Kiss you goodbye.
Because…
T
「どうすっかなあ…」
欠片も困っていないかのような暢気な態度で頭をかきながら、元親は空を仰いだ。
仰いだところで、村の広場や丘の上で見えるような澄んだ青空はそこにはない。
空を覆い尽くすように木の枝が重なり合っている。まあ枝がなくとも、曇天だったから、どちらにしろ青空は見えなかっただろうが。
もともと空は暗かったが、そろそろ日も暮れようとしている。
「やっべえな。まじでどうするよ…」
声は暢気だからあまりそうは聞こえないかもしれないが、元親は心底困っていた。
頭を抱えていたと言っても過言ではない。
ちらりと馬車の荷台を振り返る。
そこには元親が造った世紀の発明が、シートに覆われておかれていた。
明日は年に一度、街で行われる発明大会なのだ。
発明を生業とする元親は大会に参加するため、村を出てきたのだが、近道をしようとしたのが間違いの始まりだった。
村から街まで二日かかる。
最後の調整をし終えたころには、ぎりぎりまで時間が迫っていて、故に元親は整備された街道ではなく、森を突っ切ることにしたのだった。
そして、元親は道に迷ったのである。
その森は魔の森と言われていて、村人はおろか盗賊の類すらも近づかないと言われている場所だった。いるのは獣のみだ。
黒の固まりに見えるそこは、天気の良い昼間でもうっそうと茂った木々によって陰鬱な雰囲気を立ちこめている。
一応過去に整備された道とも呼べぬ道が通ってはいた。元親が立ち止まっていたのは、朽ちてもはや読めなくなってしまった、行き先を示していたであろう看板の前だった。
ちゃんと方向を確かめ馬を走らせてきたつもりだったが、盛大に道を見失って、今ではもはや右に行けばいいのか左に行けばいいのか、さっぱり分からない。
「これじゃあ明日の大会は無理だよなあ」
大会どころか、このままじゃ村に帰ることも無理だ。
動かしがたい事実に、元親は肩を落としてため息を吐いた。
ふと、遠くでうなり声が聞こえた。
げっと元親は呻いた。
空の呻きはそれほど遠くない。
ほどなくして、雨が降ってきた。
元親は情けなく眉を下げた。
「迷子で日暮れでさらに雨まで降るってのか…」
三重苦だ。
元親は今日一番の長いため息を吐いた。
そして、とりあえず右に続く道へと馬の首を向けた。
理由なんてない。右の方がちょっと明るい感じがしたからだ。
「もうちょっとがんばってくれな」
年寄り馬の首を撫でて、どうにか雨と夜をしのげる場所がないものかと思案する。道は通っているのだから、猟師小屋とかがないものか。
「…まあ、そんな都合よく小屋が見つかるわけもねえよな」
ただでさえ今日はついてない日である。
濡れた体で野宿は流石に命の危険を感じるんだけどと、悲愴な諦めを胸に抱きかけたとき。
ちかりを一際大きな光りが瞬いた。
元親は目を見開いた。
轟音。
どこかで雷が落ちたようだが、そんなことは気にならなかった。
一瞬の稲光で照らされた中に浮かび上がった影。
領主の城にあるような塔が見えたのだ。
元親は馬の足を速めた。
そしてたどりついた先にあったのは。
「…なんでこんなとこに城があるんだ?」
森の中に突如として現れた立派な門。
元親はぽかんと口を開けた。
こじんまりとはしているが、それは立派な城だった。
馬がぶるりと身震いする。
元親ははっと我に返った。
どうしてなのかは分からないが、ともかく雨がしのげて夜をすごせそうな場所が見つかったのである。
元親は馬から下りて、そっと門に触れてみた。
瞬間、ぴりっと指先が痺れた気がしたが、僅かな痛みはそのときだけで、もう一度触れたときには何の痛みも無かった。
力を込めてみれば、ゆっくりと開く。
元親は、もしやここは幽霊城なんじゃないかと思った。
元親はごくりと唾を飲んで空を仰いだ。
腹を決める。
幽霊城だろうが何だろうが知ったことか。このまま外にいれば自分も幽霊の仲間入りを果たすかもしれない。
背後で錆びた音を立てて門が閉まるのが分かったが、元親は振り返らなかった。
門と同じように、玄関の大きな扉も、あっさりと開いた。
城の内部は明かりもなく、ひっそりと静まりかえっていたが、元親は声を張り上げた。
「すいませーん!誰かいませんかー?一晩泊めてもらいてえんだけどよお!」
答えはない。
元親はもう一度息を吸い込んで唇を開いた。
「すいませーん!」
駄目押しとばかりに声を張り上げたところで。
「お静かに願います」
「うおっっっ」
唐突に現れたロウソクの明かり。僅かなそれに照らされ浮かび上がった男の顔に、たしなめられた言葉など頭に入るはずもなく、元親は野太い声を上げた。
再度、お静かに願いますと強面で迫られ、元親は両手で口元を押さえてこくこくと頷いた。
どうにか息を整えて、目の前の男を落ち着いて見れるようになった。
暗闇の中顔だけが浮かび上がって見えたように思えたのは、男の身なりが黒の執事服だったからだ。
頬に傷のある、どうみても堅気とは思えない強面ではあるが、着ているもので判断するならば、この屋敷の使用人なのだろう。
「何かご用でしょうか?」
渋みばしった声に問われて、元親ははっと我に返り頷いた。
「道に迷っちまってよう。一晩泊めてもらうことはできねえかな?」
男はすぐには答えず沈黙した。
元親は素で眉をさげ、男を拝むようにした。
「ほんと夜と雨をしのげればそれでいいんだ!いや、後で街への行き方も教えて欲しいんだけど。場所は納屋でほんと十分だからよ、どうにか頼めねえかな?」
リアル命の危機を感じていたので、一応柔らかな言い方を装ってはいたが、お願いというよりも押し売り、しかも切羽詰まっていた。
男も、日暮れ雨のなかの森での野宿という三重苦を察したのか、考える素振りを見せた。
元親の顔を正面から見返してくる強い眼光に、けれど元親はひるむことなく見つめ返した。
よそ者を警戒するのは当然のことだ。
しかし自分にはやましいところなど髪の毛一筋もない。
一晩泊めてもらった暁には、速やかにおいとまさせてもらうつもりである。
だからどうかお願いしますと念じたのがよかったのか、男は静かに頷いた。
「まじか?!助かったありがとう!!」
思わず雄叫びを上げてしまった元親だったが、静かにと三度目の注意を受けて、慌てて悪いと謝った。
男は眉根を寄せた。騒がしい元親に怒ったというよりも、何かを思案してるかのようだった。
「雨も降ってる中、放り出すようなことはしねえ。ちゃんと部屋も用意させてもらう。だが、ここじゃ静かにすごしてくれ」
いいな?と真顔で念を押されて頷いたところで。
「Ah,客人を泊める、そういうことは主人のおれに頼むことじゃねえのか?」
ぱちりと指を鳴らすかのような音がして。
眩い閃光が目を焼いた。
元親は思わずうめき声をこぼして目を閉じた。
皮肉気な声音。冷めたようにも、面白がるようにも聞こえる言い回し。
鼓膜をざらりと撫でるかのような甘い声が耳を打ち、そして元親は目をうっすらと開いた。
***
稲妻のように強烈だと思った光は、慣れれば部屋中のロウソクが一斉に灯されたからだと分かる。それは目を刺すほど強い刺激というわけでもない。
元親はぱちくりと瞬いて、目の前の状況理解に努めた。
元親の眼前にはっきりと映されていたのは、金持ちの家にあるような玄関ホールだった。
奥に伸びる階段から、一人の男が降りてくる。
この館の主人と言った男は、そうはいっても元親と同じくらいに見える年若い男だった。
ロウソクの炎がゆらりと揺れて、一際明るく輝く。
