W

 なあ、確かにおれは、たいがいのことを笑って飲み込んでしまえるけれど。
傷つかないわけじゃあないんだよ。

***

 そういえば自分は人と喧嘩というものをしたことがないのだと、しみじみと元親は思い返した。
 なので、政宗とのことが果たして喧嘩にあてはまるのかも自信はないのだが。 
 昨日の政宗はいつもと様子が違った。
 元親の手首をひねり上げて体を拘束し、寄せられた体躯。ああでもそれは、元親の甘い防犯意識を正してくれただけのことだから、おかしなことではない。触れてくるのももはやいつものことだし。
 むしろおかしいのは自分のほうだ。
 心臓が跳ねて、指がたどった肌が熱を帯びる。
 唇からこぼれた声は、いつもと違って上ずっていて、我ながら大丈夫かと問いたいくらいだ。
 なので、このときは様子が変だったのは自分のほうであって、政宗ではない。
 政宗の様子がおかしかったのはその後のことだ。
 あのあと、元親は庭の菜園の手入れをしていた。
 気配に気付いたのは体を伸ばそうと立ち上がったとき。
 振り返れば、庭を横切る廊下に、政宗がいた。
 静かな瞳でこちらを見ている。
 その姿を見つけるのは何度目だろう?
 いつもなら、唇を弧に描いて向こうから近づいてくるのに、元親が庭にいるとき政宗がこちらに来ることはない。
 思いついたそれは、本当にただの思いつきで、深い意図はなかった。
 元親は政宗のもとへと駆け寄った。
 驚いたように目を丸くしている政宗は新鮮で、それだけでなんだか楽しくなる。どこかくすぐったい気すらする。
「いっつも見てるばっかじゃつまんねえだろ?」
元親のその行動には、何の含みもなかった。
いつも政宗のほうから元親に声をかけてくるので、たまにはこっちからもと、そう思っただけだ。
「どうせなら手伝えよ!」
「おい!」
 焦ったような声が聞こえたが、突然の誘いに戸惑っているだけだと思った。
 ならば遠慮は無用だ。
 取った腕を引く。
 別に本気で政宗に雑草取りをさせようとは思っていない。
 温かい日差しは散歩にも最適だ。
 よかったら、ティーセットを持ち出して、外でお茶をするのもいいんじゃないか。
 そう思っただけだったのだが。
 政宗の足がつられるようにして一歩踏み出す。
 廊下から庭の土に、靴の先が触れたとき。
「Don’t touch me!」
 今まで聞いたことのないような声を聞いた。
 掴んでいた手を振り払うそれは拒絶だった。
 顔を歪めた政宗はすぐさま元親に背を向けて、その場を足早に立ち去った。
 元親は何もできなかった。
 政宗を引きとめることも。訳を聞くことも。怒ることも。謝ることも。
元親ができたことといえば、ぽかんと唇を少しばかり開いた間抜けな顔で政宗を見送ることぐらいだ。
 振り払われた己の手を見る。
 ほんの少し前、政宗に痕が残るくらい強く掴まれた手を。
 どうやら自分は、政宗の機嫌を損ねたことらしいということは分かった。
 明確に拒絶されたのだと飲み込んだあと、喉の奥が鈍く痛んだ気がした。
 痛むのは胸の奥だ。
 自覚したあと思ったのは、何故そんなところが痛むのかということ。
 それは忘れて久しい痛みだった。
 その痛みがどうして起こるのか、元親には分からない。
分かることは、どうやら自分は、政宗に拒絶されると胸が痛むらしいということ。
夕食のときに顔を合わせたが、そのときにはもう、政宗の態度は普通だった。
今日の朝もそうだ。
けれども昨日の出来事は明確に事実として元親の中に記憶されている。
なかったことには出来ない、とは言わない。
普段の元親ならば、政宗が昨日のことについて何もなかったという態度を示したならば、そうかと頷いて元親もそれに従っただろう。あえて蒸し返すほどの意味もないからだ。
 けれど今回は元親のほうも常とは違っていた。
 なかったことにはしたくないと思っている。
 理由を明確に説明することは難しいのだが、たぶん、元親の中に『政宗』という男のための場所が出来たからだ。
 雨の日泊めてくれた『恩人』で終わってしまうのではない、『政宗』という名が元親の中に存在している。そのことを自覚した。
 だってこんなに元親に関わってくれた人間なんていない。
 だから、なかったことにはしたくないし、されたくないと思う。
あまり自信はないのだが、昨日のあれが喧嘩だというのなら、仲直りをしたいと思うのだ。
 仲直りではなくても、元親は政宗のために何かをしたいと思った。政宗と、自分のために。
 しかしながら、今までの人生でとんと喧嘩をしたことがない元親は、どう仲直りをしたらいいのかもさっぱり分からない。
 たたき付けられた語気の強さ。向けられた背中は、気安く触れるのを許さなかった。
 ごめんと謝るのも何か違う気がするし、下手をすればますます政宗を怒らせそうだ。
 分からない元親が考えた末にとった行動は。
 花を贈ることだった。
 別段、何でもよかったのだが、既に使ってもらっている自動薪割機といった発明品は、あまりにも実用的すぎるし、使うのは政宗ではなく小十郎だ。
 発明以外に何かないかと考えている中、いつか村でみた光景が思い浮かんだのだ。
 男が女に花を贈っている光景が。
 受け取った女は、他人の元親から見ても、とても嬉しそうに喜んでいるのが分かったから。
 花なら飾っておけば部屋が明るくなるし、元親でも手に入れることができるだろう。
