してるとこなんだよ。どうせなら、クリスマスに間に合えばいいなって思ってよう」
誰かの役に立つのは嬉しい。
自分がここにいることを、認めてくれたような気がするから。
「ま、日頃の礼にな」
照れくささからそう付け足せば。
どこかねっとりとした甘さを含んだ声が言った。
「…随分と小十郎には優しいじゃねえの。礼なら、使用人じゃなくて屋敷の主人にすべきじゃねえのか」
元親の心は瞬間、凍り付いた。
そして、痛むほどの熱を持った。
何て事はない言葉のはずだ。
わざわざクリスマスに合わせてといった元親への、罪のないからかいにすぎないはずだ。
なのに何故、自分は今、政宗の言葉に理不尽としかいいようのない憤りを覚えたのだろう?
こみ上げてくる衝動的なもの。
飲み込めない感情は熱っぽくて、どうしようもなく苦い気がして。
「……だってテメエは受け取ってくれねえじゃねえか」
こぼれた吐息に、元親ははっと我に返った。
自分自身に愕然とする。
これじゃあまるで、贈り物を受け取ってくれないことに拗ねて腹を立てているみたいではないか。
そもそも、政宗には元親からの贈り物を受け取る義務なんてない。
それを。
何故受け取ってくれないのかと、まるでそれが政宗の非であるかのように詰る己がいる。
元親はにわかに恐怖を感じた。
心を囚われることは恐ろしい。
同じように、その心も自分に囚われていないと嫌だと思ってしまう。
今まで見て見ぬふりをして生きた自分の欲を突きつけられる。
寂しさを、突きつけられる。
それは暗がりの中、姿も見えぬ誰かに手を引かれているかのようだ。
恐ろしいけれど、その手を離すこともできない。
その手が、温かいから。
元親は手に持っていた道具をおいた。
立ち上がって、笑う。
「外でいじくってたら、体が冷えちまった。茶でももらいにいこうぜ」
このままここにいてはいけない。
きっと政宗に見透かされてしまう。
隣に並んだ政宗に、どくりと一度鼓動が大きな音を刻んだ。
すぐそこ、伸ばせばすぐ手が届く。
けれど、触れることはない。
それはそのまま自分と政宗の距離だった。
その距離に安堵しているのか、切なさを感じているのか、もはや元親には分からなかったのだけれど。
]
ずっと考えていた。
「何、だったら、受け取ってくれる?」
その問いを口にするのに、今までの人生でこれほど緊張したことはなかったし、これほど恐れたこともないだろう。
一度振り払われたものを、もう一度なんて。
今まで元親は、自分から離れていくものを追ったことがない。
けれど、寂しくなかったわけじゃない。
いつのまにか、寂しさを感じることを、見て見ぬふりをする術を覚えてしまったけれど。
あのときも。
政宗に花を振り払われたときも、そうやって痛んだ胸を見ないふりをした。
けれど、今は花を振り払われたときとは違う。
元親は元親に近づきたいと思っていて。
政宗も、それを許してくれていると思う。
だったらもう一度、と。
初めて、元親は追うことを己に許した。
手が冷える。けれど次の瞬間、かっと顔が火照って、その熱はやがて掌に伝播する。
なあ、今ならお前は受け取ってくれるか?