その場そのものが、一瞬で支配される。
嫉妬するよりもいっそ呆れるほどに端正なつくりの顔。まるで芸術家が手がけた彫刻の傑作かと思うほどのそれはけれど、右目を覆う眼帯によって奇妙な生々しさと不完全さがあった。
それが余計に、意識を惹く。
ビロード地の濃紺のジャケットは、庶民が逆立ちしても触ることすら許されない一品だろう。
まとう空気は、男が支配する側の人間だということを如実に元親に教えてくれる。
一平民でしかない元親には縁のない空気感に飲まれたという訳ではないが、元親はただ何も言葉を発することができずにごくりと唾を飲んだ。
「政宗様…」
どこか諦観の念を含んだかのような強面の男の呼びかけに、この良くできた彫像のような男の名を知る。
政宗は元親の姿を上から下へと一度視線を動かして眺めたあと、ふと唇を緩めた。
あ、値踏みされたなと元親はそう思った。
いい気分ではないが、だからと言って目くじらをたてることでもない。
身分の高い人間というものは、得てして平民を見下す傾向が高いことを、元親は平民の一人として心得ていたからだ。
「丁度そろそろ夕食だろう、小十郎?まずは話を聞こうじゃねえか。どうして魔の森なんぞに迷い込んだのかをな」
政宗は喉でくつりと笑って背を向けた。
その背を見送れば、男、小十郎は静かにため息を吐いた。
「ついでに服もくれてやりな。その図体で濡れネズミなんざ、惨め以外のなにものでもねえ」
政宗が後ろ向きに投げた言葉には、からかいと罪のない嘲笑が含まれていたが、元親は気にせず小十郎に向かって真面目な顔で是非よろしくと頷いた。
どうせ温かい夕食をもらえるなら、濡れネズミではない状態で食事をしたかったからだ。
与えられた服は、元親が今まで袖を通したことがないような上質な手触りのものだった。
濡れた髪を乱雑に拭って乾かして、元親は案内された食卓についた。
目の前に出されたのは温かいシチューと焼きたてのパンだった。
貴族の食事は、昼は豪勢に、夜は軽くつまめるものというのが普通だ。
それを考えると、今出された食事はむしろしっかりしたものと思える。
雨だということもあって気温が下がったからということなのかもしれないが、元親には有り難いことだった。
熱さで舌を火傷させながら、遠慮無くシチューをすすれば、政宗の方はくつりと笑った。
「お気に召したようで何よりだ」
それで、と。元親の食事が一息ついたところを見計らうようにして、政宗は元親に問いかけた。
「どんな理由でこの魔の森に足を踏み入れたんだ?」
元親は普段口にしないような柔らかい白パンを飲み下して、唇を開いた。
「おれは普段は道具やらの修理やってんだけど、本業は発明なんだ。それで明日、年に一度の大きな発明大会があって、おれはそれに出品するつもりなんだ」
「Ah,明日、ねえ?」
元親は苦笑して肩をすくめた。
「ぎりぎりまで調整に時間喰っちまってよ。この森の噂は知ってたんだが、近道できるだろうとおもって入っちまったのが運の尽きってわけだ」
ワインで喉を潤して、芳醇な薫りとふくよかな味に頬を緩ませる。
「迷っちまって、にっちもさっちもいかねえところで日も暮れちまって、さらに雨まで降られちまったところで、ここを見つけたってわけさ。だからほんと、感謝してるんだぜ?宿だけじゃなくて、新しい服貸して貰って、あったかい飯喰わせてもらってよ」
「噂を知ってて森に入るとは、いい度胸してると褒めるべきか、考え無しの阿呆と忠告してやるべきか迷う所だな」
「そこは褒めといてくれや。もう明日にや間に合わねえってことは分かってるからよう、とどめ刺されちゃ立ち直れねえよ」
半分は冗談のように、元親は笑ってみせた。
明日の大会への思い入れは人一倍だったから、己の責任で参加することすら叶わなくなったというのは結構へこむ事実なのだ。
冗談のように口にしたが、よほど顔が情けない顔をしていたのだろうか。政宗は唇の端をかすかに緩ませながら元親をじっと見つめて、静かな口調で尋ねてきた。
「よっぽど発明が好きなんだな、アンタは」
「そうだなあ。物心ついたころにゃ、何かしらいじくって遊んでたからなあ。ちょいと口にするのは照れるが、好きでやってることだな」
元親はちょっと照れたように言った。
「明日のはそれほど大事な大会なのか?」
「ん?」
「アンタにとって」
おおよ!と元親は大きく頷いた。
何せ明日開かれる大会は、一年の中で一番大きく、また名が通ったものなのだ。
元親もずっと明日のために準備をしてきて、入れた気合いも普段とは比べものにならない。
「年に一回の、一番デカイ大会なんだ。そこで優秀だって認められりゃ、名が売れて、色んな依頼がくるようになる」
元親は一度言葉を切った。
唇が緩んで、元親は無意識にほろ苦い笑みを浮かべた。
「おれの夢なんだ」
参加することは叶わなくなってしまったけれど。
その言葉は胸の奥に押し込めて、元親はわざと明るく言った。
「まあ、大会は今年だけじゃねえし、来年のためにまた色々考えるとするぜ!ちゃんと今度は移動時間も忘れないようにな!」
政宗はまるで励ますようにグラスを掲げ、手元に残っていたワインを呷った。
その端正な顔には笑みが浮かんでいる。
「そうするのが一番だろうよ。実際、この屋敷からじゃ、明日の昼までに街に着くのはどう足掻いても無理だからな」
「やっぱそうだよなあ」
「ま、今日はもうとっとと寝ちまうことだな。アンタも気疲れしただろう?」
部屋の暖炉に火をいれてあるからと言われて、元親は素直にありがとうと礼を言った。
「こんなよくしてもらったんだから、道に迷って悪いことだけでもねえなあ」
そんな軽口まで叩いて見せれば、政宗は何も言わずにただ笑みを深くした。
食事が終わったあとには、小十郎に部屋まで案内された。
政宗が言ったとおり、部屋には赤々と暖炉の火が燃えていて、元親の服が乾かされていた。
寝台のシーツは手触りがよく、前日徹夜をしていた元親は、それに感心する間もなく、深い眠りへと落ちていった。
翌日。
温かい食事と居心地のいい寝台のおかげで、目覚めは快適だった。
乾いた己の服を身につけて、元親は部屋をでた。
政宗と小十郎に礼を言って、屋敷を辞するためだ。
しかし、用意された朝食の席で、街への道を尋ねた元親に返されたのは道順ではなかった。
「一泊の宿を提供した礼を示して貰いたいと言ったのさ」
政宗は唇を引き上げて、これぞ貴族といったような傲岸な笑みを刻んだ。
その瞳が面白そうな笑みを含んで光る。
「体で返してもらおうか?」
「は?」
衝撃的な一言に思わず目を丸くすれば、政宗はその反応に満足したように喉で笑った。
「この城でしばらく働いてもらうってこった」
そう言って、政宗は後ろに控える小十郎を示した。
「使用人は小十郎の一人なのさ。仕事はいくらでもある。どうせ今日の大会には間に合わないんだ、別にちょいとここで働いてくれてもいいだろう?」
そう言われてしまえば、たしかにそうなのである。
よくしてもらったのは事実だし、この城に使用人が一人だけというのは確かに大変だ。
元親はしばし思案した。
確かに、大会に間に合わないのだ。
どうせ村に帰っても、急な仕事は入っていないし、元親を待つ人間もいない。
ならば一宿一飯の恩を返すのはやぶさかではない。
元親は顔を上げた。
反応を楽しむかのように薄く笑みをはいて、政宗がこちらを見ている。
その瞳の色に、お貴族様の暇つぶしなんだろうなあと思ったが、まあいいかと元親は深く考えることを止めた。