 この屋敷の庭は完璧に整えられているが、屋敷の隅は森と半分ほどもはや同化してしまっている。その辺りを探せば、花はいくつか咲いている。
 淡いピンク色と黄色の、素朴な野の花を摘んだ。
 倉庫代わりになっている部屋で花瓶になりそうなものを見繕って、元親はよしと頷いた。
「クリスタルの花瓶に薔薇の花ってわけにゃいかねえが、これはこれでいいもんじゃねえ?」
 うんと己が用意した贈り物に及第点をつけて、元親は政宗の部屋へと向かった。
 部屋の扉をノックして来訪を告げれば、中から聞こえていたヴァイオリンの音が止まり、入れよとの許しが出る。
「Ah,何か用か?」
「たいした用じゃないんだけどよ」
 そう言って部屋に入った元親を振り返った政宗が、元親の手元に視線を落とす。
その体が瞬間強ばったように思えたのは気のせいではないようだ。
にわかに部屋の温度が下がったような気がした。
「何だ、それは」
 問うた声は強ばっていて温度がない。
 元親は政宗を包む空気の変化に戸惑ったが、手元の花瓶を軽く掲げてみせた。
 元親の目的は、花を贈って、政宗に元親の気持ちを伝えることなのだ。
「いや、その、何て言うかよ。日頃の礼っていうか」「何の礼だってんだ」
 確かにそうだ。
 別に政宗は元親を構っているだけであって、それは別段礼を言うようなものでもない。むしろ日頃の礼と言うのであれば小十郎に言うべきだ。
 元親は困ったように眉を寄せて下を向いた。
 昨日のことを言葉で蒸し返すつもりはなかったから、逆にどう言えばいいのか分からなくなった。
「いや、礼っつうか、あれだ、その、今は花の盛りだし」
「盛りではねえと思うが?」
「あーうん、確かに盛りはすぎたな。でも咲いてるやつはいるし、たまにはいいんじゃねえかなと」
「何が?」
「花を貰うのも」
「Han?」
 あーと意味のない声をだしながら、元親はナイトテーブルのほうへ近づいた。
 花瓶を置いて振り返る。
「意味は別にないんだけどよ、貰ってやってくんねえか?」
「いらねえよ」
 声は相変わらず冷えていて、元親はますますどうしていいか分からず言葉を紡ぐことしかできない。
 いつもなら、いらないと言われれば、そうかとさっさと引き下がっただろうが、このときは未練があった。
「あー、でもほら、いい匂いだろ?気分も変わるかなって思ってよ」
 政宗の手が花に伸びるのを見た。
 唇が美しい弧を描く。
 その長い人差し指と親指で、どこまでも優雅に。
一本、花を取り上げて。
「いらねえって、言ってるだろう?」
 元親の目をまっすぐに見据えながら。
 政宗はくしゃりと花を握りつぶした。
「あ…」
 潰された花の残骸を無造作に床に落として、政宗は花の香りのする掌で元親の髪を撫で、顔のふちをたどった。
 きつい花の匂いが、とりまく空気を濃密にする。
 間近にある黒い瞳には熱の芯があって、ぬらりと光っている。
「悪い子だな、お仕置きされてえのか?」
 仕置きという言葉に反射で元親は後ずさった。
 既視感。
 同じように、政宗から逃げようと身を引いたことがあった。
 前と違うのは、政宗が追ってこないことだ。
 政宗との間にぽっかりと開いた空間。
 政宗は指で、ナイトテーブルに置いたままの花瓶をとんとついた。
 花瓶は簡単に倒れて、水と花をこぼしながらテーブルの上をごろりと転がる。
 思わずそれを目で追えば。
「本当はな」
「……?」
「ここから、アンタの目的だった街まで、半日もありゃ十分、たどり着けるのさ」
「何言って…」
 政宗は目を眇めて唇を綻ばせた。
 それはとても美しい微笑だった。
「あの日、本当は、アンタは間に合ったんだよ」
「……」
「アンタの夢に。おれが嘘を吐かなけりゃ、アンタは夢に間に合った」
 どこまでも耳に甘い声だった。
「何で…」
「Ah,ただの気まぐれさ」
 傲慢にそう言い切って、政宗は首を傾いだ。
 その告白は静かに元親の中に落ちてきた。
 雨の夜、自分を迎えてくれた政宗。
 間に合わないと、気の毒そうに言った声と、励ますかのようなほろ苦い苦笑。
 それも全て、偽りだったということを理解する。
 所詮、お貴族様の暇つぶし。
 なるほどと元親は政宗の言葉を理解した。
瞬きを一つ。
政宗の言葉を理解して、そして元親はそれを飲み込んだ。
 初めから分かっていたことだろう?
 城に留め置かれたときから、きっと暇つぶしのために自分を引き留めたのだということは。
「そっか…」
 呟いて、そして元親はテーブルに近寄り、倒れた花瓶と花を取る。
「まあでももう大会は終わっちまったし、次を目指すってのは変わんねえよ」
「……」
 そう言って顔を上げれば、さっきとは打ってかわって、苛立たしそうに眉をひそめた顔がそこにあって。
 元親は思わず苦笑した。
 仲直りをするために来たのだけれど、どうやら自分は方法を間違えたらしい。
「花、好きじゃねえのに、余計なことしたな。悪イ」
「……」
「あとで小十郎さんに机片づけてもらうよう言っとくからよ」
 水に浸かった花は元親の指を濡らしたが、冷たさなど感じなかった。
 政宗の声の冷たさに比べたら、何てことはない。
 慣れねえことはやっぱするもんじゃねえなあ。上手くいきやしねえと、内心でこぼして、元親は政宗の部屋を後にした。
 追ってくる声はなかった。