おれの想いを。
***
その日の夜、元親はいつもと同じように包帯をかえるために政宗の部屋へとやってきた。
沈黙が満ちるのはいつものことだが、いつもと違うのは、その沈黙に政宗が息苦しさを感じていることだ。
包帯を巻く手が離れたのにともなって、政宗は上着を羽織った。
火は入れてあるが、流石に素肌になれば寒いからだ。
元親はソファから立ち上がったが、そのまま部屋をでることなく立ちつくしている。
政宗は、元親はすぐに部屋をでていくと思っていた。
いつものように。
以前、そうだったように。
何でもなかったように小さく笑みを浮かべて。
けれど元親はここにいる。
不思議に思って、政宗は元親を見上げた。
冬の夜は静かだ。
心臓が脈打つ音が分かるほどに。
政宗はソファに座っているが、俯く元親の顔はよく分からない。
「どうした、まだ何か用か?」
声をかければ、元親は僅かに肩を震わせたのが分かった。
その体を冷えた緊張が包むのが分かって、政宗は内心で顔をゆがめた。
言い方を間違えた。
これじゃあ、すぐに出て行けと言っていると誤解されてしまうだろう。
沈黙が息苦しくても、それは元親に部屋から出て行って欲しいわけじゃない。
息苦しくても、遠いと感じても、それでも側にいてほしくない理由にはならないのだ。
むしろ。
「sorry」
そう言えば、元親ははっとしたように顔を上げた。
ほろにがく、けれど唇で笑んでみせる。
「悪かった」
「何が…?」
「変な言い方した」
「……」
「あと、夕方も。嫌な言い方をしちまった。悪気は、ないんだ。ただ…」
「ただ…?」
そこまで言って、政宗は相貌を崩して苦笑した。
まっすぐに見つめてくる元親の瞳は、暗がりでみるとその表面がゆらりと揺れた気がした。
「小十郎に妬いたらしい」
目を伏せる。
そう、自分は小十郎に嫉妬したのだ。
腹と腕の傷がじわりと熱を持つ。
その痛みはけれど、己が生きているということを政宗に雄弁に教えてくれた。
安穏とした死なんてものはもう、政宗の中には残っていない。
政宗は腕を持ち上げた。
元親の腕に、そっと触れれば、元親の肌が震えるのが伝わってきて、瞬間無性に泣きたいような衝動が駆け抜けた。
泣きたいような衝動を感じながら、己の顔はけれど勝手に笑んでいる。
添えた腕を引き寄せて抱きしめたいと思う。
けれど、傷つけたいわけじゃない。
だから、政宗は触れていた手をそっと引いた。
元親の唇が震えるのを見た。
「お前さ」
「ん?」
「何、だったら、受け取ってくれる?」
「An?」
元親はぱちぱちと瞬いて政宗を見た。
その唇は歪んでいた。
その瞳は、一心に政宗を映していた。
「クリスマスの贈り物。何だったら、受け取ってくれる?」
元親はくしゃりと顔をゆがめた。
首を傾いで言う。
「おれ、そういうのよく分からねえんだ。小十郎さんになら、何か便利な発明をおくったら喜んでくれるって思えるんだけどよ。せっかくのクリスマスだ、どうせだったら、お前に喜んでもらえるもん、贈りてえ。でも、おれには発明しかねえんだ」
「…アンタにとって、発明はどんな意味を持つんだ?」
そのとき政宗には、元親がどうしてそんなにも贈り物にこだわるのか、すぐには分からなかった。
そんなことを聞かれるとは思わなかったのだろう、元親は目を見開いて、それからふとどこか遠くを思うかのような目をした。
「考えたこともねえよ。…でも、おれに発明がなかったらって思うと、怖いな」
「怖い?」
元親はどこか途方に暮れたように苦笑した。
「きっと何も残らねえから」
静かな声に、政宗はそれ以上の言葉を奪われた。
なあ、ともう一度元親が問う。
「何だったら、お前は受け取ってくれる?」
唐突にフラッシュバックした映像。
脳裏に鮮明な花の色。
政宗が喜ぶものと、元親は言った。
机の上に無惨にまき散らされた花を拾う横顔。
そして唇にかすかな笑みをはいて、悪かったと言った。
政宗は息を詰まらせた。
あのとき、政宗は元親からの贈り物を握りつぶした。
乱暴に投げ捨てて、そして。
傷つけるために真実を吐いた。
胸が引き絞られるように痛んだ。
あのとき元親は何でもないふうに笑ったけれど、本当はもっと痛かったんじゃないか。
どうして笑えた?どうして、それでもおれに礼を言えた?
もどかしい想いが喉をふさぐ。
政宗は気がついた。
城ですごし始めたころ。
元親は政宗に何の関心も払っていないと思った。
それは政宗に対してだけではなくて。
自分自身についても、そうなんじゃないか。
自分の傷には無関心で、それが逆に政宗の苛立ちを煽った。
どうして傷つけられて平気でいられる?
どうして、笑ってられる?