「分かった。いいぜ」
政宗の瞳が少しばかり驚いたように見開かれたのをみて、元親は思わず小さく笑った。
この男の意表をつけたのであれば、それはどこか楽しいような気がした。
「きっちり体で返してやらあ!これでも掃除と料理は得意なんだぜ!」
胸を張って言ってやれば、そりゃ頼もしいと政宗は大げさな様で頷いた。
U
元親が政宗の屋敷で使用人のまねごとをするようになってから数日が過ぎた。
貴族の坊ちゃんの気まぐれから始まった、にわか使用人生活だったが、一人暮らしに慣れていたこともあってか、苦ではない。
むしろ驚きと新鮮さがあっておもしろいと元親は思っていた。
どういう原理かは分からないが、人の手がないのに、城は調えられているのだった。
不思議な城である。
何より、ここに住んでいる人間が、政宗と小十郎の二人しかいないというのも、不思議である。
そもそも、何故魔の森と呼ばれる場所で暮らしているのか。
不思議だとは思ったが、元親は取り立ててその理由を知りたいとは思わなかった。
きっと貴族には平民には思いもつかない複雑な事情があるのだろうなと思い、勝手に納得したのである。
たった一人の使用人である小十郎は、余計なことを口にしない硬派な執事であったが、面倒見はいいらしい。
明日の大会に出品予定だった、自動薪割機を贈呈すれば、こりゃ便利だと早速使ってくれた。
今では一緒におやつ作りをする仲である。
さっきも元親は小十郎と一緒に菜園を手入れし、野菜の収穫を手伝った。
小十郎が屋敷に戻ったあとは、元親一人で、調えられた庭の木々に丁寧に水をやっている最中である。
外からでは分からなかったが、この城には森の木々に邪魔されずに空を見上げられる庭があるのだ。
日差しが温かく、何とも心地よい空気に、思わず鼻歌なんぞがこぼれてくる。
元親はよく鼻歌を歌う。
それはもはや元親の癖のようなものだったが、この城の主である政宗は、それをいつもからかった。
熊が唸っているみたいだというのだ。
それだけは寛大に聞き流すことができないものだったので、いつも元親は文句を言った。
時折政宗が唇に乗せる、慇懃な蜜を含んだからかいは、貴族の舌戦に慣れてない元親からすればむしろ簡単に聞き流すことができる。いまいちこちらの何をけなしたいか分からないからだ。
分からないから別段痛みを覚えない。ならばそれは元親からすれば、ないのと同じだ。
それは元親の性格だ。
政宗はよく元親を構った。
わざわざ元親に仕事を作って持ってきて、元親がどうやってこなすのかを楽しんでいるふしがある。
自分はきっと、いい暇つぶしのネタなんだろう。
そりゃあこんなデカイ城で二人しかいないのであればつまらないことだろう。構ってくるのも道理だと納得はする。
屋敷に留め置かれて、使用人のまねごとをさせられて、からかわれても、元親は政宗に嫌悪感を抱いてはいない。
元親という人間は基本、お人好しにできていた。
人は愛すべきものだ。
元親にとっては。
まあ、自分が愛されるかどうかはまた別問題なのだが。
発明を生業としている元親の家は、村から離れた丘の上に立っている。
家族三人でいたころは、手狭に感じたこともあるが、一人となった今ではむしろ広すぎると元親は思っていた。
母親は元親がおさないころに死んだ。
母親が死んでから、もともと気むずかしい職人気質だった父は、ますます発明に熱中した。
普段の生活にはまったく目を向けずに、村人達からすればよく分からない機械を弄くり回している父親を、村人たちは敬遠した。母親が死んでからは、ますますそれは拍車がかかった。
時折もたらされる道具の修理などを請け負って生活をしていたが、つまり用がないかぎり村人は元親たちに近づかなかった。
そんな発明狂いと言われた父親も、少し前に死んでしまった。
父親が死んでからも、元親は自分で発明を続けた。
発明は好きだったし、それしか元親にはなかったからだ。
元親の心には、小さな穴があった。
小さなそれはけれど、ぽっかりとしていて埋まることはない。
元親には夢があった。
みんながあっと驚くような発明をして、それを認められることだ。
皆が元親の発明に笑顔になってくれることだ。
元親はふと水やりの手を止めた。
梢が鳴った。
熊のうなり声と散々揶揄された鼻歌も、いつのまにか止めていた。
空を見上げる。
青い空が見えた。
家のある丘から見上げたのと同じような空が。
誰かに認められて、そして。
そして自分は一体、どうなりたいのだろうか?
鳥の囀りが聞こえて、元親は瞬いた。
手元のじょうろに水がなくなっていることに気づく。
水をくみにいくかと思ったところで、それに気づいた。
普段纏っているような、貴族特有の権威に裏付けされた自信に満ちた強い気配とは違う。木々のざわめきに紛れるかのようにひっそりとした気配。
からかうのでも揶揄するのでもない。意図など何もなくただ向けられているだけの視線。
元親は庭を見渡す風を装ってさりげなく振り返った。
視界の端に映る姿。
政宗はよく、仕事をこなす元親をからかいに来たが、庭にいるときだけは違った。
じっと元親を、いや庭を見ていた。
首を巡らせれば、視線が合う。
元親は唇を緩めた。
手を上げてみせれば、政宗は瞬いて、何とも言えない苦い微笑を刻んだ。
そしてすぐに踵を返す。
ぴしりとしたその背中を見送って、元親はもう一度庭を振り返った。
きっと、政宗は殊更、この庭を気に入っているのだろう。
何か特別な思い入れがあるのかもしれない。
完璧な手入れがされた美しい庭だ。
ふと元親はあることに気づいた。
そういえば、この庭には花がない。
***
一言で言えば、自分はただ憂さ晴らしをしたかったのだ。
そのことを政宗は冷静に自覚していた。
自覚していて、冷静に、何の罪もないあの男をいたぶることを選択したのである。
つまり、政宗は元親のことが気にくわないのだった。
元親が森に迷い込んだ日。夕食の席で元親が語った自身のこと。
元親は政宗のことを貴族だとは察しているだろうが、貴族の中でも特殊な立場だということまでは察してはいないだろう。
政宗は王家の人間だった。何人かいる王位継承権を持つ王子達の一人。
母親は妾妃ではあったが、国王の寵愛は深く、故に政宗は玉座が近い王子と言われていた。
時期国王の母となるかもしれないといっても、母親はしかし政宗をかえりみることはなかった。
子供に対してあれこれ意識をはらうよりも、己自身への感心のほうが高い人間だったのだ。
元がそうだから、政宗もそれが普通だと思っていたのだ。
政宗には五つ年の離れた弟がいた。
幼い弟に対しても母親の無関心さは変わらなかった。
政宗が病を患うまでは。
十になろうかという頃に熱病にかかり、政宗は右目を失った。
皮膚は爛れて、醜い痕となって残った。
母親は政宗をあからさまに厭うようになった。
そして、母親は、今まで政宗と同じように無関心だった弟を溺愛するようになったのだ。
幼い眼前に突きつけられた映像は、政宗の世界を一度粉々に破壊した。
母親は、政宗の顔を見て、醜いとその口唇を震わせ嫌悪に顔を歪めた。そして、政宗を醜いと切り捨てた唇で、弟の容姿を愛らしいととろける声で言った。
失われた目のことを言われてしまえば、政宗にはできる手だてがない。
代わりに出来ることに力を尽くした。
今まで得ることを諦めていたことが、本当は与えられることを知ったから。
けれど、どれだけ政宗が努力しようと無駄であった。
母親の関心が政宗に向けられることはなく、むしろ政宗が王子として優秀になればなるほど、憎まれるようになった。