***

 この城での元親の立場は、始めお客様、後にわか使用人である。とはいえ、そこらへんの境目は城の主である政宗の気分によって変わるので、よばれれば夕食のサーブもしたし、食後に共に酒の相手を務めることもあった。
 今日は後者だった。
 政宗はあまり自分のことは話さない。酒を飲みながら話すのは主に元親のほうで、政宗は元親の話にからかいまじりの相づちをうつのがいつものパターンだ。
唇にかすかな笑みを浮かべて機嫌良くワインを口にする政宗は、昼間、元親の花を振り払ったことなどなかったかのようだ。
 だから元親も、昼間のことはなかったかのように振るまった。
 今日話していたのは、もう少ししたら行われる村の収穫祭についてだった。
 一年の中でもっとも盛り上がる祭りでは、普段は遠巻きにされている元親の家にも、細々とした手伝いの催促が来るのだった。
 一番忙しいこの時期には、村人も元親たちを必要としてくれた。
 必要とされること、誰かの役に立てること。それを実感できる。
 自分一人ではないことを認識できる。
「そろそろ村では人手がいるだろうなあ」
 思い返せば、無意識に唇が綻んで。ふとそう呟けば。
 政宗は元親の言葉には興味なさそうに肩をすくめて。
「村人一人がいなくなったところで、誰も何も構いやしねえだろうさ」
 そう言った。
 その声は驚くほど鮮明な響きを持って元親に届いた。
 胸にすとんと入り込み、そして鋭い痛みをもたらした。
 政宗の言葉は真実だ。
 真実故に、それは元親を傷つけた。
 昼間、政宗に告げられた言葉。
 本当は、夢に間に合ったのだと。
 政宗は知っていて黙っていたのだ。
 発明の大会が、元親の大事な夢だと知っていて、黙っていたのだと。
 それを聞いたとき、元親はそうかと頷いて、その事実を受け入れた。
 所詮それはもう過ぎ去ってしまった過去でしかなかったから。
 どこも痛まないような顔をして、何でもない振りをした。
 痛んだ自分の心を無視して。
本当は、痛みを覚えたのだ。
花を潰されたのを見たとき、本当は、自分の想いも潰された気がして、悲しかった。
胸が痛んだ。
傷ついたのだ。本当は。
目をふさいでいた傷を鮮やかに眼前に突きつけられた気がした。
 確かに自分は、たいていのことは受け入れて受け流すことができる。
 体と心を切り離して、自分も客観的に処理できる。
 だけど。
 なあ、全く傷つかないわけじゃあないんだよ。
「…そんなこと、言われなくても分かってらあ」
 元親に嘘をついたのだと告げたその言葉は、元親を傷つけるために選ばれた言葉だった。
「もう満足したか?」
 紡いだ声は強ばっているわけでもなく、我ながらただ静かだった。
「Ah?」
 政宗は元親の言葉を問い返すように眉を寄せて元親を見返した。
「一泊の礼だよ」
 それはもともと政宗が元親を引き留めるのに使った理由。
「ここにきてそろそろ一月だ。一宿一飯の礼だってんなら、もう十分だろ。なら、もうおれに用はねえよな?」
「……」
 突然の元親の言葉に、政宗は驚いたようだった。
 この城ですごす間、一度も不満じみたことを口にしたことがなかったからだろう。
 元親自身も、この城で過ごすことについては不満なんてなかった。
 むしろ、楽しいとすら思っていたのだ。
 どんな理由であっても、求められることを嬉しいと。
 そう思っていた。
 そのことに気付いて、元親は内心でほろ苦く笑った。
 村にいても、元親をかえりみる人間はいない。
 元親は一人だった。
 誰かに認められたいと思った。
 必要とされたいと思った。
 居場所が欲しいと、そう思っていた。
 だから、元親は発明大会で認められることを夢見たのだ。
 自分が作ったものが誰かの役に立つことを。
 役立つ道具をつくった自分が、必要とされることを。
 元親は夢見たのだ。
 その夢を、所詮泡沫でしかないと。
 そう言われた気がして。
 目を反らしてきたもの。
 まるでガラスでできていたように、足下が儚く崩れていく気がする。
 そこにいるのは元親一人だけだ。
 母親も父親もいない。
 元親を見て、元親を欲してくれる人などいない。
 温みも光もない世界は寂しいから。
 だから、振りかえらなかった。
 唇が歪む。
 喉の奥が、目の奥が熱くなる。
 元親一人、いなくたって、村では誰も困りやしない。
「おれ一人、ここからいなくなったところで、構いやしねえもんな」
 その言葉に、自ら傷ついていることなど知りたくもない。
 知りたくなかった。
 この男の存在に慰められて、縋っていた自分がいることなんて。
 だって、こんなに元親に関わってくれる人間なんていなかった。
いなかったんだ。
 政宗からの言葉はない。
 その沈黙は肯定だと元親は思った。
 椅子から乱暴に立ち上がって、元親は政宗に背を向けた。
「あの日、泊めてくれて、ありがとうよ」
 別れを告げる声はどこか湿っていたが、笑みを保つことはできたと思う。
 政宗の唇が何か言葉を紡ぐ前に、元親は逃げるように食堂を出た。
そして玄関まで元親はがむしゃらに駆けた。
 玄関を出れば、冷たい風が頬を撫でたが、その冷たさは体の火照りを沈めてなどくれなかった。
 厩舎に向かい、引き出した己の馬に乗る。
 荷台をつけることもせずに腹を蹴る。
 ただただ早くこの屋敷から遠ざかりたかった。
 胸にあったのは衝動的な望みだけだ。
 元親は唇から熱い吐息をこぼした。
 瞳の奥が濡れた気がした。
 今さら、声をあげて泣く方法も分からないというのに。