政宗はできなかったのに。
胸が苦しい。
もどかしさと切なさが入り交じって、どうしようもなくなる。
政宗は元親の腕を掴んだ。
そして、その体躯を力任せに引き寄せた。
触れる資格などないと、殊勝に受け入れていた戒めが壊れるのを、政宗はただ見送った。
腕の中に落ちてきた体を抱きしめれば、政宗と不思議そうに名を呼ぶ声が耳朶に触れて、目の奥が熱く濡れた気がした。
呼ぶ声にはこたえず、代わりに腕に力を込める。
元親は抵抗することもなく、政宗の腕の中にいた。
抱いた体から力が抜けていくのを感じた。
ほんの少し、肩口に寄りかかるように。
愛しいとか、恋しいとか。抱いている罪悪感も言葉に出せない謝罪も。何もかもがぐちゃぐちゃになった感情が体を走り抜けていく。
唇をゆがめて、政宗は情けなく笑った。
平気だった?簡単に笑えた?
そんなわけがない。
きっと元親も、平気なわけじゃなかった。
笑いたくて笑ったわけじゃなかった。
政宗はいつも己のことばかりで、そんなことも分からなかった。
今も。
自分は今きっと、声に出さずに泣いているのだと政宗は思った。
声高々に己の欲を泣きわめいて手を伸ばそうとする自分がいて。
そして、手を下ろす自分がいる。
元親の首元に顔を押しつけて呟いた言葉が何なのか、政宗にすらわからない。
そして、顔をあげた政宗は、元親を抱きしめていた腕から力を抜いた。
それは思っているよりはるかに労力と痛みを要したけれど。
元親の体を解放すれば、元親がこちらを見た。
透明な瞳だった。
どこまでも透明で、自分をまっすぐに映していた。熱をたたえて。
元親と視線を合わせて、唇を開く。
「いらねえよ」
いつかと同じ言葉に、元親の体躯は震えた。
逃げるように顔を伏せる。
政宗は元親の頬に手を伸ばした。
頤をそっと持ち上げて、視線を合わせる。
あのときと同じ言葉を吐いた。
けれど、あのときとは違う、ただ優しい声で。
それを分かってくれたのだろう。
元親の瞳は戸惑うように揺れていた。
「別段、望みはねえ。だから、いらねえよ」
「……」
「けど、アンタのくれるもんだったら、それが何でも、おれは嬉しい」
たとえそれがあれほど嫌っていた花だったとしても。
その想いは政宗の真実だ。
元親が政宗のために贈ってくれたものなら、きっとそれは特別だ。
声にならない言葉が胸にあふれている。
アンタが愛しい。恋しい。
アンタが、好きだ。
「アンタがおれのためにくれたものなら、おれは何だって嬉しいと思うだろうよ」
「本当か…?」
震える唇が問うた。
「今さら社交辞令なんざいわねえよ」
肩をすくめて、軽く笑ってみせれば、元親はほっとしたように体から力を抜いた。
そしてふわりと微笑した。
その微笑に促されるように、政宗は元親の頬に添えていた手を引いた。
心が、静かに宥められていく。
本当は、欲しい物は明確に政宗のなかに存在している。
掌の温みは、元親の体温と混ざって、その熱が果たしてどちらのものだったのかは分からない。
その熱が自分だけのものになればいいと思っていた。
今も、思っている。
けれど。
初めてあったとき、元親が口にした夢。
今はただ、元親の夢を叶えてやりたいと思う。
元親のことが、愛しいからだ。大切だからだ。
街に使いに出していた小十郎が耳にしてきた話を思い返して、政宗は己の心が穏やかに定まっていくのを感じた。
たくさん酷いことを言った。酷いことをした。
元親が笑顔を失わないからといって、傷つけた。
傷つけてそして、惹かれた。
向けられる笑みに、声に、救われた。
だから、今度は自分が、元親のために何かをしたいと思う。
何が何でも、側から手放したくないと駄々をこねる凶暴な想いも、自分の中には存在している。
けれど、それ以上に、元親の幸せを願いたいと思う。
クリスマスの贈り物は、パーティが決まったときから準備しだしている。
元親を求める想いをこめたそれとは別に、もう一つ。
言葉を贈ろうと思う。
ありったけの愛しさと祈りを込めて。
政宗は目を細めた。
「Ah,でもリクエストさせてもらえるなら、残るもんがいいな」
「分かった。お前にも贈り物、考えるからよ、受け取ってくれよな」
「楽しみにしてるぜdarling」
頷けば、元親は嬉しそうに破顔した。