そのうち政宗もその事実を受け入れるしかなくなった。
弟には与えられて、自分には与えられないという事実を。
そのことを受け入れたとき、政宗の中で今まで殺してきた熱を押さえていた枷が壊れたのだ。
優秀な王子。玉座にもっとも近い王子。
そんな評価は何の慰めにもならず、その肩書きに群がる人間はむしろ鬱陶しいだけだった。
信じることが苦痛になったのだ。
信じて縋って願っても。政宗は手に入れることができなかった。
その事実は、政宗の心を深く刺して、その痛みをどう宥めればいいのか分からなくなった。
自分の素行について、あらぬ噂が王宮内に広められていることを知った。
貴族達は利用価値にとても敏感だ。
自分たちの利にならぬと感じ取れば、いっそ清々しいまでの潔さで身を翻す。
十四になったばかりの、まだ成人の誓いすら立てていない子供のことなど記憶から消すのは簡単だ。
自分の元から人が去っても、政宗はそれほど傷つきはしなかった。
そんなもんだろうなと納得すらした。
噂の出元については検討がついていたが、わざと見て見ぬふりをした。
いやいっそ、その噂を本当にしてやろうと、自堕落に振る舞いすらした。
やがて、素行の悪さを理由に、玉座争いからははじき出された。
そのことについても、もはや政宗の心は動くことはなかった。
そして、あの夜がやってくる。
狂気じみた笑みが響き渡る中、政宗はある一つの呪いをかけられたのだ。
体の細胞が変化していくなか、階段の上から己を見下ろす母親の笑みを見た瞬間、政宗は諦めたのだ。
全てを。
諦めてそして、自ら手放した。
その後、政宗はこの魔の森と呼ばれる場所へと幽閉されたのだ。
政宗は諾々と受け入れた。
一生、このうっそうとした森の中、誰にかえりみられることもなく飼い殺されることを。
誰にも、というわけではないけれどと、政宗はふと苦笑した。
少なくとも、二人は政宗のことを顧みてくれる人間がいる。
幼い頃からの付き人である小十郎と乳母だった喜多は政宗のことを見てくれた。想ってくれた。小十郎は、この隔絶された城にもついてきてくれた。たとえ同情だったのだとしても、政宗は慰められた。
けれど、それだけで満足できなかったのだ、自分は。
満足できなかったから、全てを諦めたのだ。
森の中での生活は、とても静かにすぎていった。
静かすぎて、時の流れが分からなくなるほどに。
三度春が去って冬が来たように思う。
雨の夜。
突如飛び込んできた異分子。
元親は、自分とは全く異なる人生を歩んでいる男だった。
同じ男で、同じくらいの歳で。
けれど政宗とは違って、やりたいことがあって、夢のために進んでいる。
不遇に腐るわけでもなく、何でもない顔をして笑う。
その声が、その笑みが、妙に癪に障ったのだ。
体の底がふつふつと熱を帯びている。
己の感情の昂ぶり気づいたとき、政宗は驚きを味わった。
まだ自分の中に憤るなんて感情があったのかと。
どうしようもない熱い血が己の体に流れていることを自覚した。
唇が無意識に弧を描く。
紡いだ声は、我ながら楽しげな色をしていたと思う。
「この屋敷からじゃ、明日の昼までに街に着くのはどう足掻いても無理だからな」
滑らかに唇は嘘を紡いだ。
本当は、半日もあれは街に出られるぬけ道がある。
傷つけたいと思ったのだ。
破れた夢を、それでも見続けると笑ったその顔を。
泊めた礼を寄こせと、傲慢に要求をつきつければ、しかし元親はあっさりと頷いた。
そこで嫌だと顔を歪めれば、もしかしたら自分はそれだけで満足したのかもしれない。興味を失ったのかもしれない。
けれど元親は頷いたのだ。
笑って。
己の唇に閃いた笑みは無意識のもので。
ただ分かったのは、高揚した自分の心があることだけだった。
元親はすぐに小十郎とはうち解けたようだ。
もともと小十郎は強面だが面倒見はいいし、気性も合うのだろうと思う。
相変わらず顔は難しく保っているが、並んで楽しげに仕事をしているのが政宗には分かる。
それを微笑ましいと思いながら、苛立つ心があった。政宗は元親に無理難題を突きつけた。
倉庫代わりにしてる部屋からチェス盤を持ってこいと命じて、元親が部屋に入った外側から、扉に鍵をかけた。
真鍮で出来た鍵を人差し指でくるりと回しながら、さて元親はどうするかと、政宗は笑みをはきながら待っていた。
チェス盤を見つけたのだろう、扉を開けようとノブを捻る音が聞こえた。
外からかけた鍵は、中からは開けることはできない。
「あれ?」
中から元親の不思議そうな声が聞こえてくる。
「政宗?いねえのか?」
呼ぶ声に、政宗は笑みをかみ殺した。
元親はしばらくドアをあけようとしていたが、そのうち物音はしなくなった。
諦めたのだろうか。
困惑して、立ちつくしているかもしれない。
不安にかられた声で助けを求めて叫んではくれないものかと期待したが、一切の物音がしない。
あまりの静けさに、政宗は眉をひそめた。
扉に近づきそっと手を触れる。
向こう側に何の気配も感じない。
政宗は眉をひそめて、鍵を開けた。
開いた扉の向こうに人影はなく。
部屋の奥、窓が開いてカーテンが揺れているのが見えた。
政宗は窓に駆け寄った。
まさかと思うが、あるはずの姿がないのだから、そのまさかだろう。
ここは三階だ。
「Ah,確かに降りられなくはねえがな…」
確かに窓際には木の枝が伸びてはいるが。
政宗はとりあえず窓を閉めて、部屋を出た。
元親が窓から出たのなら、きっと正面玄関から戻ってくるだろうと、廊下にでて、階段へ向かえば。
「お、政宗!チェス盤ってこれでいいのか?」
階段を軽やかに駆け上ってきた元親は、右手を掲げてみせた。
「Ah,Thanks」
チェス盤を受け取れば、元親は開かなかった扉のことなど忘れたかのように笑った。
初めは、わざと政宗が鍵をかけたのを承知の上で、けれど貴族に真正面からたてつくことを避けたのかと思った。
けれど、どうやらそういうわけでもないらしいと、数日のうちに政宗は考えを改めた。
とある夜。日が暮れたあとに、図書室に行くからと元親についてこさせた。
「明かりは?」
「廊下にあるだろ」
そういって政宗が示したのは、廊下の燭台で燃えているロウソクだ。
しかしその燭台は、壁に取り付けられているもので、外すことはできないのだ。
廊下は明かりがともされているし、また政宗も何も言わなかったから、燭台なんてわざわざ持ってきていない。
それに、この城には魔法がかけられているから、図書室の明かりも、政宗の指先一つで灯るようになっているのだ。
そんなことは知らない元親は、政宗が示したロウソクを振り返った。
燭台を探しにいくのか、それとも困った顔をするのか。不満げな顔でも見せたら、これ見よがしに嫌味を吐けた。
けれど。
「ん、あれな」
何の躊躇もなくあっけらかんと頷いて。
元親は廊下の燭台から火のついた蝋燭を抜き取った。
ロウの焦げる独特の匂いが鼻を突く。
「で、捜し物はどのあたりなんだ?」
「…一番奥の棚だ」
「了解」
先を照らすようにロウソクを持つ手を掲げて、元親が歩き出す。
ほのかに暗闇を照らす明かりが、時折揺れた。
政宗は思わず舌打ちした。
「アンタ何してんだ!」
「へ?」
ロウソクは燃えている。溶かされたロウは元親の指に伝い落ちるのだ。
熱くないわけがない。
現に、元親の指は熱さに痛むようにぴくりと痙攣している。だから明かりが揺れるのだ。
だというのに、元親は何も言わない。言わずに、政宗の言葉に従う。
政宗は元親の腕を掴んだ。