X
 
 傷つけたいと思っていた。
 傷つけて、傷つけられて、そしていっそ消えたいと。

***

 食堂から飛び出していった元親を、政宗は唖然と見送った。
 引き留めるという選択肢が頭に思い浮かぶ前に元親は部屋を出て行ってしまって、政宗はそして、自分は元親を引き留めたかったのかと自問した。
 昼間、政宗が花を振り払ったときも、嘘をついたと告白したときも、そうかと頷いて笑みさえ浮かべていたくせに。
 酒をともにしているときも、昼間のことなんてなかったふうに、隣に座って、政宗が求めるままに話をしてくれた。
 元親の村では、今のころは収穫祭の準備で忙しくなるらしい。
 そろそろ人手がいるころだと言った元親は、きっとその収穫祭を思い出していたのだろう。
 その唇がほころんで、柔らかな微笑が浮かんでいた。
 その微笑が、気に入らなかった。
 自分以外を思い浮かべて幸せそうな笑みを見せる元親が、気に入らなかった。
 確かに嫌味を吐いた自覚はある。
 けれど、飛び出していくほどのものでもないだろう。
 今まで政宗が仕掛けてきた質の悪いからかいや、元親が城にきたときに吐いた嘘に比べれば、可愛らしい嫌味ともいえない嫌味である。
 けれど、確かに元親は部屋を飛び出していったのだ。
「おれ一人、ここからいなくなったところで、構いやしねえもんな」
 唇を震わせて元親はそう言った。
 その声はどこか泣いているようにも聞こえた。
 唇を歪めた笑みを浮かべて、それでも部屋をでるとき元親は。
「あの日、泊めてくれて、ありがとうよ」
 そう、礼を言ったのだ。
 嘘を吐かれたことを知ってなお、あの男は礼を言うのだ。
 政宗は顔を歪めた。
 ワイングラスを手に取り、残っていたワインを煽る。
 何の味も感じない。
 飲み干したグラスには唇を歪めた自分の顔が写っている。
 政宗は顔を背けて、グラスを持っていた手を無造作に離した。
 ガラスでできたグラスは床にあたって簡単に砕けた。
 政宗は右手で瞼を覆った。
 あの男は、傷ついたのだろうか。
「…傷つけようとしたときは傷つかなかったくせに」
 傷つけたいと思っていた。
 けれど、実際元親が傷ついたのをみても、何の満足感もない。
 むしろ元親が出ていくのを、呆然と見送ったあとに覚えたのは、空虚感だった。
 何かを無くしたかのような。
 その空虚感を自覚したとき、政宗は己の中に元親という男の存在がくっきりと根を下ろしていることを自覚せざるを得なかった。
 元親に腕を引かれ、外に連れ出されそうになったことを思い出す。
 そのとき抱いたのは怖れだった。
 恐れたのは、自分の秘密がばれること。
 そして、秘密を知った元親の、自分を見る目が変わることを恐れたのだ。
 元親が自分に向けてくれる物を惜しんでいるという事実。
 いつのまにか、元親の存在が日々を侵食していた。
今まで考えずにいられたことが、保ってこられたものが、壊されていく。
 この森の城に押し込められて、諦めて受け入れていた平穏。
 その平穏はけれど脆い物でしかなかったらしい。
 平穏を揺らがせる元親が憎らしいのか、そうじゃないのか、今の政宗には分からなかった。
 元親が花を持って部屋に来たとき、政宗は燃えるような激情が腹の底からせり上がってくるのを感じた。
 この屋敷には花がない。綺麗に整えられた花にはけれど花の一輪も咲いていないのだ。
 何故か。
 政宗が花を好まないからだ。
 政宗の母は花を好む女だった。
 我が身を飾り立てる花を。
 花に向ける執着の欠片ほども、己に向けられたことはない。
 だから政宗は花が嫌いだ。
 己に差し出された花を認めたとき、視界が真っ赤に染まって、瞬間息を忘れた。
 次いで、揺らされた自分に腹が立った。
 母親にたいする期待なんぞ、王宮に全て捨ててきた。
 今さら、何の感慨もない。
 なのに、本当はそんなことなどないのだと。
 そう言われたようで、腹が立った。
 自分にも。
 突きつけた元親にも。
 冷静に考えれば、元親は別段、政宗を刺激しようとして花を持ってきたわけではないだろう。
 政宗の過去など何も知らないのだから。
 だから、完璧な八つ当たりだったのだ。
 花を握りつぶしたとき、元親の瞳はゆらりと揺れた。
 仕置きされてえのかと言えば、元親は反射で後ずさった。
 それがまるで脅えているように見えて。
嗜虐心が刺激された。
 今なら傷つくんじゃないかと、そう思ったら是が非でもその顔を歪ませたくなった。
 嘘をついていたことを告げるその瞬間、ほの暗い期待で胸を焦がした。
 けれど。
 政宗の告白を聞いた元親は、一度瞬いてそうかと頷いたのだ。
 あまつさえ、花を持ってきたことを悪かったと謝った。
その顔は一瞬苦さを含んだように思えた。
痛みを覚えたかのように見えた。
けれど、元親はすぐに痛んだことなどなかったかのようにしてしまった。
花と花瓶を持ってでていく元親を見送って、政宗は舌打ちした。
告白した嘘は、一番の凶器になったはずだ。
なのに。
どうして傷つかないのか。どうして政宗を憎まないのか。
傷つかない人間なんていない。
そんなことは自分が一番よく分かっている。
「……」
 どうして傷つかないのかと思っていた。
 政宗が何をしても元親は、何でもない顔をして小さく笑うから。
 けれどさっき浮かべた笑みは違う。
 さっき割ったグラスのように、触れれば壊れ落ちてしまいそうに思えて。