引き寄せて炎を吹き消せば、すぐさま暗闇が二人を包んだ。
「政宗?」
心底不思議そうな声が忌々しい。
「本は?もういいのか?」
「…Ya。あとで小十郎にでも探させる」
「そっか…。気イきかなくて悪かったなあ」
明かりがなくてよかった。
笑みを取り繕えずに歪んだ顔など見せられない。
政宗には、元親の言葉が嫌味でも何でもない、本心だということが分かった。
その声に、偽りの色が見いだせなかったからだ。
王宮での暮らしで、政宗は人が嘘をつくときどのような声になるのかを熟知している。
人を偽ろうとするとき、声は必ず濁るのだ。不必要な甘さで、もしくは不必要な強ばりで。声は濁り、そして何の暖かみもなくなる。
けれど、元親の声には濁りがない、強ばりがない。そして、確かな温みがあった。
出会ったときから、ずっと。
数日、元親とすごすようになって分かったことがある。
この男は、政宗の言葉を疑わないのだ。
疑うことすらせず、全て受け入れる。
そして、そこに不満を抱かない。
よほどに楽観的な性格をしているのか。それともよほどに大らかな性格なのか。
政宗が求めているのは、そんなものじゃないのだ。
その笑みにかき乱される。
受け入れて欲しい訳じゃない。
憤ればいいのだ。
否定すればいい。
そうすれば、自分も遠慮無く傷つけられる。否定できる。捨てられる。
なのに、元親は政宗に傷つけられてくれない。
その事実は政宗を苛立たせた。
使用人としての元親は、よく働いていた。
今も庭に出ては手入れをしている。発明をするくらいだから、手先は器用らしい。
周りはうっそうと枝が茂っていても、庭の上には緑がぽっかりと開いていて、空が見えた。
柔らかな太陽の光がさんさんと降り注ぐ。
その光の下、機嫌良く鼻歌を歌いながらいる元親は、光をはじく銀の髪のせいか、やけに眩しく見えた。
政宗ができることといえば、光を厭うように目を細めることぐらいだ。
揶揄する言葉も出てきやしない。
元親に背を向けながら考える。
その鷹揚とした笑みが気にくわない。
政宗の中には、向けるあてのなかったどろりとした黒い炎が喉の奥で燻っているのだ。
ふと思う。
己を否定する元親の瞳を見たら、この醜い炎は消えるのだろうか。
V
それは政宗の部屋に、午後のお茶を持っていったときのことだった。
そういえば、と政宗が問うてきたのだ。
「アンタ、ここで働いてくれてるが、家の方は大丈夫なのか?」
「あん?」
「家で待ってる親とか、恋人とかいないのかって聞いてるのさ、Honey」
「何だよいきなり」
カップとポットをテーブルに置き振り返った元親に、政宗はくすりと微かに笑う。
「いや、待ち人がいるなら、心配で心を痛めさせてるんじゃねえかと気づかってやってんだよ」
確かに、元親に親や恋人がいれば、そりゃ心配しただろう。村を出て何日も帰ってこないとなれば。
そして、恋人というものがいたならば、元親もこんな素直に留め置かれていないだろう。
恋人がいれば、なんとまあよくできた嫌味だと思ったかもしれないが、元親には恋人がいないので、ただの他愛ない質問だと解釈した。
なので元親も笑みを混じらせ軽い口調で返した。
「親はもういねえし、恋人なんていいもんは、生憎と今までいたことがねえよ。っつうかそういう心配は最初にするもんだろ」
「Ah,そりゃsorry」
さて紅茶をいれようかと思ったところで、いきなり手首をとらわれた。
なに、と首だけで振り返ろうとしたところを、容赦なく腕を引っ張られる。
簡単に元親の足下のバランスはくずれて、うわっとという声をあげながら、元親は後方に倒れ込んだ。
ぽすんと背中に鈍い衝撃。
元親が腰を落としたそこは、政宗が座っているクッションのきいた長椅子だ。
目を丸くすれば、肩を押された。
背中にクッションがあたる。
体にかかる重みは、政宗の体躯によってもたらされたものだ。
「…あ?」
元親は瞬いた。
元親を上から見下ろす政宗の整った顔が影を作る。
政宗の唇は弧を描いていた。
肩を押さえていた手が持ち上げられて、元親の髪に触れた。
元親はもう一度瞬いた。
「政宗?」
名を呼べば、政宗は笑みを深くした。
「いいのか?」
「は?」
何の許可を取っているのか、元親には全く意味が分からない。
いきなり人の腕を掴んで、無理矢理長椅子に組み敷いて、元親に望むことが何なのか、なんて。
黒い瞳がじっと元親を見下ろしている。
その瞳は笑んでいる。
からかうような色を映すそこには、元親の知らない熱が秘められているような気がした。
けれども、その黒はどこか突き放したかのような冷たさがあった。
政宗の指が元親の髪に絡む。
そんなじゃれるかのような弱い力で髪を引っ張られても、痛くもないから文句もでない。
政宗の顔が伏せられる。
元親の首筋に。
吐息が肌に触れる。
「逃げないのか?」
逃げる?
元親は瞬いた。
何から、政宗からか?
そもそもこれは逃げるような状況なのか?
確かに肌に触れた吐息の感触はくすぐったかったが、それだけだ。
別段逃げ出すほどのことじゃない。
そう思っていたら、政宗が顔を上げた。
じっと見下ろしてくる黒い瞳。
取りあえず目を反らすのもどうかと思って、元親は側にある政宗の瞳を見続けた。
何か次に行動に映すわけもなく、政宗は元親を見つめた。
どれくらいそうしていたかなんて一々数えちゃいない。
自分を見下ろしている一つ目が瞬くのを見ながら元親は、紅茶が渋くなっちまうんだけどなあと思った。
「……」
「……」
窓から入ってくるぽかぽか陽気が気持ちいい。
「…アンタ、何も感じねえのか?」
なんだか妙な空気になっているなとは思っていた。だから元親は素直にそう言ってみた。
政宗は再度問うた。
「怖くねえのか?」
元親は今度こそ頭に疑問符を浮かべた。
怖いも怖くないも。
「何で?」
そう返した瞬間、政宗の体がぴしりと凍り付いたと思ったのは気のせいだろうか。
***
ちょっとしたことではどうやら元親の顔を歪ませることはできないらしいと政宗は早々に認めざるを得なかった。
あの男の気性は大らかでさらにいえば鈍いからだ。
あまりの反応のなさに諦めて興味を無くすかと思ったが、そんなこともなく、ますますどうにかして反応を見たいと思うようになった。
我ながら発想が子供だと思ったが、どうしようもない。
扉が開く音に顔を上げれば、元親が紅茶を持ってきたところだった。
元親は手先が器用で、庭仕事から台所仕事まで大概のことはそつなくこなす。
元親をこの城に留め置いて、そろそろ半月ほどたとうとしていた。
今までは季節の移り代わりですらあまり感じられなかったというのに、元親がこの城に来てからは時間の流れは妙にきっちりと政宗の中に刻まれるようになった。
元親を長椅子から見上げて、ふと思う。
「元親」
「んー?」
「アンタ、ここで働いてくれてるが、家の方は大丈夫なのか?」
「あん?」
「家で待ってる親とか、恋人とかいないのかって聞いてるのさ、Honey」
「何だよいきなり」
元親は不思議そうに首を傾いで振り返った。
「いや、待ち人がいるなら、心配で心を痛めさせてるんじゃねえかと気づかってやってんだよ」
そう言えば、元親は小さく笑って首を振った。
「親はもういねえし、恋人なんていいもんは、生憎と今までいたことがねえよ。っつうかそういう心配は最初にするもんだろ」
その言葉に、閃いたこと。
「Ah,そりゃsorry」
唇に笑みが浮かぶのを政宗は自覚した。
悲しむ恋人がいないのならば、何の遠慮もいらないな?
手を伸ばす。元親のほうへと。
手首を掴めば、振り返る。
唇を弧に描いたまま、掴んだ腕をぐいと引き寄せた。
完全に油断していたのだろう、たたらを踏んで元親は長椅子に倒れ込んでくる。
その簡単さに、思わず笑みがこぼれた。
元親の肩を押せば、いっそ可愛いと思えるほどに簡単に押し倒されてくれる。
貴族の女達より、組み敷くのは簡単だった。
「…あ?」
自分の状態が理解できないのか、元親は目を丸くしたまま瞬いた。
胸の上に手を添えて、もう片方の手を髪に伸ばす。
硬質かと思っていた銀の髪は、触れれば思っていたよりも柔らかい。
素直に、いい手触りだと思った。
元親はその手の意図を問うように瞬いた。
その瞳はまっすぐと政宗を映して、そして元親は政宗とこの名を呼んだ。
ああ、この男に名を呼ばれることが何の含みもなく案外気に入っていることを自覚する。
目を細めて微笑を刻みながら、いいのかと政宗は問うた。
つまり、己に組み敷かれていて、抵抗もせずにいて、まっすぐにこちらを見つめ返していて、この名をその唇で紡いだりして。
いいのか、と。
男に押し倒されているから状況を飲み込めないのだろうが、この体勢が意図するところなんて一つだ。
貴族の悪趣味な博愛主義には男も女も関係ない。
ただ欲を吐き出すだけの対象に、男も女も差などなく、つまるところ政宗にとってはそれだけの価値しかないからだ。
柔らかい髪に指を絡めた。
胸の奥は冷えているのに、上辺だけは奇妙な高揚感で熱を帯びている。
少なくとも髪の手触りは好みだ。
顔も別段難はない。
ぽてりとした赤い唇は、重ねたら案外ハマリそうだとすら思った。
唇を重ねるのに恋愛感情なんて必要ない。
キスもセックスも、政宗にとっては欲を満たすための、ただの手段だ。そこには特別な意味などどこにもない。
だからこそ、この方法ならば元親の顔を歪めることができるのではないかと思ったのだ。傷つけられるのではないかと。王宮で政宗がしてきた体を重ねるという行為は、そういうものでしかなかったから。
政宗と元親は違うだろうから。
耳を掠めるようにしてゆっくりと髪を撫でる。
言葉はない。
政宗は顔を伏せた。その白い首筋へ。
噛み痕がはえそうな肌だ。
己の肌が高揚でぞくりと騒いだ。
目の前のそれに吸い付くことはせずに、もう一度問う。
「逃げなくていいのか?」
身じろぎするなり、体を強ばらせるなりすれば、政宗はすぐさまその肌に噛みついたことだろう。
けれどもその体には一欠片の緊張すら浮かばなかった。
張りのある肌がそこにあるのに唇を押しつけることができないのもそのせいだ。
別段政宗は元親を抱きたいわけではない。抱いてもいいとは思っているが。
政宗が求めているのは、政宗の行動に対する元親の反応だ。
政宗は顔を上げた。
元親を見下ろす。
元親は政宗を見上げている。
すぐそこにある瞳がそらされることもない。
透明な瞳だった。
初めはあったはずの驚きはもう消えて無くなっている。
ただただ透明で純粋で。
その瞳には感情の色が映りこむ要素は欠片もなかった。
政宗は瞬いた。
まさか、とある一つの可能性が頭によぎって問いかける。
「…アンタ、何も感じねえのか?」
押し倒されて髪を撫でられて一心に見つめられているこの状況で。
この妙に甘さを含んだ退廃的な空気感に気づかないほどこの男は鈍感なのだろうか。
怖くないのかとはっきりと問えば。
元親は。
政宗に組み敷かれて顔を寄せられているこの男は、首をかしいで、きょとんと瞬いたのだった。
どこまでもまっすぐに政宗を見返して。
「何で?」
気負いのない声はいっそ凶悪だ。
政宗は唐突に理解してしまった。
大らかだからではない、寛容だからではない。
この男は、自分に何の関心も払っていないのだ。
だからこそ、透明な瞳を向けることができるのだろう。だからこそ、政宗の言葉を疑わず、受け入れてしまえるのだろう。
言葉にしようのない敗北感が体を貫いた。
腹の底が屈辱で燃えた。
悔しいと、そう思った。
政宗はどうにか笑みを保ったまま元親の体から退いた。
ここで無理矢理この男を抱いてしまうという選択肢はない。
それこそ完全なる敗北だろう。
ここから先はもはや単なる意地としかいいようがないが。
煽られてしまったのだから仕方ない。
欲しがらせてやる。
元親のほうから、政宗を求めさせてやる。
そしてそれからどうしたいのかなんて、そんなことは後から考えればいい話だ。
***
庭園の端、けれども日当たりはいい一画は、この城唯一の使用人である小十郎が丹精込めて世話している菜園だ。
ぷちぷちと小さな雑草を丁寧に抜き取りながら、元親は珍しくもの思いにふけっていた。
基本過去を振り返らない元親からすれば、これは滅多にない珍事だった。
振り返っていたのは、この城の主人である政宗のことだ。
自分と同じくらいの歳の、自分とは全く違う生き方をしてきたであろう男についてだ。
ここ最近、政宗の態度が変わった。
いつからか、なんてことはすぐに思い当たった。
昼下がりの温かい日差しがさし込む部屋で、長椅子の上に押し倒されてからだ。
元親を押し倒した政宗は、怖くないのかとそう問うた。
元親は何故と逆に問い返した。
確かに、突然のことだったから、驚きはした。
けれど、怖くはなかった。
それが本心だ。
押し倒されるという状況から繋がる行動が分からなかったからという訳ではない。
あのまま政宗が元親の体を解放しなければ、自分はおそらく抱かれたのだろうと思う。所謂、セックスという意味で。
なので、自分の置かれた状況が分からなくて、恐怖を感じなかったというのではない。まあ、その結論にすぐには思いいたらなかったのも確かだけれど。
抱くの抱かれるのだという体を重ねる行為の前提は、基本的に互いに好意があるからだと元親は思っている。
自分にその状況が当てはまるわけがない。この男は自分に好意を抱いているわけではないのだから。
政宗が元親に抱いているのは好意ではない。そのことを元親は知っていた。
ならば今の状況は、元親にとっては所詮それは人ごとなのだ。
体と心は密接に繋がっていて、互いに影響を及ぼすが、元親からすればそれは全てに当てはまるわけではない。
例えば組み伏せられてそのまま己の首筋に噛みつかれたとして、肌をまさぐられたとして、どこをどう使うのかなんて考えたこともないが、どうにかされて抱かれたのだとしても。
体が傷ついても、痛みを覚えたとしても、それは単なる一つの事実としてあるだけで、心はそれをどこか人ごとのように判断して処理している。
元親は己の性格を、我ながら前向きだと思っている。
その前向きさは、周囲へ期待することを諦めたことからはじまっている。
愛された記憶は遠くにあって、それに縋っても腹の足しにもならないことを、元親は受け入れてしまっているのだ。
泣いて過去に縋ることよりも、割り切ることで元親は前を向くことを選んだ。
傷つきたくないのであれば、初めから求めなければいいのだ。
周りに対して自分勝手な期待はしない。
事実と状況にのみ反応すればいい。
つまり元親にとっては、己を取り巻く全ての事象についての期待値は、もともとゼロから始まっているのだから、物事はプラスに考えるしかないのだった。
他人にたいしてよりも、己にたいして、より客観的になれる。
いっそ不健全ともいえる鈍感さは、後天的に身につけた身を守る術だ。
そもそも周りにたいして一切の期待をしないから、裏切られたと悲しむことも憤ることもない。
常にフラットであること。
そうやって生きてきて、そして、そうやって生きることに何の不自由もない人生だったのだ。元親は。
だから多分、政宗に抱かれたのだとしても、体は痛んだかもしれないが、それだけのことだと思う。
心が傷つく謂われなんぞない。
子供ができる心配もないし、それこそ、犬に噛まれたと思って忘れてしまえばいいだけのことだ。まあ、忘れさせてもらえないという可能性もあったが、それはそうなってから考えればいい問題である。
結局、政宗は元親を抱かなかったのだし。