 本当は、傷ついていたのだろうか?

 政宗はきつく目を閉じた。
 脳裏に残った脆い笑みの残像を消し去るかのように。
 胸の奥が冷えている。
 冷えたそこはじくりと痛む。
 元親は部屋を出て行った。
 もしかしたら、屋敷からも出て行ったのかもしれないが、政宗の中には追いかけるなんて選択肢はないのだ。
 何故追いかけなければならない?
 元親がいなくなったとしても、昔に戻るだけだ。
 空虚感が息づく。胸の痛みが強くなる。
 その痛みを認めることは敗北だ。
 元親に気を許していたとでもいうのだろうか。
ましてや、何かを望んでいたとでも?
 元親が、ずっと己の側にあることを?
今まで政宗が受け入れてきたものは、漫然とした死だ。
この魔の森に押し込められて、一生を外にでることなく飼い殺される。
 元親はそこに飛び込んできた生の固まりだった。
元親といると、時間の流れが自覚できた。
日が昇る。
窓からさし込む日の光の温み。
雨の静けさ。
夜の長さ。
自分を呼ぶ声があった。
見つめる瞳がある。
きらきらと日に輝く銀の髪が眩しくて目を細めた。
屋根の影の下で、太陽の下にいる元親を見ていた。
元親が振り返る。
政宗に向かって手を上げる。
その唇が綻ぶのを見た。
理由もなくただ向けられたその笑みが。
胸にじわりと温かかったから。
逃げるように背を向けた。
本当は、そこに行きたいなんて。
羨望を抱いたなんて。
知りたくなかったのだ。
「I didn’t want to know」
 全てを諦めたなんて嘘だった。
 見たくなかったものを突きつけられる。
 己の中には、捨てきれなかった弱さがあった。
「政宗様」
 グラスの砕けた音を聞いたのか、気付けば小十郎が側にきていた。
「…何だ」
「坊やですが、屋敷を出て行ったようです」
「……」
 絶望にも似た何かが胸に広がって、政宗は体の力を抜いた。
「…そうか」
「もう夜です」
「だからどうした」
「夜の森は狼の狩り場です」
「……」
 動かずまた一言も発しない政宗に、小十郎は続けた。
「今年はエサが少ないようで、動物たちも気が立っています」
 政宗は俯いた。
 耐えるかのように、あるいは何も聞きたくないというかのように目をきつく閉じる。
 こめかみが痛む。
 歯を噛みしめるようにして吐いた言葉はうなり声のようだった。
「だから、どうしたってんだ…!」
 一人で夜の森に彷徨いでて、無事でいられる訳がない。
 だいたい元親がこの城にやってきた理由も、道に迷ったからというものだ。
 夜に森へと飛び出して、迷わないわけがない。
 元親が死ぬかも知れない。
 だからどうした、アイツは自分から出て行った、自分には関係ない。
 そう、言うつもりだった。
目を開いたとき、何かが振り切れた気がした。
政宗は椅子を蹴るようにして立ち上がり身を翻す。
 玄関を飛び出せば、月光が柔らかく体を照らした。
 その瞬間、体の細胞が熱を帯びて変化する。
 喉の奥から獣の咆吼が迸る。
変わる視界の高さ。
手足で土を踏みしめ地を駆ける。
歯を噛んだ。
あの男が死んでも生きても、きっと自分の元から去るのだろう。
 政宗の秘密を知れば、帰ってくることなどありえない。








Y

 屋敷を飛び出して道ともいえない道を駆けた。
 はっきりいって我ながら自殺行為だという認識はあった。
 そもそも道に迷ってあの城にたどり着いたのだ。
 村への帰り方すら元親には分からない。
 けれど、元親は扱いの分からぬ衝動を持て余して飛び出すしかなかったのだ。
 冬を間近にした今、日が暮れれば気温はぐっとさがる。
 簡単な外套をまとってはいたが、防寒には不十分だ。
 一際強く風がふき、梢を鳴らして。
元親は手綱を緩めた。
 老いた馬の歩みが、元親を気づかうかのように止まる。
 元親は瞬いた。
 顔が冷たいのは、風に晒された涙が体温を奪うからだ。
 はあと息を吐いて、元親は強ばった手で目元に触れた。
 指先が濡れたのをじっとみて、勝手に唇が緩んだ。
 息が乱れるわけでもなく、ただ静かに瞳から涙が伝い落ちるが、元親には人ごとのように感じられた。
 小さく笑う。
「泣いたのなんざ、いつぶりだ?」
 こぼれた声はゆらりと揺れて。
 元親は俯いて歯を噛んだ。
 熱い感情が腹の底からせり上がってくる。
 どうにか飲み下そうとしても、噛んだ歯の隙間からこぼれ落ちそうになる。
 涙とともに、こぼれて落ちそうになる。
 はっと、荒い息をついたとき。
「っ?!」
 ぶるりと馬が身ぶるいをした。
 元親ははっと顔を上げた。
 暗闇のなか、らんと光る目がこちらを見ている。
 その目の正体を考える前に、うなり声を上げて飛びかかってくる。
 それは森を狩り場とする狼たち。
 正確には分からないが数頭はいるだろう。
 元親は馬の腹を蹴り、その場から逃げようとしたが、狼に横から飛びかかられて馬から振り落とされた。
「っつ!」
 元親は呻いたあと、馬はどうなったと体を起こした。
 元親の馬は、老いなど感じさせない動きでどうにか狼たちの攻撃を避け、ときには足で蹴り返し、応戦していた。
 しかしこのままでは仕留められるのも時間の問題である。
 首を巡らせば、長い枯れ枝が落ちている。
 元親はそれを手にした。
「おらあっ!」
 そして狼たちを追い払おうと枝を振りまわす。
 狼たちは初めはそれにひるんだようだったが、すぐさま気を取り直したようだ。
 大口をあけて今度は元親に飛びかかってくる。
「にゃろうっ!」
 地面に転がることで一頭目はかわした。
 二頭目は枝で追い払ったが、かわりに枝を奪われた。
 三頭目がこちらにむかって飛び出すのを見た。
 狼の口が開かれてその牙が見えた。
 思考が止まる。
 時間が間延びする。
 獣の咆吼が冷えた空気を切り裂くのを聞いた。
 横合いから大きな固まりが飛び出してくる。
 元親は目を見開いた。
 それは一頭の獣だった。
 獅子のようなたてがみ、狼を優に圧倒する体躯。
 獣は狼をその鋭い爪を持った前足で打ちはらった。
 狼たちはもはや元親を見てはいなかった。
一頭ではその獣に敵わないと悟ったのか、狼たちが八方から同時に獣に飛びかかる。
「危ねえっ!」
 元親は思わず体を起こして叫んだ。
 獣は狼たちが肉薄した身をねじり振り払う。そして前足で打ち払い、噛みついた。
そして、牙をむいて威嚇するように吠えた。
 空気をびりびりと震えさせるその声。
 その咆吼に負けを認めたのか、狼たちは甲高い声をあげて逃げていく。
 静寂。
 元親は己を助けてくれた異形の獣を見た。
 顔は狼よりは獅子に近いが、獅子そのものではない。
 何より普通の獣と違うのは、彼が服を身につけていたことだ。
 見覚えがあるそれ。
 獣は首を巡らせて元親を見た。
 目が合ったと思えたのはほんの一瞬。
 元親が無事なことを確かめるかのように視線を向け、そして獣は元親に背を向けた。
 元親の体はまるで凍えたように動けない。
 助けてくれた。
 この獣は自分を助けにきてくれたのだと、そう理解したとき。
「政宗…?」
 離れていこうとしていた獣はぴくりと体を震わせる。
けれどこちらを振り返ろうとはしない。
遠ざかっていこうとした巨体が、けれどぐらりと傾いだ。
「!!」
 一気に体の強ばりが溶けて、元親は獣の元へと駆け寄った。
「おい!」
 近寄ってみれば、見覚えのある服は無惨に裂け、そこから血が滲んでいるのが見えた。
 狼によってたかって飛びかかられたのだ。
 噛まれもしただろう。
 荒く息をついて、獣はゆっくりと視線を元親へと向けた。
 黒い瞳はどこまでも静かで、どこか切ない。
 元親は顔を歪めた。
 胸が締め付けられる。
 人とは違う異形の姿を見ても、怖さを感じないのは、色々な感覚が麻痺しているからだろうか。
 元親は、唇で笑んでみせた。
 元親の心を占めていたのは、一つの事実だけ。
「助けてくれて、ありがとな」
 それが一番元親にとって大事なことで、他は大きな問題じゃない。
 政宗、と。
 名を唇に乗せれば、どこか諦めたかのように瞬いて、獣は気を失った。
 元親は馬を引き、その背に獣の体を押し上げた。
 馬の首を軽く撫でる。
「ちょっと重いけど、城まで頑張ってくれるか」
 肯定するように小さく馬がないた。