その代わりといっちゃあ何だが、代わりに政宗は、元親によく触れるようになった。
首元のタイを掴んで元親を引き寄せ、わざわざ元親の耳元に唇を寄せて用件を伝えたり、頷く代わりのように、一々元親の手を取って、手の甲をするりと撫でたりした。
いや、別にいいんだけれども。
何か用事があるから呼んだのだろうと思えば、別に用はないと言ってただ元親を隣に座らせたりする。
いや、別にいいんだけども、何故広い長椅子でぴたりと体を寄せ合い髪を撫でる必要があるのか。
夕食後、視線を絡めたままグラスの縁を指で撫でるから、ワインの追加が欲しいのかと思ったが、グラスにはまだワインが残っていたりする。
言葉を紡いで要求してくれれば、話は簡単で分かりやすいはずなのだが、政宗は何も言ってはくれないのだ。
そのくせ向けられる視線は物言いたげに見えて、元親は珍しく悩んだりした。基本、発明以外で深く考えるということをしないし、そもそもこんな経験はしたことがないので、今の自分の置かれてる状況も分かっていないし、さらにどう対応していいやらも分からないのである。
元親の世界は単純だ。
関わる人間がいなかったのだから。
規則的な日々の生活、時折もたらされる村人からの依頼、そして発明のルーチンワーク。ややこしいことは一つもない。
それがここにきて、元親の平和な世界は単純なルーチンワークではなくなってしまった。
常に元親に関わってくる人間の存在は、いっそ新鮮だった。
新鮮なのは別にいいが、政宗の意図がいまいち分からない。
退屈を紛らわせるための興味だとは思うのだが。
伸ばされる手も、嫌なのであれば振り払えばいいだけの話だが、嫌でもないから判断はさらにややこしい。
そう、別に元親は政宗に触れられることが嫌ではないのだ。
嫌ではないが、でもたまに困ってしまうときがある。政宗の指が肌に触れるのは嫌ではない。
初めはただくすぐったいだけだったのが、今では、時折鼓動が早くなることがある。
元親は己の腕を見た。
そこにはシャツの袖に隠れていて見えないが、政宗の指の痕が残っている。
ついさっきつけられた痕だ。
それを見ると、ぞくりと肌が騒いだ。
そんな己の変化も謎だ。
政宗の瞳に間近からのぞき込まれれば、胸の奥が疼く気がした。
***
廊下を歩きながら政宗は、どうやら自分はこの現実に本当は納得していなかったらしいと、しみじみと思い返した。
でなければこんなにムキになったりなどしないだろう。
憂さ晴らしのために構っていたはずの男が、自分に欠片も興味を払っていなかったからといって!
まだ政宗が王子と周りから呼ばれていたころは、政宗の存在は常に人に意識されてきたといってもいい。
それが当たり前だと思っていた。けれど、そのことに喜びを覚えたわけではない。
望んでいた人は政宗に無関心だったからだ。
けれど、元親が自分に欠片も興味はないのだと知ったその瞬間感じたのは、悔しさと身勝手な憤りだった。
自意識過剰だと言われればそれまでだが、押し倒した相手に、あんなに澄んだ目で何も感じないと言われたことなどない。
身を固めていたプライドは、実際最後の身を守る鎧だった。この森に来てからも。
元親のおかげで、政宗はその事実に気づいてしまった。
鎧は脆いものだということにも。
その気負いのない笑みの、何と憎たらしいことか。
プライドは脆い鎧だと気づいても、けれども自分にはそれしかないことを政宗は知っていた。
泣き寝入りだなんて真似はご免だ。
元親に自分の存在をすり込んでやるぐらいは、許される権利だろう。
手を取る。手の甲を撫でる。
耳に唇を寄せる。耳朶に吐息を触れさせる。
体を寄せる。髪に触れる。
顔を寄せる。瞳をのぞき込む。
押し倒したときには、何の反応も見せなかった元親だが、今ではちゃんと、瞳に政宗を映すようになった。
ちゃんと政宗を見返して、政宗の存在を意識する。
さっきも、と唇を弧に描いて忍び笑う。
政宗は元親に服を贈った。
合間を縫って庭の手入れをしたり、機械を弄くったりしているからか、貸した服は洗濯しすぎてよれよれになっていたからだ。
小十郎を街に行かせ手に入れたそれを元親に手渡せば、元親はちょっとばかりバツが悪そうな顔をした。
「あー、いや、一応汚さねえように気をつけてはいたんだぜ?でもよう、その、油触ったりとかするしよお」
一応、服がみっともないことになっていることは自覚しているらしい。そして、それが借り物であるということも。
身を縮めて上目を寄こす様はみっともなくて滑稽だった。いっそ胸が温かい気持ちで満たされる。
「分かってるさ。だから、新しい服をわざわざ持ってきてやったんだ」
目を細めて、何か言うことはと歌うように言えば、元親は瞬間逡巡するように瞬いてから、へらりと照れたように笑った。
「えーと、あんがとよ、政宗」
素直な礼と、何より最後につけられる己の名が、政宗の気持ちを一層満足させた。
早速着て見せろと言えば、元親はあっさりと頷いた。
何の躊躇いもなく政宗の前でシャツを脱いでくれるあたりは、正直言ってまだ舐められてるなと内心で舌打ちしたが、そこは想定の範囲内だ。
着替え終えた元親に近づいて、政宗は手を伸ばした。
「アンタ、いつまでたってもタイを巧く結べねえのな」
「うるせえなあ。庶民はタイを結べなくても生きていくのに欠片も困んねえんだよ!」
「そりゃ考えてもみなかった世界だ」
交わす軽口は心地よいものだ。このごろ政宗は揶揄ではなく、そう思う。
タイを整えて、政宗は顔を上げた。
唇を緩めて笑んでみせる。
タイを結んでいた手は、元親の胸の上に。
「Ah,アンタは体が整ってるからな」
「うん?」
「似合ってるぜ、Honey」
視線をあわせたまま、掌を浮かせて、指でつと、心臓の上を掠めるようになで上げる。
顔を寄せて、下からその瞳をのぞき込んだ。
口づけするかのような距離で、吐息を肌に触れさせれば。
指を這わせた元親の体が鼓動の音とともに跳ねたのだ。
瞳が揺れて、まるで逃げるかのように視線を下に向ける。
「そ、りゃ、褒めてくれて、ありがとうよ」
心臓の音が速さを増していることを指先で知ったその瞬間、政宗の心は歓喜と快感で沸き立った。
どこか戸惑ったかのような困った表情。もう一度合わせられた瞳。政宗の指から逃れようとするかのように元親は体を引こうとした。
それを黙って許す理由がない。
元親が体を引いたぶん、政宗は足を一歩踏み出して体を寄せた。
「なあ、前から言おうとは思ってたんだが」
「あ?」
「アンタ、無防備すぎやしねえか?」
「へ?」
無意識だろうが、元親が一歩後ずさる。
政宗は自覚を持って一歩を詰める。
「アンタ、村の外れに一人で住んでるんだろ?」
「まあ、そうだけど」
この会話の意図と、政宗が間を詰める意図が分からないからか、元親は探るような視線を向ける。
疑るような視線に快感を覚える日が来ようとは思ってもみなかったと、政宗は内心で笑った。
「大丈夫なのか?」
「何が?」
「盗賊とか」
そう言えば、元親は得心したように肩から力を抜いた。
「ウチに金目のものなんざねえから、大丈夫だよ」
そう言ってからからと笑う。
政宗は頷くことはせずに、笑みを深くした。
「奪えるものなら、金目のもの以外にもあるだろう?」
「え?」
不思議そうに見返す瞳に、政宗は喉を震わせて笑った。
胸に置いていた手をひるがえす。
瞬き一つの間で十分だ。
元親の体を拘束するのには。
緊張して強ばった体ならば尚更、政宗の動きに反応することなど不可能だ。
腕を掴んで思い切り引く。こちらに倒れ込む体を避けるようにして背後に回る。もちろん腕を掴んだまま。掴んだ手首を背中に沿わせて捻り上げる。
「っつう…!」
短い悲鳴とうめき声。
背中から抱くようにして体を寄せる。もちろん、ひねり上げた片腕はそのままで。
もう片方の掌で元親の腰をなで上げる。シャツの上から、筋肉をたどるかのように掌を掠めさせ上へとたどらせれば、まさぐられたシャツが乱れていく。
「ま、さむね?」
その声は多分、制止するためのものだろうが、全く持って無意味だ。
掠れた声に名を呼ばれて手を止める男がいるか?
首で振り返ろうとした元親の頬に、顔を寄せる。
唇が触れるか触れないかの距離。触れそうになるけど、肌には触れない。触れていない。
元親が喉を仰け反らせる。
肌は触れなくても、髪の一筋、あるいは吐息はふれたかもしれない。
己の唇が勝手に緩むのが政宗には分かった。熱いため息がこぼれる。
演技ではない。
体がにわかに熱を帯びる。
熱を帯びながらも、頭はまだ冷静だ。
「大丈夫じゃねえだろ…?」
「っ」
元親の首筋に顔を埋める。ああ、思い切りその肌に吸い付いて赤い痕を残したい。
「金がなくても美人がいりゃ、それで十分、事足りる」
「何、言って…っ!」
掠れた声が鼓膜を震わせる。以前とは違うその声。密着した体が震えるのを、己の体躯で知った瞬間。
叫びたくなるような優越感が体を脳天から貫いていった。
「政宗っ!」
叫ぶ声に応じるように、政宗は元親の体躯をあっさりと解放した。
元親はすぐさま振り返って後ずさった。
政宗は軽く両手を上げてみせた。
「sorry 痛かったか?」
声はあくまで普段と同じように。
眉を寄せた心配げな表情も演技ではない。
事実、政宗は元親を案じていたからだ。同時に、喜びも覚えていたが。
「い、いや、別に大丈夫だ」
元親は何故か片手で耳を押さえた。
首を傾いで安心させるように、政宗は小さく笑んでみせた。
「ほら、無防備だと困るだろう?」
そう言えば、元親も笑みを浮かべてこくりと頷いた。
「そ、そうだな。これからは防犯について、ちゃんと考えるようにするぜ」
素直な言葉に、政宗も頷いた。
手を伸ばせば、微かに跳ねた肩。
刻んだ笑みを深くし、ゆっくりと政宗は元親との距離を詰めた。
もとよりそこはもう壁で、元親には逃れる術がない。
元親の瞳が政宗を映す。
それを確かめるように顔を寄せて、政宗は元親の頬に掌を沿わせた。
指先で滑らかなその頬をそっと撫でて。
「いい子だ」
目を伏せ意図的に低くした声で囁けば、微かに息を呑む音が聞こえて。
思い返せば、たまらなく愉快な気持ちになった。
ようやっと欲しい反応を引き出せたと。
それからの元親の態度は全くの普通で、動揺の欠片なんて見つけられなかったけれど、別に気にならない。
もとより長期戦を覚悟している。
これから覚え込ませていけばいいのだ。
このとき政宗は中庭を繋ぐ廊下を歩いていた。
別段、元親を探していたわけではない。
ただの偶然だった。
元親の姿を見かける。
座り込んでいるあの場所は、小十郎が丹精込めて世話している菜園だ。
元親が庭にいるのを、政宗は何度も見てきた。
そのときだけは、揶揄もからかいも考えなかった。
そこは政宗の手がだせない場所だからだ。
柔らかい光が降り注ぐ美しい庭園。
政宗は屋敷の外には出ることができないのだ。
別段、敷地の外に出たからといって、雷が落ちるわけでもないが、政宗にはそれが出来ない。
元親が来てからは、建物という意味での屋敷からでることが出来なくなった。
渡り廊下にでることはできても、屋根がつくる影の下から出ることは叶わない。
政宗には秘密がある。
それは絶対、元親には知られたくないものだった。
故に政宗はもともと限られた行動範囲をさらに狭めなければいけなくなったが、そのことについての不満はない。
不満はないが、良い気分なわけでもない。
だというのに、元親が外にいると、政宗の足もそちらに向いた。
何度も中庭を通る廊下で、元親を眺めた。
元親がこちらに気づくときもあったし、気付かないときも多かった。
こちらに気付いた元親は、微かな笑みを浮かべて政宗を見た。
視線が交われば、政宗は元親に背を向けるしかなくなるのだ。
元親の元に行けはしないから。
だから、気付いてくれないほうが政宗にとっては都合がよかった。
このときも。
視界に映る元親は座り込んでなにやら手を動かしていたが、一段落したのか、腰を上げた。
空を仰ぐ元親は、まるで太陽の光に愛されているかのように見えた。
屋根の作る影の下から、それをただ見つめる自分は、まるで羨望しているかのようだ。
何を?
元親を?それとも、太陽を?
どちらにしろその考えは面白くない。
光に憧れてるわけじゃない。
では何故自分は、元親に声をかけることができないのか。
そして、自ら立ち去ることができないのか。
元親が政宗に気付き、こちらを向いてようやく政宗は背を向けることができるのだ。
元親に。光に。
今も。
元親がこちらを振り返る。
政宗を認めて、手を上げる。
ここまではいつもと同じだ。
けれども、そこから先がいつもと違った。
元親はこちらに駆け寄ってきたのだ。
思ってもいなかったその行動に驚いて、政宗はとっさに動くことができなかった。
背を向けることができなかった。
政宗の前に駆けてきて、そして元親はあけすけに笑った。
「いっつも見てるばっかじゃつまんねえだろ?」
政宗の腕をその手で掴んで。
「どうせなら手伝えよ!」
「おい!」
政宗の腕を元親が引く。
ほら、と眩しい笑みが誘う。
太陽の下へと。
ぐいと腕を引かれ、影から引き出されそうになる。
それは政宗にとっては、囚人が処刑場に引き出されるのと似ていた。
かっと頭に血の気が駆け上る。
脳より先に体が反応した。
すなわち、明確な拒絶の意志を示したのだ。
「Don’t touch me!」
元親の腕を力任せに振り払う。
喉からついた声には余裕などなく、ただ熱だけがこもっていてみっともない。
みっともないことにも気づけない。
呆然とこちらをただ見返すだけの元親を、荒い息を吐いて一瞥して、政宗は身を翻した。
元親の元から立ち去るのに、知らず足早になった。
元親が追いかけてこないとも限らない。
そう思えば恐怖で体が強ばった。
最後にはなりふり構わず駆けていた。
そして政宗は己の部屋に飛び込んだ。
庭に面した部屋の窓が目に飛び込んできて、政宗は追い立てられるように窓に駆け寄った、
厚手のカーテンを力任せにひけば、一気に光は遮断され、薄い闇が政宗を包み込んだ。
カーテンを握りしめていた指から力が抜ける。
強ばった指を開くのに、少しの時間がかかった。
膝を折って、政宗はそのままずるりと床に崩れ落ちる。
冷えた手で顔を覆い項垂れる。
請うているとでもいうのだろうか。
光を。笑みを。
本当は、まだ欲しいとでも?
そんな胸が痛むこと、認められるわけがないのに。