***
 
 気がついたのは、温められた空気を感じたからだろうか。
 意識が浮かびあがる瞬間、目覚めたくないなと政宗は思った。
 心の底でそう思っていても、体は勝手に覚醒して、うっすらと瞼を持ち上げる。
 見慣れた天井と、温かい部屋に息をつく。
 屋敷を飛び出し馬の足跡をたどって、元親を追った。
 元親が狼に飛びかかられているのを認めたとき、心臓が凍り付いた。
 目の前が真っ赤に燃えて、狼のもとへと飛び出した。
 狼を追い払うことはできたが、こちらも無傷とはいかなかった。
 元親に怪我がないことを確かめて、心から安堵した。
 安堵して、そして、名を呼ばれた瞬間、言葉にし難い切なさが胸をついた。
 静かな諦めが体に広がって、体から力が抜ける。
 一瞬、意識が落ち、冷たさと元親が叫ぶ声で意識を取り戻す。
 側には元親がいて、政宗をのぞき込んでいた。
 獣となった政宗を。
 屋敷を飛び出したあとのことを思い返して、政宗の意識がはっきりとする。
 とっさに思ったのは、元親に秘密を知られてしまったということだ。
 政宗は身に呪いを受けている。
 それは、屋敷の外にでると、獣になるというものだ。
 意識は己のまま、言葉も紡ぐことはできるが、声は濁り体は人ならざるものに変化する。
 だから、政宗は元親とともに、庭にでることを恐れたのだ。
 太陽の下に引き出され、この醜悪な姿を見られることを恐れた。
 機嫌のよい母の嘲笑を耳が覚えている。
 自分を見つめる貴族達の歪んだ唇も、脅えと好奇の混じった視線も。
 だから、元親には、知られたくなかった。
 知ればきっと、顔を歪ませて自分の元から離れていく。
 怯えも嫌悪もその顔にみたくない。
 去っていく背中も。
 残った一つ目すら余計だ。
 逃げるかのように思わずもう一度目を閉じたとき。
「政宗?起きたのか?!」
 耳元で、声がして。
 思わず目を開いた政宗の視界に飛び込んできたもの。
 眉を心配げに寄せて、けれども政宗が気付いたことに安心したかのように破顔する。
「よかった!目え醒めたんだな」
「元親?」
 瞬いても元親の姿は消えない。
 身動きすれば、鈍い痛覚が体を這う。
 瞬間政宗は混乱した。
 何故元親がまだこの城にいる?
 政宗の秘密に気付いていないのか?
 いや、あのとき元親ははっきりと政宗の名を呼んだ。
 名を呼んで、そして、助けてくれてありがとうと、そう言ったのだ。
 物言いたげな政宗の瞳を見て、元親はふと吐息で笑った。
 ふわりと、まとう空気が柔らかなものとなる。
「お前がいなかったら、おれはあのまま森でくたばってたろうよ。勝手に飛び出しちまったおれを、助けにきてくれて、ありがとうな」
 その言葉に、ああと政宗は体の力を抜いた。
 見下ろす元親の瞳。
 元親は政宗の秘密を承知しているのだ。
 知って、どうしてか、この城に戻ってきた。
「何か飲むか?」
 元親が背後にあるテーブルを振り返るのを見て、政宗のほうから唇を開いていた。
「…聞きたいことはねえのか」
「……」
 取り上げていたポットを置き直して、元親がこちらを振り返る。
 カップを差し出されるが、政宗は受け取ることなくただ元親を見返した。
 湯気のたつカップを押しつけることもなく、元親はそれを己の膝に置いた。
 そうだなと頷いて、元親は視線を落とした。
「……」
「どうして、おれを追いかけてきてくれたんだ?」
「……あ?」
 元親の問いは、政宗が考えていたものとは全く別のもので、思わず政宗は変な声を出してしまった。
 元親は顔を上げた。
 どこかほろ苦い微笑がそこにあって、政宗はぐと胸を詰まらせた。
「おれが聞きたいのはそれだけなんだ」
「……理由なんざ、ねえよ」
 言葉は勝手に唇からこぼれた。
「ただ、夜の森は危ないんだ」
「おれが勝手にキレて飛び出したんだ、放っておけばいいだろう?」
 自分すらも突き放すかのような元親の物言いに、かっとした。
「放っておけるか!」
 怒鳴るようにして言い放つ。
 その声に、政宗自身が呆然とした。
 元親がこちらを見ている。
 政宗はその視線から逃げようと、掌で顔を覆った。
 もう逃げられなかった。
 自分の願いから。
 政宗はだから観念した。
「放っておけなかったんだよ…!おれは、アンタが、死ぬかもしれねえのを、放っておけなかったんだ」
 呻くように吐き出して、政宗は顔を覆っていた手を下ろした。
 見栄もなにもない己を自嘲して、顔をあげれば。
「……アンタ」
「んだよ」
「何て顔してんだ…」
「うるせえこっち見んな」
「いや、見んなって言われてもな」
 唇をひん曲げて、眉を情けなく下げて。
 元親はぱちぱちと瞬きをする。まるで瞳が濡れているのをごまかすように。
 耳がかすかに赤くなっているのは、別に部屋が暑いからという理由ではないだろう。
 それを見ていたら、冷えていた胸がじわりと温かくなって。
「…おれは呪いをかけられてるのさ」
 全てをぶちまけたくなった。
 ずっと心の底に押し込めてきたもの。
 諦めたふりをしてきたものを。
「おれが生まれたのは王宮で、母親は王の妃の一人だったんだ。その美貌を王に愛されて、それで本人も自分自身が一番大事って女だ。子供ができても、子供のことなんざ普段は忘れてるような女だった。それでもおれは気にしなかった。子供を大事にする妃もいたが、羨ましいとも思ってなかったのさ。あの人はそういう人なんだからってな。物心ついてしばらくして諦めたのがそれだ。弟が生まれても、あの女の態度は一貫してて、いっそ清々しいくらいだった。七年ほど昔に、熱病がはやったことがあるだろ?おれも倒れちまってな。この目を失った。確かに我ながら目もあてられねえ有様だとは思うがな。おれのこの面をみて、あの人は顔を歪めて、醜いとおれを罵ったのさ。そこまではまあ予想の範囲内だ。違ったのは、あの女が、今までは見向きもしなかった弟を可愛がるようになったってことだ。溺愛だよ。弟が可愛くて、おれのことが邪魔になったんだろうな。あるとき城を訪れた魔法使いに、おれに呪いをかけさせたのさ。呪いの中身は何でもよかったらしが、呪いはおれを獣に変えた。獣になる王子を王になんかできるかって、城も追い出されちまってこのざまだ」
 どうせならこんなまどろっこしいことなどせずに、宝石で飾られた宝剣でこの胸を一突きしてくれればよかったのだ。
 そうしてくれれば、呪いをかけてこの身が飽いて朽ちるまで飼い殺すより、よほどにかの人の愛情を感じただろう。
 つまるところ、あの人は自分がただただ邪魔なのであって、さらにいえば、その邪魔者を取り除くために、己の手を汚すことは考えられない、ただそれだけなのだ。
 妖しげな魔法使いが城に現れたとき、王妃は面白がって魔法使いを城に招き入れた。
 そして、まるで晩餐会の余興代わりとでもいうように、息子に呪いをかけさせたのだ。
 知っていた。
 あの人にとっては、政宗という『息子』には何の価値もなく、邪魔者としか見ることができないのだということは。
 だからその事実を形として突きつけられたところで、今さら傷つきやしない。
 傷つかない代わりに、政宗はその瞬間に放棄して諦めた。
 自分の生を。
 何の目的もなく何のために生きるのかも分からないまま、ただ生かされる。いや、己の存在を忘却される。
 魔の森で死んだような生を受け入れながらも、政宗には自ら命を絶つことはできないのだ。
 舌を噛みることで楽になることは、己のプライドが許さない。
 政宗は唇を歪めた。
 元親は静かな表情で政宗の告白に耳を傾けていた。
 その顔には安い同情も下世話な好奇心もない。
 ただどこまでも静かな瞳が自分を映していて。
 あるがままを、ただ受け止めてくれているように思えて。
 政宗は微苦笑を浮かべた。
 時が止まったかのような、毒のように穏やかな日々が壊されていく。
 元親という存在によって。
 元親とすごしていた日々は、時の流れが自覚できた。
 己の心が生きていることを自覚できた。
 それが腹立たしいのか、いや愛しかったのか。
 笑いたいのか、それともただ、泣きたかったのか。
 消えてしまいたかったのだ。
 自分をいらないというのなら。
 せめてその手で消し去ってほしかった。
 元親とすごすようになって、心の奥底に沈めてきた願いを突きつけられた。
諦めて受け入れていた世界を壊してしまいたい。
本当は、諦めたくなんてなかった。
そう思っていたのだ。

明るい陽の下で笑いたい。
自分を見てくれる誰かと。

目眩がする。
ああ、もう認めるしかない、諦めるしかない。
自分はこの男を愛しいと思っているのだ。
元親が、愛しい。
側にある温度。
色んな笑顔。
政宗を呼ぶ声。
 本当は、母であったあの人に、認めて欲しかった。
 かえりみられたかった。
 愛して、欲しかった。
「アンタも見ただろ?おれは醜い獣だってこと」
 元親は唇を緩めた。
 そして、何の気負いもない様でふわりと笑う。
「醜くなんてねえよ。おれを助けてくれたじゃねえか」
「……」
「こう言っちゃ、またお前の気を悪くすっかもしれねえけどよ」
「Ah?」
「お前が、この森にいてくれたから、おれはお前に会えた」
「……」
 元親の言葉に、政宗は声を奪われた。
 何も返すことのできない政宗をどう思ったのか、元親は己の言葉をごまかすように、明るい声をだした。
「ま、獣だろうが何だろうが、恩人が怪我してるのを放り出してはいけねえからな!」
「……」
「きっちり看病してやるから、覚悟しやがれ」
 胸を張って宣言する様に、思わず政宗は吐息で笑ってしまった。
「看病に覚悟ってなんだ」
「ノリってやつだ」
 堂々とそう言いきる様に、笑みがこみ上げてきて、政宗は喉を震わせて笑った。
 笑いながら傷が痛いと言えば、元親は寝てろと政宗の肩を優しくおした。
 大人しくシーツへとそのまま頭を落とせば、元親の手が伸びてきて瞼を覆った。
 その掌は温かかった。
 勝手に唇が緩んで、吐息がこぼれた。
 もう一度、柔らかな声が落ちてくる。
「寝ろ」
 ああ、何て幸せな夢かと思う。
 元親の声に誘われるように、政宗は優しい眠りへと落ちていった。
 目覚めてもこの夢が覚めなければいいと願いながら。